ナナムの血

りゅ・りくらむ

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出胎

その7

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 ラナンが都ではじめての正月を迎え、厳しい寒さがわずかに緩んだころ、北原チャンタンの荒野からゲンラム・タクラ・ルコンが呼び戻された。
 王の居室で、ラナンはルコンとはじめて顔を合わせた。といっても、ほんの一瞬、視線を交わしただけ。ルコンに付き添っていた東方元帥チム・ゲルシク・シュテンが恐ろしかったので、ほとんど顔をあげることが出来なかったのだ。
 先王の母后の出身氏族で、ナナム同様シャンであるチム家のゲルシク・シュテンは、東の隣国唐を相手に数々の勝利を収めただけではなく、ティサンとともに幽閉されていた王を救い出した救国の英雄だ。しかし兄マシャンとは犬猿の仲だったという。そのうえニャムサンの妻の後見人であったので、ニャムサンから家督を奪ったラナンのことをひどく嫌っているようだった。会えば恐ろしい顔でにらまれる。
 出来るだけゲルシクのほうを見ないようにそっと顔をあげたとき、ルコンと目が合って、再びラナンはうつむく。
 いかにも怜悧そうな鋭い視線が、ラナンの器量を測ろうしているように見えた。
 ニャムサンは頼りにしろと言ったが、ナナムを継ぐに値しない者と見切られ拒絶されるのではないか、と思うと恐ろしく、とても自分から話しかけることなど出来そうにない。
 ルコンにねぎらいの言葉をかけた王は、最後に付け足した。
「シャン・ゲルシクからお聞きでしょう。ナナム家はこのシャン・ゲルツェンが家長となりました。今後はニャムサン同様、親しくされよ」
 ラナンはますます頭を沈めた。ルコンも無言で拝礼したのだろう。その返答を聞くことは出来なかった。
 間もなく、ラナンが尚論となってはじめての会盟が開催され、ラナンは正式にシャン筆頭尚論として認められた。
 会盟の最重要議題は東征についてだった。
 昨年、唐と和睦協定を結び会盟が開催されたが、そこで唐が贈ると約束した地図と絹五万匹が、年が終わっても届かなかった。それを口実に唐に攻め入るのだ。
 その貢物の量が常識的に多いのか少ないのか、ラナンにはよくわからない。が、事前にスムジェから聞いたところによると、八年前から続いている安史の反乱で苦しむ唐に、マシャンが強いた会盟だという。唐には、内乱鎮圧まではなにがなんでも周辺諸国と事を起こしたくないという弱みがあったので、こちらの言うなりの条件を飲まざるを得なかった。
 マシャンの跡を継いだ自分も国のためにそのような策謀が出来るようにならねばならないのだろう。
 唐の不実を訴えるゲルシクの大音声を聞き流しながら、ぼんやりと思いを巡らせていたラナンは、急に名を呼ばれてビクンと身体が揺れた。
 顔をあげると王が微笑んでいた。
「ナナム家には兵站を担当してもらう。シャン・ゲルツェンには初陣となります。わからないことがあったらレン・タクラとシャン・ゲルシクとよく協力して、準備を整えてください」
 ゲルシクの、不満そうなうなり声が聞こえて肝が冷える。とても協力など出来そうにない。
 会盟の終わりには、大量のヤクや羊が参加者の前に引き出されて来た。神官たちが次々と獣を切り裂き、赤茶けた地面に大量の血が吸い込まれてく。すでに調理されている肉しか見たことがなかったラナンは、動物たちが殺されるのを目前にしてたじろいだ。バラバラにされ、神への捧げものとして吊るされた獣の四肢や内臓や毛皮を指さした神官が、「誓いを破った者は、同じく八つ裂きにされ、大地に血を流すこととなるだろう」と宣言する。ほかの尚論とともに礼をしながら、もう自分の血が引いていくような気がして、めまいがした。
 いつものとおり、会盟の結果をスムジェに報告すると、スムジェはこともなげに言う。
「ナナム家にはいくさを何度も経験している尚論が多くいるし、家来も心得ている。心配することはない」
 安堵と同時に、こころの隅にモヤモヤとわだかまるものがわいて来る。
 自分という存在は、必要あるのだろうか。
 実際に一族をとりまとめているのはスムジェだ。ならば、彼が家長になるほうがよいではないか。
 そうなれば、自分はまた田舎の館に帰ることが出来る。
 しかし都の華やかな暮らしを喜んでいる母や家来や、自分を友と呼んでくれる王に、それを言い出す勇気がなかった。

 夏になると、王は都を離れ、各地を移動する。宮廷も、それとともに移った。家族や家来を連れた尚論たちは、王の滞在する離宮や牙帳の周りに天幕を張る。ラナンも母を伴い、王に従った。
「初陣の前に、調練を見にいらしてはいかがかな」
 ルコンにはじめて声をかけられたのは、夏の盛りだった。ルコンは唐とのいくさにそなえて平地でも戦える騎馬隊の編成を任されている。
 なんと答えたらいいのだろう。ラナンは頭が真っ白になってしまう。うつむいていると、ルコンは続けた。
「実際のいくささながらの演習は、なかなかの見ものですぞ。無理にとは言わぬが、少しでも興味がおありなら、陛下のお許しをいただいていらっしゃれ。歓迎いたします」
「はい。ありがとうございます」
 緊張で締め付けられる喉からようやく声を出して頭を沈めた。結局、このときもルコンの顔をまともに見ていない。しかし、その声にはいたわるような温かさが感じられた。
 広大な草原を駆ける馬の姿を思い浮かべる。
 見てみたい。
 ラナンはこれまでにない欲求に突き動かされた。
 その夜、母とスムジェに相談すると、スムジェは尚論としての役職があるから宮廷を離れるのは難しいという。母は、ラナンがスムジェの付き添いなしに遠出するのは反対だと言った。
 あきらめかけたラナンに、意外なことにスムジェが助け舟を出す。
「これだけ早く都に呼び戻されたということは、陛下は引続きルコンどのを重く用いるお考えなのでしょう。まだ正式なご赦免はなく無位無官でらっしゃるが、こたびのいくさがうまくいけば、元の役職に戻られるはずだ。ルコンどのは文官としても将軍としても優れ、尚論たちから一目置かれる存在です。ラナンに目をかけていただければ、ナナム家にとって、これ以上こころ強いことはありません」
 スムジェの説得には母も折れた。
 王は喜んで許可を出してくれた。
 こうしてラナンは生まれてはじめて母の手を離れ、ケサンと十数人の護衛だけをつれてルコンの駐屯地へやってきた。
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