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第一章
帰還 その2
しおりを挟む通されたのはツェンポの私室だった。
この部屋にはツェンポが特に親しくしている者しか入ることが出来ない。ルコンが追放される前にこの部屋に出入りを許されていたのは、ツェンポの政治的腹心であったティサンとゲルシク、そして太子時代からの学友であるニャムサンとバ・ティシェル・サンシの四人だけ。ルコンはまさか自分がこの部屋に通されることになるとは思いもしなかった。
「顔をあげてください」
ツェンポに声をかけられて、拝跪していたルコンは顔をそっとあげた。ツェンポの幼馴染であるニャムサンとサンシの姿はない。その代わり、ツェンポの隣には見知らぬ青年がいた。深くうつむいた顔は髪飾りに隠れてまったく見えない。
「よく無事に戻られました」
叔父マシャンの手から政権を奪取した二十一歳のツェンポ、ティソン・デツェンは自信に満ちた表情で椅子にかけたままルコンを見下ろした。ルコンは再び深く頭を下げる。
「もしものときにはすぐに駆けつけるよう、ナナムに言いつけていたのだが、その必要はなかったようですね」
「お心遣い、ありがとうございます。ナナムのお送りくださった燃料と食料で、大過なく過ごすことが出来ました。しかし……」
「なにか不便な点がありましたか」
「とんでもございません。逆にございます」
「逆?」
「何不自由ない生活で罪の償いになるのかと思うと、申し訳なく存じました」
ツェンポの声が固くなる。
「わたしの本心は、ニャムサンが伝えたはずですが」
「しかし、罪があることは確かにございます」
「わたしがないと言っている」
「畏れながら、たとえ陛下にあせられても、いえ、陛下にあらせられればこそ、私心で罪の有無や軽重を決定されては国が乱れます」
「ルコンどの! 控えられよ」
ゲルシクが小声でいさめる。ルコンはかまわず顔をあげ、ツェンポを見上げた。もともと戻るつもりはなかったのだ。これで咎められてもかまわない。
が、眉をひそめ、不満そうな表情を見せていたツェンポは、ルコンと目が合うと破顔した。
「忠言、こころに留めておきます。やはりあなたはわたしに必要なひとだ」
席を立ったツェンポはルコンに歩み寄るとうずくまり、床についていたルコンの手を取った。戸惑うルコンをまっすぐに見つめてツェンポは言った。
「あなたの疑いはもっともだ。しかし、誠にわたしはあなたを信じ、必要としているのです。だからどうか、あなたもわたしのことを信じて欲しい。どうしても信じられぬというなら、わたしではなく国のために、その力を貸してください」
ルコンは雷に打たれたような衝撃を感じて、思わす再び拝跪した。これまであった疑心は一瞬にして消え去っていた。
「恐れ多くも、陛下に対して無礼の言動、お許しくださりませ。陛下のおこころに疑いを抱くなど、大逆に等しい罪にございます。それをお許しいただけますなら、非才の身にはございますが、改めて、今後も陛下の御為に身命を賭してお仕えさせていただきます」
「この部屋ではそのような大げさな礼は必要ありません。ここにいるシャン・ゲルシク、レン・ティサン、シャン・ゲルツェン同様、この部屋に出入りすることを許します。これからも忌憚のない意見を聞かせて欲しい」
ツェンポに促されるまま、ルコンは立ちあがった。見知らぬ青年はやはりゲルツェン・ラナンなのだ。チラリとラナンに目をやると、上目遣いにこちらをうかがう視線と合った。それも一瞬で、ラナンはすぐにまた顔を伏せてしまった。ツェンポが言う。
「ニャムサンのことだ、あなたには報告していないのでしょう。実はナナムの家長はニャムサンの申し出によってこのシャン・ゲルツェンが継ぐこととなりました。これからはニャムサン同様、親しくされよ。詳しいことはニャムサン本人から聞くといい」
顔を伏せたまま、ラナンはさらに深く頭を沈める。ルコンも無言で一礼して、ツェンポに承諾の意を伝えた。
謁見が終わると、わざとラナンに聞かせようというのか、ゲルシクが大声で言った。
「またお命を狙う不届き者がおるとも限らぬ。おうちまでお送りいいたしましょう」
ラナンは顔を伏せたまま身じろぎもしなかったから、それが彼に対する当てこすりであることを理解していたかどうかはわからなかった。
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