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第二章

進軍 その5

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 盩厔に到着したルコンは惨状に言葉を失った。
 敵は陣中深く入り込み、五千人近くの兵を殺していた。ゲルシクの出動がもう少し遅かったら本陣もかき回されていただろう。
「弁解のしようもない。ご忠告をいただきながら油断した儂の責任だ」
 肩を落としたゲルシクが謝罪する。敵の姿を見ることもできなかったトンツェンは、恥辱に目のなかまで赤くして、両の拳を握りしめていた。
「巧みに物見の目をすり抜けて攻撃の機を狙っていたのでしょう。地を知り尽くしているあちらが有利であっただけです」
 慰めだと思ったのか、ゲルシクはますますうなだれる。ルコンは膝を打って声を張った。
「過ぎたことは仕方がない。今度はこちらが、あちらを驚かせてやりましょう」
「いかがされるのだ」
「敵はおそらく渭水の対岸で待ち伏せしているでしょう。シャン・トンツェンとシャン・ツェンワは先鋒を率い、高暉どのの案内に従って渭水を渡ってください。渡ったらすぐに守りを固め後続の渡河を邪魔させぬこと。たとえ敵が退いても崩れるまでは手を出さず、じっと耐えてください」
「はい。承知いたしました」
 トンツェンと、ルコンの副将としてルコンの背後にいたツェンワが声をそろえる。
「必要なものはシャン・ゲルツェンが用意しているはずです。すぐに届けさせましょう」
 ゲルシクは怪訝な顔を見せた。
「シャン・ゲルツェンが?」
「われらの精鋭騎馬隊以上の速度を持つ唐の軽騎兵の足を止めるにはなにが必要か、考えて準備するよう宿題を出しておきました。精鋭騎馬隊は全員、わたしに預からせてください」
 ルコンは精鋭騎馬隊の元に行くと、リンチェを呼び出した。
「シャン・ゲルツェンへ使いに行ってくれ。渡河後の守りに必要な装備をありったけ届けるよう伝えるのだ」
「はい」
「おまえはそのままシャン・ゲルツェンのもとに留まれ。これから国に帰るまではゴーと行動をともにするように」
 リンチェはキッとルコンをにらんだ。
「なぜです? わたしも精鋭騎馬隊の一員です。一緒に戦います」
「ダメだ。わたしはおまえを立派な将にするとおまえの家族に約束したのだ。それまでは危険に晒すつもりはない」
「イヤです。わたしは大人に負けません。戦わせてください」
「主人の言うことが聞けない家来はいらない。命令に従わないなら主従の関係は終わりだ。すぐさま国に返す」
 リンチェは両の拳を固めてうつむいた。ポタポタと涙が土に落ちて吸われていく。
「どうする? わたしの命令に従うか、従わないか」
「承知いたしました」
 リンチェは顔を上げて充血した目をしっかりとルコンに向けた。
「ご命令どおり、ゴーさんと行動をともにします。殿、どうかご無事で」
「心配するな。陛下の御命令を果たすまでは死ぬつもりはない」
 ルコンはリンチェを抱き寄せ、震える背をなでた。

 ルコンはすぐに精鋭騎馬隊を率いて出発した。丸一日かけて大きく南に周り、司竹園の渡しの南方の雑木林に潜む。河原は水にえぐり取られた崖の下、一段低いところにある。見下ろせば、渡しのようすが手に取るようによく見えた。
 トンツェンとツェンワが率いる先陣が、馬防柵を前面に押し出しながら渡河を完了すると、どこからともなく現れた唐の軽騎兵が襲いかかって来た。ふたりの副将はルコンの言いつけを守り、馬防柵を盾にし、長槍を突き出しながらじっと耐えている。猛攻を繰り返す二千騎の他に伏兵や援軍の気配はない。
 翻る大将旗には『呂』と書かれていた。ゲルシクからは若い将だと聞いている。
 気の毒なことだ。
 二十万の大軍に二千騎で挑む敵将に同情して、ルコンは苦笑いを浮かべた。
 偵察に割くだけの兵力は持っていないだろう、というルコンの見込みは当たったようだ。まったくルコンの存在に気づくことなく、躍起になって目の前のトンツェンとツェンワの軍を挑発している。その動きから思惑が外れて焦っている敵将のこころのうちが手に取るように見えた。
 京師には間者を放っている。唐主とそれを取り巻く状況は熟知していた。
 外敵の侵攻に備える節度使や刺史が察知した異変の報告を、宦官たちは握り潰している。彼らにとっては辺境の出来事よりも、自分たちを脅かしかねない新興勢力の出現の方が重大な問題なのだ。外寇があっても、せいぜい国境を侵されるだけだろうと甘く見ていたに違いない。それが畿内まで侵入したことに、さぞ唐主は慌てているだろうが、軍が派遣される気配がないのだから、戦うよりも逃げ出すことを選んだのだろう。
 たまらないのは前線で戦う将軍たちだ。
 奉天の郭子儀も数十騎で十万を率いるルコンの前に立ち塞がった。罠かもしれないと疑って避けたが、本当にそれだけの部下しか集まらなかったのだろう。あのまま攻めれば、郭子儀の首が獲れたのではないか。
 ちらりとよぎった悔恨の念に、ルコンは首を振った。
 ツェンポは個人の功名など必要としてはいない。
 それにあちらにかまっていたら、ゲルシクの軍はあの呂という将軍にもっと手痛い損害を与えられていただろう。 
 ゲルシクは優秀な将軍だが、このような平地でのいくさに慣れていない。
『呂』の旗がいっそう大きく揺れ始めた。
 ルコンは兵士たちに、馬にかませている牧を外すよう命じる。
 深紅の「馬重英」の旗を掲げさせる。
 ルコンが号令をかけると、精鋭騎馬隊は雑木林を飛び出して崖を駆け下り、敵めがけて突進した。
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