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第二章
郭子儀 その2
しおりを挟む王延昌はわずか四刻ほどで戻ってきた。門前払いされたにしても早すぎる。
「どうした。京師になにか異変があったのか」
王延昌は青ざめた顔でうなずいた。
「主上が京師を捨てられたと。その噂に都のひとびとが恐慌をきたしています」
京師を捨てた?
怒りで目の前が、真っ赤に染まる。
また、安史の乱の過ちを繰り返すつもりか。
郭子儀は床几を蹴って立ちあがった。
郭子儀は陣を引き払い、京師へ向かった。開遠門から長安城に入ると、たちまち混乱した住民たちの群れに巻き込まれて前に進むことが出来なくなってしまった。
家財を積んだ荷車が列をなし、大通りを埋めている。その隙間に人間たちが詰まって押し合いへし合いしていた。そこから押し出されて掘へ落ちる者、ただただ呆然と坊墻に身を預けて座り込んでいる者、無理矢理馬を進めようとして引きずり降ろされる者もいる。群衆の発する怒号や泣き叫ぶ声は天まで届くのではないかと思うほどだった。
内乱によって荒れ果てていた京師に戻ってきたひとびとが、再び京師を捨てようとしている。その先頭に立っているのが帝だと思うと涙がこぼれそうになって、郭子儀は天を仰いだ。
「なんとか進める道を探しましょう」
王延昌の声に励まされ、郭子儀は南へ進路を変えた。
興化坊の脇を進んでいるとき、ふと視線を感じた郭子儀が振り仰ぐと、あたりでもっとも大きな屋敷の高楼から通りを眺めている年老いた男と目が合った。
「令公、この騒ぎは何事にございますか」
その男、現帝の祖父玄宗の従甥、広武王李承宏が通り名で呼びかけたので、郭子儀は立ち止まって答えた。
「帝が都をお出になったのです。このまま手を打たねば、二、三日で吐蕃が京師に到達するでしょう」
李承宏は薄ら笑いを浮かべた。
「ほう。それは大変なことにございますな。いや、お急ぎのところ足を留めてしまって申し訳ない」
郭子儀から目をそらした李承宏は慌てるようすもなく、そのまま通りを眺め続けていた。その悠長な姿に微かな違和感を覚えたが、かまっている暇はない。再び馬を歩ませた。だいぶ遠回りをして長安城の東に抜け、駆けた。
京師から十里ほど馬を走らせると、車駕が見えた。郭子儀が駆け寄ろうとすると、宦官程元振が立ち塞がる。
「なぜ将軍がこちらにいらっしゃるのだ。咸陽にて敵を防げという詔に背くおつもりか」
程元振のキンキンと響く高い声に、郭子儀の苛立ちは最高潮に達した。帝にも届くよう、声を張って返す。
「その詔があればこそ、われらはいのちをかけて京師をお守りする覚悟で陣を敷いておりました。それが、これはなんとしたことにござるか」
程元振は目をつり上げて怒鳴り返してきた。
「主上にむざむざと吐蕃の虜になれと申すか」
「そのようなことは申しておらぬ。援軍をいただければ、敵を防いでご覧にいれよう」
「こちらは主上をお守りするために一兵でも多く必要なのだ。そちらはおのれでなんとかされよ」
「貴殿では埒があかぬ。主上にお目通りを」
「一刻の猶予もないというこのときに、主上をお引き留めしておこころを煩わせるとはけしからぬ」
「以前から各地の節度使が吐蕃の危険を奏上し、増援を求めていたのに、貴殿が邪魔立てしたからこのようなことになったのだ。この期に及んでまだ、主上とわれらを隔てるのか」
「おのれらの不甲斐なさをわたしのせいにするのか。蕃夷を追い払うのが節度使の役目であろう。まさかかなわぬと見て、玉体を手土産に吐蕃に降りるおつもりではなかろうな」
「なにを申す!」
郭子儀は屈辱で顔が染まるのを感じた。程元振は追い打ちをかけるように言う。
「もとはと言えば、貴殿が出来ぬ約束を吐蕃と交わしたのが原因じゃ」
そうしろと言ったのは……。
言いかけて、郭子儀は言葉を呑み込んだ。
あのとき、郭子儀にそうしろと命じた李輔国はこの程元振の罠にはまり、謀反を企んでいたとして失脚、謀殺されていた。ここで李輔国を言い訳にすればますます反逆者呼ばわりされるだろう。
程元振は足下を見透かしたようなせせら笑いを浮かべながら言った。
「とにかく、反逆の意図はないと申すなら、四の五の言わず、とく戻って吐蕃を追い払いなされ。さすれば、すぐに主上は京師にお帰りになられる」
程元振はくるりと背を見せる。
帝が車駕から降りてくることはついになかった。
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