【R18】月しずくのワルツ~ツンデレ令嬢の初恋~

イチニ

文字の大きさ
上 下
18 / 24

17.父の楽譜

しおりを挟む
 アレクシが訪ねて来た日、ミシェルは二日酔いのため、ベッドの上で一日中、怠惰に過ごした。
 その翌日の午後になり、ようやく体調が回復したミシェルは、初めて、父の私室に足を踏み入れていた。

 アレクシは、ミシェルの二日酔いの心配や、未亡人と復縁した報告のためだけではなく、彼の父親からの伝言を持って来訪していた。
 来月、ライネローズの芸術家たちによる王家主催の展覧会が予定されているらしく、そこにモーリスの楽譜を展示したいとのことだった。
 音があってこその譜面だと思うが、芸術家たちの愛用している私物も展示されるという。
 ライネローズ芸術の歴史を辿るような主旨の展覧会だというので、ミシェルは公爵の頼みを承諾した。
 父の私室へ入ったのは、展覧会へ提供するモーリス直筆の譜面を探すためである。

 父の私室へは、執事をはじめ使用人たちにも、入ることを禁じていた。
 父が亡くなって以来放置され続けていた部屋のドアを開ける。
 想像していた以上の埃っぽい空気に、ミシェルは、うっと呻いた。
 掃除くらいしておけば良かった、と思いながら口を押さえ、窓を開ける。
 午後過ぎの陽光が窓から差し込み、埃がキラキラと舞っていた。

 部屋の中心にはグランドピアノがある。
 ミシェルは埃を指で払い、鍵盤蓋を開ける。
 父が、多くの時間を費やし、触れていた鍵盤だ。多くの名曲がここで生まれた。

(もっと、悲しかったり、苦しかったり……するのかと思っていたのだけど)

 意外なことに心は落ち着いていた。
 ピアノの調律しないといけない、と穏やかな心で思う。
 そして――父はもういないのだと。そのことを寂しいと思った。


 部屋の中を見回す。
 父は几帳面な人だったのか。それとも亡くなる前に片付けていたのか。
 棚には資料や書物、譜面が年代やら種類ごとに仕分けされ、整然と並んでいた。
 ミシェルはそこから、モーリスの代表曲の譜面をいくつか探し、丁寧に抜き取る。
 どれをどれだけ渡すべきか。
 思案していたミシェルの頭の中に、ふと、アレクシが昨日残して帰った、言葉がよぎった。
 
『一度、君たちも二人でよく話した方が良いよ』
 自分が未亡人とうまくいったから、余り者同士、くっつけようとでもしているのだろうか。
 アレクシはそんなことを言っていた。
 アレクシに恋愛感情を抱いてはいないミシェルはともかく、クラウスのことは馬鹿にしているとしか思えない。
 けれども、アレクシにも、未亡人にも苛立つが、一番腹立たしいのは自分自身だった。
 取り返しのつかない、愚かな真似をしてしまったことを後悔するが、後の祭りである。
 謝罪すべきなのだろうかとも思うが、どんな顔をしてクラウスの前に立てばよいのかも、わからない。

 いや、むしろ、あんな尻軽な女と別れて正解だったのでは。
 彼女はクラウスに愛されるに値しない女だ。
 などと、自分を正当化しようともしているのだが……うまく、いかない。

(アレクシが……あの未亡人とよりを戻したのなら……あの未亡人は、これから、どうするのだろう)

 もしかしたらアレクシと再婚するため、ダトル皇国へは戻らず、ラトワナ王国へ、このままライネローズで暮らすことになるのかもしれない。
 そうしたら……彼女に後援されている彼は、どうするのだろう。
 一人で、ダトルへ戻るのだろうか。それとも、このままライネローズに。

 彼は優しい。
 ミシェルが望めば、負い目もあるから、不実な関係を続けてくれるかもしれない。
 未亡人の名を出さなくても、いや未亡人という枷がなくなった今なら、ミシェルの『処女』を奪った責任を取らせることだって出来るかもしれない。
 最低で、最悪な、身勝手な考えが浮かんでくる。
 どうせ彼にとって自分は性悪女なのだ。今更なのだから、思う存分振り回して、彼を自分のモノにしてしまいたい。
 欲望が次から次へと、胸の奥から溢れてきた。
 そして、幼い頃の、淡く甘い想い。苦さと一緒に胸の一番奥に閉じ込めた想いが、剥き出しになっていく。

(そう――。ずっと。きっとあの日、握手をした。あの日から……)

 父が生きていたら、どうなっていたのだろう。
 父は彼の過去の過ちを糾弾することはなかったと思う。きっと、いやもうすでに、赦していたのだろう。
 ミシェルも同じだ。
 父の信頼を彼が裏切ったことなど、本当はどうでも良かったのだ。
 ミシェルは、ただ――寂しかっただけだ。

 八年経っても、体ばかりが大人になって、なにひとつ成長出来ていない。
 強がってばかりで、素直になれない。負けず嫌いで、横暴で、やつ当たりして。
 自身の本当の気持ちすら、誤魔化している。
 幼い頃から何も変っていない。
 寂しがりやの我儘な子どもなままだ。

「本当……最低だわ……」
 独り言をぽつりと漏らし、溜め息を吐いた。

 父の愛用の私物も提供したほうが良いのだろうか、と楽譜を手にしたまま重厚な机へと視線をやる。
 机の上には写真立てがあった。
 写真が見える方へ、椅子側に回ったミシェルは、飾られた写真を見て、苦く笑んだ。
 もしかしたら……と期待したけれど、映っていたのは母であった。
 微笑んでこちらを見る母の腹は膨らんでいて……まあ、ここに自分がいるのなら、それで良しとしなければならないのだろうか、と思った。

 机の上には写真立て以外に何もなかったので、引き出しを開ける。
 父の秘密を暴くような気持ちはない。
 父は病にかかり、亡くなるまでに、半年の期間があった。
 最期のひと月は起き上がることさえままならなかったが、それまでの間に、財産や権利関係の書類整理はしていたと執事から聞いていた。
 ミシェルに見られて困るものも、処分していることだろう。

 引き出しを開けたミシェルは、そこに楽譜があることに気づき、眉を顰めた。
 楽譜の類は棚に仕舞っていた。なぜ、これだけ、別にしてあるのだろう。
 不審に思いながら、手にしていた楽譜をいったん置いてから、引き出しの中にある楽譜を手に取る。

 さらりと見ただけでわかる。
 これは、モーリスが最期に手がけたワルツの譜面だ。
 父はこのワルツを発表してから、少しして。作曲者として引退することを正式に表明した。
 そう、あれは確か、八年前のことだ。
 クラウスが父の元を、オービニエ家を去って、そうしばらくも経たないときのことだった。

 譜面を読んでいたミシェルは、違和感を覚えた。
 これは父の作曲したワルツだ。父の作った曲のはずだ。なのに――。

「……月、しずくのワルツ……?」
 譜面の上部の余白の部分に、殴り書きのような文字があった。

 昔の記憶が蘇ってくる。
 彼の部屋で、彼の机の上で。彼の書いた譜面を見た。
 几帳面で繊細な印象を受ける父の譜面とは違い、彼の譜面は大雑把で乱雑な感じだった。端正な顔立ちに似合わない悪筆っぷりに、呆れた覚えがある。

 楽譜を手にしているミシェルの指が震えた。
 理由を考える。
 どうして、なぜ、を繰り返し、思いを巡らせた。

 この楽譜だけが机の引き出しの中にあった理由を。
 彼が八年前、父の元を去った理由を。
 その直前と直後の父の行動を。
 父が彼を探さなかった理由を。
 彼がいなくなってからの父の態度、亡くなる直前、彼の名を呼んだときの父の顔を。

 どうして、モーリス作曲の譜面が、クラウスの筆跡で書かれているのかを――。
 ミシェルは考えて、ひとつの答えに行き着いて……瞼を堅く閉じた。

 ミシェルが手にしている楽譜は、父の罪の証であった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

身代わり婚~暴君と呼ばれる辺境伯に拒絶された仮初の花嫁

結城芙由奈@コミカライズ発売中
恋愛
【決してご迷惑はお掛けしません。どうか私をここに置いて頂けませんか?】 妾腹の娘として厄介者扱いを受けていたアリアドネは姉の身代わりとして暴君として名高い辺境伯に嫁がされる。結婚すれば幸せになれるかもしれないと淡い期待を抱いていたのも束の間。望まぬ花嫁を押し付けられたとして夫となるべく辺境伯に初対面で冷たい言葉を投げつけらた。さらに城から追い出されそうになるものの、ある人物に救われて下働きとして置いてもらえる事になるのだった―。

溺婚

明日葉
恋愛
 香月絢佳、37歳、独身。晩婚化が進んでいるとはいえ、さすがにもう、無理かなぁ、と残念には思うが焦る気にもならず。まあ、恋愛体質じゃないし、と。  以前階段落ちから助けてくれたイケメンに、馴染みの店で再会するものの、この状況では向こうの印象がよろしいはずもないしと期待もしなかったのだが。  イケメン、天羽疾矢はどうやら絢佳に惹かれてしまったようで。 「歳も歳だし、とりあえず試してみたら?こわいの?」と、挑発されればつい、売り言葉に買い言葉。  何がどうしてこうなった?  平凡に生きたい、でもま、老後に1人は嫌だなぁ、くらいに構えた恋愛偏差値最底辺の絢佳と、こう見えて仕事人間のイケメン疾矢。振り回しているのは果たしてどっちで、振り回されてるのは、果たしてどっち?

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~

恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」 そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。 私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。 葵は私のことを本当はどう思ってるの? 私は葵のことをどう思ってるの? 意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。 こうなったら確かめなくちゃ! 葵の気持ちも、自分の気持ちも! だけど甘い誘惑が多すぎて―― ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

【完結】俺様御曹司の隠された溺愛野望 〜花嫁は蜜愛から逃れられない〜

雪井しい
恋愛
「こはる、俺の妻になれ」その日、大女優を母に持つ2世女優の花宮こはるは自分の所属していた劇団の解散に絶望していた。そんなこはるに救いの手を差し伸べたのは年上の幼馴染で大企業の御曹司、月ノ島玲二だった。けれど代わりに妻になることを強要してきて──。花嫁となったこはるに対し、俺様な玲二は独占欲を露わにし始める。 【幼馴染の俺様御曹司×大物女優を母に持つ2世女優】 ☆☆☆ベリーズカフェで日間4位いただきました☆☆☆ ※ベリーズカフェでも掲載中 ※推敲、校正前のものです。ご注意下さい

好きな男子と付き合えるなら罰ゲームの嘘告白だって嬉しいです。なのにネタばらしどころか、遠恋なんて嫌だ、結婚してくれと泣かれて困惑しています。

石河 翠
恋愛
ずっと好きだったクラスメイトに告白された、高校2年生の山本めぐみ。罰ゲームによる嘘告白だったが、それを承知の上で、彼女は告白にOKを出した。好きなひとと付き合えるなら、嘘告白でも幸せだと考えたからだ。 すぐにフラれて笑いものにされると思っていたが、失恋するどころか大切にされる毎日。ところがある日、めぐみが海外に引っ越すと勘違いした相手が、別れたくない、どうか結婚してくれと突然泣きついてきて……。 なんだかんだ今の関係を最大限楽しんでいる、意外と図太いヒロインと、くそ真面目なせいで盛大に空振りしてしまっている残念イケメンなヒーローの恋物語。ハッピーエンドです。 この作品は、他サイトにも投稿しております。 扉絵は、写真ACよりhimawariinさまの作品をお借りしております。

断る――――前にもそう言ったはずだ

鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」  結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。  周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。  けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。  他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。 (わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)  そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。  ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。  そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

振られた私

詩織
恋愛
告白をして振られた。 そして再会。 毎日が気まづい。

王子殿下の慕う人

夕香里
恋愛
【本編完結・番外編不定期更新】 エレーナ・ルイスは小さい頃から兄のように慕っていた王子殿下が好きだった。 しかし、ある噂と事実を聞いたことで恋心を捨てることにしたエレーナは、断ってきていた他の人との縁談を受けることにするのだが──? 「どうして!? 殿下には好きな人がいるはずなのに!!」 好きな人がいるはずの殿下が距離を縮めてくることに戸惑う彼女と、我慢をやめた王子のお話。 ※小説家になろうでも投稿してます

処理中です...