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第三章

鳳翔 その3

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 次第に平野は狭まり、壁のような崖が両脇に迫って来た。この隘路で前後を伏兵に塞がれれば袋のネズミとなるのはわかっている。しかし進むしかなかった。三万の兵は前後を警戒しながら、速度をあげた。峰に沿って曲がりくねった道を進む彼らの前に、突如、騎兵が現れた。掲げられている旗には『呂』の文字。
「馬重英、今度こそ、その首頂戴いたす」
 山間に、呂日将の声がこだました。
「なんと、また呂日将か。まこと唐には呂日将しか将がいないのではないか」
 ゲルシクが呻くような声をあげた瞬間、後方からどよめきが響いてきた。振り向いたルコンは、鎮西節度使馬璘の旗を確認して肩をすくめた。
「おやおや、今回はもうひとりいるようですぞ。よかったですな」

 後方の隊は防御を固め馬璘の攻撃に耐えている。その間ゲルシクとルコンは前方を崩しにかかった。
 坂の上から攻める呂日将に地の利がある。チャタが確実に指示を伝えていれば、その背後にトンツェンが伏兵を潜ませているはずだ。が、その気配はまったく感じられない。やはりチャタは敵の手に落ちたのか。
 呂日将の騎兵に対して槍を突き上げる歩兵は血しぶきをあげて次々と倒れていく。それでもルコンとの間には、まだ万の兵がいた。しびれを切らせたのか、呂日将が叫んだ。
「馬重英、潔く出てきてオレと勝負せよ!」
 ルコンは苦笑いを浮かべた。
「あの男はただわたしと勝敗を決したくて待ち伏せしていたのか。ならば先行の隊まで追撃する気はないのだろう。心置きなく死ねますな」
 ゲルシクは鼻を鳴らした。
「なんだか面白くないな。儂だって夜襲の相手をしてやったのに、ルコンどののことしか覚えていないのか」
「後ろの御仁のお相手をして差し上げよ。猛将と名高い馬璘です。不足はないはずだ」
 絶叫とともに、大きな動揺が走った。
 耐えきれず後方の隊が崩れはじめたのだ。
 前と後ろに圧力を受け、ルコンとゲルシクの軍は文字通りすり潰されようとしていた。すでに五千以上の兵が失われただろう。混乱をきたした兵は逃げ惑い、敵の刃にかからなくても、将棋倒しになって押しつぶされる者、切り立った崖に登ろうとして転がり落ちる者、急流に飛びこんで溺れる者、と次々と命を落としていく。まともに戦える状態にいるのは中核の一万ほどの兵と精鋭騎馬隊千騎のみだった。
 血の匂いが濃くなってくる。
「よし、では後方の将は儂が預かる。ルコンどの、おさらばだ。死者の国にてお会いしようぞ」
 ゲルシクの言葉にうなずいたそのとき、突如喊声とともに前方の呂日将の軍が崩れた。
「遅いぞ、トンツェン!」
 ゲルシクが怒鳴る。しかし、坂の上に翻ったのは濃紺に吉祥文様のチム家の旗ではなく、艶やかな朱色に獅子の描かれたナナムの旗だった。

「シャン・ゲルツェンか?」
 あっけにとられた顔で坂を見あげるゲルシクに「あれなら五百騎だけで大丈夫です。後方を全軍で押し包んでください」と叫ぶと、ルコンは半数の精鋭騎馬隊とともに坂を駆け登り、呆けたようにナナムの旗を振り仰いでいた呂日将めがけ剣を振り下ろした。
 呂日将の馬が横にはね、ルコンの刃をかわす。
 仕損じた。
 勢いのまま坂を駆けあがりながら身を沈める。
 間一髪で呂日将の戟が頭上をかすめた。
 が、風を切る音に勢いはない。
 身を起こして馬を返してみれば、呂日将の馬がよろめいていた。足元が不安定な坂道で、体勢を整えぬまま無理に振った戟の重さに耐えられなかったようだ。
 ルコンはがら空きになった呂日将の胸元に飛び込むと、剣の柄頭で彼の手首を打ち、戟を叩き落とした。
 その間にラナンとルコンの兵に挟撃されバラバラに散った呂日将の隊は、次々と討ち取られていく。
 馬上で呂日将の喉元に剣先を突きつけながら、ルコンはラナンに向かって叫んだ。
「こちらはもう大丈夫です。まだ混乱している兵たちを落ち着かせて、後方のゲルシクどのの加勢をしてください」
「承知いたしました」
 ラナンは、右往左往する歩兵たちを叱咤しながら、後方へ向かった。
 ルコンは剣を突きつけたまま、声を落として呂日将に語りかけた。
「こちらは一万近く失われたようだ。これにてわれらを追い払ったと報告すれば、貴公らの面目は保たれるであろう。このへんで兵を退いたほうがお互いのためではござらぬか」
 呂日将はかみつかんばかりの形相でルコンをにらむ。先日、盩厔で初めて顔を合わせたときには生き生きと黒曜石のように輝いて見えたその切れ長の瞳が、いまは血走って、いやらしいギラつきを放っていた。
「オレは貴様の首を獲るために来たのだ。手ぶらで帰るつもりはない」
「わたしの首を獲ったら、無事に帰ることは出来ぬ」
 呂日将の部下をせん滅した精鋭騎馬隊が、ふたりを取り囲んでいる。しかし呂日将は引かなかった。
「貴様の首を獲らずには帰らん。殺すがいい」
「勇はあるが智のない男だ。国のため、帝のためではなく、そんな私利私欲のためにわたしの首が欲しいと言うか」
「私利私欲だと?」
 呂日将は意外なことを言われたというように目をむいた。
「そうではないか。先日とは全く違った、欲にまみれた目の色になっておるぞ。自分の面子を満たすためだけにわたしの首を獲ろうとしているのだろう。これが私利私欲でなくてなんだ」
「黙れ! なぜ敵将に説教されねばならぬのだ」
「すまぬ。これは私の悪癖だ。若者に会うと、つい説教してしまう」
 苦笑が浮かぶ。ニャムサンにも『誰彼かまわず説教したがるのが小父さんの悪いクセだ』と常になじられている。
「まあ貴殿の徳目の有無はともかく、あれを御覧なされ」
 ルコンは喉元に突き付けていた剣先を外して、呂日将の背後を示した。呂日将が素直に振り向く。
 ゆく手を塞いでいた者がいなくなったことで、すべての兵が後方への攻撃に転じていた。浮足立っていた兵たちも、ラナンの呼びかけで次第に落ち着きを取り戻し戦線に復帰している。馬璘はなんとか踏みとどまっているが、崩れるのは時間の問題と見えた。
 呂日将が、息をのむのが分かった。
「馬璘将軍の勇名はわが国にまで轟いている。確かに、恐ろしき猛者にござるな。しかし多勢に無勢、いつまでも持つまい。退かず馬将軍ともどもいのちの無駄遣いをして節度使を憎む廷臣たちを喜ばせるか。退いて勝利の報告で帝からお褒めをいただくか。さて、どちらを選ばれた方が利口かな」
「馬将軍は、オレに貴様の首を獲らせるために戦ってくださったのだ。貴様に説き伏せられたから退こうなどと言えるか」
 先ほどまでの威勢が噓のように、消え入りそうな声で呂日将はつぶやいた。ルコンは眉根を下げる。
「さようか。しかし困ったな。こちらも出来ればこれ以上無駄に兵を失いたくないのだ。どうだろう。わたしの首と引き替えに、兵を退いてもらえぬか。それで数百のいのちが助かるなら安いものだ」
 ルコンは言葉を変え、精鋭騎馬隊に告げた。
「全員、シャン・ゲルシクのもとに行き、なにがあってもこの呂日将どのを無事にお通しするよう伝えよ」
 隊員はルコンと呂日将のようすを気づかわしげに見やりながらも囲みを解き、去った。
 ふたりきりになる。呂日将はなぜ騎馬隊が去ったのか理解できないようすで、漠然とルコンの顔を眺めていた。
 ルコンは剣を鞘に納めて馬を降り、落ちていた戟を拾って二、三度振ると、石突を持ち主に向けて差し出した。
「貴殿のために道を開けるよう命じた。さあ、お好きにされよ」
 ハッと我に返った顔をした呂日将は唇をかみしめて戟をひったくると、ルコンをにらんで叫ぶ。
「哀れみで差し出されたものが受けとれるか! 次に会うときには、必ずこの手で貴様の首をもぎ取ってやる。覚えておれ!」
 彼はルコンの首を獲ることなく、馬を返して坂を駈け下りて行った。
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