凸凹カルテット

穂篠 志歩

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触れられないもの。

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 二階建鉄筋コンクリート、錆びた鉄階段を昇った先にその部屋はあった。

 角にドラムセットが陣取り、棚にはCDケースと総譜が並んでいる。その前の長机は書類や文具、楽器の小物やお菓子で雑然としていた。
 オーケストラ部の部室だ。特に音楽に特化しているわけでも、部自体に輝かしい実績があるわけでもない大学の一サークルに与えられている部屋としては、まずまずだった。

 練習が休みの日でも、部長に連絡を入れると鍵を開けて開放してもらえる。熱心な部員の多いオケ部は、大抵いつも誰かが練習をしていた。

 この日も例外ではなく、難しい運指を繰り返し練習するフルートや自分の好きなフレーズばかり吹き鳴らすトランペット、休憩がてら談笑しているグループや半円を作って座っている弦楽四重奏カルテットなどが集まっていた。
 ファーストバイオリンの奏者が、セカンドとヴィオラの楽譜を見比べようと立ち上がって2人の間に入って楽譜を覗き込んでいる。

 突然、何の前触れもなしに叫び声が上がって、部室は一瞬静まり返った。注目を浴びたのは、バイオリンの眞音まお。部員は皆一様に驚いて手を止め、声の方を振り返っていた。悲鳴を上げた本人は、危うく腰を抜かす寸前だったが、手に楽器を持っていたことが自制心に貢献したようで、なんとか踏みとどまっていた。

「どうしたの、眞音」

 一緒にカルテットの練習をしていたチェロの貴史たかしが驚きを隠さずに尋ねると、眞音は更に声を上げて二歩三歩大きく後ずさる。

「おい寄るな、あんただよ、部室に何連れて来てんだよ!」

 眞音の視線を追ったセカンドバイオリンの奏一そういちが、なるほどと納得しながら苦笑した。

ふみさん、頭に蝶がとまってますよ」
「え、そうなの?」

 などと言いながら貴史が頭を振ると、鮮やかなオレンジの差し色がある蝶が羽ばたいた。

「あぁホントだ、えぇ、今まで全然気がつかなかったよ。あの色、ベニシジミかな」
「おい、何やってんだよ、こっちに来るだろやめろ!」

 悪びれもせず呑気な口調の貴史。眞音は弓を振り回しながら蝶を追い払おうとするが、逃げ惑う蝶は吸い寄せられるように彼に向かう。ぎゃあともげぇともつかない声を上げる眞音。

「眞音、虫が苦手なんですよ」
「あ、そうなの?悪いことしたなぁ」
「貴史は意地が悪いな、あの反応見りゃわかるだろうに」

 なおも悠長に言う貴史に、ヴィオラの和海かずみが見かねたように横槍を入れたが、動きはしない。

「いや、ホントに蝶が止まってるなんて思わなくてさ。ごめん眞音」

 和海に促されて、貴史は楽器を置いて蝶の捕獲に向かった。カルテットのメンバー以外は、笑いながら様子を見たり自分の練習に戻ったりしている。
 逃げる眞音にまとわりつく蝶と、それを追う貴史を眺めながら和海がぽそりと呟いた。

「でもわかるわ、オレもイヤだもん」
「和海さんも虫が駄目なんですか」

 意外な顔をして奏一が隣を見やると、和海が微笑みながら遠い目をする。

「そう、特に蝶々はね。イヤ」
「何か悪い思い出でも?」

 視線の先では、蝶を捕まえることを諦め窓の外に追い立てる作戦に出た貴史たちの攻防が続いている。和海は言葉を濁して笑うだけだ。

「あんた!わざとじゃないか?わざとオレの方に追い立ててるだろ、絶対!」
「そんなことないって。むしろ眞音が逃げるから追いかけられるんだって」
「んなこと言って、ジッとしてたらさっきオレに止まっただろうが」
「うんまあ、そうだったね。眞音、好かれてるね」
「ああもう、いいから早くなんとかしてくれよ!」

 大騒ぎしながらなんとか蝶を逃した二人を見つめたまま、和海が口を開く。

「オレさ、昔蝶々捕まえたことがあってね」

 ふいに声をかけられて、奏一は彼を見やった。

「昔は平気だったんですか?」
「ほんと小さい頃だよ、小学生になるかならないかくらい」

 昔を懐かしむような目の和海。その眼差しを辿っても、まだやいのやいのと言い合いながら戻ってくる眞音と貴史しかいない。

「蝶々って鱗粉、あるでしょ。オレさ、昔何を思ったか、蝶々の羽をつまんで、こう、指で擦っちゃったんだよね。鱗粉だけ取れるともでも思ったのかな。そしたら、羽、ボロボロになって、蝶々死んじゃったんだよね」

 その感触がトラウマで。
 和海は苦笑しながら奏一に目を向けた。

「子どもって、時に残酷ですからね……」

 なんと返したものか分からず、奏一は当たり障りないような言葉を選んだ。和海はその答えに満足したのかどうか、目元を緩める。

「その時思ったんだよね。こんな簡単に、死なせてしまうんだって。自分より弱いものには、手を出しちゃいけないなって。触ったら壊れるようなものにはさ」

 まるで何か試すかのような和海の眸。奏一は戸惑った。その目に何を映しているのか、和海の明るい茶眸はキラリと瞬いていた。

「あぁ、またカズが変な話してる」

 貴史の苦笑を含んだ声が、和海の瞳に吸い込まれそうになっていた奏一を現実に引き戻した。和海は微かにため息をついて、奏一側に乗り出していた身を椅子の背に預ける。

「変な話ってなんだよ、少年時代のかわいそうなトラウマの話だ」
「やっぱり。それ、蝶の羽の話だろ?」
「なんだそれ、すごく聞きたくねぇ」

 自分の席に戻りながら、貴史と眞音が苦笑いしたり顔をしかめたりしている。奏一は内心安堵しながらそっと和海を伺った。

「和海が昔、蝶の羽毟って死んじゃったって話だよ」
「おい、聞きたくないって言っただろ!想像しちゃうからやめろよ」
「いやいや、毟ってなんかないから。変な誇張するなよ貴史」

 のらりくらりと訂正する和海は、特に何か言い残した様子も、奏一から聞き逃した素振りも見せない。先刻彼から、どこか挑むような雰囲気を感じた奏一だったが、気のせいだろうと心に留めるのをやめた。

「カズ、羽をつまむだけなら蝶は死なないよ。今試して成功すれば、トラウマが克服できるかも」
「いいよ。オレはもう二度と虫なんか触れないカラダのままで」
「まったくだ、何が悲しくてそんな訓練しなきゃならないんだ。そんなことより、そろそろ練習を再開しよう」
「中断させたのは眞音だけどな」

 調子を取り戻した奏一が軽口を叩くと、眞音は力なく息をつく。

「おまえ……オレが虫嫌いなのを知ってて傍観したおまえがそれを言うか?」
「いや、ごめん。でもいろいろ突然だったからさ」

 悪びれることなく微笑む奏一に、眞音はそれ以上追求することをやめて楽器を構えた。

「とにかく、気を取り直して練習するぞ。練習番号Aから」

 先刻の騒ぎなどなかったかのような眞音の毅然とした声を合図に、カルテットは練習を再開した。
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