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出胎
その16
しおりを挟むその夜から、ルコンは幕舎に引きこもって姿を現さなくなった。ラナンも、トンツェンも、ツェンワも、面会は許されない。翌日も、ルコンは外に出てくることはなかった。
リンチェをつかまえて聞くと、あのあと、ルコンとゲルシクは言い争いをしたという。
「また僕固懐恩のことでケンカしたのか? なんでゲルシクどのは会ったこともない唐の将軍のことであんなに熱くなってるんだ」
トンツェンが言うと、リンチェは首を振った。
「いえ、違うみたいです。始めから聞いていなかったのでよくわからなかったのですが、ルコンさまは『まだ昔のことを根に持って』っておっしゃっていましたから」
その言葉に逆上したゲルシクが「人の血が流れていない男だ。もう顔も見たくない」とルコンを罵倒した。ルコンは「元帥に不要と言われたら、もうここにいるわけにはいかない」と言い捨てて、それきり幕舎に引っ込んでしまったそうだ。
トンツェンはこぼした。
「まったく、いい年してガキのケンカじゃねえか」
「まあ、昔のことっていったら……。まだあのことをゲルシクどのは怒ってたんですねぇ」
ツェンワは眉を下げる。
「昔のことってなんですか?」
首をひねるラナンに、トンツェンは言った。
「そうか、おまえは知らないんだよな。多分、おまえの兄貴の、シャン・マシャンのことだよ」
耳をついたマシャンの名に、血の気が引く。
「トンツェン、やめてくださいよ。いきなり名前を出すから、ラナンが真っ青になっちゃったじゃないですか」
ツェンワが気遣う。既にふたりには、マシャンの名におびえた子供のころの話をしていた。
「死んじまった兄貴が、まだ怖いのかよ」
トンツェンは呆れたように言うが、ラナンにはマシャンが死んだという実感がない。そもそもが、生きているマシャンを見たことがないのだから。ラナンにとってマシャンとは、実体を伴わない、恐怖の象徴のような存在なのだ。
「ルコンどのはゲルシクどのの軍師みたいなもんだったんだよな。ルコンどのが唐で学んだことを実践してゲルシクどのはいまの地位を築いたから、ものすごくルコンどののことを信頼していた。それがおまえの兄貴に呼ばれたら、さっさとそっちに行っちゃった。ゲルシクどのはマシャンどのが大嫌いだったから、親友に裏切られた気分になったんだろ。そのうえ、マシャンどのが権力を握っている間は都から遠ざけられていたこともあったし、恨みの気持ちが残っているんだろうな」
「でも、ルコンどのとマシャンどのは幼馴染の親友なんだから、呼ばれて行くのはおかしくないでしょ。マシャンどののほうはゲルシクどののことを特別意識しているようには見えなかったし、ゲルシクどのの逆恨みなんじゃないかなぁ」
ツェンワが言うと、トンツェンもうなずいた。
「ゲルシクどのは思いこみが激しいからな」
「ところで、本当に死んじゃったんですかね」
ツェンワが急に声を落として、上目遣いにラナンの目をのぞき込んだ。トンツェンが上ずった声を出す。
「は? なに言ってんだおまえ」
「だって、マシャンどのの遺体を見た者はいないのでしょう。案外、生きてたりして」
喉の奥でヒッというかすれた声が出た。思わず後退ったラナンの襟首を、トンツェンがつかんでもとの位置に戻す。ツェンワがケケッと笑うと、トンツェンは指でツェンワの額をはじいた。
「バカか。あのマシャンどのが生きてたら、おとなしく引っ込んでるものか」
「でも、マシャンどのだったらルコンどのを説得してゲルシクどのと仲直りさせることが出来るじゃないですか。神降ろしに頼んでよみがえらせてもらいましょうか」
「んなこと出来る神降ろしを知ってるのかよ。だいいち、ルコンどのが説得出来ても、ゲルシクどのの怒りの火に油を注ぐことになったら逆効果じゃねえか。おいラナン、つまらない冗談にビクビクしてるんじゃねぇ」
トンツェンに背中を思い切りたたかれて、ラナンは咳きこんだ。
「ゲルシクどのには会わないようにすればいいじゃないですか」
言いながら、ツェンワはあくびをした。
それから三日がたったが、ルコンは一度も幕舎から出てこない。どうにも策に窮した三人は、いったん宮廷に帰ってティサンにでも相談しようかと話し合っていた。
その深夜。
ツェンワの言葉が頭にちらついて、ラナンは眠れずにいた。
マシャンが生きていたら。
こんな不甲斐ない自分が家長の座を奪ったことを許さないに違いない。
そうなったら死……。
「との」
不意に聞こえた声に、ラナンは心の臓が止まるかと思った。
「起きてらっしゃいますか」
ケサンの声だ。
「なにかあったのか」
「ニャムサンさまがお見えです。シャン・ゲルシクの幕舎まで来ていただきたいと。いかがされますか」
「すぐに行こう」
ラナンは慌てて服を身に着け、ケサンとともにゲルシクの元に向かった。
ニャムサンは幕舎の外で胡座して夜空を眺めていた。ラナンの気配に顔を向けると、よう、と挨拶して、隣に座るよう促す。ラナンが腰をおろすと、ニャムサンは小声で言った。
「おまえらとは別に、オレもナツォクに頼まれてたんだ。で、いま、ゲルシクを説得してる。ゲルシクは、マシャンが摂政のとき、ルコンがマシャンに進言して、自分を都から追放したって思ってるんだよ。だから理不尽に反乱者の汚名を着せられた僕固懐恩と自分を重ね合わせて、僕固懐恩に同情しないルコンに腹が立ったんだろうな。だけど、ルコンはルコンなりにゲルシクのことを思って都から遠ざけたんだ。摂政になってからのマシャンは、シャンだろうが王族だろうが、意のままに罪を着せて罰することが出来たからね。ゲルシクが正面切ってマシャンと対立したら、ゲルシクが処刑されてしまうかもしれないと恐れたんだ。もう終わったことなんだから、ルコンも本当のことを言えばいいのに。いまだにマシャンを庇ってんだか、言いわけするのは男らしくないと思ってるのか知らねぇけど、意地を張って、めんどうなことになったんだ」
「そのことをゲルシクどのに説明しているのですか? どなたが?」
ラナンが訊くと、ニャムサンはゴモゴモと言った。
「いや、はじめて会ったときに言おうと思ってはいたんだけど……まあ、会えばわかるさ。まったくナツォクのヤツ、イヤになっちゃうよ。オレは政治はしないって断ったら、知り合いの仲直りに力を貸すんだから政治じゃないなんて屁理屈こねやがって。これでいくさが出来なくなるなら、オレとしては大歓迎なのに」
「ニャムサンは和睦派なんですか?」
「和睦なんて知らないけれど、オレはいくさが大嫌いなんだ」
それきりニャムサンは、口を閉ざしてしまった。仕方なくラナンも黙って、ふたりで満天に輝く星を眺めていた。
やがて、ゲルシクの家来がニャムサンを呼んだ。ニャムサンはラナンについて来るように言う。ラナンはそのあとに続いた。
神降ろしに頼んでよみがえらせる……。
足が止まる。
幕舎の入り口で振り向いたニャムサンが手招きする。
そんなこと、出来るわけがない。
自分に言い聞かせると、ニャムサンに続いて幕舎に入った。
ゲルシクと向かい合って座る男の横顔が目に入る。
ニャムサンだ、と思った。
しかし、ニャムサンの背中は目の前にある。
不吉な予感を感じたラナンの身体が、凍りついたように動かなくなった。そのとき、ニャムサンとゲルシクがなにを話していたのか、ラナンにはまったく記憶にない。ただ、その男だけを、ラナンの五感は捉えていた。
ニャムサンに瓜ふたつの顔。
ナナムの血筋。
男が、人形のような顔をラナンの方に向けた。唇が動く。
「ラナン?」
ラナンは、叫び声をあげていた。
「大丈夫か、ラナン!」
ニャムサンの呼ぶ声が、遠くに聞こえる。
「いきなり、こんな夜中に呼び出しておいて、なんです?」
気が付くと、座り込んでいたラナンの目の前で、ケサンがニャムサンにかみついていた。ラナンの悲鳴を聞いて飛びこんで来たのだろう。ニャムサンは申し訳なさそうに言った。
「だって、伯父さんがいるって言ったら怖がって来ないと思ったんだ。顔を見ただけでわかるとは思わなかったし」
ケサンは声を潜める。
「あんなにニャムサンさまにソックリだったら、わたしにだって察しがつきますよ」
「うーん、そうかなぁ」
「まことに、兄上でいらっしゃるのですか」
なんとか心を落ち着かせたラナンが訊くと、ニャムサンはうなずいた。
「そんなにわたしが怖いのか」
はじめて会う長兄、マシャン・ドムパ・キェが、わずかに眉をひそめてラナンを見つめていた。
「そりゃ怖いよ。オレだって怖いもん」
ニャムサンが茶化すように言うと、マシャンは渋面を作ってニャムサンをにらんだ。
考えてみれば、マシャンが生きていても不思議ではない。だが、誰も権力の絶頂にいたマシャンが自ら姿を消すなどと思いもしなかった。ツェンワのように疑念を口にする者がいても、笑い話にされてしまうのが落ちだったのだ。
マシャンは、顔立ちだけはニャムサンにソックリだった。が、ニャムサンと違って威厳と冷徹さが感じられる。決して親しみやすい 雰囲気ではないが、これまで想像していた悪魔のような姿ではない。
普通の人間だ。
恐怖が、徐々に去って行った。
ニャムサンとケサンに助けられて立ちあがったラナンは、マシャンの前に進み出ると拝礼し、無礼を詫びた。マシャンはラナンの顔をあげさせると、微笑んだ。
「これまでのことはニャムサンに聞いた。わたしのせいでご苦労をおかけしてしまったそうだな。申し訳ない。ナナムを頼むぞ。ニャムサンのような曲者もいるし、ご苦労されるかもしれないが、しっかりと一族をまとめてくだされ」
ラナンがふたたび深く頭を下げると、マシャンの両手ががっしりとラナンの両肩をつかむ。そこから伝わったマシャンの体温が、これが現実であることをラナンに教えていた。
自分はナナムの当主として、兄から認められたのだ。
夜明けを待たずに、ニャムサンとマシャンは陣営を去った。ゲルシクはマシャンの説明に納得したのだろう。ルコンとどのように話し合ったかは知らないが、互いに謝罪し合ったに違いない。
昨日までの不仲がウソのように、連れ立って兵たちを見分するふたりに、トンツェンとツェンワはなにがあったのか、としきりに首をひねっている。ラナンは彼らに合わせて不思議がる演技をするのに苦労した。
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ちょっと補足:
マシャンが生きている経緯については前作に詳しく書いてありますが、最後(かなり先になりますが)にラナンの口からも説明があるので一旦忘れいただいても……
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