上 下
42 / 49
第三章

鳳翔 その2

しおりを挟む
「どうしてこうなるのだ」
 孫志直は悲鳴をあげた。
 吐蕃の最後尾が城から遠ざかるのを見送りながら、これから祝いの宴でも開くか、などと軽口を言ったそのとき、三万ほどの軍勢がものすごい勢いで取って返し、城の前に陣を張りはじめたのだ。
 孫志直に胸元を小突かれて、副将はたたらを踏んだ。
「馬将軍を早く呼んで来い」
 体勢を立て直し、直立して答える。
「とっくに城をお出でになられています」
「なんだと? なんのために来たのだ。肝心なときにおらぬとは役立たずめ。そうだ、あの男はどうした。呂日将は」
「一緒に出ていかれたと思われます」
 思わず、皮肉な笑みが口元に浮かんでしまう。ふたりを追い出すようなことを言ったのは孫志直ではないか。だが、孫志直は忘れてしまったのか、地団駄を踏んで言った。
「敵を眼前にした城を見捨てて出て行くとは、酷いではないか」
 ため息をついた副将は、錯乱している孫志直をしり目に再び門を固く閉ざして守りを固めるよう、城内に命令を飛ばした。

 ※   ※   ※

 トンツェンに使いして戻ってきた伝令のチャタの報告によれば、鳳翔に節度使が入り、守りを固めているという。いまのところ手出ししてくるようすはないが、千騎ほど従えた将が城に入るのを見たという報告もあった。もしかしたら追撃の用意があるかもしれない。トンツェンたちは、まだ大震関の手前にいたという。ルコンはゲルシクに言った。
「思ったほど進んではおりませんな。勢いづかせてしまっては、先行の隊にも被害がおよぶかもしれない。われらで止めねば」
「女などつれているからだ。しかし、ようやくまともないくさができそうですな」
 身体がなまって仕方がないとこぼしていたゲルシクは、嬉しそうに伸びをして関節のあちこちを鳴らした。

 鳳翔の城の脇を通り抜けても、城からは矢の一本も飛んでこなかった。ゲルシクは眉をしかめる。
「なんだ、また期待が外れたか。唐には漢というものがいないのか」
 ルコンは顎を撫でた。
 城に入ったという一千騎が気になる。
 わざわざ危険を犯してやって来た将が、なにもせず自分たちを見過ごすものか。このさきで関内の平原は終わり、山あいの隘路に入る。もしかしたら谷に入るところで追ってくるつもりかもしれない。
 最後尾の隊に背後の警戒をいっそう厳しくするように命じ、進軍の速度を緩める。しかし城から三里離れ、十里離れ、二十里離れて山際まで来ても、城から兵が出てくるようすはなかった。
「全軍停止せよ」
 ルコンが命じると、ゲルシクは目をむいた。
「いかがされた」
「鳳翔に戻る」
「城を攻めるのでござるか? しかしこの人数では難しいですぞ」
 ルコンは前方に立ちふさがる山々を削るように流れる大河を指し示した。
「待ち伏せがあるかもしれません。あの隘路で挟み撃ちされれば、寡兵でもわれらを壊滅させることができる。城を攻めてみて相手の出方をみましょう。その間、トンツェンどのに伏兵をお願いする」
 ルコンはチャタを再度トンツェンに送ると、兵を返し、鳳翔を囲んだ。

 城から攻撃が仕掛けられることはなかった。こちらも、落とす気はないからただただ鬨の声をあげたり鐘を鳴らしたりするだけだ。
 隘路を偵察させると、伏兵の気配があるようだという。試しに数百の兵を送ってようす見させたが、彼らが動くようすはなかった。おそらくルコンとゲルシクを狙っているのだ。
 こうして周辺の村を略奪しながらにらみ合うだけで五日が過ぎた。
 すでに十一月に入っている。兵たちを苦しめていた蒸し暑さはすっかりなくなり、快適に過ごせる季節になったが、いつまでもそうしているわけにはいかない。雪が降り始めてしまっては難儀なことになる。
 しかしトンツェンに会ったらすぐに戻ってくるように言いつけたチャタは戻ってこない。待ち伏せしている敵に捕まったのだろうか。
 気をもむルコンに、ゲルシクは言った。
「これ以上時間をかけると、敵の援軍がやってくるかもしれん。一か八かで引き上げよう」
 ルコンはうなずく。
「トンツェンどのが間に合わぬようでしたら、わたしがおとりになります。ゲルシクどのはお逃げくだされ」
「儂に恥をかかせるおつもりか。総司令の首を獲らせておめおめと逃げ帰えれば笑われ者になるだろう。こうなる危険は予想しておったではありませんか。だから未来ある若者たちを先にいかせたのでしょう。しかし惜しむらくはこの精鋭騎馬隊だ。ルコンどのがなくなってしまっては、ふたたび作りあげることはできまい。ルコンどのこそ、お逃げくだされ」
「それは心配していません。トンツェンどのもツェンワどのも呂日将の軽騎兵の動きを目の前にして学ぶことがあったでしょう。ラナンどのは調練に参加されている。リンチェの助けを借りれば再現することは難しくない」
「ならば思い残すことはござりませんな。今後は若い者たちに託して、ともに死にましょう」
 ゲルシクは酒宴にでも誘うような口調で、明るい笑みを浮かべて言った。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

屍山血河の国

水城洋臣
歴史・時代
恨みを抱いた死体が蘇って人を襲う。恐ろしくも悲しい歴史伝奇ホラー  複数の胡人(北方騎馬民族)が中華に進出し覇を競った五胡十六国時代の事。  漢人至上主義の下に起こった胡人大虐殺により、数十万人が殺され、その遺体は荒野に打ち捨てられた。  そんな虐殺が起きて間もない冀州・曲梁県で起こった恐ろしくも悲しい事件の顛末とは。

和ませ屋仇討ち始末

志波 連
歴史・時代
山名藩家老家次男の三沢新之助が学問所から戻ると、屋敷が異様な雰囲気に包まれていた。 門の近くにいた新之助をいち早く見つけ出した安藤久秀に手を引かれ、納戸の裏を通り台所から屋内へ入っる。 久秀に手を引かれ庭の見える納戸に入った新之助の目に飛び込んだのは、今まさに切腹しようとしている父長政の姿だった。 父が正座している筵の横には変わり果てた長兄の姿がある。 「目に焼き付けてください」 久秀の声に頷いた新之助だったが、介錯の刀が振り下ろされると同時に気を失ってしまった。 新之助が意識を取り戻したのは、城下から二番目の宿場町にある旅籠だった。 「江戸に向かいます」 同行するのは三沢家剣術指南役だった安藤久秀と、新之助付き侍女咲良のみ。 父と兄の死の真相を探り、その無念を晴らす旅が始まった。 他サイトでも掲載しています 表紙は写真ACより引用しています R15は保険です

遺恨

りゅ・りくらむ
歴史・時代
内大相ゲンラム・タクラ・ルコンと東方元帥チム・ゲルシク・シュテン。 戦友であるふたりの間には、ルコンの親友である摂政ナナム・マシャン・ドムパ・キェの存在がいまだ影を落としていた。隣国唐で勃発した僕固懐恩の乱をめぐるルコンの対応に不信感を抱いたゲルシクの内で、その遺恨が蘇る。 『京師陥落~ ཀེང་ཤྀ་ཕབ།』で長安を陥落させた吐蕃最強バディのケンカは、ツェンポ・ティソン・デツェンとナナム・ゲルニェン・ニャムサン、そして敵将呂日将まで巻き込む騒動に発展して……。 と書くほどの大きなお話ではありません😅 軽く読んでいただければー。 ボェの国の行政機構などについて今回は文中で説明していませんので、他の作品を読んでいない方は本編前の説明をぜひご覧ください。 (わからなくても読めると思います。多分)

北宮純 ~祖国無き戦士~

水城洋臣
歴史・時代
 三国時代を統一によって終わらせた晋(西晋)は、八王の乱と呼ばれる内紛で内部から腐り、異民族である匈奴によって滅ぼされた。  そんな匈奴が漢王朝の正統後継を名乗って建国した漢(匈奴漢)もまた、僅か十年で崩壊の時を迎える。  そんな時代に、ただ戦場を駆けて死ぬ事を望みながらも、二つの王朝の滅亡を見届けた数奇な運命の将がいた。  その名は北宮純。  漢民族消滅の危機とまで言われた五胡十六国時代の始まりを告げる戦いを、そんな彼の視点から描く。

摂政ナナム・マシャン・ドムパ・キェの失脚

りゅ・りくらむ
歴史・時代
8世紀中頃のボェの国(現チベット)。古い神々を信じる伝統派と仏教を信じる改革派が相争う宮殿で、改革派に与する国王ティデ・ツクツェンが暗殺された。首謀者は伝統派の首領、宰相バル・ドンツァプ。偶然事件を目撃してしまったナナム・ニャムサンは幼馴染で従兄弟の太子ナツォクを逃がそうとするが、ドンツァプと並ぶ伝統派の実力者である伯父ナナム・マシャンに捕らえられ、ナツォクを奪われる。王宮に幽閉されたナツォクを助けるためニャムサンは、亡き父の親友ゲンラム・タクラ・ルコン、南方元帥グー・ティサン、東方元帥チム・ゲルシクと協力し、ナツォクの救出に奔走する。 民間伝承のような勧善懲悪ストーリではなく出来るだけ史実に沿うよう努力しています。参考文献は自分のWebサイトで公開中です。

ナナムの血

りゅ・りくらむ
歴史・時代
8世紀中頃のボェの国(チベット) 御家争いを恐れ、田舎の館に引きこもっていたナナム・ゲルツェン・ラナンは、ある日突然訪ねて来た異母兄ティ・スムジェによってナナム家の家長に祭り上げられる。 都に上り尚論(高官)となったラナンは、25歳になるまで屋敷の外に出たこともなかったため、まともに人と接することが出来なかった。 甥である王(ツェンポ)ティソン・デツェンや兄マシャンの親友ルコンに助けられ、次第に成長し、東方元帥、そして大相(筆頭尚論)となるまでのナナム・ゲルツェン・ラナン(シャン・ゲルツェン:尚結賛)の半生を書きました。 参考文献はWebに掲載しています。

ただ鴛鴦を羨みて

水城洋臣
歴史・時代
戦火に巻き込まれた令嬢と、騎馬民族の王子。その出会いと別れ  騎馬民族である南匈奴が、部族を率いて後漢王朝に従属した。  そんな南匈奴の左賢王(第一王子)が、時の権力者である曹操に頼みがあるという。  彼にはどうしても、もう一度会いたい女性がいた。  後に三國志の序盤としても知られる建安年間。  後世に名を残した者たちの、その偉業の影に隠れた物悲しい恋の物語。

あなたの子ですが、内緒で育てます

椿蛍
恋愛
「本当にあなたの子ですか?」  突然現れた浮気相手、私の夫である国王陛下の子を身籠っているという。  夫、王妃の座、全て奪われ冷遇される日々――王宮から、追われた私のお腹には陛下の子が宿っていた。  私は強くなることを決意する。 「この子は私が育てます!」  お腹にいる子供は王の子。  王の子だけが不思議な力を持つ。  私は育った子供を連れて王宮へ戻る。  ――そして、私を追い出したことを後悔してください。 ※夫の後悔、浮気相手と虐げられからのざまあ ※他サイト様でも掲載しております。 ※hotランキング1位&エールありがとうございます!

処理中です...