ナナムの血

りゅ・りくらむ

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出胎

その2

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 初対面の三兄ナナム・ティ・スムジェは、客間に入った母とラナンに深々と礼をした。母に促されて顔をあげたスムジェは、母の顔を見て一瞬目を見開き、細面に照れのような笑みを浮かべた。
「義息と申しても、わたしは奥方さまより年上なのです」
 なにかを弁明するように言う。母とその背後に隠れるようにしていたラナンに対して愛想のよい笑顔を向けながら、スムジェはその表情にそぐわぬ不穏な話を切り出した。
「実は、マシャン兄上が消えてしまいました」
「消えた、とは?」
 母の質問に、スムジェは母をじっとみつめて言う。
「そのままの意味です。姿がなくなってしまったのですよ」
 人間が消えてなくなってしまうなど、ありうるのだろうか。
 ラナンの戸惑いを置き去りにしたまま、スムジェは母に語り続けていた。
「ゲルニェン・ニャムサンという者がいる。ツェテン兄上の息子で、マシャン兄上が引き取って育てました」
 ツェテンとは、マシャンに殺されたという次兄の名だ。
「ラナンにとっては甥になる。といっても年はひとつ下なだけだが。そのニャムサンが、マシャン兄上の政敵と組んで兄上を謀殺したのだと、わたしはにらんでいます」
 兄が行方不明という一大事だというのに、スムジェは他人事のような淡々とした口調で、その出来事を話した。

 王の叔父であるマシャンは、王の即位とともに摂政となって権力を握り、仏教などの外来思想を排斥する政策をとっていた。ニャムサンはそれに反発して、崇仏派のグー・ティサン・ヤプラクという尚論と結び、マシャンと対立した。
 ひと月前のこと、王はティサンとニャムサンに諮り、天竺から仏教僧を招聘すると宣言した。反対するマシャンを筆頭とする伝統派に、「ならば伝統宗教の神の意向を聞けばいい」と提案したのはニャムサンだ。その提案どおり、国で一番身分の高い神官が神を降ろした。宣託は「マシャンとティサンが、王家の墓の背後にあるふたつの洞窟にそれぞれ入って一晩を過ごし、無事に出てきたほうの意見を受け入れよ」と下った。
 それはマシャンの腹心ゲンラム・タクラ・ルコンとニャムサンが見届け人となって実行された。
 マシャンは自ら選択した洞窟に入る直前、自分が出てくることがなかったらニャムサンをナナムの家長とするよう遺言したという。翌朝、王墓の外で一夜を過ごしたニャムサンとルコンが洞窟に赴くと、出てきたのはティサンのみで、マシャンの姿は洞窟の内になかった。

「神罰を受けたと見せるために、レン・ティサンが夜のうちに兄上を殺して死骸をどこかに隠したとしか思えぬのです。神官はニャムサンに買収されていたのだろう。陛下はこの兄上の遺言をもとに、ニャムサンをナナムの家長となさるおつもりです」
「レン・タクラはマシャンどのとお親しかったのでしょう。なんとおっしゃっているのです?」
 母の問いかけに、スムジェは渋面を見せて首を振った。
「ルコンどのは追放された。牛飼いでさえ冬には近づかぬ荒野にです。もう生きて帰ることはないでしょう。とにかく、兄上がいなくなってしまったからには、早く家長を決めなくてはならない。問題は遺言の真偽ではありません。ニャムサンにその器量があれば、誰も反対はしないのです。あれの母は奥方さまと同じく、王家の血を引く名門貴族の姫君ですから、その点ではなにも問題はない」
 スムジェは母にニコリと笑むと、母は鷹揚に微笑みを返す。スムジェは急に表情を曇らせると、大きなため息をついた。
「しかし、ニャムサンは幼いころから放蕩三昧、宮中の女官に見境なく手を出す女たらしで礼儀作法もわきまえぬ愚か者。陛下の御寵愛をいいことに、軍事からも政治からも逃げ回ってチャラチャラ遊ぶことばかり考えているのだ。あやつが家長となったら、ナナムは終わりです」
 コロコロと表情を変えるスムジェの顔を見つめていたら、それまで母に据えられていた視線がこちらを向いたので、ラナンは慌ててうつむいた。
「おまえにナナムの家長になってほしい。これがナナム一族の総意だ」
 頭の上から母の弾むような声が聞こえた。
「では、都に帰ることが出来るのですか?」
「そのために一族を代表してお迎えにあがりました」
「でも、ニャムサン……は?」
 再び顔をあげて恐る恐る聞くと、スムジェはニヤリと笑いかけた。
「あやつが自ら家督を放棄するよう、わたしが説得する。いやだと言っても一族が承知しないのだ。こればかりは陛下がいかに御贔屓にされていようと、どうしようもない」
「いざとなれば、ニャムサンどのを殺してでも……」
 冷たい声に、ラナンはギョッとして目を向けた。母はこれまで見せたことのない、酷薄な表情を浮かべている。その目の内の光りは、これまで夢に出て来た兄マシャンのものとそっくりだった。
「わたしがいつもそばにいておまえを支えてやるから心配はいらない。ラナン、ここを出て、一族を救ってくれ」
 スムジェは満足気な笑顔を母にむけた。

 スムジェの話をよく消化し切れていないラナンは、戸口で待っていたケサンに声もかけずに自分の部屋に戻った。寝台に腰かけると、懐から密かに隠し持っていた小さな仏像を取り出す。
 マシャンが仏教を毛嫌いし、廃仏政策を強引にすすめていたとは知らなかった。もしもこれがマシャンに見つかっていたら、ラナンも捕らえられ、辺境に追放されていたのだろうか。
 この仏像は、町でケサンがソグドの商人から腕輪と交換で手に入れたものだ。ケサンはときどき、館から出ることの出来ないラナンを慰めようと、珍しいものを見つけると持ち帰って来る。しかし、母はケサンがそうやって館の外で手に入れたものをラナンに与えることを快く思っていない。大概、それらのガラクタは、母の手によって没収され、ラナンの知らないところへ行ってしまう。だから一目で気に入ったこの仏像だけは、母に見られぬよう隠し持っていた。唯一、ラナンが母に対して持っていた、小さな秘密だった。
 いつもこころが曇るときは、この仏像の微笑みを見て慰められた。しかしそれも、今回は効き目がないようだ。
 スムジェは一族のためだと言う。だが、マシャンが後嗣に指名したのはニャムサンなのだ。それが偽りであるという確たる証拠もないのに、奪い取ることが許されるのだろうか。だが、ラナンが悩む余地なく、ラナンの知らないところで一族が決めてしまった。
 母は、都に帰ることが出来るとあんなに喜んでいた。マシャンがいなくなった外の世界は、恐ろしいところではないというのか。
「どうなさったのです? スムジェさまから、どんなお話があったのですか」
 ケサンが、沈黙に耐えかねたように訊ねる。ラナンは大きく息をついて答えた。
「わたしは都に行くことになった」
「都に?」
 ケサンは頓狂な声をあげて目を丸くする。
「おまえも来てくれるか」
 恐る恐る聞くと、ケサンは吹き出した。
「当たり前じゃないですか。来るなとご命令されても絶対についていきますからね。死ぬまでに一度は都に行ってみたかったんですから」
 ケサンが都にあこがれを持っていたなんて、はじめて知った。ここから出られないラナンに遠慮して口にしなかったのか。家来たちもみなそうなのだろうか。ならば、自分は彼らの足かせだったのだろう。
「都とは、そんなに素晴らしいところなのか」
「そりゃそうですよ。神の地ラサって名前なくらいですからね。なんでも国で一番いいものは都に集まるんです。都は庶民でもすごく豊かで、みんなとてもキレイな服を着ているそうです。建物も、このお屋敷より大きなものがいっぱい建ってるし、王宮は宝石のように美しいとか。ひとがたくさんいて、毎日がお祭りみたいに賑やかなんですって。きっと、ここでは食べられないおいしいものもいっぱいありますよ。楽しみだなぁ」
 ケサンは無邪気に目を輝かせる。
 ラナンはケサンの称賛を聞いても、少しも都に行きたいという思いにはならなかった。
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