長安陥落~ ཀེང་ཤྀ་ཕབ།

りゅ・りくらむ

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第一章

シャン・ゲルツェン その1

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 すぐに顔を見せると思っていたゲルニェン・ニャムサンが屋敷にやって来たのは、ルコンが都に帰還してから五日後の夜。
 ルコンは執務室でリンチェに歴史を教えていた。
「天竺にでも行っていたのか?」
 ルコンが言うと、ニャムサンは口をとがらせた。
「いい年して拗ねるなよ。これでも仕事が終わってからすぐ来てやったんだぜ」
 リンチェは瞳を輝かせて礼をした。
「お久しぶりです、ニャムサンさま」
「へえ、あのときの遊牧の民の子か。ずいぶんと立派になったじゃないか。言葉もだいぶ話せるようになったかい?」
「はい、ニャムサンさまがお口添えくださったおかげです」
「ははは、いっぱしの口を聞くようになったな」
 ルコンは鼻を鳴らす。
「リンチェ、この無礼者は都で生まれ育ったくせに、聞いての通り、言葉遣いを知らぬのだ。おまえが正しい言葉を教えてやれ」
「ちぇ。いやみばかり言うなら帰るぜ」
 眉を下げるニャムサンの顔を見て、ルコンの機嫌は直っていた。
「新しい役職をいただいたと聞いたよ。それで都を離れていたのか?」
「そう。シャーンタラクシタさまが、ツァンポ川のほとりにいままでにない大きな寺を建立するんだ。で、オレとサンシとレン・セーナンがその手伝いをしているわけ」
 王の密命を受け、マシャンに気づかれぬよう天竺に渡った地方貴族のバ・セーナンが、ナーランダ寺院の高僧シャーンタラクシタを招聘した。そのことを、ルコンはマシャンの失脚後にニャムサンから聞いて知っていた。
「ゲルシクどのが愚痴をこぼしていたぞ。まだおまえを将軍にすることを諦めていないらしい」
「おっさんのしつこさには辟易するよ。いくら言ってもわかってくれないんだ」
「おまえがかわいいから心配しているのではないか」
「それはわかってるけどさ、オレの仕事だってナツォクの役に立ってるんだぜ。もっとオレを信用してくれてもいいじゃないか」
 ニャムサンは未だにツェンポのことをナツォクという幼名で呼ぶ。ツェンポもそういうニャムサンの子どもの頃から変わらぬ態度を好んでいるのだろう。咎めることはなかった。
「まあ、時代が変われば仕事も変わる。尚論もいままでとは違った奉公の仕方が出てきて当然だろう。おまえの働き次第でそれが認められるようになるのだ。せいぜい頑張るのだな」
「言われなくても頑張ってるよ」
 誇らしげに言うニャムサンに、ルコンは目を細めた。
 礼儀をわきまえぬところは変わらないが、すっかり一人前の尚論として働いている。形にとらわれないニャムサンのような若者こそ、新しい時代には必要になるのだろう。

 ナナム家に家督争いが起こったのは、ルコンとマシャン兄弟が二十歳のとき。兄弟の父であったナナムの家長が亡くなったことがきっかけだった。
 ナナム本家の長子であるマシャンが家を継ぐと誰もが思っていたのだが、マシャンの異母弟ツェテンの母方の一族と家来たちが、マシャンの家督相続に異を唱えたのだ。兄マシャンを心から慕っていたツェテンはそれを苦にして、生まれたばかりのニャムサンを残し自害した。マシャンはツェテンの家来をナナム家から追放したが、マシャンに子がないことを憂いたナナムの一族はニャムサンを残すようマシャンに迫り、マシャンは渋々了承した。
 しかしマシャンはニャムサンの養育にまったく興味を示さなかった。マシャンの顔色を窺う一族や家来も、自然とニャムサンの存在を無視するようになる。こうしてニャムサンは、貴族の子息にも関わらず、満足な教育を受けずに育った。
 事件が起こった当時、ルコンはツェンポの命令で唐に遊学していた。帰国したのは、ツェテンが死んだ四年後。ニャムサンはすでに五つだったが、無学な乳母以外に彼の面倒を見る者はおらず、まるで野生児のようだった。帰国後すぐにゲルシクの副将に任じられ、戦場に身を置くこととなったルコンは、親友の忘れ形見の行く末を案じながら、どうすることも出来なかった。
 先のツェンポ、ティデ・ツクツェンの王妃となっていたマシャンの姉の生んだ王子が太子となり、将来の出世を約束されたマシャンがルコンを都に呼び戻し、腹心としたのはその十年後。ニャムサンは十五になっていた。それからルコンは暇を見てはニャムサンを自邸に招き、尚論となる教育を施こそうとした。が、時すでに遅し。ニャムサンはそんなルコンに反抗するだけで、まったく軍事にも政治にも興味を示してくれなかった。
 それは尚論となったいまでも変わらない。

「ナナムの家長であればそうはいかぬが、幸運なことにラナンどのがおられる。おまえは好きにすればいい」
 ニャムサンは満面の笑みを浮かべた。
「やっぱり小父さんは理解が早いな。ラナンに会ったかい?」
「陛下の御前でお見かけした」
「いいヤツだろ? 他の叔父さんとは大違いだ」
「いいかわるいかなんてわからなかったよ。ずっとうつむいていて顔が見えなかったし、声も聞けなかった。あれではどこかですれ違っても気づかぬだろう」
「いままで家族や家来以外のひとにあったことがなかったから人見知りしてるんだ。そのうちわかるよ。小父さん、いろいろ教えてやってくれよ。オレと違って素直なヤツだから、手はかからないよ」
 ニャムサンがナナム家の人間に好意を抱くのは珍しい。やはりルコンのいのちを狙うような男ではないのだろう。
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