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第二章
郭子儀 その1
しおりを挟む「ふたてに分かれていた吐蕃軍は盩厔で合流したようです。総大将は馬重英。涇州を落とし、奉天でわれらと当たるのを避け、武功、盩厔と移動したのはこの将軍の率いる軍です」
咸陽に陣を敷く郭子儀は、ヒゲをかみながら報告を聞いていた。ここにいるのはたった二十騎の部下だけ。しかもほとんどは、普段中書省に勤める文官だった。
帝に報告が入ったとき、吐蕃はすでに邠州を落としていた。驚いた帝は郭子儀を副元帥に任命して咸陽を守るよう命じたが、たまたま京師に滞在していただけの郭子儀は、兵を連れていなかったのだ。
「もう一方の、大震関を破った将軍の名は?」
「……わかりません」
「わかりません?」
「旗が、吐蕃の文字にて読めません、とのことです」
「そんな言い訳があるか!」
郭子儀は苛立っていた。
吐蕃とは何十年も国境で争っている。主だった将軍の名と旗印は辺境の守備をしている者なら把握しているはずだ。
知らせる余裕もなく殺されたか、捕らえられたか、もしくは、敵を見る前に逃げ出したか。
逃げ出した可能性のほうが高い、と郭子儀は思った。
ひとりの将校が、おそるおそるといったように口を挟む。
「昨年末、武寧軍を破った東面節度使尚結息ではありませんか?」
「確かか?」
「……いえ。しかしそう考えるのが妥当かと」
郭子儀はため息をつく。
「なら、なぜ馬重英などという者が総大将になっている。正体がまったくわからん。吐蕃の将らしくない名ではないか」
「まことに吐蕃人らしくない名前ですなぁ。唐人でしょうか?」
「東面節度使を差し置いて、無名の唐人にこれだけの軍の総大将を任せるなどということがあるか」
「ならば、吐蕃人なんでしょうなぁ」
不毛な会話だ。しかし情報が少なく、ほかに話すこともないのだ。
蕃夷人。蕃夷国。
そうやって侮ってきた結果がこれだ。
前年の、会盟の場面が、頭をよぎった。
李輔国の指示に従って、毎年絹五万匹と地図を届けろという無茶な要求を素直にのんだ後、吐蕃の作法により三匹の獣が屠られた。
「これでお互いの口から出た誓いの言葉は、唐の帝とわが賛普の祖先の霊に、しかと届けられました」
論泣蔵と名乗った吐蕃の宰相は、皮を剥がれ、バラバラになった四肢とはらわたを血に浸らせている生贄を指し示し、吐蕃人にしては色白の顔に穏やかな笑みを浮かべながら少しなまりのある唐語で言った。
「この誓いに背いた国は、この生贄のように切り裂かれ、血を流すことになります。くれぐれも、我らを蕃夷と軽んじてお破りになられませぬよう、ご忠告申しあげます」
明らかに、あの男は唐が約定を果たせぬことを知ったうえで予言した。しかし郭子儀は、いつものとおり辺境を犯す口実とするぐらいだろうと甘く考えていたのだ。
馬重英という男は十万の兵を率いながら、たかが二十騎の郭子儀を避けた。少しでも兵と時間を損ねないよう心掛けているのだろう。その証拠に、途中の城や村が力ずくで略奪されたようすがない。確実に、京師を目指すことだけに集中している。
すでに吐蕃は、あのときから京師を狙っていたのか。
過去のことを悔いても仕方がない。郭子儀は話を変えた。
「盩厔で、いくさがあったらしいな」
「はい。渭北行営兵馬使の呂将軍が二千騎で夜襲を仕掛け、五千ほど討ち取ったそうです。が、その後、司竹園の渡しで敗走しました」
「骨のある男が残っていたのだな」
一兵でも無駄にすまいと慎重に進む敵に数千の痛手を与えた呂日将の功績は大きく評価されるべきだ。
郭子儀は瞑目する。
しかし、いまのままでは彼の働きが帝の耳に届くことはない。それどころか、若き将軍の台頭は宦官たちの疑心を招き、生えたばかりの芽はたちまち摘まれてしまうことだろう。
そんな世の中が正しいわけがない。
彼のような男が報われる世を作るためにも、郭子儀はここで死ぬわけにはいかなかった。
副将の中書舎人王延昌を呼ぶ。
「もう一度、京師に援軍の要請を。敵は明日にも便橋に達する。ここを破られたらあとはない、と奏上するのだ」
「はっ」
王延昌は即座に馬に飛び乗って去った。
相手は二十万だ。たった二十騎で戦うわけにはいかない。しかし、援軍が来ればいまからでも手の打ちようはある。とりあえず、二万。いや、一万でもいい。
床几に腰掛けたまま、郭子儀は王延昌の帰りを待った。
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