ネイビー トーン

輪念 希

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◆ 青柳 晃介

「昨日、悠二ここだったよな」
「俺もそう思った、このボロい自販機の音してたよな」
「じゃあ、誰が切った?」
「自分?じゃなさそうだったけどな」
「寝息聞いてたのに。過去の見てるけどおやすみ配信のときは時間切れまで絶対切らないのにさー。コメ出来なかったじゃないか」
「嫁も言ってたわソレ。気のせいかも知れないけどシャッターの音と足音したよな?」
「あれやっぱり足音か!ちょっと思ったんだよ」
「連れ込み、じゃないよな?それはちょっとマズイぞ?」
「たぶん一人だったと思うけどな…。友達といるならわざわざ此処に来なくたって自分の所の社長の部屋借りれば良いんだし」
俺はひそひそと言い合う司と栖本に、一息置いてから声を掛けた。
「お早う」
「あ!晃介!昨日の悠二の配信聴いてた?」
司が珍しく仮眠していない。
「いや。が、内容は良く分かった。ここじゃないんじゃないか?自販機なんて何処にでもあるだろ」
聴いてもいたし、その配信を切った犯人は俺なのだが、とりあえず事態の収拾を優先する。
「そう言われればな、そうなんだけど。なんか、ここに泊まってもいいかって高井が聞いたらしいし」
栖本もスマホも弄らず、火の無い煙草を挟んだ手で司を指差す。
「初日にな」
「そーいえば!初日シャッターも閉めずに帰ってたろあいつ。言うの忘れてた。玄関の鍵しかしてねーの」
「あーも、そんなのどうでもいい。俺が説明しなかったんだよ、悠二は悪くない」
「うーわ!ね、聞いた?青柳さん」
司の変貌ぶりには俺も驚きだ。
元々愛想は良いが実質は冷めた性格で、ここまで他人に興味を持つ奴ではなかったはずだ。
「で、本人は居るのか?」
俺は疲れが残る重い目元を軽く押さえてから司に尋ねる。
「まだ来てないぞ。だからこんな話してるんだろ?」
「…そうか」
(帰ったのか…)

俺は昨夜、ついに高井に手を出した。

あれは、綾斗じゃなかった。

「切ったの幽霊だったらどうする?悠二大丈夫かな」
「ユーレイ!?」
そういうのが苦手な司に栖本が呆れて言う間に、俺は窓から駐車場を見るが、高井の車は確かに無くなっていた。
「足音する幽霊ですかって」
「足音しないって証拠あるのか?」
「え、お前何才!?俺は36ですけど!」
「37だよ…。あ、黙って。橋下君が降りて来た」
司がいつものように澄ましてベンチに座る。
「お早うございます青柳さん!」
「お早う」
橋下はいつものように元気に挨拶をするが、仕事場ではあまり触っている所を見かけないスマホを手に何やら近寄って来る。
「少しいいですか?」
「あ?何だ?」
「あの、俺昨日ですね、アイツの…あ高井の、あ高井さんの、配信ってやつ聴いたんですよ。調べて」
橋下がスマホをタップしてYUJIのページを見せて来る。
「…ほう」
「結構、そのまあ、上手いっていうか?皆さんにもお伝えしておこうかなって。二岡さんには上で見せて、二岡さんソッコーで登録してましたけど。QRコード出しましょうか?」
俺達が黙ってしまい、橋下はきょろきょろする。
「…あ、そうですよね!先輩達あんまりこういうの。すみません」
失礼だったとでも思ったのかスマホをポケットに入れた。
「橋下君」
司が背後から、橋下の肩に重い手を置いた。
「は、はい?」
「仲良くなろうよ、俺と」










八時半過ぎにスタジオに着いた。
明け方に一度帰ってから来たせいで少し遅くなってしまった。
「お早うございます」
俺が入ると全員がベンチ前に勢揃いだった。
微妙に揃っていない挨拶と視線が一気に来て、
「あ…遅くなりました…?」
俺はとりあえずそう言いロッカー室に行こうとするが、
「お、そのネックレス良いね。似合ってるよ悠二」
三条さんが立ち上がって近づいて来る。
「あ…」
「良いデザインだね」
胸に顔を寄せてまじまじと見ている。
橋下さんも無言で近づいて来るし、
「Kってやっぱり神城の?自分で買ったのか?金持ち?」
栖本さんはその距離から相当に目が良いのか、スマホを弄りながら困る質問をして来る。
「すっご!」
橋下さんは揺れるダイヤを突っつく。
「え…と…」
「僕もいい?」
二岡さんも笑顔でやって来る。
「わお、カッコいいね!え!?これ買ったの?あ!そーだ高井君、僕今日ねさっき橋下君に…痛!!」
二岡さんは何故か橋下さんと三条さんによって突き飛ばされてしまった。
「もしかして、プレゼント?」
三条さんはイケメンスマイルで訊いてくるが、またネックレスに顔を寄せる。
「ん?あれ?…これどこの店?見たことあるような…」
三条さんが気付くのは時間の問題だった。すると、
「それ、俺だぞ」
全員が青柳さんを見る。
「作品に因んで。記念にな」
栖本さんの横からこっちを見ている青柳さんと目が合わせられず、驚いている三条さんに視線を預けた。
橋下さんがムッとした顔をしてネックレスを手に取る。
「青柳さんから…?」
(こいつまたか…)
そう思った瞬間に青柳さんが言う。
「橋下、お前にも買ったろ一番最初に」
(え…?)
その言葉に俺はまたショックのようなものを受ける。
「そうですけど…。あ、俺まだ使ってるんですよ?青柳さんが買って下さった財布」
橋下さんは青柳さんの前に座りに行く。
「まだ?もう古いだろ」
「…悠二?」
三条さんに小声で呼ばれて目を逸らす。
バレてしまいそうで俺は焦った。
「飲みの席とかで同期に自慢してます」
「新しくしろよ。お前だってもう身の回りのものくらい揃えられるだろ?」
「験担ぎです。これ持ってるとオーディション受かるので」
「たまたまだろうが」
(俺こんなことにショック受けてるのか?)
「青柳さんからっていうのが嬉しかったんですよ俺、憧れですから」
「まーた媚びてるよ猫たん」
栖本さんが呆れて笑っている。
そんな平穏な日常が俺の周りで繰り広げられている。
「媚びてるんじゃないです。それに大事なのは金額じゃないですからね」
橋下さんはまたムッとして俺を見る。

(そうだ、いつも通りなんだ、この人達は。違ってしまったのは俺だけだ)

俺は橋下さんを煽る方法を取った。
「やっぱり青柳さんって優しいんですね
橋下さん。そうそう、金額じゃないでしょ。噛みつかないで貰えます?」
「な!」
「俺のにちょっとダイヤがついてるからって。可愛すぎでしょ猫たん気質」
「ちょ…ちょっと!高井君」
二岡さんがあたふたするが栖本さんが入ってくれた。
「だーいじょーぶだって。もうネタだろこいつらのコレ」
「あ、そうなの?ホント?」
二岡さんはほっとする。
「ネタなんかじゃないですけど!?あーもう!ホントにムカつく!!」
橋下さんが真っ赤になって怒る。
それを見て青柳さんと栖本さん、それと安心しきった二岡さんが「ついに言ったな」と大笑いした。

(仲間っぽい。今は俺も、この人達の)

「きっとまた、橋下さんにもダイヤの付いた何か買ってくれるんじゃないですか?」
俺がわざとらしく笑いかけると橋下さんは本気で地団駄を踏んだ。
「なんであれが!あんな態度が許されるわけ!?あいつ何なんですか!?」
「あはははは!!お前もうその素のキャラで行けってこれから。おもしろいぞ橋下ー」
栖本さんがまた笑った。
(そうだ、これで良いんだ。俺もここに居なきゃ)
俺は三条さんに笑いかけてから、バッグを床に置いてベンチに行くと橋下さんの横に座った。
「橋下さんちょっと詰めて」
「俺の方が先輩なんだぞ!」
「僕も座ろっと!」
二岡さんも嬉しそうに俺の前、栖本さんの横に座る。

(これで良いんだ)

青柳さんと話さなければ不自然だと思い、俺は笑顔で青柳さんを見る。
「にしても、コレ。俺ちょっと本気で喜んじゃったのに。恥ずかしい」
ここで青柳さんが何か笑って冗談を言えば、全て上手く行く。
「人たらしですね、ワルイヒト」
丸く収めて無かった事にすれば良い。
だが青柳さんは、俺を見て笑っていなかった。
「何とでも言ってろ」
そう言う目に、今朝自分の部屋で作り込んできた何かが途切れそうになって慌てて目を逸らす。
「色っぽいのいいね高井君!」
「お前その顔でそれはやめとけ、なんか玄人みたいだぞ?その道の」
二岡さんと栖本さん。
「その道って」
俺も酷い言われように笑って不安を誤魔化した。
「だから高井さんはエロいって言ったでしょ俺」
橋下さんがドヤる。
真顔で返されて内心で戸惑っているのは俺だけだ。皆んなはいつものクールな青柳さんとして笑っている。
「だったら、俺も何かプレゼントしようかなー」
三条さんが後ろから俺の肩に手を乗せてくる。
「え?三条さんが?俺に?」
「何がいい?」
「赤羽は綾斗とプレゼントの絡みないのに?」
栖本さんがついにスマホを置いた。
(これで、良いんだ…)
「えー記念だろ?確かに絡み薄いけど」
「じゃあ俺と絡みます?高井と」
「なにー悠二、可愛いぞ。そうしよう。にしてもやっと慣れたな、良かった」
(輪って、こういう事なんだ)
「三条さんと高井さん、写メ撮っていいですか?」
橋下さんがスマホをかざしてくると意外な栖本さんも無言で撮影した。
「僕も!うわ兄弟みたい」
「みんな、一万円ずつ払ってくれよ?俺達の美貌は安くないんだ」
「カッコいい!それ何の台詞だっけ?」
二岡さんは菓子を両手に持ってアイドルのファンみたいに振っている。
「いや台詞とかじゃないから。SNSにアップするならその倍ね」
「高すぎだろ。っしゃ、上行くか」
栖本さんが笑って青柳さんと一緒に立ち上がった時、山口さんが二階から降りて来た。
「皆さんすみません、お早うございます」
「お早うございます」
全員で挨拶を返す。
「今日は15分から開始になります。もう少し時間があるので、どうぞまだ座ってて下さい。あとこれ、ビジュアルが新しくなりましたのでご確認下さい」
山口さんは近くの俺にクリアファイルを渡して戻って行った。
「何かあったのかな」
「さあな」
栖本さんと青柳さんがもう一度ベンチに座る。
「ビジュアルどんな?」
二岡さんと三条さんが覗き込んで来る。
「あ、どうぞ」
「いいよ、悠二が持ってな。見えるから」
確かにはっきりとした色使いになった神城と綾斗。
「あれ?綾斗ってここにホクロあった?」
「ん?」
二岡さんが指差して三条さんが後ろから顔を近付ける。隣の橋下さんも覗き込む。
「無かったですよね?」
すると、
「あ!」
二岡さんが俺の顔を指差した。
「どした…ああ!ホントだ!悠二ここに黒子あったのか!」
「え?どこですか?」
橋下さんは回り込んでまで確認しに来る。
新しくなった綾斗には、俺と同じ場所に黒子が付いていた。
栖本さんも立ち上がって上からビジュアルを見ると、続いて俺を見て言う。
「お前に寄せてきたなコレ。細かいことするなー小野江先生」
青柳さんも栖本さんと入れ替わりで一度すっとビジュアルを取って確認してから俺に返してくる。
「わざわざイラストレーターに注文したんでしょうね」
橋下さんも青柳さんに言って笑う。
「だろうな」
「先生スッゴイ見てたもんね、高井君の顔。気に入ったんだねー」
二岡さんだ。
「そうすると…まあ、この神城も晃介に似てるっちゃ、似てるよな?」
三条さんは俺に言うが、俺は適当に笑顔で流した。
「僕思うんだけど、今回のキャラってなんか皆んな似てない?三条さんも美人設定の薫さんだし、青柳さんと仲良いし。晴臣の性格もほら…」
二岡さんはそこまで言って、
「え?」
と問う橋下さんに「なんでもない」と笑った。
「俺は!?」
栖本さんだ。
「栖本君は大月って感じ。新人の良い先輩って感じするよ?」
「はあ!?嫌だし!俺新人の先輩なんか嫌だし!めんどくせーし!」
「お前は?」
青柳さんが二岡さんに訊く。
「あ、僕いないじゃん!僕いなーい!」
横山っぽくは無い二岡さんの「全員似てる説」の破綻に全員が笑った。
「ガヤだガヤ」
栖本さんに意地悪そうに言われて二岡さんは爆笑する。
「ひどーーーい!!僕だって台詞結構あるのにーー!」
「てか、そう思って見ると神城って確かに悪い笑顔してるわ。中の人そっくり」
三条さんがまた一人クスクス笑う。
「どう言う意味だそれ」
青柳さんも三条さんに笑いながら突っ込む。
「聞こえた?ごめんごめん。なー悠二」
「あ…はい。見た目は少し、似せてそう、ですね」
「だよな!悠二が言うんだからホントだ」
「神城は俺から見てもカッコイイ男ですよ」
「そなの?」
栖本さんだ。
「はい。だからイメージしてやりやすいですよ」
「リアルだもんね、高井君の綾斗。すごいと思うよ僕」
「…ありがとうございます」
すると橋下さんの視線を感じて、身構えた俺だったが、橋下さんは少し微笑んだ。だが、

「神城神城って、あまり入れ込んでまた暴走するなよ?」

その声になんと無く皆んなが静まって青柳さんを見る。
皆んなで見た青柳さんは自分の組んだ足の先を見る様に目を伏せていた。

「落ち着いて演技しろ。でないと負担になってまた倒れるぞ、高井」
すっと俺を見る青柳さんの目も静かで、全員が気を引き締めるのを感じた。

「ったく何に時間食ってんだか。そろそろ上に行くぞ。全員で急かせ急かせ」
青柳さんが笑って立ち上がって、全員がほっとしたように、それでも緊張感は持ったまま青柳さんの背中に続いた。





『お早うございます。お待たせしました。今日は林さんが別の収録で昼過ぎに来るというのと。一応予定通り、明日で録りきるつもりでいます。ので、今日いけるだけいきます。余裕はあるから、まあ、大丈夫でしょう』
大西監督の話をみんな頷いたりしながら聞いている。
『で、音くれる徳井君が今朝ね、綾斗と神城のイメージのBGMくれたのでちょっと聞く?みんなでね』
俺は青柳さんを見てしまい、青柳さんも俺を見た。あの日徳井さんは確かにそう言っていたがまさか本当に作るとは思っていなかった。
俺と青柳さんは少し笑った。

『これ神城さん。基本的に夜のエッチの時に流れるかなと思います』

俺は何故か天井を見上げて待った。すると思った以上の本格的な曲が徐々にボリュームアップして聴こえて来る。
神城の曲はバイオリンの重奏で、タンゴ調の大人っぽくセクシーな感じだった。
「こんな曲つくの?すごいな」
栖本さんが驚く。
「エロい」
と橋下さん。
「いいねえ。やらしいよ。イメージに貰えば?似合ってる」
と三条さんが青柳さんの背中を叩く。
「どこで使うんだよ、アホ」
青柳さんはつい吹き出し笑いをした。
俺はそんな様子を見ながら神城と赤羽を思い浮かべていた。

年齢の近い青柳さんと三条さんの雰囲気は、ここに居る誰と誰よりもナチュラルで、歳の離れた俺がどうして青柳さんと並べるなんて思っていたのだろうと、ふと目が覚めた気分だ。

(そうだよな。俺って何考えてたんだろ)

「ん?」
三条さんが俺に気付いた。
「悠二、似合ってるよな晃介に」
「お前はもういい、黙って聴けよ」
青柳さんは三条さんの頭を台本で軽く叩く。
「似合ってますよ」
俺は三条さんに笑い返して、大西監督を見る。

『次、綾斗ね。コレはね、良すぎるからメインもこれでいこうかって今話してる』

俺がまた同じように待っているとピアノのソロが流れた。
「わお…」
二岡さんだ。
静かで清く、どこか切ないような気もする旋律。
「あの人仕事してるんだな」
青柳さんが三条さんに言って三条さんは笑う。
「才能しかない音だよな」
三条さんは俺に「良かったな」とウインクした。
「ぽいな、清純な綾斗に合ってる」
栖本さんも案外感受性が高いタイプなのか、目を閉じて聴き入り、
「いいなー綾斗」
橋下さんは微笑んでスピーカーを見ている。

『ね?良いでしょどっちも』

大西監督に全員が頷いた。

『なんか知らないけど、彼やる気出しちゃってね。ま、そういう感じで進んでるから、こっちも頑張ってやりましょう』

こんな素晴らしい曲も、青柳さんが言っていた俺に返って来た我慢の見返りなのだろうか。
俺は自分の身でこれだけのものを得られるなんて今まで思ってもいなかった。
他より少しだけリスナーが喜ぶ程度だと。

俺は今まで進む道を間違えて居たのかも知れない。
そう思うと目立ち過ぎないように調整して生きて来た人生もおかしくなってきた。どちらかと言えば、平井さんのように、夜を舞台に生きた方が得る物は多いのかも知れない。
『え?神城の?』
大西さんはミキサー室の中の話をする為にマイクを切って暫く真剣な表情で色々とやっている。再び流れてくるバイオリンの重奏。

(なんとなく、俺の居場所はそっち側だって…分かってなかったわけじゃないけど)

そうだ、俺は今までに何度もそう気付かされる場面に出くわして生きて来た。
mimikone関係でも、私生活でも、女も男も言いよって来た。

(あの頃だってそうだった)

何度も優しそうな顔をして俺に面会をしにやって来ては、迎え入れたいと言ってくれる新しい家の話しをしていたあの夫婦との間に起きた「奇妙な破談」も、今思えばそうだった。
夫婦の夫だけがそのあとも何度か窓の外に立っては不思議な目で俺を追っていた。それを大人達に咎められているのも何度も見た。
咎められて諦めて俺を置いて行く背中を何度も見た。
その後直ぐに、高校の受験も目の前にして俺はあの家を出るように促されたのだ。

あの目の意味も今なら分かる。力づくでも入って来て、何処へでも俺を連れて行けば良かったのになんて、他人事のように思う。
(好きにすれば良かったのに)
あの当時もたぶん、俺はそう思いながらあの男の目を見ていた。
連れ出してくれと、俺がそう訴えていたのかも知れない。

『また必ず会いに来るよ』

ふとまた頭に響いたそんな誰かの言葉。

平井さんと初めて会った時に急に思い出したあの声だ。でも、どんな色の声だったのかを思い出せない。あの男の声でもない。
(誰だったんだろう…)
声の人もあの男も、誰も戻って来やしなかった。

そんな人生だ。
ただ自分が乗り気じゃなかっただけで、入り口は常に開いていた。今も。
暑い夏の、照り返す白い世界の何処かに、俺が座るべく椅子がある気がしている。
俺にとってはたぶん何より楽な道だ。踏み込んでしまえば、キスと同じように無駄な抵抗も驚くほど何でも無い事になって、この何者でもない肌に他の誰よりも馴染む人生のはずだ。

「…何笑ってる」
マイクに向かいながら青柳さんがちらりと俺を見る。
「え?ああ、いいえ。別に何も」
俺はすぐにそれだけ言って、マイクに立った。

(でも今俺がしたいのは色目使って稼ぐことじゃない。今はまだここで、綾斗で居たいんだ)

あと二日。
たったそれだけをせっかく見つけられたこの輪の中で生きたい。

その後の事は、別に本当にどうでもいいのだ。
守る者も無ければ、失くす自分も無い。
そんな俺だからこそ、誰にも知られずに昼に背くのなんて簡単な事だ。
平井さんのように仕事だなんて割り切れもせず、与えられる他人の気持ちの温度に一度嵌ったらそれで終わり。

行く先が見えて、俺は少し気が楽になった。

こんな危ない俺みたいな奴が自分と同じ空間に居るなんて、ここの誰も気づいていない。

俺は気付かれないようにみんなの顔を見る。
今なら少なからず、ここの一人一人とのエピソードがある。
(今はここで)

この古いスタジオで。

(まだ、ここにいたい)

あと二日。
どうしても壊したくない居場所だ。




あの閉じ込め事故の翌々日の日曜日。
{僕は真冬の夜に神城さんに突然呼び出され、二人で居酒屋で飲んでいた}

『それで、大月さんは来てくれるんですが、神城さん…どうですか?』
『お前の家だろ?』
『そうです。父がどうしてもって。本当に気を遣わずに来て欲しいんです。ちょっと父の面倒な話しを聞いて貰えるだけで』
(そういえば、手紙まだ書けてないな…)
今日中に林さんに渡したかったのに。まだ白紙のままだ。
『俺が?』
『嫌、ですか?』
『嫌とかって話じゃないだろう。行けるかよ』
『どうしてです?そんなに…拒否しなくても…』
『どんな顔して会うんだ?お前の親父と』
『え?普通に。逆にお伺いしますけど、何が嫌なんです?僕はもう…あなたにはそんな気持ちないですから。安心して下さい』
{それは嘘だけど、僕は忘れようと努力している。だからこんな風に二人になるのは僕にとって嬉しい事じゃない。でも職場の人として父さんに会わせることで、僕もけじめをつけられる気がしていた}
暫く無言のカウントを取る。
『す、好きな人が出来たので』
神城は無言。
『僕と付き合ってくれるって言ってるし…だから本当にもう、あなたのことは』
『名前は?』
『な、名前?教える必要ありますか?』
『横山か?』
『違います』
また無言のカウント。

『付き合うか?』
さらっと言う流れでも青柳さんの声は甘い。
『え?なんです?』
『俺と付き合うか?』
一度目よりも更に低くて甘い、でも重くない。こういうのがこの人の上手いと思うところの一つだ。すとんとキマる。

また二人は無言。
『え…ええ!?』
『そいつの事は断っておけよ?』
『神城さん!?』
『まだ時間も早いし、出るぞ』
『けど!』
『何か買ってやる』

この時、俺の心臓が一瞬、物凄い音を立てた気がする。

(…いやだ)

『高井、何か選べよ』

『良ければ買ってやる。記念に』

(落ち着け…)
息が詰まって、何故か記憶が走馬燈のように。


『練習、かなにか?』

平井さんとのキス。その濡れた赤い…

『君のままじゃ、ダメなのか?』
『それで手に入るならそうしてるだろ?』

(いやだ…)

『君ヤバイね…』


{そうして僕は神城さんに、神城さんのイニシャルのネックレスを頼んだ}
『なんでKなんだ?綾斗のAじゃないのか?』
『え、ダメ、ですか?』

『せめてYにしろよ。今は良いが、後々使えないんじゃないか?』

『神城さんの名前がいいから…。あ、ほら僕も岸でKだし。男は名字も変わらないし』

『どうしよう…俺、これめっちゃ好き…』

(苦しい…)

記憶は時間軸を定めず、
透明な泉に浮いては消える。
現実の時間も台詞も、勝手に進んでいる。

(どうしたんだろう、俺…)

神城と綾人の二人っきりの世界なのに、
透明な泉は波紋一つ無い。

『俺はお前が思っているような良い奴じゃないぞ?綾斗』
昨日の夜の青柳さんの目を勝手に思い出している。
『はい…それでも僕は、あなたが好きです』
『それ、ずっとつけてろよ?他の男に触らせるな』

やっと叶った綾斗の想い。
(どうしてだろう…嬉しい俺)

朗読やら声劇やら、色んな台本を読んできたが、こんな風に嬉しいと感じたものは無かった。
キャラクターが泉に居て、感動は感動として表現出来ていたけれど、気持ちが入っていたかと訊かれれば、俺の気持ちでは無かった。

綾斗は今幸せな気持ちで、初めて招かれた神城の部屋で神城に抱かれている。

吐息も何もかも勝手に出てくる。
溢れるように、俺は綾斗を演じている。

『好きです、神城さん…』

その一言の為に息を大きく吸うと、俺の胸のダイヤが揺れるのを感じた。

そして俺は漸く分かった。

(そうか…)

綾斗は最初から俺の中にちゃんと居たのだと。

綾斗の色は「透明」だったのだ。

空っぽの俺はそれに気付けず、ずっと綾斗を探していたのだ。

(だけど、何だろう)
酷く、静かだ。
(これが本当の綾斗…)

ネイビーがいくつも落ちて来てゆっくりと染められても、染み渡るようにして受け入れる。
跳ねる事も波が立つ事も無く、ただ綾斗の幸せを感じる。
俺の体が熱くなる事も無く、ただ平穏だけが泉にはある。

(こういうものだったんだな…)

きっと今までは綾斗が居ないと思い込んだ俺が、無駄に力んで全て乱していたのだろう。
今、俺の周りには俺を包むように綾斗が居る。青柳さんが演じる神城の声を綾斗が全て受け取っていく。
スムーズに、それらしく。
目を閉じれば綾斗が見えるようだった。
初めての恋を実らせて、神城に抱かれて、神城の名前を胸に秘めて。

(だったら俺は今まで、何をしてたんだろう…)

ふと湧いた不穏な音に、気付かないふりをした。

神城のベッドで漸く心まで温まる事が出来た綾斗は、結ばれたのだからと、もう一度抱かれようと隣で見つめてくる神城にそれとなく持ちかけるが、神城は綾斗を気遣ってそうしなかった。
『大事にしたい』
神城は綾斗に優しく言った。
重く深く落ちるネイビーの声だった。


『高井くーん』

「あ!はい」
大西監督の声ではっとする。
『今のでいいかな?』
「はい、俺はOKです」
体も冷たいままで、呼吸も何ともないが、喉にはちゃんと声を出した充実感があった俺は青柳さんを見る。
青柳さんは俺を見て黙っていた。
(何だろう)
青柳さんは俺の目をじっと見ている。
「あ、やり直しますか?」
「いや…」
青柳さんは大西監督に手を上げて、頷いた。
『じゃあこれでいただきます』

俺は何となく青柳さんに話しかけた。
いや、俺を現実に戻してもらう為だ。
「やっと気持ち、伝わりました」
俺はぺんぺんと台本を指で叩いた。
「ああ。だが、ここからまだ一波乱だ」
青柳さんは笑顔を見せた。
「ですね。でもきっと大丈夫。結末では必ず結ばれるんですから」
あと少しで、綾斗は神城と。台本通りに。それは最初から決まっている事だ。
(そうだ、力む必要なんてなかったんだ)
青柳さんはまた俺をちらりと見ると頷いて、口元だけ笑わせた。

『…綾斗。大丈夫だ、台本が全て終われば俺達は結ばれる』

青柳さんだってそう言ったんだ。
この人は知っている。俺よりももっと、作品が作品でしかない事を。
どんなに波風が立とうが、結果は決まっているのだと。

「青柳さん」
俺は振り向く顔を見る。
この人についていけば、もう道を外す事は無い。完璧に最後まで導いてくれるはずだ。
「青柳さんについて行っていいですか?最後まで」
この人はプロで、俺みたいに道に迷ったり、熱くなったり間違ったりしない。
妙な勘違いだって、起こしたりしないのだ。
今はこの人が居るだけで、道は一本なのだと安心出来る。この作品はきちんと完結して必ず成功すると。たぶん、そこが周りから求められる青柳晃介の凄さだ。
折れたりしない、大きな柱の存在感。
例え身近というより少し遠くても、
例え大西監督のように、その目がガラスの向こうにいるように見えても、これで良いのだ。

(青柳さんが居る場所は、窓の外だ)

「ああ」
青柳さんは頷く。
「そうだな」
例えそのネイビーの声が、初めて切なそうに聴こえてもーー。

トクトクトクと心臓を動かされる。
(でも俺はもう大丈夫…)

昨日の事は、夢として。

その声は、綾斗のものだから。

「ちゃんとついて来いよ、高井」
「はい」


三条さん、栖本さん、二岡さん、橋下さんが入って来て、俺は自分のマイクと向かい合う。

(俺は、綾斗)

昨日青柳さんは綾斗の為に神城になった。そして綾斗と過ごす自分の為に。
俺は綾斗と居たい青柳さんの為に綾斗になった。青柳さんと過ごしたい自分の為に。

『そんなに好きか?神城が』

青柳さんはあの時、つい自分を見せてしまっていた。誰かに嫉妬などするようには見えない人が、

『なあ、綾斗』

神城を想う綾斗に演技を忘れて苛立っているように見えた。
一度断ったキスをしてしまう程に。
(それでいい)
青柳さんは、あんな風に優しいキスをする人だった。それを知れたのは俺が綾斗役を手に入れたからだ。
俺は運だけは良い。

キスという行為を奪われる行為だと思っていたのに、今は青柳さんの一欠片を手に入れた気分だった。


『え!お前なにそれ』
『ネックレスですけど?気付かれるなんて思ってませんでした。見えてます?』
『K?彼女?』
『関係ないでしょ。さ、僕になんて構わずお仕事して下さいね大月さんっ!』
『ちょーっとお!押すなって!』
すっと後ろに下がってすっと戻って来た栖本さんと目が合って二人で笑ってしまった。
『お前…笑ってないで先輩の質問に答えなさいって』
『ふ!いいから、しつこいですってば。はい、これとこれとこれとこれ、あとこれとこれもこれもこれも、これもー』
俺はアドリブで大月の手に書類を積み上げる。
『ちょ…!…多い、多いんだっての!四枚で良いんだよ!』
『何で知ってるんです?コピーお願いします…』
『笑うな!ドSはやりきってなんぼなの!』
『お前ら、まーたやってんのか。朝からお疲れさん』
青柳さんも少し笑って入りアドリブと台本のバランスを取ってくれた。
『神城さーん。自分だって笑ってるくせに。お早うございますうー』
『お、お早うございます神城さん』
『お早う、綾斗』
『う!』
『綾斗?綾斗って呼んでましたっけ?岸のこと』
『呼んでたぞ』
『あれ?そだっけ?』
『もういいから!大月さん、コピー!』
『てかナゼ俺が!?』
『いいから!急いで下さいってば!』
『押すな押すな!まったく先輩使いが荒いぜ、あーあ。行ってきまーす』
『お願いします』
『お前こき使われてんのか?大月』
『かーわいいからしゃーないですね!はは!』
『…か、神城さん』
『ん?』
『あ!いえ…お早う…ございます』
『おいコラ』
『は、はい!』
『意識しすぎ』
『うう…笑顔やめて』
{そんなこんなで僕は、仕事中も何度か神城さんを目で追ってしまったり、外回り中でも神城さんが何してるのかを気にしてしまうおバカさんになってしまった}

{それから一週間後。神城さんから友人と飲むから今日は会えないという連絡を受けて、僕はたまたま大月さんから受けた食事の誘いに乗った}
『今日は本当にご馳走さまでした大月さん』
『なんのなんの。やっと先輩らしい事が出来て良かったよ。にしても寒いなー』
『もうすぐクリスマスですしね』
『ああ。その後は、お前の家にお呼ばれしないとな』
『はい。父も喜んでましたよ、みなさんが来てくださるから』
『神城さんも来るんだろ?身内で忘年会も兼ねて盛り上がろうぜ』
『はい!』
{時間も遅くなった別れ際、大月さんがふと通りかかったバーの窓を指差した}
『あれ?あそこに座ってるのって神城さんじゃないか?』
『え!神城さん!?どこです!?』
『おあ!いてーな。ほら、もっとこっち来てみ、ほらあそこ』
{大月さんの指の先には、確かに神城さんの横顔があった}
『スッゲーぐーぜん!声かけて行こうぜ』
『あ!ちょっと待って!』
『え?』
『…やめておきましょう。プライベートだし、ご迷惑かも』
『大丈夫だって!いこいこ』
『おーつきさん!』
『えー、そうか?あの人って仕事以外で社内の人間と付き合わないから外で見かけるのレアなんだけど、まあいっか。行こうぜ』
『はい…』

{僕が大月さんを引き止めた理由は、神城さんと一緒に居る男性がとても神城さんと親しそうで、とても綺麗だったからだった。僕は何となくその人と並びたくなくて声をかけられなかったのだ}

『やっぱ神城さんレベルになると付き合う人間も一級品だな。見たか?隣に居た男』
『え?…ええ』
『あのスーツたぶん高えぜ?』
『…あ、もう駅ですね』
『おお本当だ!気づかなかった。ええ!?近かったなー駅!!』
『ぼーっとしてるからです。じゃあ僕こっちなので。今日は本当にありがとうございました』
『いいっていいって。また行こうな。じゃあな!また明日』
『はい、お疲れ様でした。お気をつけて』
{僕は大月さんとは逆のホームで電車を待った。終電まであと二本しかない時間なのに、神城さんは帰る雰囲気ではなかった}
『なんだろう…気になる…』
{ホームに滑り込んで来た電車のライトを見たとき、僕は引き返していた。神城さんが居たバーを目指して}


ここで一度大西監督が切った。
栖本さんと橋下さんが入れ替わる。

{僕は引き返して来たのにバーの中には入れず、さっきと同じ窓から神城さんを見ていた}
『仲良さそう…』
{暫くそうして立っていると出入りする客の一人が僕の横で立ち止まった}
『あのさ』
『は、はい?』
{急に声をかけて来たのは僕と然程変わらないくらいの年齢の、こっちもまた綺麗な人だった}
『もしかして、拓馬さん絡み?』
『拓馬…さん?』
『あの人のこと見てるの?』
『え…っと…』
『やめときなよ。声かけると怒るから拓馬さん。俺も今気づいて入るの辞めたとこ』
『どういう…意味ですか?』
{何故か嫌な予感しかしないまま、僕を上から下まで見定めるようなその人に訊いてみた}
『あなたはあの人とお知り合いですか?』
『お知り合い?君もヤったんじゃないの?拓馬さんと』
『やる…?』
{すると段々とその人の目付きが変わって来た}
『ねえ、ちょっと。拓馬さんと知り合ったの、いつ?』
晴臣のその台詞に、会って直ぐに俺に嫉妬したようだった橋下さんの顔を重ねた。
『え?…同じ会社で働いてて、僕は入ったばかりですけど…』
『…なるほどね』
{どうしたんだろ、何か怒ってる?}
『あのさ、あの拓馬さんの横にいる人知ってる?』
『いえ…』
『セフレ、だよ』
『セフ…』
『因みに俺も、ね』
『え…』
『俺は晴臣、あの人は確かカオル。拓馬さんから聞いたりしてない?』
{僕はすごく嫌な気分で、混乱していた}
『もしかして拓馬さんと自分は付き合ってるとか思ってた?』
『何言って…』
『へー。なーんにも知らないんだ?かわいそ』
『可哀想…?』
『拓馬さん、誰とも付き合わないって言ってたよ。今日はあの人を抱くんじゃない?』
『そ、そんなことない!』
『惨めな思いしたくなかったらさっさと拓馬さんから離れてよ。俺も迷惑だからさ。それと、拓馬さんの本命に近いのはあの男だと思うよ。子供は嫌いなんだってさ。それじゃ』
{僕は茫然として、何の整理もつかないまま終電に乗った}
『そんなの…嘘だ…。神城さんは僕のこと…』

{本当は僕も気がついていた。神城さんは僕に愛の言葉をくれていない。あの人が僕にくれたのはこのネックレスだけ}

『これだけが、現実…』

俺は綾斗がするのとリンクして、青柳さんがくれたダイヤのネックレスを握った。
ほんの少し透明な泉が騒つく。

{僕は電車の中から神城さんに一度だけ電話をかけてみた。神城さんは電話に出なかった}

二岡さんがマイクに立った。

『どうした岸君、こんな時間に。そんな泣きそうな声で』
『横山さん、神城さんについて何か知ってるんですよね?』
『何かって?』
{部長と一緒に京都支社の二人と飲みに行った帰り、タクシー前でのいざこざで横山さんは言っていた}

『いいのか?そんな風に、その子を自分のモノみたいに扱って。子供は嫌いだったろ?』

『神城さんのことです。分かりますよね?教えてくれませんか?』
『…お盛んって、ことかな?』
『…はい』
『どうして気にするんだい?君は知らなくていいことだよ』
『今、付き合ってるんです僕、神城さんと』
『…なんだって?』
『沢山、相手がいるみたいで…。でも信じられなくて…』
『神城が言ったのか?』
『いいえ…あの人はそんなこと言いませんよね。今日…その相手の一人に偶然会ってしまって…』
『それって難癖付けられただけじゃないのかい?君は可愛いし綺麗だから』
『誤魔化さないで下さい!』
俺は声を張ってしまい、空間なのか自分の耳の辺りなのかがビリっと震えたのを感じた。
『岸君…』
『教えて下さい…お願いします横山さん!』
{横山さんは暫く黙っていたけど僕が頼み込むとやっと頷いてくれた}
『だったら、明日会おう。夜の九時にはそっちに着くようにする』
『わざわざ…来てくれるんですか?』
『当然だろう。だから今日はもう何も考えずに寝たほうが良い。明日まで仕事だろう』

俺はこの時、横山に何故かあの窓の外の男を重ねてしまった。
欲しいと言うくせに本気で奪うわけじゃない。

(見てるだけだった…)

『はい…すみませんこんなご迷惑をかけてしまって…神城さんにも申し訳ない』
『あいつが悪いんだ。君は当たり前の疑問を持っただけなんだから気にしなくていい』
『ありがとうございます』
{僕は電話を切ったあと罪悪感に苛まれた}
『…自分が好きになった人のことを信じられないなんて』
俺は最後の台詞を変えてしまった。
本当は『神城さんの事を詮索するなんて、怒られるだろうか』だった。

(俺はまた……)

大西監督は切った後、俺に問い掛けてきた。

『わざと変えたのかな?』
『はい…すみません』

俺は良くない予感を、ずっと感じないふりをしている。

『どうしてかな?』
『分かりません。でも、こっちがいいと思ったので…』
『感覚的に変えたんだとしても私は今君からの説明が欲しい。良く考えて高井君』
今まで誰のどんなアドリブでも何も口を挟まなかった大西監督は今、真剣な声で理由を尋ねてくる。
まるで最初に会った時のカウンセリングのように。
『…詮索することより、疑っていることへの罪悪感がはっきりと出るから』
俺は素直に思った通りに答えた。
台本に従わないなんてあり得ないと分かっているのに。
『綾斗は本当は神城を疑いたくなんてないから…。綾斗はまだ、怒られることなんかより、自分が神城を好きでいたいと思ってるから。後の事を考えて動けるような状態じゃない…好きでいられるのかすごく不安で。今はそれだけだから…。俺も結果は理解しているのでその中で少しだけ…すみませんでした』
すると大西監督は言った。
『私もそれで良いと思う。実は綾斗と神城については小野江先生から演技等々は君と青柳君に任せるように言われているからね』
俺は大西監督を見る。
『綾斗らしいしね、これで行こう』
みんなも異論はないと言ってくれた。
青柳さんをちらりと窺うと、青柳さんは台本を見ながら何度か小さく頷いた後、床に視線を漂わせて何か考えているように見えた。
(ごめんなさい、青柳さん)

俺は初日からずっと、勝手な事ばかりしている。

(ついて行くって言ってすぐにこれだ…)
『俺、意地になってるのかも、綾斗の想いを守りたくて…』
青柳さんが顔を上げる。
『もうこんな勝手、もうしないから…』
青柳さんの目が驚いたように見開かれた。きらりと反射して。
俺は、青柳さんに向かって『捨てないで』と言っていた。

大西監督の唸り声が聴こえた気がする。
この場のみんなの理解の範疇を超えてしまったのかも知れない。
当然だろう。

混濁していた。
結局俺は、どうしても綾斗と自分を分けられないでいる。
俺が作ってしまったこの場の妙な空気にみんなが巻き込まれているのが肌で感じられた。
俺は青柳さんが愛する綾斗のふりをして青柳さんに伝えたいのだろう。
綾斗が青柳さんを愛しているように思わせてあげたいのだ。
(今はもう、俺が綾斗になりたい理由はそこにあるんだ)
そして青柳さんが返してくる綾斗への想いを神城のものとして綾斗に聴かせたいのだ。

屈折した演技をしようとしている。
知らぬ間に黒い何かが泉の底に沈殿している。
(鎮めないと、今は綾斗になりたいんだ)

青柳さんはゆっくりマイクに向かう。
俺も自分のマイクを見つめる。
綾斗になる唯一の方法はこのマイク一つ。
俺はもう一度青柳さんの横顔を見た。すると、

青柳さんはこの空気に全く呑まれていなかった。

大きな距離を感じた。
(俺だけが無駄なことばかりしてる…)
順にマイクに立つ他のみんなの横顔も、マイクに入った瞬間にふっと役の顔になっていく。
(そっか…)
俺以外の全員がプロなのだ。
(そっか…)
何が起きようと動じない。
役に乗って自分の欲を晴らそうなんて卑怯な事はしないのだ。

「お前、いけるのか?高井」
青柳さんは台本を見たまま俺に確認した。少し冷めた声だった。

『神城神城って、あまり入れ込んでまた暴走するなよ?』

青柳さんは二転三転する俺に呆れているのだろう。
大きな差を自分と皆んなとの間に感じた。
俺は無理、とは言えず「はい」と小さく返した。
(なんで俺、こんな場所に居るんだっけ…)




『ゆうじくん、心を開いて。みんな君と仲良くしたいんだ』

俺は急に、周りから遠く離れた場所に立っていた。
横には皆んなが居るのに、蚊帳の外に俺は居る。



翌日の仕事終わり。綾斗は結局、殆ど社内に居なかった神城に何も聞けず、一日を終えた。
そして電話で言った通り、横山が来た。
『あれ?よ、横山さん!?』
『大月君。岸君はいるかい?』
『え?あ、いますよ給湯室に、あ岸』
『横山…さん』
『行こう岸君。もう帰れるんだろ?』
『…はい』
『岸?』
『すみません大月さん。僕お先に失礼します』
『あ?ああ。うん、お疲れさん…』
『お疲れ様でした』
『岸…』

『あ、お疲れ様です。すみません急に。いや、仕事の話じゃないんですけど…ああ、すみません、あの、何て言えばいいか、岸が…今日元気なくて…あ!いやそうじゃなくて…。さっき横山さんが…』

{僕と横山さんは個室がある創作料理屋を選んで入っていた}

『自分のことは何でも投げやりな奴だった、神城は』
『投げ、やり?』
『ああ、自分には何も無いみたいな顔をして。まあその分仕事には捨て身になってあれだけ働けるのかもしれないが。その反動が、あいつのプライベートだな』
『反動?』
『あいつだって人間だ、弱い部分だってあるさ。誰かに側にいて欲しい瞬間だってあるんだろう。だが、あいつは自分の性格も知ってる。ずっと同じ場所にはいられない事を』
『だから…いつも違う相手を?』
『自分の為であり、相手の為でもある』
『それで、セフレ、ですか…。あの人らしく効率的な関係ってことですね?』
『岸君…』
『分かりました…。よく、分かりました』
『でも、君のことは…』
『あの人は僕とは違うって、頭のどこかで分かってましたから…。もしかして横山さん』
『ん?』
『あなたも、同じなんですね?あの人と。だから理解してるんだ』
『…そうかも、知れないな』
『あなたは今日、神城さんの肩を持ちに来たんでしょう?』
『それは違う』
『いいえ…。あなたは僕に神城さんを許すように説得に来たんだ。僕はどうすればいいんでしょうか。あの人のセフレになればいいんですか?』
『岸君!』
『それとも、あなたの、ですか?』

綾斗の携帯電話が鳴る。
『はい、大月さん』
『悪い、岸!俺、お前に悪いことしたかも!神城さんにお前が横山さんと帰ったって言っちまった!』
『そうですか』
『お前が元気なくて、つい、あの人に。神城さんなら理由知ってるんじゃないかと思って。そしたら…』
『大丈夫ですよ。大月さん、心配してくれてありがとうございます。僕は大丈夫です』
『いや、違うってそんなことじゃなくて!神城さんがちょっと怒って通話切っちゃったんだよ。お前、大丈夫か?なんか、んーと、修羅場?とかになってないか?』
『大丈夫ですよ。修羅場ってなんです?ドラマの見過ぎですよ。神城さんから連絡もきてませんから』
『え、そう、なのか?』
『ええ、全く。ありがとうございます大月さん。ご心配なく。また月曜に』
『ああ。ははは、なんかごめんな?それじゃ』
『はい』

大月と綾斗の会話が終わった時だった。

「おい高井、大丈夫か?」

栖本さんが言った。

「…え?」
俺が見ると皆んなが俺を見ていた。
「俺、何か間違えましたっけ…?」
皆んなの顔をよく見てからその視線を追うと、行き着いたのは俺の腕だった。
「あ…」
俺は震えていた。
「別に、何でもないんで。…すみません」
『休むかい?高井君』
大西監督の声で、また不安になる。
『大丈夫です。続き、お願いします。すみません』

(なんなんだよ…頼むからしっかりしろ…!)
俺は急いで台本を開く振りをして腕を隠した。
すると、
「高井、ちょっと来い」
青柳さんがドアへ向かう。
「な、何でもないって…!」
「来い!」
突然録音室を出て行った青柳さんを見て皆んなが困惑している。
「…みません。すぐ、戻ります」
俺は青柳さんの後を追った。

録音室のドアを閉めて二階のフロアを見ても青柳さんの姿は無く、俺は急いで階段を目指したが、階段を降りる寸前で腕を掴まれた。
「あ!」
青柳さんが居て、気付いた時には一瞬で俺はその腕の中だった。

青柳さんの体温に昨日と今日が混乱して、俺は台本を抱き締めたまま何も出来なかった。
ただ胸が苦しい、それだけだった。

そして暫く経った後、青柳さんの独り言のような言葉が、落ちて来た。

「何で、止まらない?」

俺の震えは止まらなかった。
青柳さんの腕にまた少し力が入る。
「青柳さ…」
「何でだ?高井」
その声が苦しくて顔を上げると青柳さんの目が切なそうに光る。
(青柳さん…?)
鼓動が早まる。だけどそれは焦りのせいだった。
俺がこうなった時、青柳さんはこうして腕に入れてくれた。その時に俺は何故か落ち着く事が出来たのに、今は、そうならない。
身体が熱くなる事も無く、震えは止まらない。
(どうして…!)
そんな自分の違いが俺を追い詰める。
「何が変わった?」
青柳さんはまた抱き締めて俺の髪に指を入れる。
「大丈夫だから…青柳さん」
俺は青柳さんと自分に言い聞かせる。
「出来るから、ちゃんと」
青柳さんの目を見て言う。

「俺は、綾斗だから」

青柳さんはゆっくり腕を下ろした。
「…そうだったな」
青柳さんは少し俺の頬を触ったが、その目は録音室に戻る為に床を見ていた。

(平気だ。何もない。何も変わらない…)

今朝部屋で何とか手繰り寄せて縒り合わせたものが、青柳さんの背中を見て解けてしまいそうだった。

透明な泉が冷えた霧に包まれるように、緊張して張り詰めた。

青柳さんはミキサー室のドアを開けて確認している。
「あ!今ガヤ撮ってるんで、ちょっとだけ…」
沖さんだ。
「あ、いいですか?どうぞ、入って下さい」
沖さんは大西監督の指示を聞いて録音室のドアの方を手で示した。

俺は深呼吸して青柳さんに続いて入った。

「すみませんでした」
青柳さんが大西監督と皆んなに言ってマイクに立った。
俺も頭を下げてマイクに戻る。

『じゃあ、さっきの続き。大月との電話の後ね。二岡君から、いきましょう』

大西監督が特に何でも無いように言って、再開された。



『で、さっきの続きなんだが。そうしてくれって言ったら、なってくれるかい?』
『なれません。僕はあの人が好きなんです。この意味分かりますか?好きって言う気持ち、あなた達に…分かりますか?』
『…辛辣だな。俺はあいつじゃないぞ?』
『あ…すみません。大月さんが、僕が横山さんと居るって神城さんに言ったそうです。僕は、自分はあの人の恋人だと思ってた…。でも、連絡すらない。どんなに好きでも、これが真実なんですよね』
『俺もたった今、君が泣きそうになっている理由が分かったよ』
『え?』
『俺は神城の為なんかでここまで来たんじゃない。俺は自分と君の為に来たんだ。だけど、きっと君は俺を選ばない。弱ってるところを横からとってやるつもりだったけど、君にはね返されたんじゃどうにも出来ないな』
『横山さん』
『これが失恋というやつか。俺はたぶん、君のことが好きだったよ。本当に。でも俺も君も悪くない』
『すみません…本気じゃないんだって、決めつけて…僕。横山さんの気持ち無視して…最低ですよね』
『いや。俺も今分かったんだって言ったろ?あいつは、気付いてるのかな…』
『え?』
『いや…なんでもない。俺が言う事じゃないな。さあ、まだこんな時間だ。もう少しくらい付き合ってくれよ?』
『はい』

{ホテルに泊まる横山さんを見送った後、夜の街を歩いている僕は、もう、恋愛がどういうものなのか分からなくなっていた。誰かの想いは実らず、その相手の誰かの想いも実らない。みんなが逆の方向を向き続けて、ぐるりと成り立っているようだ}

『それでも、僕は…』
{昨日神城さんを見かけたバーに向かっている}
『会いたい、ただ、それだけ』

{会いたい}

また、俺の中の泉が張り詰めた。

『どうして?拓馬さん』
{バーの手前の路地から声が聴こえて、僕は神城さんと、神城さんに抱きつくようにしているあの晴臣という人を見てしまった}
『もう話は済んだだろ』
『…捨てないでよ』

捨てないで。
橋下さんは、俺が青柳さんに言った言葉を意識的に使った。
それを受けて神城は、ため息をつく場面で、何故か息を詰めた。

リアルな間だった。

{神城さん…}
『君、なにしてるんだ?』
赤羽の声。
『あ!』
{この人は…神城さんと座っていた人だ}
『…綾斗?』
{神城さんが僕に気付いて、みんなが僕を見る。まるで来てはいけなかったのにと言われているようだ}
『なに、してるの?神城さん…』
『お前、横山といるんじゃなかったのか?』
{僕は何もかもを打ち砕かれた気分になって、そこから走って逃げた}

『顔が見たくなってな、お前で良かった』
ふと、俺を綾斗だと思ってそう言った青柳さんの顔が思い浮かぶ。

そしてついさっきの、切なそうに見えたあの目も。

『待ってくれ!』
{昨日神城さんと一緒にいた綺麗な人に追いつかれ、行く先も何も考えていなかった僕は息も切れて暗い公園で立ち止まった}

『綾斗、くん、だった?僕の話を、聞いてくれないか』
息切れした演技のせいか、赤羽の声は三条さんの声によく似ていた。
『聞きたく、ない…』
『拓馬は君を愛してるんだ』


赤羽の「愛」という音は「赤」だった。


『覚えてないのか?高井みたいに。ピアス落としたろ?向こうの窓辺で』

『最近司が来たよ。先月だったかな』

『ルビーのピアスだよ。自分用って言ってたけど』
『あいつは自分でつけてから渡すからな』

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『説教くさい?ごめんな。俺も昔そう言われて直したんだ』

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『誰?』

『ん?ああ、晃介だよ』

『司だ、三条 司』

俺はあの時、三条さんに嫉妬した。

『拓馬は君と一緒にいる為に清算してるんだ。今までの自分を』

当たり前のように互いのことをよく知っているのが、その親しい空気感が羨ましいと思っていた。

『だから、拓馬を信じて待ってやってくれないか?』

俺より早く知り合っていて、その時間の分だけ、俺が二人の間に入れないのが嫌だと思った。

『大丈夫、晃介がいるだろ?』

『さよならはやめろ…お前の悪い癖だ』

『おやすみの後は、また明日だ』

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(誰にでもじゃ嫌だ)

(それは、何も無いのと同じだ)

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『綾斗君…』
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『だったらどうして?』
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俺は嫉妬していた、ずっと。
俺の知らない、此処の人達の世界に。
当たり前の様に始まって、当たり前の様に終わる世界に。

{神城さんとあの人も追いついて来た。僕を追って、何を言うつもりなんだろう}

『拓馬さん!話はまだ終わってない!こいつと俺、何が違うの!?どうしてこいつなの!?』
{泣きながら神城さんに怒鳴っているけど、この人も神城さんの事が好きなだけだ}

『俺はただ!青柳さんが、その、困ってるんじゃないかなって思っただけですよ?』

間違った糸と糸が繋がってしまい、泉が乱れていった。

『俺がこの世界に入った理由は青柳さんみたいになりたかったからだ。あの人に憧れて必死になって…』

(あんたが、みんなのものなんて…)

『体なんて、目に見えてるものなんて大したことじゃない。好きな人にあげたいのは、その人の好みに近付けた体と、性格、それからそこまでしたいという気持ちの方だ』

俺は確かそんな風に、分かった風に平井さんに言った。
でも俺は綾斗にはなれない。

『それは隣にいるこの人との仕事だからだ。他にも三条さんとかもいるんだろ?大西さんは意地悪だ。急に負担だろうどう考えても。可哀想だ』

『ねえ、可哀想だとか思った?でも俺は平気なんだ』

(平気だったのに…)

誰の背中が遠ざかろうと、引き止めたりしなかった。

『二人ともあなたの恋人ですか?神城さん…』
『綾斗君!』
『放っておけ薫、あとでちゃんと話をする』
『でも…』
『お前は家に帰ってろ綾斗』
『…なにそれ、神城さん』
『迎えに行く、それまで家に居ろ』

この声が、また俺に作用する。
青柳さんの意思でもないのに、俺は勝手に感情を揺さぶられる。
ネイビーの声が勝手に泉に落ちて来て、かつての「あの歌」のように、何の責任もなく、勝手に俺にとっての何かになる。


『いつもより子供っぽいな』

『お前いつか』
『言うのか?誰かに』

(自分が聞くつもりなんてないくせに…)

みんなそうだった。興味があるふりをして知りたがるくせに、誰もそんな覚悟なんて無い。
俺を受け止められる他人なんていない。俺自身ですら扱いきれないのに、赤の他人が何をしようと言うんだろう。

皆んなは俺に、何を言わせたかったんだろう。

『僕は子供じゃない!』
『綾斗』
『全部話して欲しかった。神城さん、どうして隠すの?二股かけたいならそう言えばいいのに!あんな…こんなの僕に渡して、黙らせるつもりだったんだ?僕があなたのこといつまでも好きだから同情でもしたんですか?そんなの、酷いでしょ?』
『いい加減にしろ。とにかくお前は帰ってろ』
『ずっと僕のこと子供扱いしてましたよね、そりゃ…僕は男の人だけじゃなく誰とも付き合った事もないしキスだって…初めてでした…だからあなた達の中に入れないんでしょうけど…』
{神城さんの横にいる、僕に神城さんの真実を告げたこの晴臣という人も、今は僕を見て不思議な表情をしている}

そんな晴臣は俺と青柳さん達の狭間、丁度、橋下さんのように思える。
少しだけまだ何か、俺と共有するものがあるように。

『もういい綾斗。家で待ってろ』
『神城さん、僕になにも言ってくれてないって気づいてました、でも大切にしたいって言ってくれたからその内にって期待して…自分の不安を誤魔化してきたんです。やっと今その理由が分かって、ある意味スッキリしてますよ』
『それはどういう意味だ?』
低く静かに怒る声。
『誰でも良いんでしょ?』
神城が言葉を噛むその間に、

『何とでも言ってろ』
そう言った青柳さんの顔が浮かんだ。

だけど、これは作品で。
青柳さんも三条さんも、橋下さんも栖本さんも二岡さんもただの声優で。
いつも通りに仕事をしている。
窓ガラスの向こうからずっと俺を見ているあの人も。

(じゃあ俺は…?)


もしかすると開けるかも知れないと思って押した窓ガラスの向こうには、
俺の間近に、まだもう一つ、分厚いガラスの壁があった。

それを見てしまって、もう、駄目だと思った。

さっきそっと縒り合わせたものも、音もなく千切れ去った。

『誰でも良いんだ、あなたは。そういう人なんだ僕が知らなかっただけで…。僕とは違って、何度も繰り返してきたんでしょ?』

もし好きになったらと、不安に思った俺の質問に、
『好きに言わせておけばいい』
そう答えてくれた青柳さん。

『綾斗』
『触らないで。最初から僕にもセフレになれって言えば良かったのに。僕が子供だから言わずに騙したんでしょ?僕はこの人達みたいには理解できないから、そうでしょ!?』
『おい!』
『触らないで!僕は!』

俺は、

『あなたとは違うから。何もかもが初めてで、背伸びしたって届かないんだ。どうしたって…!だって!他の誰かと同じなんて嫌だ!好きってそう言うことでしょ!?僕は持ってるものなら何でもあなたにあげたいのに!同じだけ返してくれないなんて…!始めからそうだったなんて!そんなの要らない!こんなの…!なんにも嬉しくない!!』

綾斗はネックレスを引きちぎるのに、俺の首の物はそうならず肌が切れるような痛みだけが起きた。
黒い物が底から浮き上がって、綾斗の色を染めて行く。

(汚れる…。俺が、汚していく)

清純な綾斗の素直な怒りのはずが、一言一言に毒を盛るようだ。

『僕は我儘だから!一人を好きになって、僕だけ好きでいて欲しい人間だから…!誰にでもあげてる優しさだったら一切要らないのに…特別じゃないならくれなくていい!』
『待て綾斗!』

今までの人生の色んな場面がフラッシュバックする。

『気に掛けてるふりをして…。何がしたかったの?捨ててもくれずに、僕はどうすれば良かったの?』

その合間合間に空いていた虚しい場所に、青柳さんと過ごしたたった一日の休日の思い出だけが輝くように挟まっていて、息が出来なくなっていた。

『一番でも二番でも、三番でも!ちゃんと言ってくれてたらそれで良かったのに!ちゃんと理解して、それでもいいからって言えたのに!僕がどれだけあなたを好きだったか…!あなたは知らないんだ…』

夜の中で綾斗に向けられた青柳さんの言葉や優しい目を想う。

(どうして綾斗なんだろう)

俺は今、人生で初めて涙が出そうな程の激しい感情を持っていた。
初めてのそれは真っ黒で、間違っていて、どうしようもなく汚くて、恐ろしく強いものだった。

『会わなければ良かった。こんなことあなたに言いたくなかった。今はもう…誰かと同じじゃ嫌だよ神城さん!』

{僕は好きだったんだ、本当にあなたのことが}

『僕だけ見てよ!あなたも僕と同じくらい、僕のことだけ愛してよ…』


どうせなら、神城にも俺と同じくらい傷ついて欲しい。

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わこ
BL
金持ち若社長に可愛がられる少年の話。 かつて自サイトに載せていたお話です。 表紙画像はぱくたそ様(www.pakutaso.com)よりお借りしています。

【完結】冷血孤高と噂に聞く竜人は、俺の前じゃどうも言動が伴わない様子。

N2O
BL
愛想皆無の竜人 × 竜の言葉がわかる人間 ファンタジーしてます。 攻めが出てくるのは中盤から。 結局執着を抑えられなくなっちゃう竜人の話です。 表紙絵 ⇨ろくずやこ 様 X(@Us4kBPHU0m63101) 挿絵『0 琥』 ⇨からさね 様 X (@karasane03) 挿絵『34 森』 ⇨くすなし 様 X(@cuth_masi) ◎独自設定、ご都合主義、素人作品です。

秘花~王太子の秘密と宿命の皇女~

めぐみ
BL
☆俺はお前を何度も抱き、俺なしではいられぬ淫らな身体にする。宿命という名の数奇な運命に翻弄される王子達☆ ―俺はそなたを玩具だと思ったことはなかった。ただ、そなたの身体は俺のものだ。俺はそなたを何度でも抱き、俺なしではいられないような淫らな身体にする。抱き潰すくらいに抱けば、そなたもあの宦官のことなど思い出しもしなくなる。― モンゴル大帝国の皇帝を祖父に持ちモンゴル帝国直系の皇女を生母として生まれた彼は、生まれながらの高麗の王太子だった。 だが、そんな王太子の運命を激変させる出来事が起こった。 そう、あの「秘密」が表に出るまでは。

いとしの生徒会長さま

もりひろ
BL
大好きな親友と楽しい高校生活を送るため、急きょアメリカから帰国した俺だけど、編入した学園は、とんでもなく変わっていた……! しかも、生徒会長になれとか言われるし。冗談じゃねえっつの!

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