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本編
15-1
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「お取り込み中のところ失礼いたします、殿下」
「……分かってるなら邪魔しないでよ、ユーリィ」
「そうはいきません。マシェリ様との約束は私のほうが先ですから」
入り口で腕組みをしていたユーリィが、キッチンにつかつかと入ってくる。
「怪我の事もご存知でしょう。手荒な真似はやめてください」
「足だろう? 抱き締めても問題ない」
「暴れれば負担になるわ。――それと、ルディ様がお呼びです」
「ルディが?」
一瞬、力が緩む。マシェリはその隙にグレンの腕を抜け出すと、オーブンの火を消した。
(なんとか間に合った……!)
ほっとしてその場にへたり込む。
もし宮殿で火事を起こしてしまったら、一生かけても償いきれやしないだろう。
「明日のパーティーに出す予定だった果物のことで、料理長と侍従長が会議室に呼びつけられたらしいんです」
「果物? そんなもの、今さら言っても変えられないだろ。……また、いつもの戯れ言か」
「このままだと他の業務に支障をきたすから、急ぎ戻ってほしいとのご伝言です。殿下が来てくだされば、とりあえず二人は解放できるからと」
「人質がいるんじゃ行くしかないな。どうにも、嫌な予感がするけど」
壁に立て掛けられていた剣を手に取り、腰に携えたグレンが振り返る。
「マシェリ」
「は、はい」
「僕にもクッキー作っておいて。イヌルのより美味しいやつを、二皿くらい」
「かしこまりました。けれど、わたくしは素人です。殿下のお口に合うかどうかは分かりませんわよ?」
マシェリの料理やお菓子作りは、花嫁修行のためではなく、売れ残った作物を少しでも活かそうとして覚えたものだ。
舌の肥えた帝国の皇太子を、満足させられるような代物では到底ない。
「どんな出来でも、それが君の味なら喜んで受け入れよう。――じゃ、行ってくる」
赤髪をよけたマシェリの頬に、グレンが唇を落とす。
一瞬何が起きたか分からず、固まるマシェリに甘く微笑み、皇子様はキッチンを出て行った。
「大丈夫ですか? マシェリ様」
「……え、ええ。ここ床ですし、何とか倒れずには済みましたわ」
赤い顔で応え、ユーリィにつかまりながら立ち上がる。
「あの方の色気は天然の兵器ですからね。毒抜きのためにも、少しサロンで休んだ方がいいですよ。今、お茶淹れてきますから」
「そうするわ。ありがとうございます、ユーリィ様」
素直に礼を言い、テーブルに着く。
(頭がぐらぐらするし、さっきから動悸もしてる……! それに、呼吸も脈拍も、普段よりずっと早いような気がする)
男の色気など正直理解し難いが、こと毒抜きに関しては、一理ある気がしてしまった。
「良かったら、果実水でも先にお出ししましょうか? のどが渇いてらっしゃるでしょう」
「もう、干からびてしまいそうです。――是非、いただきたいわ」
薬の副作用に加えて、オーブンの近くにいすぎたのかも知れない。
断じて、不意打ちのキスに動揺し過ぎたせいなんかじゃない。マシェリはユーリィに「どうぞ」と差し出された杯を、一気に飲み干した。
柑橘の果実水が、爽やかにのどを潤してくれる。テラナ公国で口にしていたものより果実の味が濃くて、美味しい。
ひと心地ついたところで、トレイを手にしたユーリィが戻って来た。
「卵は取り逃がしてしまいました」
紅茶をテーブルに置きながら、どんよりとした顔でユーリィが切り出す。
姿を見失い、さらに匂いが途切れてしまったことで、イヌルは自慢の脚を活かしきれず、意気消沈して帰還してきたらしい。
思わずため息が漏れた。が、ある程度予想していたせいか思ったよりも落胆は少ない。
「ただ、逃げた方向だけは分かってるので、先ほどルディ様に捜索の協力を依頼してきました。陛下の件が何とかなったら、すぐに動いてくださるそうです」
「……分かってるなら邪魔しないでよ、ユーリィ」
「そうはいきません。マシェリ様との約束は私のほうが先ですから」
入り口で腕組みをしていたユーリィが、キッチンにつかつかと入ってくる。
「怪我の事もご存知でしょう。手荒な真似はやめてください」
「足だろう? 抱き締めても問題ない」
「暴れれば負担になるわ。――それと、ルディ様がお呼びです」
「ルディが?」
一瞬、力が緩む。マシェリはその隙にグレンの腕を抜け出すと、オーブンの火を消した。
(なんとか間に合った……!)
ほっとしてその場にへたり込む。
もし宮殿で火事を起こしてしまったら、一生かけても償いきれやしないだろう。
「明日のパーティーに出す予定だった果物のことで、料理長と侍従長が会議室に呼びつけられたらしいんです」
「果物? そんなもの、今さら言っても変えられないだろ。……また、いつもの戯れ言か」
「このままだと他の業務に支障をきたすから、急ぎ戻ってほしいとのご伝言です。殿下が来てくだされば、とりあえず二人は解放できるからと」
「人質がいるんじゃ行くしかないな。どうにも、嫌な予感がするけど」
壁に立て掛けられていた剣を手に取り、腰に携えたグレンが振り返る。
「マシェリ」
「は、はい」
「僕にもクッキー作っておいて。イヌルのより美味しいやつを、二皿くらい」
「かしこまりました。けれど、わたくしは素人です。殿下のお口に合うかどうかは分かりませんわよ?」
マシェリの料理やお菓子作りは、花嫁修行のためではなく、売れ残った作物を少しでも活かそうとして覚えたものだ。
舌の肥えた帝国の皇太子を、満足させられるような代物では到底ない。
「どんな出来でも、それが君の味なら喜んで受け入れよう。――じゃ、行ってくる」
赤髪をよけたマシェリの頬に、グレンが唇を落とす。
一瞬何が起きたか分からず、固まるマシェリに甘く微笑み、皇子様はキッチンを出て行った。
「大丈夫ですか? マシェリ様」
「……え、ええ。ここ床ですし、何とか倒れずには済みましたわ」
赤い顔で応え、ユーリィにつかまりながら立ち上がる。
「あの方の色気は天然の兵器ですからね。毒抜きのためにも、少しサロンで休んだ方がいいですよ。今、お茶淹れてきますから」
「そうするわ。ありがとうございます、ユーリィ様」
素直に礼を言い、テーブルに着く。
(頭がぐらぐらするし、さっきから動悸もしてる……! それに、呼吸も脈拍も、普段よりずっと早いような気がする)
男の色気など正直理解し難いが、こと毒抜きに関しては、一理ある気がしてしまった。
「良かったら、果実水でも先にお出ししましょうか? のどが渇いてらっしゃるでしょう」
「もう、干からびてしまいそうです。――是非、いただきたいわ」
薬の副作用に加えて、オーブンの近くにいすぎたのかも知れない。
断じて、不意打ちのキスに動揺し過ぎたせいなんかじゃない。マシェリはユーリィに「どうぞ」と差し出された杯を、一気に飲み干した。
柑橘の果実水が、爽やかにのどを潤してくれる。テラナ公国で口にしていたものより果実の味が濃くて、美味しい。
ひと心地ついたところで、トレイを手にしたユーリィが戻って来た。
「卵は取り逃がしてしまいました」
紅茶をテーブルに置きながら、どんよりとした顔でユーリィが切り出す。
姿を見失い、さらに匂いが途切れてしまったことで、イヌルは自慢の脚を活かしきれず、意気消沈して帰還してきたらしい。
思わずため息が漏れた。が、ある程度予想していたせいか思ったよりも落胆は少ない。
「ただ、逃げた方向だけは分かってるので、先ほどルディ様に捜索の協力を依頼してきました。陛下の件が何とかなったら、すぐに動いてくださるそうです」
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