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第一章

暗殺未遂 その2

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「誰が……」
 こころ当たりがありすぎる。
 まずは改革派。ルコンはこの国固有の宗教を奉じる伝統派の有力者だった。その復帰は外来の仏教を奉ずる改革派には面白くないに決まっている。
 チラリとゲルシクをうかがう。
 ゲルシクも改革派のひとりだが、暗殺などという陰湿な方法を嫌う男だ。ニャムサンも除外していいだろう。もっとも疑わしいのは副相のグー・ティサン・ヤプラクだった。戦場では勇猛果敢な将軍でありながら、宮廷では腰が低く、常に穏やかな笑みを浮かべて誰にも逆らうようなそぶりを見せない、腹の読めない男。
 しかし伝統派だからといって、疑いがないとは断言できなかった。マシャンとともに権勢を振るっていたルコンのことを疎ましく思っていた者もいるはずだ。
 特に、バー・ナンシェル・ズツェン。ひとの顔色ばかりうかがっている小心者。マシャンは彼を尚論の最高位である大相に就けて傀儡とした。マシャンの軛から解き放たれ、名実ともに最高権力者となったナンシェルが、ルコンの復帰を手放しで喜んでいるとは思えない。
 だが、厳しい顔をしたゲルシクは、ルコンが予想していなかった名を口にする。
「シャン・ゲルツェンかもしれませんぞ。ナナムの領地はこの近くですしな」
「ですから先ほどからおっしゃっている、そのシャン・ゲルツェンとは何者なのですか。なぜその男がわたしを狙うのです」
「先の家長であるマシャンと親しいルコンどのが、マシャンが後継者と定めていたのはニャムサンどのだと証言すると困るからだ」
 ゲルシクはため息をついた。
「ニャムサンどのは、ナナムの家督を放棄された」
「は?」
「シャン・ゲルツェンが都に帰ってきたせいです」
 ルコンはようやくシャン・ゲルツェンと思しき男の存在を思い出した。

 マシャンの兄弟は数多くいたが、正式な妻の生んだ男子は三人だけだった。長男はマシャン、次男はニャムサンの父ツェテン。そして、ニャムサンの生まれる一年前に生まれた末弟。彼は家督争いに巻き込まれることを恐れた母親の実家に連れ去られ、それきり都に出てきてはいない。
 子のないマシャンがいなくなったいま、ナナムの家督を継ぐ権利を持つのはツェテンの息子のニャムサンと、この末弟のふたりだけなのだ。
「マシャンどのの弟か」
 ゲルシクはうなずく。
「さよう。ニャムサンどのを後継者に指名したマシャンの遺言が公表された途端、シャン・ティ・スムジェがその遺言を偽りであると主張して、田舎に引きこもっていたシャン・ゲルツェンを引っ張り出したのだ」
 ティ・スムジェはマシャンの次弟でありながら、母の身分が低いために家督を継ぐ資格は持っていなかった。が、ナナム一族では大きな発言権を持っている男だ。謹厳実直なナナムの家風を重んじる彼と奔放なニャムサンとはウマが合わなかったから、その行動もうなずける。
 マシャンは失踪の直前に、ルコンとティサンの前でニャムサンを後継者に指名することを宣言し、ルコンにその実現に尽力するよう依頼していた。マシャンはこのような事態になることを予想していたのだろう。
「それなら勅使をお送りいただければ、マシャンどののご遺言が本当であるという証言が出来たのに」
「だから、近頃の若者の考えていることはわからんのだ。ニャムサンどのは、シャン・ゲルツェンが都に向かっていると聞くと、早々に自ら家督の放棄を陛下に申し出た。儂がシャン・スムジェとシャン・ゲルツェンを追い返してやろうと言うと、内乱を起こす気かなどと怒り出す始末だ。ルコンどののもとに送っている家来たちにも口止めしておったのだろう。まったく、サッパリわからん」
「なるほど。それはニャムサンらしい」
 もともと、ニャムサンは尚論にすらなりたくないと公言していた。『牛飼いになりたい』と本気で言っていた時期もあるのだ。それを思いとどまらせたのはルコンであり、ニャムサンを兄のように慕うツェンポだった。そんな彼が、宰相となるべきナナムの長など欲しいと思うわけがない。むしろゲルツェン・ラナンの登場は、ニャムサンにとって渡りに船だっただろう。
 思わず笑みを浮かべたルコンに、ゲルシクは駄々っ子のように言う。
「笑い事ではござらんぞ。そのシャン・ゲルツェンがまたマシャンによく似た、何を考えているかわからぬヤツなのだ。閣議では発言せず、顔を見せぬよう下ばかり向いておる。それが王家姻戚シャン筆頭尚論の地位におるのです」
「陛下はお許しになられたのでしょう」
「それもニャムサンどののせいだ。お人好しにも『シャン・ゲルツェンを冷遇したら本当に牛飼いになってやる』などと申したのだ。おかげで、いまでは図々しく陛下の私室にまで入り込んでいる」
「なんと。それはニャムサンの口添えに関係なく、シャン・ゲルツェンのことをお気に召したのでしょう。陛下がお嫌いな者を私室へ入れられることはない」
「儂は気に食わぬ!」
 身もだえするように叫ぶゲルシクに、ルコンは苦笑いを浮かべる。
 ゲルシクはひとの好き嫌いが激しい。
 特に嫌いなのは、感情を表に表さぬ人間だった。マシャンを嫌ったのも、マシャンが感情の読めない氷のような容貌の持ち主だからだ。そのマシャンに似ているとなれば、ゲルシクがラナンを嫌うのも無理はない。
 そのうえ、ゲルシクはニャムサンの妻の後見人だったから舅のようなものだ。ニャムサンからナナムの家督を奪ったように見えるラナンのことが気に入るはずがなかった。
 憤然とするゲルシクを横目に、ルコンはまだ見ぬラナンに同情していた。
 成人しても表に出ようとしなかったラナンに野心があるとは思えない。ティ・スムジェは、自分が影で操るつもりで世間知らずのラナンを都に連れてきたのだろう。
 意図せず中央政界のまっただ中に放り込まれたうえに一方的にゲルシクに嫌われるなど、とんでもない災難だ。

 襲撃犯を追っていたゲルシクの兵は手ぶらで帰ってきた。十人ほどの賊は山間をちりぢりに逃走し、ナナムの領地の方に消えていったという。
「やはりナナムの差し金か」
 ゲルシクは鼻息を荒くするが、そうとは限るまい。
 ルコンは再び、高位の尚論たちの顔を思い浮かべる。
 誰が自分のいのちを狙っているのか、疑念を抱きながら彼らと顔を合わせなくてはならないのか。
 チクリ、と胃が痛んだ。
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