34 / 49
第二章
京師長安 その3
しおりを挟む
ラナンの働きで予定より早く捕虜の選別を終えたトンツェンとツェンワが捕虜を連れて出発するのを、ルコンはゲルシクとともに開遠門で見送った。
これからは少しずつ兵を撤退させる。大明宮で皇帝の生活を満喫している李承宏や官吏たちに怪しまれぬよう、ルコンとゲルシクは毎日出仕し、捕虜たちが十分離れた頃を見計らって最後に去る予定だ。李承宏は京師を去るギリギリのときに騙して京師から連れ出し、攫って行こうとルコンは決めていた。
とにかく捕虜たちを無事送り出したことにホッとしながら宿としている館に戻った。帰りを待っていたのだろう。門を入るや否や、家来が駆け寄って紙片を差し出した。
「お留守の間に唐人がやって来て、殿にこれをお渡しするよう申し付かりました」
「唐人が?」
「手紙の主の名も聞いたのですが、なにぶん、唐語が苦手で、よく聞き取れませんでした。申し訳ございません」
頭をかく家来を下がらせ、書状を開いてみるとたった二行の文章が目に飛び込んで来た。
お会いしたいが足を患いおうかがいすることができない。
大変恐縮であるがお時間が作れたらご足労願いたい。
署名はない。が、見覚えのある墨蹟に、家来が聞き逃した名は苗晋卿であることをルコンは知った。
これから撤退するまでは特にやるべきことはないから、時間を作るのは造作もなかった。にもかかわらず、ルコンは苗晋卿の館に足を向けるのをためらっていた。なんども紙片を読み返し、さんざん迷った末、館を訪ねたのは、その二日後だった。どこぞの節度かと思わせるような立派な風貌の家僕に導かれ、一室に足を踏み入れる。
寝台に半身を起こして迎えた苗晋卿に、ルコンは戸口で拝礼した。
「ようやっと来たな、茶汲み小僧め。あんなならず者どもをよこして己は顔を見せぬとは、どうゆう了見だ」
「わたしのことなど覚えていらっしゃらないと思いました」
「なるほど、わたしがすっかり耄碌しているだろうと思って挨拶にも来なかったのか」
「とんでもございません」
苗晋卿は脚にかけられている布団をパンパンとたたいた。
「いいか、身体はこんなになってしまったが、頭はまだまだしっかり働いておる。『吐蕃の馬重英』と聞いて、すぐにそなただとわかった。吐蕃王に一族を誅され、身ひとつにて故国から逃れてきたなどと申しておったこともな。あれは嘘であったか」
「はい」
「夜中にこっそりとわたしの書物を盗み読みしていても、哀れに思って見逃してやっていたのに、とんだネズミだ」
「ご存知にございましたか」
「わたしの目を節穴と侮って、わが家中に潜り込んだのだな」
「決してそのようなことではございません」
ルコンは身が縮む思いがしたが、苗晋卿は言葉と裏腹に、寬厚廉謹との世評を裏切らぬ穏やかな笑みを見せていた。
「まあ、このくらいにしてやるか。小言を言うために呼だのではない。もっと近くで顔を見せよ」
ルコンがソロソロと近づくと、苗晋卿はじっとルコンを見つめた。
「おお、すっかりおやじになってしまったが、確かにあの洟垂れ小僧だ。かつての家僕が二十万の兵を率いる総大将とは、わたしも鼻が高いな。まあ、そんな自慢をしたら首が飛ぶだろうが。おまえもうっかり漏らすなよ」
「心得ております」
「よしよし。さて、久しぶりの京師はどうだ」
「いささか失望いたしました。街にも、ひとにも」
「そうであろう。そなたがいたときが、京師の一番よいときだったのだ」
開元二十四年。中書舎人となったばかりの苗晋卿の館に十八才のルコンが雑役夫として入り込んだころ、唐は、玄宗の治世の絶頂期だった。
英明な君主の治める大帝国の京師。
花咲き乱れ、水は澄み、夜は万灯に浮かび上がる大道を着飾った人々がさんざめく。この世のどこよりも華やかで美しく、自信に満ちた平和な都。
ルコンが手に入れたいと思っていたのは、そんな長安だった。
なのに、いまの京師は、街もひとのこころも荒れ果てていた。
「こうして日がな一日寝てばかりいるので退屈でならん。すこし、おまえの話をしてくれ。なに、珍しい話が聞きたいだけだ。他の者には言わないよ」
「いまのわたしには隠し事などございませんから、どなたに話されても困ることはありません」
「では、なぜこたびも馬重英など名乗っておる。まさか、こうしてわたしが招くと思ったからではなかろう」
「侍中さまのお耳に入れば……と思ったのもひとつです」
「ふん。その割には挨拶に来なかったではないか。いまさらお愛想をいっても遅いぞ」
「申し訳ございません。いままで侍中さまを騙していた後ろめたさに、お会いする勇気が出なかったのでございます」
「まあ、そういうことにしておいてやろう。ひとつ、ということは他にも理由があるのだろう」
「実は、一年前、わたしは官職をはく奪され、流刑を受けました。年の始めにお許しがあり、こうして軍を率いることとなりましたが、まだ官職の復帰を見ていないのです。なので家名を名乗ることを遠慮し、昔の名を名乗ることをツェンポにお許しいただきました」
「流刑とは穏やかではない。何をしでかした」
「親友であった摂政の暴政を止めることが出来ませんでした」
「親友か」
「はい物心ついたころからともに兄弟のように育ちました。彼のいない宮廷に戻るつもりはなかったので、今年の始めまでわたしは流刑地で死のうと思っておりました」
「ああ、去年の会盟を仕組んだのは、その摂政だな」
苗晋卿は得心がいった、という顔をした。
「そのときから、今日のことを考えていたのか。しかも親友が存分に働ける舞台のお膳だてでもあったわけだ。まったくしてやられたわい」
「え……」
ルコンは目を瞬いた。
これからは少しずつ兵を撤退させる。大明宮で皇帝の生活を満喫している李承宏や官吏たちに怪しまれぬよう、ルコンとゲルシクは毎日出仕し、捕虜たちが十分離れた頃を見計らって最後に去る予定だ。李承宏は京師を去るギリギリのときに騙して京師から連れ出し、攫って行こうとルコンは決めていた。
とにかく捕虜たちを無事送り出したことにホッとしながら宿としている館に戻った。帰りを待っていたのだろう。門を入るや否や、家来が駆け寄って紙片を差し出した。
「お留守の間に唐人がやって来て、殿にこれをお渡しするよう申し付かりました」
「唐人が?」
「手紙の主の名も聞いたのですが、なにぶん、唐語が苦手で、よく聞き取れませんでした。申し訳ございません」
頭をかく家来を下がらせ、書状を開いてみるとたった二行の文章が目に飛び込んで来た。
お会いしたいが足を患いおうかがいすることができない。
大変恐縮であるがお時間が作れたらご足労願いたい。
署名はない。が、見覚えのある墨蹟に、家来が聞き逃した名は苗晋卿であることをルコンは知った。
これから撤退するまでは特にやるべきことはないから、時間を作るのは造作もなかった。にもかかわらず、ルコンは苗晋卿の館に足を向けるのをためらっていた。なんども紙片を読み返し、さんざん迷った末、館を訪ねたのは、その二日後だった。どこぞの節度かと思わせるような立派な風貌の家僕に導かれ、一室に足を踏み入れる。
寝台に半身を起こして迎えた苗晋卿に、ルコンは戸口で拝礼した。
「ようやっと来たな、茶汲み小僧め。あんなならず者どもをよこして己は顔を見せぬとは、どうゆう了見だ」
「わたしのことなど覚えていらっしゃらないと思いました」
「なるほど、わたしがすっかり耄碌しているだろうと思って挨拶にも来なかったのか」
「とんでもございません」
苗晋卿は脚にかけられている布団をパンパンとたたいた。
「いいか、身体はこんなになってしまったが、頭はまだまだしっかり働いておる。『吐蕃の馬重英』と聞いて、すぐにそなただとわかった。吐蕃王に一族を誅され、身ひとつにて故国から逃れてきたなどと申しておったこともな。あれは嘘であったか」
「はい」
「夜中にこっそりとわたしの書物を盗み読みしていても、哀れに思って見逃してやっていたのに、とんだネズミだ」
「ご存知にございましたか」
「わたしの目を節穴と侮って、わが家中に潜り込んだのだな」
「決してそのようなことではございません」
ルコンは身が縮む思いがしたが、苗晋卿は言葉と裏腹に、寬厚廉謹との世評を裏切らぬ穏やかな笑みを見せていた。
「まあ、このくらいにしてやるか。小言を言うために呼だのではない。もっと近くで顔を見せよ」
ルコンがソロソロと近づくと、苗晋卿はじっとルコンを見つめた。
「おお、すっかりおやじになってしまったが、確かにあの洟垂れ小僧だ。かつての家僕が二十万の兵を率いる総大将とは、わたしも鼻が高いな。まあ、そんな自慢をしたら首が飛ぶだろうが。おまえもうっかり漏らすなよ」
「心得ております」
「よしよし。さて、久しぶりの京師はどうだ」
「いささか失望いたしました。街にも、ひとにも」
「そうであろう。そなたがいたときが、京師の一番よいときだったのだ」
開元二十四年。中書舎人となったばかりの苗晋卿の館に十八才のルコンが雑役夫として入り込んだころ、唐は、玄宗の治世の絶頂期だった。
英明な君主の治める大帝国の京師。
花咲き乱れ、水は澄み、夜は万灯に浮かび上がる大道を着飾った人々がさんざめく。この世のどこよりも華やかで美しく、自信に満ちた平和な都。
ルコンが手に入れたいと思っていたのは、そんな長安だった。
なのに、いまの京師は、街もひとのこころも荒れ果てていた。
「こうして日がな一日寝てばかりいるので退屈でならん。すこし、おまえの話をしてくれ。なに、珍しい話が聞きたいだけだ。他の者には言わないよ」
「いまのわたしには隠し事などございませんから、どなたに話されても困ることはありません」
「では、なぜこたびも馬重英など名乗っておる。まさか、こうしてわたしが招くと思ったからではなかろう」
「侍中さまのお耳に入れば……と思ったのもひとつです」
「ふん。その割には挨拶に来なかったではないか。いまさらお愛想をいっても遅いぞ」
「申し訳ございません。いままで侍中さまを騙していた後ろめたさに、お会いする勇気が出なかったのでございます」
「まあ、そういうことにしておいてやろう。ひとつ、ということは他にも理由があるのだろう」
「実は、一年前、わたしは官職をはく奪され、流刑を受けました。年の始めにお許しがあり、こうして軍を率いることとなりましたが、まだ官職の復帰を見ていないのです。なので家名を名乗ることを遠慮し、昔の名を名乗ることをツェンポにお許しいただきました」
「流刑とは穏やかではない。何をしでかした」
「親友であった摂政の暴政を止めることが出来ませんでした」
「親友か」
「はい物心ついたころからともに兄弟のように育ちました。彼のいない宮廷に戻るつもりはなかったので、今年の始めまでわたしは流刑地で死のうと思っておりました」
「ああ、去年の会盟を仕組んだのは、その摂政だな」
苗晋卿は得心がいった、という顔をした。
「そのときから、今日のことを考えていたのか。しかも親友が存分に働ける舞台のお膳だてでもあったわけだ。まったくしてやられたわい」
「え……」
ルコンは目を瞬いた。
0
お気に入りに追加
7
あなたにおすすめの小説
遺恨
りゅ・りくらむ
歴史・時代
内大相ゲンラム・タクラ・ルコンと東方元帥チム・ゲルシク・シュテン。
戦友であるふたりの間には、ルコンの親友である摂政ナナム・マシャン・ドムパ・キェの存在がいまだ影を落としていた。隣国唐で勃発した僕固懐恩の乱をめぐるルコンの対応に不信感を抱いたゲルシクの内で、その遺恨が蘇る。
『京師陥落~ ཀེང་ཤྀ་ཕབ།』で長安を陥落させた吐蕃最強バディのケンカは、ツェンポ・ティソン・デツェンとナナム・ゲルニェン・ニャムサン、そして敵将呂日将まで巻き込む騒動に発展して……。
と書くほどの大きなお話ではありません😅
軽く読んでいただければー。
ボェの国の行政機構などについて今回は文中で説明していませんので、他の作品を読んでいない方は本編前の説明をぜひご覧ください。
(わからなくても読めると思います。多分)
ナナムの血
りゅ・りくらむ
歴史・時代
8世紀中頃のボェの国(チベット)
御家争いを恐れ、田舎の館に引きこもっていたナナム・ゲルツェン・ラナンは、ある日突然訪ねて来た異母兄ティ・スムジェによってナナム家の家長に祭り上げられる。
都に上り尚論(高官)となったラナンは、25歳になるまで屋敷の外に出たこともなかったため、まともに人と接することが出来なかった。
甥である王(ツェンポ)ティソン・デツェンや兄マシャンの親友ルコンに助けられ、次第に成長し、東方元帥、そして大相(筆頭尚論)となるまでのナナム・ゲルツェン・ラナン(シャン・ゲルツェン:尚結賛)の半生を書きました。
参考文献はWebに掲載しています。
西涼女侠伝
水城洋臣
歴史・時代
無敵の剣術を会得した男装の女剣士。立ち塞がるは三国志に名を刻む猛将馬超
舞台は三國志のハイライトとも言える時代、建安年間。曹操に敗れ関中を追われた馬超率いる反乱軍が涼州を襲う。正史に残る涼州動乱を、官位無き在野の侠客たちの視点で描く武侠譚。
役人の娘でありながら剣の道を選んだ男装の麗人・趙英。
家族の仇を追っている騎馬民族の少年・呼狐澹。
ふらりと現れた目的の分からぬ胡散臭い道士・緑風子。
荒野で出会った在野の流れ者たちの視点から描く、錦馬超の実態とは……。
主に正史を参考としていますが、随所で意図的に演義要素も残しており、また武侠小説としてのテイストも強く、一見重そうに見えて雰囲気は割とライトです。
三國志好きな人ならニヤニヤ出来る要素は散らしてますが、世界観説明のノリで注釈も多めなので、知らなくても楽しめるかと思います(多分)
涼州動乱と言えば馬超と王異ですが、ゲームやサブカル系でこの2人が好きな人はご注意。何せ基本正史ベースだもんで、2人とも現代人の感覚としちゃアレでして……。
要塞少女
水城洋臣
歴史・時代
蛮族に包囲され孤立した城を守り抜いた指揮官は、十四歳の少女であった。
三国時代を統一によって終わらせた西晋王朝の末期。
かつて南中と呼ばれた寧州で、蛮族の反乱によって孤立した州城。今は国中が内紛の只中にあり援軍も望めない。絶体絶命と思われた城を救ったのは、名将である父から兵法・武芸を学んだ弱冠十四歳の少女・李秀であった……。
かの『三國志』で、劉備たちが治めた蜀の地。そんな蜀漢が滅びた後、蜀がどんな歴史を辿ったのか。
東晋時代に編纂された史書『華陽國志』(巴蜀の地方史)に記された史実を元にした伝奇フィクションです。
摂政ナナム・マシャン・ドムパ・キェの失脚
りゅ・りくらむ
歴史・時代
8世紀中頃のボェの国(現チベット)。古い神々を信じる伝統派と仏教を信じる改革派が相争う宮殿で、改革派に与する国王ティデ・ツクツェンが暗殺された。首謀者は伝統派の首領、宰相バル・ドンツァプ。偶然事件を目撃してしまったナナム・ニャムサンは幼馴染で従兄弟の太子ナツォクを逃がそうとするが、ドンツァプと並ぶ伝統派の実力者である伯父ナナム・マシャンに捕らえられ、ナツォクを奪われる。王宮に幽閉されたナツォクを助けるためニャムサンは、亡き父の親友ゲンラム・タクラ・ルコン、南方元帥グー・ティサン、東方元帥チム・ゲルシクと協力し、ナツォクの救出に奔走する。
民間伝承のような勧善懲悪ストーリではなく出来るだけ史実に沿うよう努力しています。参考文献は自分のWebサイトで公開中です。
東洲斎写楽の懊悩
橋本洋一
歴史・時代
時は寛政五年。長崎奉行に呼ばれ出島までやってきた江戸の版元、蔦屋重三郎は囚われの身の異国人、シャーロック・カーライルと出会う。奉行からシャーロックを江戸で世話をするように脅されて、渋々従う重三郎。その道中、シャーロックは非凡な絵の才能を明らかにしていく。そして江戸の手前、箱根の関所で詮議を受けることになった彼ら。シャーロックの名を訊ねられ、咄嗟に出たのは『写楽』という名だった――江戸を熱狂した写楽の絵。描かれた理由とは? そして金髪碧眼の写楽が江戸にやってきた目的とは?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる