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第一章

精鋭騎馬隊 その5

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「わたしは、自分がナナムの主にふさわしい者ではないと自覚しております。いつまで経ってもひとが怖い。他の尚論たちと親しむことも出来ず、それどころか、家来や親族さえも恐ろしくてまともな言葉を交わすことが出来ないのです。ただ、このケサンのような田舎から従ってくれている家来と、陛下以外には……」
「陛下とは、お話出来るのか」
「はい。陛下はわたしのような者に、政治のことを相談できる友となって欲しいとおっしゃって、いろいろ教えてくださいます。本当は逆でなくてはいけないのだと思うのですけれど」
 ラナンは赤面する。
 あの聡いツェンポが相談者として選んだラナンが、ナンシェルの言うような「うつけ者」であるはずはない。しかし、ラナン自身はまったく自覚していないようすだった。その原因は兄のスムジェより母親にあるようだ。ツェンポは、ここでの経験でラナンが自信をつけ、変わることを望んでいるに違いない。
 ルコンはじっとラナンの目を見つめた。
「ニャムサンは本心から家督などいらぬと思っておるのだ。わたしもあれにマシャンどのあとを継いで立派な宰相になって欲しいと手を尽くしたが、本人はどうしてもイヤだという。それは資質があるかないかという次元の問題じゃない。そのうえ、ニャムサンのことを毛嫌いしている一族は少なくなくてな、ラナンどのがいらっしゃらねば、ナナムの家は真っ二つに分かれていたかもしれぬ」
「だからといって、わたしのような者に、そんな重要なお役目が務まるのでしょうか。恥ずかしながら物心ついてから都にのぼるまで、わたしは住んでいた屋敷の敷地外にすら出たことがなかったのです。世の中の成り立ちも、他人との付き合い方も、まったくわかりません。それなのにある日突然兄上がやって来て、なにがなんだかわからないうちに輿に乗せられて……。屋敷から出るのはとても恐ろしかった。だけど、母も家来たちも喜んでいたから……」
 ラナンの両目からポロポロと涙があふれ出す。唇をかみしめ、静かに肩をふるわせて泣くラナンの隣で、ケサンが声を放って泣き始めた。
「すみません。わたしも殿のお気持ちをちっとも考えずに、都に行けるのが嬉しくてバカみたいにはしゃいでいました」
 ルコンは両手を伸ばして、泣いているふたりの肩に置いた。
「誰であっても、はじめからうまくいく者はいないよ。よほどの天才でなければ、失敗しながら徐々に覚えていくものなのだ。わたしだって尚論になりたての頃は、親族や家来から叱られてばかりいた。そうしてようやく家長らしき者になれたのだ」
 ラナンは濡れた目を見張った。
「ルコンどのも?」
「生まれたときから嗣子として育てられてきたわたしでさえそうだよ。だからラナンどのがうまく出来ないのはあたりまえだし、なにも恥じることはない。むしろこの半年、逃げ出さずに頑張ったことを誇りに思っていい。しかし、いつまでもそれではいけないな。まずは胸を張り、顔をあげなされ。誰かと目が合うのを恐れる必要はない。そのときは微笑んで小さく会釈をすればいい。自然と目を逸らすことができるし、相手に好感を与えることが出来る。受け答えはハッキリと、『はい、いいえ』だけでもいいから相手に聞こえるように答えること。はじめのうちは、それさえなかなか出来ないだろうが、いちいち落ち込む必要はない。意識していけば次第にうまく出来るようになってくる。小さな成功を積み重ねてゆけば自然と自信もついて来て、自分から声を発することも出来るようになるだろう」
「本当に出来るのでしょうか」
 ルコンは微笑む。
「いま、ラナンどのはほぼ初対面のわたしとちゃんとお話しされているではないか。きっと他の尚論とも出来るようになるよ」
 ラナンは驚いたように目をぱちくりさせた。ルコンが声を立てて笑うと、ケサンも泣き笑いで言った。
「生まれたときから一緒にいるわたしも、殿がこんなにおしゃべりをしているのをはじめて見ました」
 ラナンは顔を赤らめてうつむく。
 ひとしきり笑った後、ルコンは威儀を正した。
「さて、兵站を預かる将軍であるラナンどのにお願いがある」
 ラナンは引き締まった表情で顔を上げて、まっすぐにルコンを見つめた。
「はい。なんでしょうか」
「今度の戦では、この隊以上に機動力のある唐の軽騎兵を相手にすることになるだろう。彼らを止めるには、どうしたらいいか、考えていただきたい」
 ラナンは空に視線を走らせた。
「馬の脚を止める……。落とし穴などはどうでしょう」
「それを生かせるだけの地の利や時間がない場合もある」
「馬が乗り越えられないような柵を用意しておくとか……」
 ルコンはうなずいた。
「それを出陣までに考えて用意しておいてください。そのためにも、馬を知ることが必要だ。馬の力の強さ、跳躍力は想像だけではわからないだろう。ここにいる間、よく見ておくことだ。そして他人の意見もいっぱい聞くことだ。しかし決定を他人にゆだねてはいけない。さっき言ったように、自分の頭で考えて決めるのです」
「わかりました」
 ラナンは力強くうなずいた。

 昨夜言ったことは無駄ではなかったようだ。早朝からラナンはケサンと兵士たちとともに馬を馳せていた。ラナンの乗馬の才はケサンをはるかに上回っていた。まだ半日しか経っていないのに、もうリンチェと対等に馬を競わせることが出来るようになっている。
 ルコンは昨日と同じように、小高い丘の上で調練を見守っている。隣にはゴーがいた。言葉を交わすのは帰京以来だ。
「ニャムサンのところに行ったと聞いたが」
 ゴーが微かに笑う気配がした。
「おまえのような物騒な家来はいらないと、ラナンさまへの紹介状を持たされて追い出されました」
「あやつらしいな。ラナンどののことはどう思う」
「まだ、親しくお言葉をいただいたことはございません」
「そうか」
「でも……」
 ゴーは明らかな笑みを浮かべる。
「もしかしたらマシャンさまに似ていらっしゃるかもしれません」
 ルコンはラナンに目を移した。はじめは敬遠しているようすだった兵士たちが、いまは争うように熱心にラナンを指導していた。ラナンは素直にうなずきながら馬を操っている。
「ひとに対する恐怖心を克服されれば、見違えるようにお変わりになるでしょう。わたしはニャムサンさまに家長を無理強いするよりもよかったと思っております」
「誰よりもマシャンどのを知っているおまえが言うのなら間違いないだろう。それにしてもニャムサンには困ったものだ。家長でなくても、もう少し尚論らしい振舞いをして欲しいものだが」
 ルコンはため息をつく。
 そういえば、ゲルシクは勝手に警備の兵士をつけると言っていたが、どうしただろう。
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