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出胎
その13
しおりを挟むそれからも大変だった。
トンツェンはとにかく働かない。ツェンワやラナンの周りをうろちょろして口ばかり動かしているのだ。とうとうラナンは、長幼の序を無視してトンツェンにあれやこれや指図する羽目に陥った。
「オレはこんなことをしに、こんなとこまで来たんじゃねぇ」
ブツブツ言いながら、意外にもトンツェンは、ラナンの指示に素直に従った。
三人が仕分けに着手してから三日後。先王の第二王妃金城公主の兄である広武王李承宏を帝につけ、百官を配置し年号を吉祥と改めさせたルコンとゲルシクが見分に来たときには、すっかり捕虜の仕分けは完了していた。
トンツェンとツェンワに隠れるよう、ラナンは一歩下がってルコンとゲルシクの前に立つ。
「ご命令いただければ、いつでも出発出来ます」
ツェンワの報告に、ルコンは満足そうにうなずいた。すかさずトンツェンが口を挟む。
「あのお、ちょっといいですかねぇ」
ゲルシクがこめかみを抑えて眉をしかめた。
「今日は手短に頼む。なれぬ儀式の連続で疲れておるのだ」
「なんですか、それ。まるでオレがいつも無駄話してるみたいじゃないですか。ひどいなぁ。オレはゲルシクどのの無聊を慰めようと頭を悩ませて話題を提供しているのに、それを迷惑みたいにおっしゃるのは心外です」
「悩む前に口に出てるだろう。いまも余計なことをベラベラと吐き出しおって」
「じゃあ、簡単に言いますよ。出発前に一日か二日、遊んでもいいですか」
「来てすぐに、ふたりで散々遊び歩いていたのを儂らが知らぬと思っているのか。あきれたヤツめ」
「やっぱり説明が必要じゃないですか」
トンツェンはいきなりラナンの腕をつかんで前に引き出し、肩を抱いた。ゲルシクに目を向けられて、ラナンは後退ろうとしたが、トンツェンにどんどん前に押し出されてしまう。
「オレとツェンワのためじゃないんです。こいつは着いた日から真面目に仕事ばかりしていて、一滴の酒も飲んでない。今回の仕事がうまくいったのはこいつのおかげだから、遊ばせてやりたいんですよ」
「いえ、わたしは……」
はじめて、ゲルシクがラナンに笑顔を向けた。
「おお、そういうことなら遠慮されることはござらぬ。トンツェンの言うとおり、シャン・ゲルツェンがいらっしゃらなかったらこうはうまくゆかなかったのだろう。このふたりときたら、いくさ以外はまったくいい加減なのだからな。ルコンどの、よいのではござらんか」
ルコンも微笑んでうなずいた。
「見込みでは、あと二日はかかると思っていたのだ。その分、三人で羽を伸ばされればよい。しかし明後日には確実に出発していただきますぞ。あまり酒を過ごされるな」
「あ、あともうひとつ。歌や踊りのうまい女たちもつれて帰りたいんですけど」
「バカっ。いいかげんにしろ!」
鬼の形相となったゲルシクが怒鳴る。トンツェンは唇を尖らせた。
「歌舞音曲だって、文化の発展に必要なんじゃないですか」
「まったく、小賢しい言い訳ばかりしおって。ルコンどの、聞くことはございませんぞ」
ルコンは涼しい顔で言った。
「多少はよいでしょう。足手まといにならない程度になされ」
そのまま、トンツェンとツェンワに引きずられるようにして、東市に近い妓楼に連れていかれてしまった。
ソグド人の楼主が満面の笑みを浮かべて、たどたどしい言葉で三人を迎える。
「ようこそ、尚東賛将軍、尚賛磨将軍。今日はまた、ご立派な将軍をもうひとりお連れですな」
三人は最上級だという二階の部屋に導かれた。
「オレもツェンワも嫌がる女を無理矢理ヤるのは趣味じゃないからな。こうしてご丁寧に客として来てやってるんだ。おかげで、贔屓にしているこの店は略奪や放火を免れてる。守り神のオレたちは、ダタで飲み放題、食い放題、抱き放題だぞ」
ニヤニヤ笑うトンツェンに背中をたたかれて、ラナンは呆れた。それは客とは言わないのではないか。確かに、他の店よりはマシだが。
ルコンもゲルシクも、兵士たちの略奪に関しては放任している。京師のなかでは、兵たちがやりたい放題暴れていた。
間もなく五人の胡姫が顔を見せた。そのなかのふたりはトンツェンとツェンワのお気に入りのようで、嬌声をあげながらそれぞれピッタリと寄り添って酒を注ぎはじめる。トンツェンは残った三人の女を指して言った。
「ほらほら、好きなのを選べ」
ラナンは面映ゆくて、女たちの顔をまともに見ることが出来ない。うつむいて小さな声でつぶやいた。
「わたしは結構にございます」
女の肩にしなだれかかって酒を飲んでいるツェンワが、笑いながらトンツェンに言う。
「まだこんなことをおっしゃる。どうします?」
「世話が焼けるヤツだな。よし、おまえら」
トンツェンは手首に巻いていた緑松石と瑠璃の飾りを手に取ると、三人の女に示し、ついでラナンを指差した。
「このシャン・ゲルツェンに選ばれた女にはこれをやる。奪い合え!」
「それは面白い」
手をたたいたツェンワは、山珊瑚と金の首飾りを外すと、高だかと掲げる。
「わたしはこれをやるぞ」
女たちは目の色をかえた。言葉がわからなくても、その意図は察したようだ。歓声をあげるとラナンに向かってにじり寄って来る。ラナンは思わず腰を浮かせた。
「やっぱり、わたしは……あっ」
思い切り尻もちをついて転がる。自分の袍の裾を踏んでしまったのだ。女たちがコロコロと笑う。恥ずかしさに膝を抱えて身体を縮めるラナンの目の前に、雪のように眩しい三つの手が差し伸べられた。
どうしてこんなことになっているのか。
トンツェンとツェンワに迫られて、適当に選んだ女の手をとった。それから勧められるまま幾度も杯を重ねて、気がつくと、ラナンはその女とふたりきりになっていた。
みな、他の部屋に行ってしまったのだろう。燥ぐ声が、かすかに聞こえて来る。
そっと上目づかいで女の顔をうかがう。目が合うと、女がニッコリと微笑んだので、ラナンは慌てて目をそらせた。
美しい、と思った。
身体中が燃えるように熱い。なにかが腹の底から湧きたって来るようで、じっとしていられない気分になる。
「す、すみません。なにも……なにもしませんから。もう、出てってください」
ようやく絞り出した言葉に、女は無言だった。
通じないのだ。
少しは唐語を勉強しておけばよかったと悔やんんでいると、フワリと、脂粉の香りが強くなった。
ハッとして目をあげると、白磁のようになめらかな顔が、すぐそこにあった。
女の声が耳をくすぐる。しかしその意味は、ラナンにはわからない。
女が両手を伸ばしてきて、両頬が暖かく包まれるのを感じる。
頭のなかがしびれたようになって、女の翠玉のようにつやめく瞳から、目が離せなくなった。
女から放たれる甘い香りが、息を詰まらせる。
心の臓が、激しく脈打つ。
こころのなかで、逃げ出したいラナンと、このままこの女にすべてをゆだねてしまいたいラナンが、相争う。
焦点の定まらない視界のすみで、にじむ赤い唇が動いて、甘く心地よい響きが、耳を通じて頭の中を侵していく。
「なにを言ってるのか、わからない」
喘ぎながらかすれた声を漏らしたラナンの唇を、笑んだ女の唇が、柔らかく塞いだ。
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