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魔界編 1

2.ケルトの病

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 人界と魔界が隣り合わせのこの世界。

 気候が常に不安定で雨が少ないのは、太古の昔から変わりない。

 しかし人界ではこのところ、人々の生活に変化が起こりつつあった。
 工業大国であるレオスト公国と、魔導具生産世界一のルシンキ公国。この二国が婚姻による同盟を結んだことで、便利な魔道具の大量生産が可能となり、各国に安価で輸出されるようになったのだ。

 それに伴い、大なり小なりの改革を行う国も増えてきている。
 マシェリたちが暮らす、フランジア王国も例外ではない。

「今朝でちょうど100日目。試供品サンプルによる性能の確認も、さっき無事に終了してね。当初の予定通り、王都の街灯と王城内の照明器具すべてを、自動点灯式の魔石ランプと交換することになったんだ」
「じゃあ、その報告をしに陛下のところへ?」
「うん。それと一週間後、正式な契約のために赴くルシンキ公国と、賠償請求のついでに花嫁衣装を突っ返しに行く、魔界への渡航申請も兼ねてね」
「い、痛っ! 痛いです!」
「当然だよ、痛くしてるんだから」

 にっこり笑ったグレンが、マシェリの両頬をギリギリとつまむ。

「ふたりで話し合って決めたよね? 危険だから、魔界へは僕ひとりで行くって。なのに……ど、う、し、て。渡航申請を勝手に出したりしたのかなー? 君は」

 黒髪の美しい王子様が、今だけ、情け容赦のない悪魔に見えた。
 すでに日は高く、先ほどまでベルとマシェリを交互に叱っていたフローラも、侍従長の仕事をしに戻ってしまった。
 執務室には、マシェリとグレンのふたりきり。

(あのお邪魔虫も、今日に限って登場しないし。いつもは頼んでもないのに、黒い顔をちょいちょい出してくるくせに! まったく、気が利かないんだから!)

 脳内で理不尽な怒りをぶち撒けたとたん、グレンがパッと手を離す。
 手首を掴まれ、そのままソファに押し倒された。

「殿下……!」
「おしおき」

 唇に少し長めの制裁を受ける。頰や首すじにまでキスを落とされ、果ては耳たぶを甘噛み。──このところ、ケンカの後はいつもこの手法で攻めてくる。

(嫌、じゃない。でも……だんだん歯止めがきかなくなってきてる、ような)

 マシェリを押さえつける力も、以前よりずっと強い。

「だ、ダメ……です。それ以上は」
「……魔界についてくるつもりだったの? 陛下に色仕掛けまでして」
「! それは」
「絶対にしないと約束して。でないと、やめてあげないよ」

 ドレスの胸元を引き下ろされ、マシェリは慌てた。

「ごっ、ごめんなさい! 絶対にしません! だから……だから、もう許して」
「よろしい。ちょっと残念だけど、今回は許してあげる」

(残念って)

 名残惜しげにソファから起き上がり、軍服を整える王子様をじとりと睨む。ちっとも怒ってるように見えないのは気のせいだろうか。

「フローラには僕が言っておくから、お妃教育は昼食を済ませた後に行きなよ。ターシャが食堂で、ルシンキ公国の話をしてくれるそうだから」
「ターシャが? ……ああ、そういえば出身国でしたわね」
「うん。本で勉強するよりいいだろうと思って、昨日、頼んでおいたんだ。──行く前にこの処理を終わらせるから、ちょっと待ってて」

 そう言いながら、机の上の書類に目を通す。
 まだまだ子供っぽいところもあるが、十五で成人してからというもの、グレンはだいぶ大人びて、男の色香まで漂わせるようになってきた。

 頬杖をつき、むぅ、と唇を尖らせる。

(誰かにオトされたりしないよう、しっかり繋ぎとめておかなくちゃ)

「……どうしたの? ジロジロ見て」
「なんでもありません。喜んで、ご一緒させていただきますわ」

 マシェリはグレンに腕を絡めると、肩にコツンと頭をのせた。



「姫。保管庫にメロン二個は、さすがにちょっと邪魔なんだけど」

 食堂のテーブルに着くや否や、無精髭の料理人がのこのことやってきた。王城の副料理長とは思えぬ、色んな意味で不健康そうな風貌である。

「君もけっこう邪魔だよ。カラス
「お言葉ですが、ここは俺の領域テリトリーですよ王子様。ちなみに雇い主は貴方のお父上ですので、そこのところをお忘れなく」

 そして、いつもの如く火花を散らす。毎日毎日、よく飽きもせずケンカできるものだ。一瞬浮かんだ黒い顔は脳裏の隅に押しやり、マシェリは優雅に紅茶のカップを傾けた。
 グレンはガレスとの掛け合いが止まらないし、ターシャを待つ間ヒマなので、白を基調にした明るい食堂をぐるりと見まわす。
 すると、窓際のテーブルに見慣れない男性の姿があった。年齢は二十五、六といったところか。柔和で、とても人の良さそうな顔立ちをしている。

(白衣を着てる、ってことは新しい医官? それとも薬師かしら)

「とにかく! メロンは邪魔だから、なんとかしてくれ。以上!」

 ようやく一周したらしい。傾げた首を、ガレスに向き直す。

「夕方になったら一個は持っていきますわよ。あれはケルトのご褒美だから」
「ご褒美って、月イチのそうじの? 今日は朝メシ、やってこなかったのか?」
「人聞きの悪いことを仰らないで。ぐうぐう気持ち良さそうに寝てたから、起こさなかっただけですわ。それに朝は林檎とか、祭壇に置いてあるものを適当に食べるから、餌付けは特に必要ないんですのよ」

 昨夜は珍しく棲家に帰らなかったようだし、きっと相当疲れていたのだろう。こういう時は寝かせておくのが一番だ。
 万が一病気になっても、水竜用の薬などないのだし。

(病気……)

 ふと、嫌な予感が胸をよぎった。

「どうかしたの? マシェリ」
「よくよく考えてみたら初めてですの。わたくしの呼びかけで、ケルトが起きなかったのは」
「だよな。アイツ、姫が帰ったあとすっげえ寂しそうにしてるし。呼んだら飛び起きてもおかしくねえのに、ぐうぐう寝てたってのは異常だぞ」

 ガレスがふむ、と顎をさする。

「もしかして、そろそろ寿命なんじゃないのか?」
「ばっ、馬鹿なことを仰らないで!!」

 マシェリはテーブルをバン、と叩くと、勢いよく席を立った。──そんなわけない。
 人界生まれだろうと、ケルトはれっきとした水竜。平均寿命は悠に千年を超えるといわれている、竜の一種なのだ。

(たかだか三十年程度で、死んだりするはずがない)

 頭の中では否定しながら、不安で、気付けば駆け出していた。
 宮殿を出るとドレスの裾を上げ、中庭を駆け抜けていく。

 崖の階段を数段降りたところで、朝と同様、湖の岸にぐったりと横たわる水竜の姿が見えた。

「──ケルト⁉︎」
「……」

 巨体にすがりつき、胸のあたりに耳をよせる。すると幸い、ドクンドクンと心臓の音がちゃんと聞こえた。
 生きてはいる。しかし、わずかに体が熱い。それに、翡翠色の鱗が妙に乾燥している気がした。

(まさか、本当に病気?)

「待っててケルト。わたくしが、今すぐ医者を連れて来て差し上げますわ!」

 マシェリは再び走り出し、降りたばかりの階段を駆け上りはじめた。

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