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13.懐かしい音
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目を開けると部屋は薄暗くなっていた。
重い体を起こし、乱れた髪を掻き上げる。
室内にクラウスの姿はなかった。
目線を落すと夜着姿で、一瞬、クラウスと交わったのは夢だったのだろうか、と思った。
けれど下腹部には、初めての時ほどではないが確かな違和感があり、微かにピアノの音が聴こえているのに気づき、現実なのだと息を吐いた。
行為の途中から、記憶がない。
どうやら意識を飛ばしてしまったらしい。
禁止しているので、寝室に執事や日雇いの使用人が出入りすることはない。
夜着に着替えさせたのはクラウスだろう。
ミシェルは指を下腹部に滑らせる。
そこが濡れていないのを確認する。
彼が拭き取ったのだと思うと、複雑な気持ちになった。
(……濡れてたからそれほど痛くなかったのかしら。それとも二度目だから……?初めての時とは、何だか違った)
行為を思い出すと頬が火照ってくる。
ミシェルは頭を振って、立ち上がった。
寝室から出て、ぼんやりと音のする方向へ廊下を歩いていると、買い出しから戻って来たのだろう、老執事と出会した。
「……クラウス・ブロウリを招かれたのですか?」
薄闇の中、皺の寄った双眸が目を凝らし、ミシェルに注がれる。
ミシェルは情交の痕に気づかれぬように、胸元に手を宛て、老執事から視線を逸らした。
「……会ったの?」
「いえ。ですが、この音は……クラウスが弾いているのでしょう」
「八年も前なのに。よくわかるわね」
老執事は僅かに首を傾けた。
「モーリス様は大胆で、壮大で……ご自身の作曲した楽曲でなくとも、モーリス調になるとよく言われていましたが……威厳に満ち溢れ、深く、重い……情感豊かなピアニストでした。彼はモーリス様とは真逆の質を持つピアニストです。良い意味で心がない。透明感のある美しい音色は、モーリス様とは違いますが……一度聴いたら忘れようのない、彼もまた、特別なピアニストです」
いつになく饒舌な老執事に、ミシェルは苦笑する。
この老執事も、若かりし頃はピアニストを志していたことを思い出す。
「彼の演奏は八年前と変わっていない?」
「腕は上げたようですが、本質は同じでしょう」
「……そう」
追いつける、追いつけたかもと。
そんな風に思ってしまっていたのは、ミシェルが子どもだったから。
無知だったから、彼の特別な才に気づけなかっただけなのだろう。
八年の年月は、彼と肩を並べるためではなく、ましてや追い越すためでもなく。
彼の才能に気づくための、年月だったのだ。
(もし八年前に気づいていたら、私は今でもピアノを弾いていたのだろうか……)
いくら努力しても、決して追いつけないものがあると知っていたら――。
「……ミシェル様?」
老執事が、神妙な顔をしたミシェルを訝しんでいる。
ミシェルはつまらない考え事を頭の奥に追いやった。
「クラウスは今、ダトル皇国のピアニストとして招かれているの。ライネローズにはひと月滞在するらしいわ。その間、何度かうちに呼ぶことがあるかもしれないけど……八年前のことで、あなたも色々思うところはあるでしょうけど、詮索はしないで」
現在も八年前も、オービニエ家の資産はこの老執事が管理している。
彼に訊いたことはなかったが、彼もまた、クラウスの悪事を知っている可能性は高い。
いくら類稀な才能のあるピアニストといえども、過去に金を盗んだクラウスを自宅に招き入れることを案じているのかもしれない。
静かな口調で、心配はいらないから、と続けると、老執事はしばらくの沈黙の後、はい、と答えた。
音を立てぬようドアを開けたが、すぐに気づかれてしまう。
クラウスが指を止め、振り返る。
「懐かしくて勝手に入り込んでしまった。すまない」
「いいえ。構わないわ。続けて」
立ち上がり掛けた彼を、ミシェルは手を軽くあげて、制止する。
「あなたの音が聴きたいの」
クラウスは戸惑いながらもピアノに向かう。
ミシェルは椅子に座った彼の横に立ち、長くしなやかな指が鍵盤の上を軽やかに動くのを見下ろす。
「お父様の曲ね」
彼が奏でていたのは、モーリスが最後に作曲したワルツだった。
特に技術がなくても弾ける、テンポのゆっくりした曲だ。
「知ってる?この曲、お父様の中で一番不評なのよ」
確か父がこのワルツを発表したとき、彼はすでにいなかった。
「何というか……ありふれた曲でしょう?お父様らしくないって、当時はずいぶん批判されたのよ。まあ、今はお父様の最後の作品だし、一応の評価はされているけど。……でもね、お父様らしくはないけれど……私この曲、一番好きなの」
クラウスの指が止まった。
「どうしたの?」
「……いや」
クラウスは演奏を再開する。ミシェルは目を閉じて、彼の音に聴き入った。
「体は……起きていて、平気なのか?」
曲が終わり、クラウスが躊躇いがちに尋ねてくる。
「平気よ。問題ない。……それより、もっと弾いて。何でも良いから。あなたの得意なのでいいわ」
ミシェルが頼むと、男は苦笑し、八年前もよく弾いていた耳に馴染んだ曲を演奏し始めた。
(懐かしい)
色褪せた風景が徐々に鮮明に、色づいていくような感覚がした。
八年前と同じ場所で彼の演奏を聴くと、確かに、彼の本質は、昔とそう変わってはいないのだと気づく。
(もしかしたら……あの頃の私は、可能性に満ちていて。自分の限界を知らなかったから)
彼の特別さに気づいていなかったのではなく、この特別な音を、いつか自分も手にすることが出来るのだと。そう夢を見ることが出来ていたのかもしれない。
自分の才能に見切りを付けていなかったら、今だって。
彼の才能を妬ましく感じたりなどせず、いつかこの音を手に入れてやると、そんな儚い夢を追うことが出来ていたのかもしれない。
ミシェルはそんなことを思いながら、小さく笑んだ。
重い体を起こし、乱れた髪を掻き上げる。
室内にクラウスの姿はなかった。
目線を落すと夜着姿で、一瞬、クラウスと交わったのは夢だったのだろうか、と思った。
けれど下腹部には、初めての時ほどではないが確かな違和感があり、微かにピアノの音が聴こえているのに気づき、現実なのだと息を吐いた。
行為の途中から、記憶がない。
どうやら意識を飛ばしてしまったらしい。
禁止しているので、寝室に執事や日雇いの使用人が出入りすることはない。
夜着に着替えさせたのはクラウスだろう。
ミシェルは指を下腹部に滑らせる。
そこが濡れていないのを確認する。
彼が拭き取ったのだと思うと、複雑な気持ちになった。
(……濡れてたからそれほど痛くなかったのかしら。それとも二度目だから……?初めての時とは、何だか違った)
行為を思い出すと頬が火照ってくる。
ミシェルは頭を振って、立ち上がった。
寝室から出て、ぼんやりと音のする方向へ廊下を歩いていると、買い出しから戻って来たのだろう、老執事と出会した。
「……クラウス・ブロウリを招かれたのですか?」
薄闇の中、皺の寄った双眸が目を凝らし、ミシェルに注がれる。
ミシェルは情交の痕に気づかれぬように、胸元に手を宛て、老執事から視線を逸らした。
「……会ったの?」
「いえ。ですが、この音は……クラウスが弾いているのでしょう」
「八年も前なのに。よくわかるわね」
老執事は僅かに首を傾けた。
「モーリス様は大胆で、壮大で……ご自身の作曲した楽曲でなくとも、モーリス調になるとよく言われていましたが……威厳に満ち溢れ、深く、重い……情感豊かなピアニストでした。彼はモーリス様とは真逆の質を持つピアニストです。良い意味で心がない。透明感のある美しい音色は、モーリス様とは違いますが……一度聴いたら忘れようのない、彼もまた、特別なピアニストです」
いつになく饒舌な老執事に、ミシェルは苦笑する。
この老執事も、若かりし頃はピアニストを志していたことを思い出す。
「彼の演奏は八年前と変わっていない?」
「腕は上げたようですが、本質は同じでしょう」
「……そう」
追いつける、追いつけたかもと。
そんな風に思ってしまっていたのは、ミシェルが子どもだったから。
無知だったから、彼の特別な才に気づけなかっただけなのだろう。
八年の年月は、彼と肩を並べるためではなく、ましてや追い越すためでもなく。
彼の才能に気づくための、年月だったのだ。
(もし八年前に気づいていたら、私は今でもピアノを弾いていたのだろうか……)
いくら努力しても、決して追いつけないものがあると知っていたら――。
「……ミシェル様?」
老執事が、神妙な顔をしたミシェルを訝しんでいる。
ミシェルはつまらない考え事を頭の奥に追いやった。
「クラウスは今、ダトル皇国のピアニストとして招かれているの。ライネローズにはひと月滞在するらしいわ。その間、何度かうちに呼ぶことがあるかもしれないけど……八年前のことで、あなたも色々思うところはあるでしょうけど、詮索はしないで」
現在も八年前も、オービニエ家の資産はこの老執事が管理している。
彼に訊いたことはなかったが、彼もまた、クラウスの悪事を知っている可能性は高い。
いくら類稀な才能のあるピアニストといえども、過去に金を盗んだクラウスを自宅に招き入れることを案じているのかもしれない。
静かな口調で、心配はいらないから、と続けると、老執事はしばらくの沈黙の後、はい、と答えた。
音を立てぬようドアを開けたが、すぐに気づかれてしまう。
クラウスが指を止め、振り返る。
「懐かしくて勝手に入り込んでしまった。すまない」
「いいえ。構わないわ。続けて」
立ち上がり掛けた彼を、ミシェルは手を軽くあげて、制止する。
「あなたの音が聴きたいの」
クラウスは戸惑いながらもピアノに向かう。
ミシェルは椅子に座った彼の横に立ち、長くしなやかな指が鍵盤の上を軽やかに動くのを見下ろす。
「お父様の曲ね」
彼が奏でていたのは、モーリスが最後に作曲したワルツだった。
特に技術がなくても弾ける、テンポのゆっくりした曲だ。
「知ってる?この曲、お父様の中で一番不評なのよ」
確か父がこのワルツを発表したとき、彼はすでにいなかった。
「何というか……ありふれた曲でしょう?お父様らしくないって、当時はずいぶん批判されたのよ。まあ、今はお父様の最後の作品だし、一応の評価はされているけど。……でもね、お父様らしくはないけれど……私この曲、一番好きなの」
クラウスの指が止まった。
「どうしたの?」
「……いや」
クラウスは演奏を再開する。ミシェルは目を閉じて、彼の音に聴き入った。
「体は……起きていて、平気なのか?」
曲が終わり、クラウスが躊躇いがちに尋ねてくる。
「平気よ。問題ない。……それより、もっと弾いて。何でも良いから。あなたの得意なのでいいわ」
ミシェルが頼むと、男は苦笑し、八年前もよく弾いていた耳に馴染んだ曲を演奏し始めた。
(懐かしい)
色褪せた風景が徐々に鮮明に、色づいていくような感覚がした。
八年前と同じ場所で彼の演奏を聴くと、確かに、彼の本質は、昔とそう変わってはいないのだと気づく。
(もしかしたら……あの頃の私は、可能性に満ちていて。自分の限界を知らなかったから)
彼の特別さに気づいていなかったのではなく、この特別な音を、いつか自分も手にすることが出来るのだと。そう夢を見ることが出来ていたのかもしれない。
自分の才能に見切りを付けていなかったら、今だって。
彼の才能を妬ましく感じたりなどせず、いつかこの音を手に入れてやると、そんな儚い夢を追うことが出来ていたのかもしれない。
ミシェルはそんなことを思いながら、小さく笑んだ。
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