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第一章

精鋭騎馬隊 その3

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 緑に香る風が、ラナンの瓜実顔を撫でていた。熱心に見つめる視線の先では、一千の先鋭騎馬隊が縦横無尽に走り回っている。時々見せる無邪気な若々しい笑みに、ルコンは目を細めた。
 ラナンの滞在している間、ゲルシクには自軍に戻ってもらった。ラナンがゲルシクにおびえているのなら、ゲルシクさえいなければ話をすることが出来るのではないかと思ったのだ。
 ルコンは、到着したラナンをすぐに調練が一望出来る丘に連れて行った。おずおずと後をついてきたラナンは、走り回る騎馬隊を見た途端、息をのんで目を輝かせた。その脇で、ラナンの従者ケサンは素直に感嘆の声をあげた。
「すごいなぁ。こんなに沢山の騎馬兵を見たのは生まれてはじめてです。ねえ、殿」
 ラナンは小さくうなずく。
「よければ兵に乗馬を教えてもらうといい」
「ホントですか! では遠慮なく」
 ケサンは早速丘を駆け下り、リンチェとともに馬を走らせ始めた。それを眺めているうちに、ラナンの表情は次第に柔らぎ、笑顔を見せるようになった。
 ケサンはリンチェに競馬を挑んでは負けて、悔しげに地団駄を踏んでいる。それを見たラナンは、とうとう声をあげて笑い出した。ナナムの家来たちは戸惑いの表情を浮かべた顔を見合わせている。そのなかで、誰とも慣れ合うことなく超然とたたずんでいる無表情のゴーを、ルコンは視界の隅に認めた。
「ラナンどのも走ってみてはいかがかな」
 ルコンが声をかけると、ラナンは驚いたように目を見張り、耳を真っ赤に染めて首を振った。ルコンは微笑んだ。
「気が変わったら遠慮なくおっしゃってください」
「ありがとうございます」と小さくつぶやいて、ラナンはまたケサンに目を移す。そのまなざしの奥には羨望が見て取れた。兄ティ・スムジェに禁止されているのかもしれない。そのスムジェはツェンポからの許しを得られず帯同することが出来なかったという。

 陽が落ちて夕食の準備が始まると、ルコンはラナンを連れて兵士たちのなかへ入って行った。ケサンが、羊を解体するリンチェの作業を見物している。ルコンはラナンの背を押した。
「都ではなかなか見られない光景だろう。ケサンと一緒に見ておいで」
 ラナンはうなずいて、ケサンに近づく。気配に気づいたケサンとリンチェが顔を上げると、ラナンは足を止めて身体を固くした。ケサンは屈託のないようすでラナンに話しかけた。
「殿、リンチェは羊をさばくのがとてもうまいんですよ。血を一滴も地にこぼさないんです。すごいですねぇ」
 リンチェが作業の手を止めることなく微笑みながら目礼すると、ラナンの肩の力が抜けるのが、ルコンにもハッキリとわかった。ゲルシクどころか、あんな子どもにも怯えていたのだ。
 やがて、ラナンは恐る恐るといったようすでリンチェに話しかけた。
「本当にお上手ですね。兵士になってから覚えたのですか?」
 それはルコンがはじめて聞く、明瞭なラナンの声だった。リンチェは内臓を取り分けながら答えた。
「いいえ、父や兄たちがやっているのを見て、自然と覚えました」
「リンチェは遊牧の民の子なんですって。ルコンさまが北原にいらっしゃったときに、家族の反対を押し切ってご家来になったんです」
 どうやらケサンは昼の間にリンチェの生い立ちをすっかり訊いてしまったようだ。ラナンは首をかしげる。
「どうして?」
 羊を捌き終わったリンチェは立ちあがって答えた。
「字と都の言葉を教えていただきたかったからです。でも家族は放牧に適した土地に移動しなくてはいけません。字を覚えるには時間がなかったので、家族と離れて家来にしていただきました」
「ご両親が反対したのに?」
「はい。母などは泣いて怒りましたが、それでもわたしは勉強がしたかったのです。いまでは家族みんなもわたしが兵士になったことを喜んでいます」
 ラナンはいつものようにうつむいて地面を見つめた。だが、その表情はなにかを一心に考えているかのように真剣で、これまでのような怯えは見えなかった。
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