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第三章

鳳翔 その2

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「どうしてこうなるのだ」
 孫志直は悲鳴をあげた。
 吐蕃の最後尾が城から遠ざかるのを見送りながら、これから祝いの宴でも開くか、などと軽口を言ったそのとき、三万ほどの軍勢がものすごい勢いで取って返し、城の前に陣を張りはじめたのだ。
 孫志直に胸元を小突かれて、副将はたたらを踏んだ。
「馬将軍を早く呼んで来い」
 体勢を立て直し、直立して答える。
「とっくに城をお出でになられています」
「なんだと? なんのために来たのだ。肝心なときにおらぬとは役立たずめ。そうだ、あの男はどうした。呂日将は」
「一緒に出ていかれたと思われます」
 思わず、皮肉な笑みが口元に浮かんでしまう。ふたりを追い出すようなことを言ったのは孫志直ではないか。だが、孫志直は忘れてしまったのか、地団駄を踏んで言った。
「敵を眼前にした城を見捨てて出て行くとは、酷いではないか」
 ため息をついた副将は、錯乱している孫志直をしり目に再び門を固く閉ざして守りを固めるよう、城内に命令を飛ばした。

 ※   ※   ※

 トンツェンに使いして戻ってきた伝令のチャタの報告によれば、鳳翔に節度使が入り、守りを固めているという。いまのところ手出ししてくるようすはないが、千騎ほど従えた将が城に入るのを見たという報告もあった。もしかしたら追撃の用意があるかもしれない。トンツェンたちは、まだ大震関の手前にいたという。ルコンはゲルシクに言った。
「思ったほど進んではおりませんな。勢いづかせてしまっては、先行の隊にも被害がおよぶかもしれない。われらで止めねば」
「女などつれているからだ。しかし、ようやくまともないくさができそうですな」
 身体がなまって仕方がないとこぼしていたゲルシクは、嬉しそうに伸びをして関節のあちこちを鳴らした。

 鳳翔の城の脇を通り抜けても、城からは矢の一本も飛んでこなかった。ゲルシクは眉をしかめる。
「なんだ、また期待が外れたか。唐には漢というものがいないのか」
 ルコンは顎を撫でた。
 城に入ったという一千騎が気になる。
 わざわざ危険を犯してやって来た将が、なにもせず自分たちを見過ごすものか。このさきで関内の平原は終わり、山あいの隘路に入る。もしかしたら谷に入るところで追ってくるつもりかもしれない。
 最後尾の隊に背後の警戒をいっそう厳しくするように命じ、進軍の速度を緩める。しかし城から三里離れ、十里離れ、二十里離れて山際まで来ても、城から兵が出てくるようすはなかった。
「全軍停止せよ」
 ルコンが命じると、ゲルシクは目をむいた。
「いかがされた」
「鳳翔に戻る」
「城を攻めるのでござるか? しかしこの人数では難しいですぞ」
 ルコンは前方に立ちふさがる山々を削るように流れる大河を指し示した。
「待ち伏せがあるかもしれません。あの隘路で挟み撃ちされれば、寡兵でもわれらを壊滅させることができる。城を攻めてみて相手の出方をみましょう。その間、トンツェンどのに伏兵をお願いする」
 ルコンはチャタを再度トンツェンに送ると、兵を返し、鳳翔を囲んだ。

 城から攻撃が仕掛けられることはなかった。こちらも、落とす気はないからただただ鬨の声をあげたり鐘を鳴らしたりするだけだ。
 隘路を偵察させると、伏兵の気配があるようだという。試しに数百の兵を送ってようす見させたが、彼らが動くようすはなかった。おそらくルコンとゲルシクを狙っているのだ。
 こうして周辺の村を略奪しながらにらみ合うだけで五日が過ぎた。
 すでに十一月に入っている。兵たちを苦しめていた蒸し暑さはすっかりなくなり、快適に過ごせる季節になったが、いつまでもそうしているわけにはいかない。雪が降り始めてしまっては難儀なことになる。
 しかしトンツェンに会ったらすぐに戻ってくるように言いつけたチャタは戻ってこない。待ち伏せしている敵に捕まったのだろうか。
 気をもむルコンに、ゲルシクは言った。
「これ以上時間をかけると、敵の援軍がやってくるかもしれん。一か八かで引き上げよう」
 ルコンはうなずく。
「トンツェンどのが間に合わぬようでしたら、わたしがおとりになります。ゲルシクどのはお逃げくだされ」
「儂に恥をかかせるおつもりか。総司令の首を獲らせておめおめと逃げ帰えれば笑われ者になるだろう。こうなる危険は予想しておったではありませんか。だから未来ある若者たちを先にいかせたのでしょう。しかし惜しむらくはこの精鋭騎馬隊だ。ルコンどのがなくなってしまっては、ふたたび作りあげることはできまい。ルコンどのこそ、お逃げくだされ」
「それは心配していません。トンツェンどのもツェンワどのも呂日将の軽騎兵の動きを目の前にして学ぶことがあったでしょう。ラナンどのは調練に参加されている。リンチェの助けを借りれば再現することは難しくない」
「ならば思い残すことはござりませんな。今後は若い者たちに託して、ともに死にましょう」
 ゲルシクは酒宴にでも誘うような口調で、明るい笑みを浮かべて言った。
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