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挿話1
柱時計の追憶
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「時計のゼンマイを巻いてきておくれ、マシェリ」
「はい。お祖母さま」
シワだらけの手から小さな鍵を受け取り、針が止まった柱時計を見上げる。
一日に一度、椅子に乗って背伸びをし、何回も何回もゼンマイを巻く。
それがマシェリの、三歳の時に初めて与えられた仕事だった。
「さ、終わったらここにお座り。今日はカモミールティーを淹れてあげよう」
くしゃりと祖母が優しく微笑む。
妹のサマリーが生まれたばかりの頃で、母は実家へ長期里帰り中。新しい当主となった父は、亡き祖父がこしらえた借金返済のため、朝から晩まで領地を奔走していた。
伯爵家としてはごく平均的な大きさの屋敷でも、幼いマシェリにとってはとても広い。ひとりぼっちになるのが怖くて怖くて、ともに留守番を頼まれた祖母の後ろを、一日中くっついて歩いていた。
「お祖母さまー、どこー?」
「こっちだよ、マシェリ」
植物を育てるのが上手だった祖母は、毎日毎日、何かしらの花や薬草を中庭から刈り取ってきては、離れの小屋にこもる。
春はカモミール、夏は薔薇とリンデン。少ない水でも咲く品種を選び、祖母が世話していた植物たちは数十種にも及ぶ。中でも赤い薔薇は祖母のお気に入りで、満開の頃を見計らってはバスケットに詰め込み、紅茶やジャムを拵えていた。
質素なワンピースにエプロンを掛け、姿勢よく鍋をかき回す姿が凛としていて美しい。
自分と同じ、新緑色の瞳と深紅の髪。
マシェリは、祖母とよく似た自分の姿を鏡で見るのが大好きだった。
けれど── 両親と同じ金髪碧眼で生まれた妹が母とともに帰って来ると、近所の悪ガキから『捨て子』や『魔女』などと揶揄されるようになる。
「ただいま……」
破れたドレスの裾をきゅっと握り締め、薔薇の生垣の手入れをする祖母のもとへ、トボトボと向かう。
顔を上げた祖母は「おやまあ」と驚き、手にした籠を置くと、俯くマシェリの赤髪を優しく撫でてくれた。
「今日は一段と派手にやったねぇ。また、ディムと喧嘩してきたのかい?」
「だって……あの子嫌い。いつも会うと意地悪ばかり言うんだもの」
「構うのは興味がある証拠さね。きっとディムは、お前のことが好きなのさ」
「う、うそ! そんなことないもん!」
「ふふふ。──ほら、屋敷の中に入ろう。薬を塗ってあげるから」
ふんわり香る花と葉の匂い。
祖母の緑の手は、まるで魔法のようにマシェリの心を落ち着かせてくれた。
「マシェリは、サマリーのことが可愛いかい?」
「もちろんよ。だって、ちっちゃな手でわたしの指を一生懸命握ってくれるんだもの。そしてね、にっこり笑ってくれるのよ。天使みたいですっごく可愛いの。サマリーが生まれてきてくれて、わたしとても嬉しいわ」
「そうかい。じゃあ、話は簡単だ。サマリーがもう少し大きくなったら、一緒に外へ出て、たくさん遊んでおやり。きっとそのうち誰も、お前たちが赤の他人だなんて言わなくなるよ」
そう言って微笑むと、エプロンのポケットから丸い容器を取り出す。細かな金細工が施された、綺麗な薬入れ。
フタをくるりと回して開くと、瑞々しい花の香りが広がる。
中身は祖母お手製の軟膏だ。
のびが良くて全く沁みず、塗ればたちまち傷が薄くなる。
(もう、どこもいたくない)
ホッとしたが、破れたドレスを見下ろし、再び青褪める。目を潤ませて祖母に縋るも、穏やかに笑い返すだけだった。
祖母は優しいけれど、決して甘くない。
その日は結局、父と母にこっぴどく叱られて疲れ果て、夕食後は湯浴みもせずに寝台の上へと転がった。
ボーン……、ボーン……
柱時計の音が、マシェリの部屋にまで届く。
赤ん坊のころからずっと、この音とともに時を刻んできた。
(聴いてるとますます眠く……ええい。今日はもう、このまま寝ちゃえ)
素敵な王子様の夢でも見られたら、明日は幸せな一日になるかもしれない。
さっさと寝巻きに着替え、ゴソゴソとシーツの中へと潜り込む。横向きできゅっと丸まり準備完了……と思っていたら、ドアが二回叩扉された。
「起きてるかい? マシェリ」
「……もう寝たもん」
「おやおや。もしかして拗ねてるのかい? じゃあ、今夜のばあばのお話は無しでいいね」
「えっ⁉︎ ちょ、ちょっと待って。お祖母さま!」
慌てて寝台から飛び降り、ドアをそっと開いて覗くと、寝巻き姿の祖母が廊下に立っていた。
ランプの光に照らされた笑顔は悪戯っぽく、少女のように幼く見える。
「ふふふ。随分と可愛らしいタヌキさんだこと」
「……いじわる」
ぷぅっと膨れてそっぽを向く。
独身のころは図書館で司書を務めていたという祖母は、暇をみつけては様々な本を読み漁り、豊富な知識とともに世界各地の物語も仕入れていたらしい。
祖母の話す物語は、売られている絵本では読んだことのないものばかり。
寝たふりをすることを、東にあるレオストという国では『タヌキ寝入り』と言うのだと、教えてくれたのも祖母だった。
「ごめんごめん。今夜はとっときのお話をしてあげるから、許しておくれ」
「ほんと? お祖母さま大好き!」
目を輝かせ、祖母に抱きつく。
わくわくと胸躍らせながら寝台へいき、本を持った祖母と並んでごろんと横になる。その時ふと、祖母の足先に目が釘付けになった。
「お祖母さま、足に怪我してるの? 爪が赤いわ」
「ああ、これは怪我じゃなくて爪紅だよ」
「……つまべに?」
「そうさ。これはね、鎧なんだよ。悪いやつから自分の身を護るための」
「お祖母さま、もしかして借金したの?」
思わずガバッと起き上がると、一瞬目を丸くした祖母がぷっと吹き出し、クスクスと笑い出す。
死んだ祖父の借金の話もあるし、真剣に心配したのに……口を尖らせて睨むと、祖母が涙を拭いながら「ごめんよ」と謝ってきた。
「今日はふたりとも謝ってばかりだねえ」
「うん。だからね、わたし……素敵な王子様が、迎えに来てくれたらいいなと思って」
「王子様?」
「そう。そしてね、王子様と末長く幸せに暮らすの。そんな夢が見られたら、きっと明日は一日、幸せに過ごせるわ」
いつか自分を迎えに来てくれる、白馬に乗った王子様は少女たち皆の憧れだ。
普段はちょっぴり男勝りでお転婆なマシェリも、もちろん例外ではない。
「そうかい。でもねえ、マシェリ。お姫様が必ずしも幸せになれるとは限らないんだよ」
「どうして? 王子様にも借金があるの?」
「ふふふ、違うよ。……マシェリは、フランジア帝国を知っているかい?」
「うん! 水竜がいる国でしょう? もちろん知ってるわ」
綺麗な翡翠色の竜だと父から聞いたことがある。
大陸の中央にある一番大きな湖を、水で満たすことができるという、とても素敵な魔物だ。
(できれば友達になりたいなぁ。そしたら、水遊びし放題だもの)
いつか、会えるだろうか。月明かりに照らされた美しい湖を思い浮かべ──ふわあ、と大きな欠伸が出た。
祖母の手が、マシェリの赤髪を優しく梳いていく。
「今夜はね、そのフランジア帝国の昔話をしてあげよう。よぉく、覚えておおき」
ボーン……
半刻を告げる鐘が鳴る。
「ずっとずっと昔。魔界からふらりとやって来た水竜は、とある少女に恋をしたんだ。貯水湖に水を恵んでもらうため、貢ぎ物を捧げにきた綺麗な赤髪の女の子にね」
「……赤髪……」
「そう。ちょうどお前と同じ、薔薇のような深紅の髪をしていたらしい。水竜はその少女を赤髪姫と呼んだ」
水竜は人の姿に変化し、赤髪姫の前に跪くと、必死に求婚を始めた。
それは雨の日も風の日も、大雪の日ですらも。
延々と繰り返される、魔物からの熱烈な求婚。戸惑いながらも、真摯な水竜の態度にいつしか絆され、一年後──彼女はついに求婚を受け入れる。
赤髪姫のため、水竜が建国したのが帝国の前身、フランジア王国だった。
「湖のほとりに建てたお城で、水竜と赤髪姫はとても幸せに暮らしていたのだけれど、ある日──帰りの遅い水竜にしびれを切らせた魔王が、人界に乗り込んできた。それがきっかけで、ふたりの運命は一気に狂い出してしまうのさ」
魔王は赤髪姫に一目惚れし、何とか水竜から奪い取ろうとする。しかし、竜の婚約の証は強力なもの。魔王の力をもってしても、破棄することはできなかった。
今世での奪還は叶わない。だが、来世なら──
「魔王は、水竜のヴェラド・フォルクに取り引きを持ちかけたんだ」
「とりひき?」
「ああ。このまま人界に留まり、赤髪姫と末長くともにいることを魔界の王の名に於いて許す。その代わり、彼女がもしも生まれ変わったなら、魔王の花嫁になってもらう。……とね」
「まっ、魔王のお嫁さんに⁉︎ そ、それで、水竜はどうしたの?」
「どうしても今世をともに過ごしたかったふたりは、その条件を受け入れてしまうんだ。そこで魔王は、赤髪姫の足の爪に自分の血で印を付けた。来世で赤く色づき、契約の証となるように」
祖母はおもむろに体を起こすと、爪紅の足をランプの明かりで照らして見せた。
サッ、とマシェリの顔が青褪める。
「もも、もしかしてお祖母さま……そ、その赤い爪って」
「ふふふ、安心おし。この爪は花の汁で染めたものさ。ばあばは赤髪姫の生まれ変わりじゃないよ」
コロコロと笑い、祖母がマシェリの頭を撫でてくる。からかわれたと解ったが、腹が立つより先にホッとした。
「なあんだ。よかったぁ」
「この昔話が基でね。ばあばの故郷の里では、赤髪で生まれてきた女の子が十歳の誕生日を迎えると、足に爪紅を塗る風習があるんだよ。小指の爪に現れるという魔王の契約の証を隠し、娘を花嫁として奪われないように」
「ふうん。じゃあ、わたしも十歳になったら塗ろうかなぁ」
同じ王族でも、魔王のお嫁さんは嫌だ。
真剣に言うマシェリに、祖母がにっこり微笑む。
「そうだね。ばあばもそのほうが安心だ」
「じゃあわたしの十歳のお誕生日に、爪紅の作り方を教えてくれる? お祖母さま」
「ああ、いいともさ。──そうだ。マシェリも一つ、ばあばと約束してくれるかい?」
「やくそく? いいよ」
少しうとうとしながら、マシェリはこくんと頷いた。
祖母の細い指先が赤髪を一束つまみ、毛先を弄ぶ。
「いいかい? よくお聞き。神の御前で誓いを交わすまで、決して王子様と結ばれてはいけないよ」
「どうして?」
「魔王が化けてるかもしれないからさ。何しろ、あの男は狡猾だからね」
「うん、分かった。……でもお祖母さま。むすばれるってなあに? リボン?」
眠い目をこすりつつ言うと、祖母はマシェリの頭を優しく撫でた。
「ふふふ。大人になれば、お前にもきっと解るよ。──さ、そろそろお休み。マシェリ」
「……うん。おやすみなさい、お祖母さま」
ボーン……、ボーン……
数年後、祖母は祖父のいる国へと召された。
爪紅の作り方を教える、という約束はついに果たされないままに。
◇◇
「……マシェリ?」
瞼を上げると、黒髪の麗しい少年が心配げに見下ろしていた。
どこをどう見ても完璧な王子様だ。とてもこの世のものとは思えないほど。
(もしかして)
思わず手を伸ばし、白い頬をきゅっとつまむ。
「痛っ! 何するの、マシェリ」
「痛がってる……。ということは、本物の殿下……?」
「本物に決まってるだろ! なかなか昼寝から目覚めないから、すごく心配してたのに……君はまさか、自分の夫になる男の顔を見忘れたの?」
赤くなった両頬を押さえつつ、グレンが悲痛な声で叫ぶ。マシェリはハッと我に返り、慌ててソファから下りた。
「ご、ごめんなさい。ちょっと昔の夢を見ていたものだから。きっと、このペンダントを掛けてたせいね」
苦笑いで首元を押さえると、グレンが「ああ」と頷いた。
「あの肖像画の。じゃあ、夢ってもしや、君のお祖母さまの夢かい?」
「ええ。……とても懐かしかったわ。とても、ね」
そう言いながら自分の足を見下ろす。
八歳になる赤髪姫は今日も、鎧の騎士にしっかりと護られていた。
「はい。お祖母さま」
シワだらけの手から小さな鍵を受け取り、針が止まった柱時計を見上げる。
一日に一度、椅子に乗って背伸びをし、何回も何回もゼンマイを巻く。
それがマシェリの、三歳の時に初めて与えられた仕事だった。
「さ、終わったらここにお座り。今日はカモミールティーを淹れてあげよう」
くしゃりと祖母が優しく微笑む。
妹のサマリーが生まれたばかりの頃で、母は実家へ長期里帰り中。新しい当主となった父は、亡き祖父がこしらえた借金返済のため、朝から晩まで領地を奔走していた。
伯爵家としてはごく平均的な大きさの屋敷でも、幼いマシェリにとってはとても広い。ひとりぼっちになるのが怖くて怖くて、ともに留守番を頼まれた祖母の後ろを、一日中くっついて歩いていた。
「お祖母さまー、どこー?」
「こっちだよ、マシェリ」
植物を育てるのが上手だった祖母は、毎日毎日、何かしらの花や薬草を中庭から刈り取ってきては、離れの小屋にこもる。
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質素なワンピースにエプロンを掛け、姿勢よく鍋をかき回す姿が凛としていて美しい。
自分と同じ、新緑色の瞳と深紅の髪。
マシェリは、祖母とよく似た自分の姿を鏡で見るのが大好きだった。
けれど── 両親と同じ金髪碧眼で生まれた妹が母とともに帰って来ると、近所の悪ガキから『捨て子』や『魔女』などと揶揄されるようになる。
「ただいま……」
破れたドレスの裾をきゅっと握り締め、薔薇の生垣の手入れをする祖母のもとへ、トボトボと向かう。
顔を上げた祖母は「おやまあ」と驚き、手にした籠を置くと、俯くマシェリの赤髪を優しく撫でてくれた。
「今日は一段と派手にやったねぇ。また、ディムと喧嘩してきたのかい?」
「だって……あの子嫌い。いつも会うと意地悪ばかり言うんだもの」
「構うのは興味がある証拠さね。きっとディムは、お前のことが好きなのさ」
「う、うそ! そんなことないもん!」
「ふふふ。──ほら、屋敷の中に入ろう。薬を塗ってあげるから」
ふんわり香る花と葉の匂い。
祖母の緑の手は、まるで魔法のようにマシェリの心を落ち着かせてくれた。
「マシェリは、サマリーのことが可愛いかい?」
「もちろんよ。だって、ちっちゃな手でわたしの指を一生懸命握ってくれるんだもの。そしてね、にっこり笑ってくれるのよ。天使みたいですっごく可愛いの。サマリーが生まれてきてくれて、わたしとても嬉しいわ」
「そうかい。じゃあ、話は簡単だ。サマリーがもう少し大きくなったら、一緒に外へ出て、たくさん遊んでおやり。きっとそのうち誰も、お前たちが赤の他人だなんて言わなくなるよ」
そう言って微笑むと、エプロンのポケットから丸い容器を取り出す。細かな金細工が施された、綺麗な薬入れ。
フタをくるりと回して開くと、瑞々しい花の香りが広がる。
中身は祖母お手製の軟膏だ。
のびが良くて全く沁みず、塗ればたちまち傷が薄くなる。
(もう、どこもいたくない)
ホッとしたが、破れたドレスを見下ろし、再び青褪める。目を潤ませて祖母に縋るも、穏やかに笑い返すだけだった。
祖母は優しいけれど、決して甘くない。
その日は結局、父と母にこっぴどく叱られて疲れ果て、夕食後は湯浴みもせずに寝台の上へと転がった。
ボーン……、ボーン……
柱時計の音が、マシェリの部屋にまで届く。
赤ん坊のころからずっと、この音とともに時を刻んできた。
(聴いてるとますます眠く……ええい。今日はもう、このまま寝ちゃえ)
素敵な王子様の夢でも見られたら、明日は幸せな一日になるかもしれない。
さっさと寝巻きに着替え、ゴソゴソとシーツの中へと潜り込む。横向きできゅっと丸まり準備完了……と思っていたら、ドアが二回叩扉された。
「起きてるかい? マシェリ」
「……もう寝たもん」
「おやおや。もしかして拗ねてるのかい? じゃあ、今夜のばあばのお話は無しでいいね」
「えっ⁉︎ ちょ、ちょっと待って。お祖母さま!」
慌てて寝台から飛び降り、ドアをそっと開いて覗くと、寝巻き姿の祖母が廊下に立っていた。
ランプの光に照らされた笑顔は悪戯っぽく、少女のように幼く見える。
「ふふふ。随分と可愛らしいタヌキさんだこと」
「……いじわる」
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祖母の話す物語は、売られている絵本では読んだことのないものばかり。
寝たふりをすることを、東にあるレオストという国では『タヌキ寝入り』と言うのだと、教えてくれたのも祖母だった。
「ごめんごめん。今夜はとっときのお話をしてあげるから、許しておくれ」
「ほんと? お祖母さま大好き!」
目を輝かせ、祖母に抱きつく。
わくわくと胸躍らせながら寝台へいき、本を持った祖母と並んでごろんと横になる。その時ふと、祖母の足先に目が釘付けになった。
「お祖母さま、足に怪我してるの? 爪が赤いわ」
「ああ、これは怪我じゃなくて爪紅だよ」
「……つまべに?」
「そうさ。これはね、鎧なんだよ。悪いやつから自分の身を護るための」
「お祖母さま、もしかして借金したの?」
思わずガバッと起き上がると、一瞬目を丸くした祖母がぷっと吹き出し、クスクスと笑い出す。
死んだ祖父の借金の話もあるし、真剣に心配したのに……口を尖らせて睨むと、祖母が涙を拭いながら「ごめんよ」と謝ってきた。
「今日はふたりとも謝ってばかりだねえ」
「うん。だからね、わたし……素敵な王子様が、迎えに来てくれたらいいなと思って」
「王子様?」
「そう。そしてね、王子様と末長く幸せに暮らすの。そんな夢が見られたら、きっと明日は一日、幸せに過ごせるわ」
いつか自分を迎えに来てくれる、白馬に乗った王子様は少女たち皆の憧れだ。
普段はちょっぴり男勝りでお転婆なマシェリも、もちろん例外ではない。
「そうかい。でもねえ、マシェリ。お姫様が必ずしも幸せになれるとは限らないんだよ」
「どうして? 王子様にも借金があるの?」
「ふふふ、違うよ。……マシェリは、フランジア帝国を知っているかい?」
「うん! 水竜がいる国でしょう? もちろん知ってるわ」
綺麗な翡翠色の竜だと父から聞いたことがある。
大陸の中央にある一番大きな湖を、水で満たすことができるという、とても素敵な魔物だ。
(できれば友達になりたいなぁ。そしたら、水遊びし放題だもの)
いつか、会えるだろうか。月明かりに照らされた美しい湖を思い浮かべ──ふわあ、と大きな欠伸が出た。
祖母の手が、マシェリの赤髪を優しく梳いていく。
「今夜はね、そのフランジア帝国の昔話をしてあげよう。よぉく、覚えておおき」
ボーン……
半刻を告げる鐘が鳴る。
「ずっとずっと昔。魔界からふらりとやって来た水竜は、とある少女に恋をしたんだ。貯水湖に水を恵んでもらうため、貢ぎ物を捧げにきた綺麗な赤髪の女の子にね」
「……赤髪……」
「そう。ちょうどお前と同じ、薔薇のような深紅の髪をしていたらしい。水竜はその少女を赤髪姫と呼んだ」
水竜は人の姿に変化し、赤髪姫の前に跪くと、必死に求婚を始めた。
それは雨の日も風の日も、大雪の日ですらも。
延々と繰り返される、魔物からの熱烈な求婚。戸惑いながらも、真摯な水竜の態度にいつしか絆され、一年後──彼女はついに求婚を受け入れる。
赤髪姫のため、水竜が建国したのが帝国の前身、フランジア王国だった。
「湖のほとりに建てたお城で、水竜と赤髪姫はとても幸せに暮らしていたのだけれど、ある日──帰りの遅い水竜にしびれを切らせた魔王が、人界に乗り込んできた。それがきっかけで、ふたりの運命は一気に狂い出してしまうのさ」
魔王は赤髪姫に一目惚れし、何とか水竜から奪い取ろうとする。しかし、竜の婚約の証は強力なもの。魔王の力をもってしても、破棄することはできなかった。
今世での奪還は叶わない。だが、来世なら──
「魔王は、水竜のヴェラド・フォルクに取り引きを持ちかけたんだ」
「とりひき?」
「ああ。このまま人界に留まり、赤髪姫と末長くともにいることを魔界の王の名に於いて許す。その代わり、彼女がもしも生まれ変わったなら、魔王の花嫁になってもらう。……とね」
「まっ、魔王のお嫁さんに⁉︎ そ、それで、水竜はどうしたの?」
「どうしても今世をともに過ごしたかったふたりは、その条件を受け入れてしまうんだ。そこで魔王は、赤髪姫の足の爪に自分の血で印を付けた。来世で赤く色づき、契約の証となるように」
祖母はおもむろに体を起こすと、爪紅の足をランプの明かりで照らして見せた。
サッ、とマシェリの顔が青褪める。
「もも、もしかしてお祖母さま……そ、その赤い爪って」
「ふふふ、安心おし。この爪は花の汁で染めたものさ。ばあばは赤髪姫の生まれ変わりじゃないよ」
コロコロと笑い、祖母がマシェリの頭を撫でてくる。からかわれたと解ったが、腹が立つより先にホッとした。
「なあんだ。よかったぁ」
「この昔話が基でね。ばあばの故郷の里では、赤髪で生まれてきた女の子が十歳の誕生日を迎えると、足に爪紅を塗る風習があるんだよ。小指の爪に現れるという魔王の契約の証を隠し、娘を花嫁として奪われないように」
「ふうん。じゃあ、わたしも十歳になったら塗ろうかなぁ」
同じ王族でも、魔王のお嫁さんは嫌だ。
真剣に言うマシェリに、祖母がにっこり微笑む。
「そうだね。ばあばもそのほうが安心だ」
「じゃあわたしの十歳のお誕生日に、爪紅の作り方を教えてくれる? お祖母さま」
「ああ、いいともさ。──そうだ。マシェリも一つ、ばあばと約束してくれるかい?」
「やくそく? いいよ」
少しうとうとしながら、マシェリはこくんと頷いた。
祖母の細い指先が赤髪を一束つまみ、毛先を弄ぶ。
「いいかい? よくお聞き。神の御前で誓いを交わすまで、決して王子様と結ばれてはいけないよ」
「どうして?」
「魔王が化けてるかもしれないからさ。何しろ、あの男は狡猾だからね」
「うん、分かった。……でもお祖母さま。むすばれるってなあに? リボン?」
眠い目をこすりつつ言うと、祖母はマシェリの頭を優しく撫でた。
「ふふふ。大人になれば、お前にもきっと解るよ。──さ、そろそろお休み。マシェリ」
「……うん。おやすみなさい、お祖母さま」
ボーン……、ボーン……
数年後、祖母は祖父のいる国へと召された。
爪紅の作り方を教える、という約束はついに果たされないままに。
◇◇
「……マシェリ?」
瞼を上げると、黒髪の麗しい少年が心配げに見下ろしていた。
どこをどう見ても完璧な王子様だ。とてもこの世のものとは思えないほど。
(もしかして)
思わず手を伸ばし、白い頬をきゅっとつまむ。
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「痛がってる……。ということは、本物の殿下……?」
「本物に決まってるだろ! なかなか昼寝から目覚めないから、すごく心配してたのに……君はまさか、自分の夫になる男の顔を見忘れたの?」
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「ご、ごめんなさい。ちょっと昔の夢を見ていたものだから。きっと、このペンダントを掛けてたせいね」
苦笑いで首元を押さえると、グレンが「ああ」と頷いた。
「あの肖像画の。じゃあ、夢ってもしや、君のお祖母さまの夢かい?」
「ええ。……とても懐かしかったわ。とても、ね」
そう言いながら自分の足を見下ろす。
八歳になる赤髪姫は今日も、鎧の騎士にしっかりと護られていた。
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