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第一章
帰還 その4
しおりを挟む翌日の午後、ゲルシクの愛弟子ド・ツェンワがやって来た。自分がこの屋敷に挨拶に来た一番手だと知ると、いつものニヤケ顔が、珍しく憤然とした表情に変わった。
「まったく、みな薄情なものですね。ルコンどののお世話になった尚論は山のようにいるはずではありませんか」
「まだわたしは罪人です。尚論たちが敬遠するのも当然でしょう」
「トンツェンもいれば一緒に来たのですけど、年明けにゲルシクどのの代理として国境に行ってしまったんです」
チム・トンツェンはツェンワと同い年の将軍で、ふたりはいくさとなればしのぎを削る競争相手だが、平時は仲がよかった。
「そういえば、伝統派の尚論たちが、ルコンどののご帰還に反対したのです。サッパリ意味がわかりませんよ」
「大相が反対されたのですか?」
「いえ、大相はいつものとおり、ご自分からなにかおっしゃったりしませんがね」
ツェンワの口元に小馬鹿にしたような笑みが浮かぶ。小心者の大相は、特に武に勝る尚論にウケが悪かった。
「閣議でルコンどのの復帰をティサンどのが提案したとたん、レン・トクジェなどの大相の腰巾着どもが異議をとなえたんです。ちょっとビックリしました」
ティサンは、ツェンポと事前に打ち合わせをしていたという。改革派の首魁であるティサンが赦免を言上すれば、改革派から反対の声が出ることはないだろうという読みだった。しかしルコンの属する伝統派から異議が出たので雲行きが怪しくなってしまった。
「結局、ゲルシクどのが一喝して黙らせちゃいましたけど。あれは大相の意向を酌んで反対したんじゃないかなぁ」
「大相にとってわたしは邪魔者、か」
ツェンワは忍び笑いをする。
「あれでも野心があるんですかねぇ。でもルコンどのがいらっしゃらなくても、ゲルシクどのににらまれたら、小さくなって震えちゃうんですよ。あれじゃいたっていなくたって一緒です」
ゲルシクはマシャンに擁立されたナンシェルのことが当然嫌いだった。
そのナンシェルがルコンを訪ねてきたのは、ツェンワが屋敷を出た直後だった。
客間に入った大相は、怯える小動物のように身体を縮めて落ち着きのない目つきで部屋中をキョロキョロと見回した。
「大相御自らのお運び、誠に恐縮にございます」
ルコンが形式的に礼をすると、よほど気に掛かっていたのか、ナンシェルは礼もそこそこに話しかけた。
「いま、どなたかいらっしゃったようですが」
「シャン・ツェンワです」
ナンシェルは小さな目をしばたたいて、ますます不安気な表情となった。
「ああ、やはり。なにかわたしの悪口を言ったでしょう」
「はて、悪口とは?」
「ルコンどの、シャン・ツェンワは改革派ですぞ。決して油断はなりません。彼の言うことをお信じ召されるな」
「なにか言われるようなお心当たりでもおありか」
ルコンはだんだんイライラして来た。
元来、彼のひとの顔色ばかりをうかがう仕草が癪に触ってならなかった。マシャンの傀儡とはいえ、筆頭尚論なのだ。もう少し悠然としていられないものか。
「わたしがルコンどののご帰還に反対したなどと吹き込んだでしょう。改革派どもは、そうやってわたしとルコンどのの仲を引き裂こうとたくらんでおるのです」
屋敷を見張らせていた間者からツェンワの訪問を知らされて駆け付けたのかもしれぬ。小心者の大相らしいやり口だ。
「レン・トクジェがわたしの帰還に反対されたと聞きましたが、まことのことなのでしょう。わたしもそれほどこころの広い人間ではありませんから、わたしに反感を持っている方々とお付き合いはいたしかねます」
隠すことなくツェンワの言ったことを突き付けると、ナンシェルの目がみるみる赤くなりいまにも涙がこぼれ落ちそうに潤んだ。
「誤解、誤解にございます。もともと、わたしからルコンどののご帰還を陛下に言上するつもりだったのです。それなのに、レン・ティサンに先を越されてしまった。それに反発したトクジェどのが、ついルコンどののご帰還に反対していると取られかねない言葉を吐いてしまったのです」
ナンシェルが縋り付かんとするように身を寄せて来たので、ルコンは飛び退って距離を置いた。
「それならそれで、結構です。もう忘れましょう」
「おお、お許しくださるのですか。ありがとうございます。ルコンどの、ありがとう……」
拝跪しそうな勢いで頭を下げる大相に、ルコンはますますこころが冷えた。
「わたしはまだ正式にお許しをいただいていない庶民にございます。大相ともあろうお方がそのようなこと、おやめくだされ」
「なにをおっしゃる。わたしがいまあるのは、シャン・マシャンとルコンどののおかげ。そのご恩を決して忘れはいたしません。それなのに、改革派どもは……」
ナンシェルの瞳の奧に、怪しい光が灯った。
「シャン・マシャンがお作りになった破仏の法(ティム・ブチュン)を廃したうえに、天竺から邪教の師を呼び寄せ、よりによって聖地に邪教の寺を建てようと企んでおるのです」
「ああ、そのようなことをゲルシクどのがおっしゃっていました」
ゲルシクの名を聞くと、ナンシェルの憎しみの炎はいっそう焚きつけられたようだ。声に熱がこもり、早口になった。
「あのふたりが、ティサンどのとゲルシクどのが、陛下を誑かしているのです。陛下はわたしをないがしろにされて、あのふたりの言うことしかお聞きにならない。わたしは大相なのに!」
ツェンワの言ったとおり、こんな懦夫にも人並の野心はあるようだ。だが、そんなに自分の意見を聞いて欲しかったら、誰ににらまれても臆せず主張すればいいではないか。ナンシェルが軽んじられるのはティサンやゲルシクのせいではなく、ナンシェル自身のふがいなさのせいだ。
甘ったれるな。
吐き捨てたくなるのをこらえ、ルコンは黙ってナンシェルの言いたいように言わせていた。ナンシェルはまたすがるような目になる。
「ですから、あやつらに対抗するためにも、ルコンどののお力を誰よりも必要としているのはわたしなのです。ルコンどののご帰還に反対するなど、絶対にあり得ません」
黙ったままうなずくと、ナンシェルは上目遣いに媚びるような笑みを浮かべた。が、その目のなかに、ほんの一瞬、ゲルシクに向けたのと同じ怪しい光がよぎるのを、ルコンは見逃さなかった。
「ご納得くだされましたか。どうかこれからもわたしの力になってくだされ。本当に、よくご無事でお帰りになられた」
ナンシェルがルコンの右手をじっとりと湿った両手で取り、押し頂くよう頭を下げる。
背筋に悪寒が走り、ルコンはブルンと身震いした。
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