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第三章

鳳翔 その1

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 西へ帰る吐蕃の軍兵が、続々と鳳翔の脇を通り抜けて行く。城のなかで、呂日将は隴右節度使孫志直に迫っていた。
「ひとびとが吐蕃に攫われていくのを、指をくわえて見ておれとおっしゃるのか。彼らは唐の民にございますぞ」
 孫志直はろくに呂日将の顔も見ずに、間延びした声で答えた。
「放っておけば勝手に引き上げるものを、わざわざ刺激することはあるまい。捕虜を助けろと簡単に申すが、この城にいくらの兵がいると思っておるのだ。三千だぞ。かなうわけがないのは、無鉄砲に突っ込んで叩き潰された貴公がよくわかっておろう」
 頭に血がのぼる。
 だからこそ、見過ごすわけにはいかないのだ。
「将軍には、面子というものがないのか」
「面子などクソ食らえだ。とにかく、あちらが攻めてきたら防戦するが、こちらからは手を出す気はない。貴公も余計な手出しはするなよ。するならどこか、遠いところでやってくれ」
 そうこうしているうちに、捕虜を連れた大軍は行き過ぎて行った。その後も数千、数万の部隊が次々に通過するが、鳳翔の城に攻撃を仕掛けるものはなかった。あちらも余計な戦闘は避けるよう命じられているのかもしれない。
 呂日将はそれらを虚しく見送りながら、真紅の旗がやって来るのを待っていた。
 馬重英。
 ヤツが来たら、孫志直がなんと言おうと戦いを挑んでやる。
 孫志直の面子がクソくらえというなら、勝手にすればいい。しかし、このまま無事に馬重英を吐蕃に返すことは、呂日将の面子が許さなかった。

 断続的に押し寄せる吐蕃の軍勢の合間を縫って、鎮西節度使馬璘が千余騎の兵を連れて入城したのは、吐蕃が京師を占領してから半月後のことだった。馬璘は孫志直の弛緩しきった顔を見るやいなや怒鳴りつけた。
「なぜみすみす吐蕃を見送るようなまねをしているのだ! まさか、追撃の用意もないのか」
「放っておけばそのうちいなくなる。なにもわざわざ手を出してヤケドをすることはなかろう」
 怒声にも動じずダルそうに言う孫誌直に、馬璘は目をむいた。
「貴様はそれでも節度使か。われらはあヤツらから唐を守るためにおるのだぞ」
「その唐が、主上が儂らになにをしてくれた。命を削って働き、安史のやからを滅しても、なにひとつ報いてくれないどころか、宦官どもの讒言を真に受けて処罰する始末だ。広武王の朝廷に与することなく、こうして城を取り返して守ってやっているだけでもありがたいと思ってほしいものだ」
「取返した?」
 馬璘が冷笑をうかべる。
「あヤツらが去った後に戻ってきただけだろう。宦官を恨むのは、讒言されるほどの功績を挙げてからにしたらどうだ」
 しかし孫志直は馬璘のあざけりにも動じなかった。
「戦いたいならよそでやってくれ。だが儂はこの城を守るのが手一杯だ。助太刀などはせぬぞ」
「あきれ果てた男だ」
 孫誌直に言い捨てて沓音高く部屋を出た馬璘の背を、呂日将は追った。
「馬将軍、お待ち下さい。わたしもともに戦わせてください」
 振り向いた馬璘は怪訝な表情を浮かべて呂日将を見つめた。
「そなたは孫将軍の部下ではないのか?」
「渭北行営兵馬使の呂日将と申します。将軍と同じく、吐蕃を追撃しようと参上いたしました」
「おお、貴公が。盩厔でのお働きは耳にしておるぞ」
 笑顔を見せた馬璘に対して、呂日将は唇をかんだ。
「しかし、力及ばず、吐蕃の入京をとどめることはかないませんでした」
「なにを言う。こたびの入寇で、吐蕃に打撃を与えたのは貴公だけだろう」
「負けは負けです。わたしはなんとか一矢報いたくて、渭水で傷を負うことのなかった五百騎をつれ、この鳳翔に参ったのですが、孫将軍は耳を貸してくれません。ですから、せめてこの命と引き換えにしても、吐蕃の総大将の首を獲ってやろうと思い定めていたところにございます」
「それはあっぱれな心がけだ。よし、儂が力になってやろう。その総大将だが、馬重英と名乗っているそうだな。漢人との噂もあるが、まことか」
 呂日将は首をひねった。
「なまりのない都言葉を話し、これまでの吐蕃にはなかった精鋭の騎馬隊を率いておりましたが、漢人とは見えませんでした。おそらく正体を偽って唐に入り込み、兵馬の術を学んだのでしょう」
「それは相手にとって不足はない。まだここを通ってはいないのか」
「はい。日夜この地を通る吐蕃の兵を見ておりましたが、それらしき将はまだ来ておりませぬ」
「しかしほとんどの吐蕃の兵は引き上げ、そろそろ殿というではないか。総大将が殿となるだろうか」
「自ら奇襲の兵を率いるような男です。あり得なくはないでしょう」
「なるほどな。では、その馬重英の首を獲るとしよう。儂の兵とあわせて千五百騎か。隘路にて待ち伏せいたそう」
 呂日将にとって馬璘は将来はこうありたいものだと憧れていた偉大な将軍のひとりだ。いつか言葉だけでもかけてもらえたら、と思っていたひとに親しく肩をたたかれて、呂日将は舞い上がるような気分になる。
 ふたりは夜の闇に紛れ城を出た。
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