上 下
11 / 49
第一章

帰還 その3

しおりを挟む

 ルコンとゲルシクは連れだって、マルポ山の坂を騎馬で下った。
「あまりマシャンどのには似ておられませんな」
 ゲルシクがマシャンに似ていると言うから、冷たい美貌の貴公子を想像していた。しかしチラリと垣間見た彼は凡庸で気弱そうな若者だった。
「顔はニャムサンどののほうが似ているが、あの態度だ」
「態度も似ておらぬようですが」
 マシャンはいつでも昂然と頭をあげ、その威風は周囲の者を圧倒した。
 ゲルシクはますます凶暴な表情となる。
「ふん。いつも誰とも目を合わさず、ああして表情が見えぬよううつむいておるのだ。腹のなかでなにを考えているかわからない所など、そっくりではないか」
 ラナンが顔をあげないのは、腹のうちを隠すためというより、単にひどく怯えているからのように見える。その原因はゲルシクなのではないか。ゲルシクはいかにも猛将といった恐ろしい容貌をしている。その顔でにらまれたら、並の胆の持ち主は震えあがってしまう。これまで世間を知らなかったラナンなどはひとたまりもないだろう。
 ゲルシクは悪い男ではないが、思い込みが激しい。その感情が素直に態度に出てしまうため、多くの敵を作っていた。マシャンに対する嫌悪もマシャンの方が無視していたからよかったものの、まともに対立していたら国を二分する政変になっていたかもしれない。そうなる前に、ルコンはマシャンに進言して、ゲルシクを都から遠ざけた。ゲルシクはルコンの立場に理解を示して恨むことはなかったが、ルコンの方は友を裏切った後ろめたさが、くさびのようにいまもこころのなかに突き刺さっている。
 ツェンポの叔父であり、大相と同等の地位であるシャン筆頭尚論のラナンは、いずれ政界で重要な地位を占める。
 またふたりを引き離す法を講じる事態にならなければいいが。
 ため息を押し殺して、ルコンは話を変えた。
「ところで、ニャムサンとサンシの姿が見えませんでしたが、どうしたのでしょう」
「おう、そのことです」
 ゲルシクはますます腹に据えかねるという顔をして鼻息を乱した。話しを変える方向を間違えてしまったようだ。
「いつものことだが、ニャムサンどのは儂の言うことなど聞いてくれぬ。ルコンどのが説得してくだされ」
「なにがあったのですか」
「それが、ふたりそろって軍事も政治もしたくないなどと申して、陛下から新しい役職をいただいたのです」
「新しい役職?」
「陛下が天竺から和尚ハシャンを招いているのはご存じであろう。その和尚の指揮で新しい仏教寺院を建てるのだが、その手助けをする職を新設したのだ」
「お役目を放り出したわけではないのですな。尚論として仕事をしているのならば、それでよいではありませんか」
「よくない!」
 尚論の屋敷の立ち並ぶ閑静な住宅街に、ゲルシクの太い声がこだまする。
「唐の地方官僚の子のサンシどのはともかく、ニャムサンどのは由緒正しいナナム家の子息でらっしゃるのですぞ。儂は、ニャムサンどのには立派な将軍になっていただきたいのだ。マシャンがいなくなった途端にしゃしゃり出てニャムサンどのの地位を掠め取ったシャン・ゲルツェンなどに、断じて負けて欲しくない」
 また話がラナンのことに戻りそうになったが、ちょうどルコンの屋敷の前だった。ルコンが謝意を告げると、ゲルシクは笑顔を取り戻した。
「お疲れにござろう。しばらくはゆっくりされよ。ニャムサンどのが顔を見せたら、くれぐれも言い聞かせてくだされ」
 ふたりは門前で分かれた。
 帰りを待ちわびていた妻と子どもたちの顔を見たとたん、図らずも身体の力が抜けるのを感じた。自覚はなかったが、体内には緊張の糸が張りつめていたようだ。
 喜びの涙にくれる妻を労わりながらひとしきり、互いに離れ離れであった間に起こったことなどを語り合った後、ルコンはリンチェのことを思い出した。厩をのぞいてみるとリンチェはひとり馬を撫でていた。
「ゴーはどうした」
「ニャムサンさまのところへ行くそうです」
 リンチェは悲し気な表情を見せる。
「おまえも疲れただろう。ゆっくりやすめ。ここにはおまえと歳の変わらぬ子どもも沢山いる。寂しいことはない」
 リンチェを連れ、ルコンは屋敷に入った。
しおりを挟む

処理中です...