ネイビー トーン

輪念 希

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8.

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眩しさで目を覚ました。
ぼんやりする俺の目は、真上にある白い天井を見ていた。
壁にある質素な時計に視線をずらしていくと、銀色の針は丁度午前七時を指している。
(そっか…昨日も泊まったんだ…)
寝返りを打とうとして手に違和感があり、そこを見る。

「…なんで…?」

俺は自分の目が信じられなかった。

青柳さんが俺の真横で、上半身だけベッドに伏せて寝ていたのだ。
俺の手は何故か、青柳さんの手と繋いでいる。
初めて見る寝顔に顔を近付ける。
高く通った鼻筋に、形の良い眉と唇。いつも涼しい目は、今は閉じている。
薄い息が俺の手にかかっていた。
「青柳さん…?」
一度の呼びかけでそっと目が開く。
今日この目が初めて見るものが俺であるようにと思い、より近付いて視界に入る。
青柳さんの目が俺を捉える。
暫く俺を見ていた青柳さんは甘い声で言った。
「…どっちだ?」
どっちとはどういう意味なのか。
「青柳さん?」
「高井か?」
「え?寝ぼけてる?」
青柳さんはふっと柔らかな笑顔を見せた。
(なに、今のソフトなやつ…)
「今何時だ?」
「え?あ!…えと、七時過ぎです。仕事大丈夫?」
「お前何時に出る」
「俺は休みだから。何時に起こせばいい?」
「九時。必ず起こせよ?場所代われ」
「うわっ!」
青柳さんは俺の上に乗って、そのままごろんと俺ごと転がり、俺だけベッドから追放した。
「痛いんだけど!!」
俺は床で受け身を取った。
「カーテン閉めろ。起きたらメシ行くぞ」
「え…あ、はい」
青柳さんは寝てしまった。
開いたままだったクリーム色のカーテンを閉めて、俺は暫し脳内の整理をしようとして、やめた。
ずっと居ても青柳さんに悪い為、とりあえず着替えと歯ブラシと財布とスマホとヘアワックスを腕に抱えて廊下を歩き、二階に行って身支度を済ませると、一階の自販機前のベンチに向かう。

「あ…」

奥の部屋に、青柳さんが居る気配。

俺は振り返って暫く仮眠室のドアを見ていたが、ベンチへ歩き出す。
元々無理があった手荷物から、ワックスが飛び出して、明るい音を立ててはしゃぐ様に転がって行った。

誰かの気配があるだけで、いつもとは全く違う世界のような朝だった。
バッグをわざわざ仮眠室に残して来たのは、寝返りか何かでもし青柳さんが目覚めた時に、ちゃんと俺が居る事を教える為だ。

睡眠時間は然程無かったはずなのに、気分は沢山寝た日よりもずっといい。
「生まれて初めての朝って感じ…」
氷が入っているカップのジュースを飲んでそう呟く。
何でもないようでいて、今も背中に感じる穏やかな気配が起こす日常への侵食の大きさは、外には自分の車だってあるのに、九時まで何をして過ごせばいいのか分からずに、ただずっとふわふわとした気持ちで、ここで待っていることしか出来なくなる程だった。

(俺、なんか、ヤバイな…)


青柳さんは俺が起こしに行く予定の十五分前に、俺のじゃないバスタオルとパックされた簡易な歯ブラシを手に持って起きてきてしまった。
「もう少し待ってろ」
俺の腹が減っているとでも思ったのか、そう眠そうに笑って二階にシャワーを浴びに行った。



「あっつ…」
帽子も何もない青柳さんは、人目の少ない二階建てのカフェのテラスで、黒縁の伊達眼鏡だけかけている。
日除けの大きな傘はあるし、セットしていない青柳さんの髪を夏の朝の涼しい風が揺らしいる。
「まだ気温もそんなに上がってない」
「暑いだろ、十分」
「インテリ男みたい」
俺は眼鏡が似合い過ぎている顔を笑う。
「今日予定ないのか?」
「ない。青柳さん昨日、今日は仕事だって木樋さんに言ってなかった?」
そう言えば青柳さんは、俺がタメ口をきいても一度も嫌な顔をした事がなかった。
手際の良い仕事人間のイメージだと、多少嫌そうにしてもいいはずなのに。
「あれは嘘だ。俺はお前がどこまで出来るのか分からないからスケジュールは開けてあったんだ。他の奴らとは別録りでも俺とはそうもいかないだろう?」
意外と大らかな性格なのか、他人に対して気にする点がもっと他の事なのか。
「ああ、うん…ありがとうございます」
「俺としても年のどっかであと一日くらい休み捻じ込んでやろうと狙ってたし、他への断りの文句に大西さんの名前を使ってやっただけだがな。それに、お前との収録も、思ってたよりは順調だ」
「うん」
青柳さんの微笑みにつられて笑う。
俺は何となく、いつもより自然体で居られる自分が不思議だった。
俺だけでなく、青柳さんもいつもより雰囲気が優しい気がしてくるのは、昨日俺が勝手に自分の事をこの人にぶちまけてしまったからかも知れない。
酔いのせいだと思って青柳さんには忘れていて欲しい。
でも、きっとそんなことのせいじゃなかった。俺があんな風に他人に過剰に甘えてしまったのは、この人だったからだと俺は分かっている。
「それに遅れてたとしても、現場に主役が揃ってないと大西さんが嫌がる」
「大西監督?」
「ああ。本来ならその役者が出るシーンはまとめて録ったりする。役者にもスケジュールがあるからな。どうしても役者を揃えたい時は収録の順序がストーリーの流れと逆になったりするケースもある」
確かに林さんのシーンでは本来の流れを少し飛ばしてまとめて録った。
「じゃあどうして今回はストーリー通り?何日もかけて」
「あの人は今回、演劇がしたいんだ。多分、何か考えがあるんだろうがな」
景色を見るその横顔は、モデルをしていたという過去を感じさせるものだ。
眩しそうに目を細めるだけでも、つい目を奪われてしまう。
近寄り難いのに優しそうで、でもその優しさを貰うにはそれに相当する何かがこちらに無いと駄目、そんな風に感じる。
簡単に言ってしまえばランクが違うといった感じだ。
「そうなんだ…」
モーニングとランチに力を入れているここのカフェは、夜には別のオーナーのバーになる。薄い色の木のテーブルには煙草か何かの焦げ目が一箇所だけついていて、夜間のこの席で過ごした客の気配を教えてくる。
「お待たせしました」
遠くはない場所で蝉が鳴き始めた頃に料理が運ばれて来て、目立つ自覚がある俺と青柳さんは二人の女の店員の目がちらちらと窺って来ているのを何でもないように受け流す。
「ごゆっくりどうぞ」
「ありがとう」
青柳さんが適当に答えると、下がりながら片方が「やっぱりそうだって!青…まじカッコよくない!?」と小さく小さく言うのが聞こえた。
「ねえ、即バレしてんじゃん。眼鏡要らなくない?」
さっと伊達眼鏡を外した青柳さんがちょっとだけ可愛い。
「お前が下手に目立つからだろ」
「俺は一般人だし」
「今頃業界人だと思われてるぞ。早く食え」
「はーい」
普段はあまり進んで朝から食べたりしないサラダ。それにかけるオリーブオイルなんてのも、青柳さんの喉のケアを真似るまでは殆ど馴染みが無かったが、なかなか良いものだ。冷製スープとフランスパンを味わっていると青柳さんの視線を感じた。
「…なに?」
「食い方キレイだな」
驚いたスプーンが大きな音を立てた。
「ま、マナーとかそういうの、一応子供の頃に全部。でも最近はもう崩れてるよ…」
「食事中は話さないなんてクソみたいな言い訳するなよ?他に何か子供の頃に学んだ事はあるのか?言語とか」
「クソって、使うんだなあんたでも。英語くらい。フランス語とイタリア語とロシア語は単語程度。あとは空手とテコンドーと剣道、これは割りと強い方。柔道は苦手。ピアノと書道も少し、筆は自信ある」
語学を多種触れさせられたのは、言えば俺の「ルーツの確率」の為だったのだろう。結果的には何にもならなかったが感謝はしている。
「なんだ、ただの英才教育か。武闘派の」
そう言う青柳さんもテーブルマナー等にはきっちりしていそうだ。
「はは!剣道は今でも大学で続けてる。趣味程度に混ぜてもらうだけだけど本当に結構強いよ俺」
「ほー。俺も水泳と剣道はずっと続けてた。声優になる直前まではな。今度一本やるか」
「ホント?ホントに?」
共通点を知って、つい喜んでしまっている俺。
「防具一式買っておく。面と籠手だけは他人のを借りる気になれないからな」
水泳の肩で剣道はチートだと俺は思う。でもだから青柳さんは姿勢も良いし、肩が大きいのかと納得した。
(絶対パワーじゃ負ける、競り合ったら飛ばされそうだ。背も高いし。なら…)
俺は試合はいつも開始早々に一本を取って勝つ。青柳さん相手でもスピードが肝となるだろう。
「お前こら、今何か抜きの手考えてたろ」
「うん。楽しみ」
道着と防具をつけて向かい合う想像をするだけで、強そうでぞくぞくした。
「手紙は書いたのか?」
「手紙?」
青柳さんの言う事にピンと来ず、俺は首を傾げる。
「林さんだ」
青柳さんは少し笑う。
「あ!まだ…。用意はしたんだけど」
「そうか」
覚えていたのかと、くすぐったい。橋下さんとのアレもみっともなかったと反省する。
「スマホ、鳴ってるぞ」
「あ、俺か…」
画面を見ると平井さんの名前がある。番号を交換してから結局一度もかけていなかった。
「ちょっとすみません」
「ああ」
「はい、平井さん?」
『おはよう。今いい?』
「おはよう…。えっと、今外なんだけど…」
青柳さんは気にするなと手を上げる。
「まあ…大丈夫」
『ごめんな。こっちからかけちゃって。どうしてるかなって』
一気に思い出したあの日の時間に、俺は頸を摩った。平井さんが痕を付けていたなんて知らなかったが、別に怒る気もない。
「あの時は、助かりました。お陰様で何とかなったし…」
俺はちらりと青柳さんを見る。青柳さんはすぐに景色に目を移した。
『そっか。良かった。近いうちに会える?食事でもしないか?』
「あ、うん。しばらくは仕事があるからアレだけど、それが終わって…落ち着いたらさ。連絡しても…いい?お礼というか、何かしたいんだけど」
『お礼?』
平井さんは笑っている。
『律儀だな。いつでもいいよ。電話で仕事の愚痴でも聞くし』
「うん…ありがとう」
『うん、じゃ、また。邪魔して悪い』
「大丈夫。じゃあ、また」

昨日の昼間には平井さんに会おうと思っていた。
それが何故か、青柳さんとカフェに居る。

「よかったのか?相手」
「え?いいって、何が…?」
アイスティーを飲む。
(そういえば…)
俺は頸を摩っていて気になった。
青柳さんは昨日、ビジュアルを取りに来た仮眠室でこのキスマークを見たのだろうが、俺は何で平井さんがこれを付けた時に気づかなかったのだろうか。青柳さんが軽く指を当てただけで妙な気分になったというのに。
(何が、違ったんだろう…)
青柳さんの様子を盗み見ようとするが、目が合ってしまい体温が急に上がるのを感じた。
「会わなくていいのか?」
涼しい目にちくりと何処かが痛む。
「…どういう意味?」
青柳さんの言葉に深い意味は無い。平井さんと青柳さんは面識も無いし、平井さんと俺の関係も知るはずもないのだ。気を遣って言っただけだろう。
「そのうち…会うし。今日は、いい」
頸から広がった熱が耳や頬にまで移って行くようで俺はそこから手を離した。
(大丈夫、何もバレてなんかない…)
いつものように髪を搔き上げて顔の火照りを逃す。
(青柳さんが気付くはずがない。俺が何で平井さんに会いに行かないのかなんて)
「ここって結構美味くない?」
「ああ、そうだな。看板を見かけてはいたが初めて入った。だが、夏のテラスは二度と御免だな」
「うん。あつい…俺も…」
俺は小さく笑ってアイスティーの後に冷たい水も飲む。

でも何をしながらでもついつい青柳さんの目を見てしまい、目が合ってしまうと慌てて直ぐに逸らす。それを俺はなんと連続で五、六回もやってしまった。
青柳さんがふっと息を漏らして笑う。
「な、…なに?」
「いや、何も」
恥ずかしいのと敗北感とで、俺は身体の向きごと座り直し、テラスの柵の外を見た。
街は今日も、猛暑になりそうだ。

「このあと、知り合いの店にちょっと付き合えよ」
青柳さんが言うが、俺はホイホイ振り向かないようにした。
「店?なんの?」
「アクセサリー屋だ」
俺は負けた。
「あ、行く」
俺はそういったものが結構好きだ。



昨日は突然だった為か何も思わなかったが、大きな車の助手席に座っていると、青柳さんがつい数日前に初めて会った人とは思えなくなってくるから面白い。
時折左膝をシートに上げたり、窓枠に片肘を付いて片手運転をしているのを見ていると、ルール通りに生きている人でも無いようだ。
「スマホなり何なり繋げよ?あの赤い軽お前のか?」
青柳さんは好きな曲をかけていいと言ってくれた。
「うん、そう。でも俺もデカイの乗りたい」
俺は注意されるのを覚悟で青柳さんの趣味を知ろうとそっとあちこち漁ったが、何も言われなければCD一枚置いていなかった。唯一後部座席にファッション誌とボックスティッシュと空の小さなゴミ箱、そしてサンダルに履き替えたスニーカーが置いてあっただけだ。
(ホントにシンプルな人なんだな…)
だが青柳さんの近くの収納ポケットを開けてそこの内ポケットに手を入れる前にさり気なく止められた。
「…あ、そういうこと」
「何がだ」
青柳さんは前を見たまま少し笑って収納ポケットを閉めた。
まあ、俺もアレは車に置いている。男なら当然のエチケットだ。使わないなんてのは言語道断だし、財布に入れて持ち歩くのは良くないが、いざというときに買いに行くのも何か違う。
「運転するか?」
「え?いいの?」
青柳さんはコンビニを見つけていたようで、その駐車場で俺に運転席を譲ってくれた。
「すげ…こんなに車高あるんだこの車」
少しの違いなのに俺のプチトマトより見下ろせる世界が広くて気分が良い。
「何が要る?」
「あ、じゃあ水を…」
青柳さんが買い物に行っている間に俺はちらっとさっきの内ポケットに手の先を入れた。予想通りの物が2回分だけ入っていた。
想像しかけて、俺はすぐに収納ポケットを閉め、スマホを接続して洋楽のアルバムをかけた。
「車、擦ったらどうしよう」
運転には自信があるが、青柳さんの車の為、俺は車幅を確認した。
「綺麗に乗ってるな…」
俺も車内が汚いのは嫌で、ごちゃごちゃした他人の車なら運転をしたいだなんて思わない。
袋を持って帰って来た青柳さんは、車の外から運転席の俺を見て少し面白そうにした。
「なに?」
「いや。ほら」
青柳さんはペットボトルの水の他に、摘んで食べられるカラフルで丸いアイスを買ってくれていた。
「あ!ありがとうございます」
俺は喜んで箱を開ける。
「…ティッシュ、使っていい?」
くだらない事を訊くなと青柳さんは笑って後部座席にあった箱ごと俺の膝に放り投げた。
俺は自分の愛車よりも大きくて静かな車を走らせた。
「お前が座ってると広そうだなそこ」
「俺、身長あるほうなんだけど?」
葡萄味が一番好きだ。アイスを口に入れてすぐに指をティッシュで拭く。
「美味しい」
「シート起こせよ」
「え、うそ…前に行ってる?」
「免許取りたての奴みたいだぞ」
そう言われて確かに背筋が異常に伸びていた事に気付いた。
「あ、ハンドル近い…」
恥ずかしくなって横を見ると青柳さんがかなり後ろに居て面白かった。
「え、なんか笑ってない?」
「いや?」
青柳さんは後ろに引いたシートにこっちを向いて横向きに寝そべる感じで寛ぎながら、指を鼻の下に付けて笑いを堪えていた。
「な!ちょ…イヤなんだけど!」
俺は今更シートも起こせないし、後方から運転を見られているのがより恥ずかしい。
「前見ろよ、前」
「…一回止まっていい?」
「前!どんな角度でこっち見てるんだお前は」
「だって!ヤだし!」
「信じられない奴だな。そのまま行け、もう少し走ったら服屋があるから入れ」
青柳さんは平気で笑ってしまっている。
「足は届いてるから!」
俺が前を見ながら言うと青柳さんは「子供か」と俺の後頭部を指でこついた。
「服買うの?あ!あの店か分かった!任せて」
店に見当が付いて、確かに青柳さんが着ていそうなメンズブランドだと思った。
「丸一日中着てるんだ流石に着替えたい。誰かみたいに寝間着なんて持ってないからな」
「ぶ!じゃあ俺が選んでいい?」
「だから、前を見ろよお前は」
「はは!後ろに!後ろに居るからじゃん!」
「俺を気にするな」
「はいはい!」
その後もアイスを食べながら運転に慣れてくると、青柳さんは度々「おい」と呼びかけて俺で遊んだ。

俺はその服屋で、青柳さんがモデルを辞めてからは着ないと言う長い丈の薄いグレーの夏用七分袖カーディガンと、大人の小洒落感のあるきれい目でも裾に一箇所だけさり気なくダメージ加工が入ったTシャツ。そしてついでに紺色の少し腰周りだけが緩いシルエットのボトムスを提案した。
流石に元モデルだけあって、普段着ないコーディネートもすぐに受け入れた。自分が着るとどうなるかをイメージ出来るのだろうし、似合うのも分かっているのだ。
青柳さんが着替えている間に俺も小さなヘアゴムと薄い素材の黒いスカーフを買って、伸びた襟足をまとめて幅の細いスカーフでキスマークを隠した。
着替え終えた青柳さんは申し分無くカッコ良かった。まさに動くトルソーだ。
大人っぽい腕時計と袖との空間も俺の狙い通りだった。
青柳さんはすっと店内を見て、適当に選んでいるようでセンスのある、柔らかそうな豚革の、濃いベージュのカジュアル路線なオックスフォードシューズと浅い靴下を手早く選んで来る。
照りのあるものじゃない珍しい革を手に取ったのにも驚いたし、
「いい機会だからな」
という大人の余裕に俺のテンションは上がった。
今は運転用に車に置いていた黒い皮のサンダルのままのようだが、俺がカーディガンを秋口にも着て欲しいと言ったのをちゃんと聞いてくれていたようだ。
「やばい…この人」
俺のつぶやきにこっちを見たが聞こえなかったようで、レジで会計をしながら俺の束ねた短い髪を「尻尾みたいだな」と笑った。


「俺と同じNACの奴が、今度大西監督とアニメの仕事するんだって」
この程度なら言ってもいいだろうと、俺は運転席に戻った青柳さんの横顔を見る。
「ふて魔女か?」
「え…知ってた?」
「俺も無印から出てるんだが?」
「あ!そうなんだ!?何の役?」
「真の魔王」
「もしかして敵ボス!?」
「ああ。前のシーズンから平気で主人公の友人の女子高生の兄として出てたんだが、最終回でその兄妹が怪しい感じを残して終わってる」
「え!俺、それ聞いて良かったのかな…誰にも言わないけど」
「前作見てる奴はみんなもう知ってるぞ。原作はもう一通り終わってるしな」
「へー!すごいな、KAIのやつ…」
「カイ?」
「あ、うん。竹山 海って名前。宜しくお願いします」
「KAI、ね」
「うん。でも敵モブの手下って言ってたから初回だけ出て終わりだと思う」
「じゃあ俺の部下か」
「そっか!魔王側だからそっか。なんか面白い」
「立派な捨て駒だな。派手に散ってもらうとするか」
「あははは!悪いの似合いそうその声。俺そんなの、悪役の方がたぶん好きになる」
不思議な縁で繋がっていたKAIと青柳さん。それがちょっと嬉しい。
「昨日来てた呉武さんがシリーズの演出で倉持さんが総監督だ。音響が大西さん」
「で、ラスボスが青柳晃介か、すご…」
「他のメンバーも相当豪華だ。人気漫画だし、前回がそこそこ良かったから金もかけてる。お前は知らないだろうが、声優好きなら大体気に入ってる奴が一回は何かの役で出るぞ」
「またネットニュースで上位になりそう」
「現場もかなり人数多いだろうから大変かも知れないと先に言っておけ」
「うん。でも楽しそうだなー。俺も声優詳しくなろうかな。色んな人の声聴きたい」
「あ?」
「そうやって見ればアニメも好きになるかもだし」
「まあな。原作でもアニメでもそれぞれ違った面白さがあるもんだ」
「うん。今の仕事のみんなも出る?」
「当然出るだろうな、人気ある面子だから。司は魔王側のナンバー2だし」
「あ…いいの?それ」
「あ」
つい言ってしまった青柳さん。
「これは絶対言うなよ?魔王と妹以外は後出しでファンが楽しみにするところだから」
「分かった。ふふっ、言わない、ふ!」
俺は笑いが止まらずずっとクスクスやっている。
「鬱陶しいぞ。魔王の妹、そいつも人気がある、調べてみたらどうだ。名前は井伊 杏樹だ」
俺はスマホで検索した。
「え!可愛い…声優?グラドルじゃないんだ?」
「うちの事務所にいる」
「え、俺に宣伝したの?」
今度は青柳さんがたまたまの流れだと笑った。
「栖本も二岡も橋下もたぶん何処かで出るから見ろよ?」
「うん。絶対見る。アレでしょ?この妹、お兄ちゃん大好きっ子でしかも実は魔王の妹じゃなくただの部下で、お兄ちゃんが気になってる主人公アリスとライバルになる」
「知ってるじゃないか」
「ホントに知らないけど、漫画ってものにだけは詳しいから。何となくわかる。あんたのイケメン声無駄にするわけないだろうし」
「まあそれが本線ではないがな。前回からの続きネタとしてそんなサブストーリーもある。お前も何か出ればいいんじゃないか?」
「え?モブで?」
「ボス級のキャラが何人か居て、それはもう誰がやるか決まってるが、その間を繋ぐ小ボスみたいなのはその都度決めるらしいからオーディション始まれば受ければいい」
「それより俺も画面端とかにいるモブでいいや。たまにいるじゃん何故か味方のはずの魔王とかに一瞬でやられるモブ」
「あー、八つ当たりくらう可哀想な奴な。絵だと見るからに汚らしいモブのくせに俺より上の人が当たると妙に目立って断末魔が耳に残るからな、ふっ…やりにくいんだよなあれ」
「あははは!!そういうのあるんだ?やばいソレ好き。俺その役でいい。ネタになるし」
「あんなのにいちいち人一人使ってたら破綻するだろ。ノーギャラなら来いよ」
「ノーギャラって!いいけど別に」
青柳さんが笑っているのを見ていると、こんなにクールな見た目の男が、俺とアニメについて詳しく話す「アニメの中の人」なのだと改めて意識して変な感じだった。
(普段は仲間とこうやって笑ってるんだ、青柳さん)
ナチュラルで、カッコ良いと思った。
(女だったらソッコー惚れるなこれは)
蚊帳の外に居るファンじゃ、絶対に見られないオフの顔。俺は今だけの期間限定特別シートに座ってそこから見ている。
「声優にならないのか?」
「うん。ならない。これが終わったら一般人。ただの学生さま」
青柳さんは何故か黙ってしまった。
「あれ、もしかして今ビビった?こいつに余計なこと言えねーって、思ったの?」
青柳さんは「うるさい」と笑う。

青柳さんが車を止めたのは都内一等地の白い洒落た店の前だった。
「着いたぞ」
「うん」
店構えからして高級ジュエリー店で、ちょっと俺は入り難い。
「何してる、来いよ」
「あ…うん」
青柳さんに隠れるように店内に入ると本気の宝石から若者が好みそうなハワイアンジュエリーもあった。
(可愛い、これ)
俺がそのハワイアンジュエリーのケースを覗いていると、青柳さんと歳の近そうな男が出て来た。
「おお!!いらっしゃい晃介。びっくりした。休み?」
「ああ。この前悪かったな、勝手に紹介載せて」
「いいって、お陰で忙しくさせて貰ってるから。毎度ありがとうございます。休み取れて良かったな」
「今年最後の休みだ」
「あはは!信じられない言葉だな!まだ夏だぞ?」
「冗談だ」
体型から何となく、二人は水泳で知り合ったんじゃないかと想像する。
「あちらのお客様は?」
「今仕事で一緒になってる高井だ」
俺は紹介を受けて挨拶する。
「いらっしゃいませ。おれは東 隼人。晃介の友達」
「大学の頃からだ」
「水泳?」
俺は訊いてみる。
「そうだ。何で分かった?」
「肩だよね?」
「はい」
青柳さんは成る程と頷いた。そして、
「高井、何か選べよ」
「え!?」
「良ければ買ってやる。記念に」
青柳さんはさらっと言って自分の手元のケースを見ている。
「え…でも…」
「ハワイアン、可愛いでしょ?若い子好きだよな。全部俺がデザインしてるんだ」
東さんがレジ前から出てくる。
「自分でですか?」
「そう。開けるよ」
東さんは俺が見ていたケースの鍵を開けて棚の板ごと手前に引いて出してくれた。
「モデルの知り合い?」
「いえ、違います。声の方で」
「そうなんだ?あ、さっき言ってたか。てっきりモデル時代の関係かと思った。ゆっくりご覧下さい。今お茶入れてくるから」
「すみません」
東さんは青柳さんに鍵の束を渡して奥に入っていった。
「これとかか?」
青柳さんは横に来て同じようにジュエリーを見ている。
「ちょっと青柳さん!買って貰うには高くないですか?」
俺は東さんに聞こえないように小声で言った。
「なめてんのかよ」
「いやいや、そうじゃなくて!」
「伊勢海老は食ったのに?」
青柳さんは少し笑う。
「わ…」
俺は不覚にもドキっとして一歩下がった。
「無ければ無いで仕方ないが。他のケースもゆっくり見ろよ」
良い物しか無い。俺はどうしたものかと悩む。
「でも、なんで…?」
「記念」
「けど…高すぎるって」
「嫌か?」
「違うけど…」
「なら何か選べ」
「う…」
俺は実は、一番最初に気になる物を見つけていた。
だけど言い出し難い。
「あっちもいいんじゃないか?」
青柳さんは逆の壁のケースを見て言う。
「あ、うん…」
そっちもそっちでカッコ良い、少し大振りのメンズ用のデザインだ。
そうこうしていると東さんがコーヒーを店の真ん中にある背の高いテーブルに置いた。
「どうぞ」
「ありがとうございます…」
俺が一口飲みに行くと、二人はその横で話しをしている。
(本当にいいのかな…)
「最近司が来たよ。先月だったかな」
「何買ったんだ?」
「ルビーのピアスだよ。自分用って言ってた。お前にも見せるって言ってたけど?」
「予定より早く渡したんだろ。あいつは自分でつけて見せてから渡すからな」
「キザだよホントに!目に浮かぶよ」
(三条さんとも知り合いなんだ。やっぱり良い物知ってるんだな…)
何となく、そんな会話もどこか神城と赤羽のエピソードのように思える。
(うわ、これとか一点物だろうな…)
東さんが自分でデザインしていると言っていただけあって、どれも独創的で美しい。
でも俺はやっぱり最初に見た物が気になってハワイアンジュエリーのケースに戻る。
それはペンダントトップだ。
ハワイアンらしいデザインの透かしの入ったシルバーにゴールドの細い細工があって、大きすぎず上品だ。
(あ!プラチナ!?)
どうりで白っぽく見えたわけだった。値段もかなりしているが無理して自分で買ってもいいと思えるくらい気に入ってしまった。
「あった?」
東さんの声で俺は緊張する。
「えーと…」
「ハワイアンが好きなのか?」
青柳さんがやって来る。
「いや…まだ決めたわけじゃ…」
「どれだ?」
「え…っと」
俺は勇気を出して、指さした。
「K」というイニシャルのペンダントトップを。
「お前…まさか、神城か?」
青柳さんは直ぐに分かったようだ。
台本が進む明日には神城が綾斗に「K」のイニシャルのネックレスをプレゼントする。綾斗が神城拓馬のTではなく、思い入れのあるKを欲しがったからだ。自分の岸という名字にも合うと言い訳をして。
「そう…」
「せめてYにしろよ。今は良いが、後々使えないんじゃないか?」
「記念、に」
青柳さんからの視線から逃れる為に俺はずっとケースの中を見ていた。
「お前がいいなら良い。で、石は?」
青柳さんの指が小さな紙のポップを指していた。
『誕生石でご用意できます』と書いてある。
「い…石!?」
俺は驚いて青柳さんを見る。
「誕…ダイヤにするか」
「え?…ダイヤ!?」
「ピアス、ダイヤだろ?」
「え、待って!待って!?」
「決まった?やっぱりハワイアンいいよな。似合うと思ってたんだ」
「これのダイヤってあるか?」
「あるよ。待っててくれ」
東さんはまた奥に入った。
「ちょっと待ってってば、石いらない」
「今更だろ」
「ホントに待ってって!ダイヤとか!」
「Yにするか?」
「え…Kがいい…」
青柳さんはふっと笑う。それを見て俺は赤くなっている気がするが構っていられない。
「でもでも!」
「作品が完成したら宣伝がある。お前そのこと聞いてるか?」
「宣伝?」
「まあいいか、そのときに丁度いいしな。作品に沿ってて話題になる」
「そんな…」
「あのな、お前が神城のイニシャルつけてて、これ青柳さんから貰いましたってどうせそうなるんだからオモチャつけさせるわけにもいかないだろ」
「だったら何かほかの!」
「他のでもいいのか?」
「…よくない…」
「必要な見栄もあるんだ。黙って買わせろ」
すると東さんが手に色々と持って出てくる。
「そうそう、有名人はここぞで金出してナンボなんだって。そういうのが夢があって素敵だろ?」
「ああ…もう…。どうしよう青柳さん…」
「要らないのか?」
少し強く言われる。
「欲しい」
俺がはっきり言うと、青柳さんと東さんはテーブルに向かいながら笑っている。
「チェーンの長さはどうする?」
「う、チェーンまであるのか…」
俺は本当に申し訳ない思いでいっぱいだった。
「60だとどうだ?」
「通してみるよ」
二人はもう進めている。
「来てくれる?」
「はい…」
俺はスカーフの前を開いて東さんの前に行く。
「あ、自分で当てます」
受け取って首に回してみる。
「そういえばお前、ネックレス嫌なんじゃなかったのか?」
「え?ううん、別に。なんで?」
「いや、そうだったか?」
俺は鏡で確認する。
凄く気に入った。丁度ゴールドの流線の先に少し揺れる一粒の、決して小さくはない美しいダイヤがあった。
石がないプレーンな物を見たときはそれはそれで良いと思ったのに、こうしてダイヤがあるとグッと印象が華やかになる。一目見て欲しいと思わせる魅力があった。
「それ、正真正銘の天然ダイヤだよ。人工のは使わないようにしてるんだ」
東さんが言う。石だけでも高額なはずだ。高級ジュエリーなのにダイヤを真ん中ではない場所に軽く付けてみました的なカジュアルさが古臭くなくてデザイン性が高い。
呼吸をする度に揺れて輝いた。
「どうしよう…俺、これめっちゃ好き…」
「ほー!綺麗だなー」
東さんの言葉で、俺はちょっとだけ引っかかる。
「チェーン、もう少し長めにしようかな…これだと女ものっぽいから」
俺は青柳さんの顔を見る。
「チェーンは自分で買うよ俺」
「トップがそこまで大きくないからあまり長いと変じゃないか?」
青柳さんが言うと東さんも頷く。
(分かってるけど…これだと女みたいだし…)
俺は東さんが持って来ていたチェーンの台座を見る。
「これ。これならどうだろ…」
同じ60センチでも少し幅のあるデザインチェーンがあった。プラチナで作ってあるからには相当の値段だろうけれど。
「通してみよう。通るには通るけどバランス見たいでしょ?」
「はい」
俺は作業を東さんに任せた。
「ああ、なかなか良いんじゃないか?」
青柳さんは言った。
「うん」
「はい、お待たせしました」
「ありがとうございます」
つけてみるとチェーンのインパクトはあるが、メンズでも行けそうな雰囲気だった。
「いいよね、あんまりそういうデザインがあるチェーンと合わせないけど、新しいかも。カッコいいよ」
東さんも鏡越しに覗き込んでいる。
「せっかくのトップがもったいないかな…?」
「いや、いいと思うよ?似合ってる」
青柳さんにもつけた姿を見て欲しいが、プレゼントされる、しかもダイヤの、それもネックレスを、男の俺が「見て見て!」は青柳さんに妙な迷惑をかけそうで控えた。
そうでなくとも俺という見た目の男ってだけでも、青柳さんは知らずに危ない橋を渡っているのに。
「良いと思うぞそのバランス。こなれた感じでお前らしい」
青柳さんはそう言って微笑んでくれる。
「うん…これにする」
「あえてって感じがあるしね。ウチでもその合わせ方使ってディスプレイしていい?若い子に良いよねそれ。ちょっとの違いなのに新しいよ」
「使え使え」
「どうぞ使って下さい。ありがとうございます」
「つけて行くか?」
「うん」
二人はまた色々と話しをしていたが、俺はずっと鏡でKを見ていた。何度見ても全く飽きない。
(ヤバイ…俺…)
「そろそろ行くか」
「あ、チェーン代って見てない俺」
「もう貰ったよ」
東さんが笑顔で言った。
「え!?」
「払いました。じゃあな。また来る」
「お待ちしてますー」
「ちょっと!」
「うるさいってお前。ホラ歩け」
青柳さんに上等な紙袋を押し付けられる。
「全部そこに入ってるからー」
東さんはドアまで見送りに来る。
「マジでホントに俺が!」
「ついでだ。戻りながらメシ食って小一時間ドライブでも行くか」


店の名前が入ったピンと立った紙袋には、ダイヤの書類がいくつかと、手入れ用の布、保管用の洒落た化粧箱、プレゼントする時にメッセージを書き込むのか、ただ飾るのかの夕暮れのビーチの写真のカード。カードにはさり気なくもしっかりとショップのホームページアドレスが小さな字で刷ってある。大きなQRコードを使わないのも東さんの拘りなのだろう。
「ホントにいいの?これ…」
運転する青柳さんを見る。
「もう買ったろ?いつまで言ってる」
「うん…。青柳さん何か欲しいものある?」
「全くないな」
「う…」
「強いて言うなら、それ毎日つけてろ」
「あ…うん」
俺は手でトップを触る。滑らかで、冷たくて気持ちが良い。
「本当にありがとうございます」
「ん?」
「すげー、嬉しい…」
「ああ。だが、あんまり役に入れ込み過ぎるなよ?」
「うん」
横顔でも微笑んでいるのが分かると、俺も少し落ち着いた。
(嬉しい…)
「俺、ホントにずっとつけてていい?」
「ああ、そうしろ」
青柳さんは笑った。
「うん」

その後、遅い昼食を摂ってスタジオに向かって遠回りしながらドライブをし、コーヒーショップでドライブスルーしてから戻った。

時刻は夕方の四時。
「昨日から連れ回して悪かったな」
俺と青柳さんは荷物を取ってスタジオを閉め、駐車場で互いの車を並べて運転席から声を掛け合った。
「いえ。ありがとうございました。今日一日」
「じゃあ、また明日」
「お疲れ様でした」
俺は青柳さんの車が先に出て、見えなくなるまで見送った。それから青柳さんとは逆方向の自分のマンションに向かった。
(俺、浮かれてんな…)
生まれて初めて自分が酷く浮ついていると、この一日中感じていた。
ミラーで「K」を見る。ダイヤがキラキラと反射して綺麗だった。
(一生つけてていい?)
そうやってのんびり運転していると三山さんから連絡が入った。
ハンズフリーで応える。
「お疲れ様です」
『おつかれ。今日休みだったんだろ?ゆっくりできたか?』
「うん、まあ」
『良かった。今日どうする?来るのか?』
「配信?」
『ああ』
「今日は自宅でしようかな」
『MAKIが来るらしいが』
「そっか。うーん、俺はまた次にする。今日出掛けてて、今帰りだからこの後はもう家に居る」
『了解。元気そうだけど?』
「はは!元気ですけど?MAKIとコラボする時のネタ考えててよ三山さん」
声でバレたのだろうか。
『何で俺が?まあいいけど。しゃーなしな?何か奢れよ?』
「はいはい」
『あ!お前社長に電話したか?』
「あ、やべ…してない」
『ま、そのうちしとけよ?』
「切ったらかける。忘れてた俺。すみません」
『おう、ただ声聞きたいだけだろうから』
「うん」
『じゃあ、寂しいけど切るわ』
「あはは!ナニそれ!」
『ふははは!MAKIの代弁な、今の』
「そーですか?」
『ふふふ!じゃ、おつかれさーん』
「お疲れ様でした」
通話を切って信号を曲がる。
「ちょっと眠いな…」
暫く走って、コンビニで飲み物を買ってマンションに着いた。

ベッドに倒れてからmimikoneの道栄社長に電話しなくてはとスマホを手に取った。
道栄社長には世話になっている。あまり間を開けない方がいい。
俺は体を起こしてコールした。都合が悪い時は出ない人だ。
『YUJI』
「お疲れ様です社長。連絡遅くなりました」
『構わん。今何してる』
「家に居ます」
『来るか?』
何度か夕食会に呼ばれて出席した事があるが、他のハイランカー達も居て疲れるのだ。
「いえ。今日はさっきまで出掛けてて…」
『そうか。声を聞こうと思ってな、それだけだ。元気か?今は何してるんだ?』
「帰ったばかりで、ベッドに座ってます」
基本的には面倒見も良くて感じの良い人だ。
『YUJI、掛け直す。何か読んでくれないか?』
「はい」
俺は出会ってすぐの頃から、この人にこうしてたびたび朗読を聞かせてくれと頼まれている。
『YUJI』
「はい」
『負担じゃないか?』
「いいえ」
こうするのは俺にだけなのだろうとも思う。そうでなければ何かしら噂が出るものだ。
「何でもいいですか?」
『お前に任せる、一旦切る』
「はい」
俺はスマホに専用のピンマイクを接続してタブレットを開き、otohonのサイトから、有料でダウンロードした作品の短編の中で読むものを探す。
何となく、今日は恋愛ものを選んだ。
そして電話が来る少し前に、俺は「K」を一度触って確認した。

『ありがとう良い声だな。少し変わった気もするが、前より良くなった』
「変わってませんよ」
『そうか?感情がよく伝わってきた。さっき言っていた仕事での成長か?』
俺は三山さんには悪いが、朗読前に道栄社長に今回の仕事の事を話した。簡単に成り行きだけ伝えておきたかったからだ。この人はそれを誰かに言う人じゃないし、とても喜んでくれた。
「だと、いいんですが」
『きっとそうだYUJI。それに、お前がこうやって俺に恋愛物を選んだのは初めてじゃないか?』
「はい」
『機嫌が良いのか?』
「少しだけ」
『珍しいな』
「そうでもないでしょ」
『いいや。夜はあまり機嫌が良くない、お前はいつも』
俺は笑った。
『今夜は配信するのか?』
「します。朗読しようと思ってます。だから、良かったら配信も聞いて社長」
『勿論そうするよ。ああYUJI、今月はランカーの6から下が伸び悩んでるらしいな、一つコラボでもして景気付けてやってくれ。付き合いが億劫なお前が直接じゃなくてもいいKAIあたりでもハイランカーを派遣してくれ』
「はは!分かりました。誰かに頼みます」
『あとな、YUJI』
「はい?」
『ウチに気を使わなくていい』
「え?」
『辞めるなとは言いたくない。プロになるならなれよ?』
「社長?」
『お前達配信者への力添えなら、mimikoneは何でもしてやる。例えナンバー1のお前でもだ。声が掛かったなら迷う必要は無い。ウチに置いている音源も向こうの作者が良いというなら好きに宣材に使っていいmimikoneからの許可は今出しておく』
「何で急にそんなこと?」
『実は三山君ともそういう話し合いをしたんだ。NACが出来て、mimikoneは磨けば光るのに埋もれている素人達のプロへの近道になる場所にして行こうと思っている。今よりもっと具体的にな。そういう時代が来たんだ。さっきのお前の仕事の話を聞いて特にそう思った』
「社長…」
『お前は特に可愛いが、いつまでも側に置いておくわけにもいかないからな』
「でも俺」
『恩に思う必要はない。全部お前の実力だYUJI。運の良さもお前は持ってる。今がタイミングだと思ったなら、その時しかないぞ』
「はい…」
『仕事の件。言ってくれたのを俺はお前からの信頼と思うが?』
「はい、そうです」
『うん。それで十分だ。今夜の配信もちゃんと見てるぞ』
「はい…」
『朗読ありがとう』
「はい…失礼します」

今日は、不思議な日だ。
何かの歯車が、知らないところで動き出したような気がする。
「タイミング…?」
今回の仕事を通じて色々なプロに会って、身近にいた人達も実は色々なプロだった。駄目だと思ってバラバラに外れたような俺の歯車達が、知らないうちに平らに均されて、新しく組まれて行っているような不思議な感覚だ。
(俺自身がまだ、何の覚悟も出来てないのに)
俺から始まると言いながら、俺を末尾に残して、周りが先に進んでいるような。
或いは、俺を中心に置いてその周りで輪を組んでいるような。
「え?なんで、こんなに弱いんだろ…俺」
強いつもりだった。
流されたくなくて、俯瞰から見て物事を進めてきたつもりだった。
誰よりも遠く離れて何事も我先に、鼻で嗅ぎ分けて気付いていたはずなのに。
どうしてか、孤独を埋められて、孤独を感じている。
「そっか、俺いま…もう…」

いつの間にか俺は、人達が作る輪に入っていたのだ。
本当の端っこなんて何処にも無く、誰もが右手で誰かの手を、左手にも誰かの手を引いて繋いでいる輪の中だ。
誰も溢れる事無く、責任や情で誰かと繋がっている。浅く深く、濃く薄く。

今朝、青柳さんの手が俺の手を握っていたように。

「俺は…欲しいんだな…」









●YUJIおかえり♡
●おかえり!
●お疲れ様
●おかえり♡待ってたよ♡
●今日は時間早め?最後までいるね!
●おかえりなさいませ♡
●この人キレイ!
●おかえりYUJI君♡♡
●ネックレスしてる!?
●初めまして、美人さんだー♡
●おかえり!!
●MAKIとコラボしないの?
●ゆーたん♡おつおつ♡
●ネックレスどうしたの?kってなんで?
●誰のイニシャル??
●めちゃ綺麗!芸能人ですか?
●KAIのK?
●国宝タイムきた♡♡♡
●ネックレスなに?彼女ができましたとかやめて!
●美人やなー!男やろ?
●高そうなのつけてるね♡カッコいいよ♡
●おかえりなさい!
●YUJI…Kって誰?
●ネックレスしてない!?YUJIどしたの!?
●目が癒える♡♡
●イニシャル意味深なんだけど…やだよー
●またmimikone荒れそうYUJIのK疑惑で♡KAIじゃないよね?ww
●YUJIロスとかムリ!!
●今きた!おかえり♡♡♡
●ネックレス素敵♡

『あり…あ、ただいま』

『KAIじゃないよ、なんでKAI?』

●YUJI大好き♡
●KAIかと思ったww
●ただいまっていった?
●じゃあ彼女?イヤだなー
●今日もカッコイイ♡♡
●ただいま、初めてじゃない?
●めちゃ綺麗だねシコっていい?
●KAIじゃなかったww今ごろKAIの部屋ヤバそうww
●ただいまだって♡おかえり♡
●YUJIただいまっていわなかった?
●KAIでしょ?ww

『大好き?ありがとう』

『彼女じゃない』

『シコる?…あ、え?俺で?見せなきゃ別に。お好きにどーぞ。女の子多いから書かないで。あ、読んだの…俺なんだけどさ』

『KAIに絡むのナシな。はは!KAIじゃないからホントに。あいつもKだな確かに、ははは!面白いなその発想』

『いや、てかなんでKAI?どーいうこと?ふふ!』

●YUJI可愛い!
●彼女じゃなかった!
●彼女じゃなくてよかったー!!
●YUJI機嫌いいね♡
●ただいまって嬉しい!
●おかえりYUJI♡大好き♡
●YUJI超絶綺麗♡
●ただいまいってくれた!
●大人の対応ww
●初めてただいまって言ったよね!?
●彼女じゃないんだね!安心した!
●ネックレスキレイだよ。もしかしてダイヤ?
●買ったの?もらったの?
●今日優しい♡♡♡どーしたの?
●YUJIにセクハラ厳禁です!
●YUJIに変なこと言わないでよ
●ネックレス似合ってる♡

『彼女じゃない。え、と。もらった』

『セクハラ?まあ流してよみんなも』

『えと…。綺麗だろ?コレ。めっちゃ気に入ってるんだ俺』

『あーと…コメが速くて追えない…』

●ご機嫌さん♡
●凄く似合ってる!どこで買ったの?
●おかえりYUJI君♡会いたかった!
●セクハラすんませんでした
●誰のプレゼント?
●似合ってる!ダイヤついてない?
●ダイヤだよね?大きい!

『機嫌…はいいね、たぶん。ふふ…』

『店の名前?…は、また言っていいのか確認しとく。OKだったら後日教えるよ』

『いいよ、もう別に』

『誰、かは言えない?のかな。別にみんなが思ってるような意味はないよ』

『ダイヤ、だな。生で見たい?』

●今日はコメ読んでくれるんだ♡
●よんでくれてるの嬉しい!
●YUJI可愛い♡♡♡
●ダイヤって、意味あるでしょ?
●間に合った!おかえり♡
●お店ききたい!よろしくね!
●ダイヤ似合う♡
●プレゼントしたい!ロック解除して♡
●YUJI大好きだよ♡
●コメ読んでるから速いんだと思うww
●私のも読んで♡
●プレゼントしたい!

『プレゼントは要らない。買わないで』

『読んでるから速い?そうなの?私のも…んーじゃあ内容書いて、ははは!』

●珍しいからみんなコメしてるww
●機嫌いいのね♡
●安定のプレゼント拒否wそういうところが好き♡
●KAI君が俺だよって言ってたよ
●今夜のYUJIも綺麗♡
●優しいね♡
●YUJIが読むからコメ数がエグいw
●KAI君が喜んでるんだけどw
●KAIが可愛いww
●KAI君が嘘いってたよ?俺だよってw
●KAIコメ欄来るんじゃない?
●KAIくんのとこ荒れてる♡ww
●YUJIイケメン♡
●告ってるよ!!
●YUJI君ハイランカーにモテるねww
●KAIが告白してたよww
●愛の告白してたよKAIさん♡
●愛してるって言ってる ww
●愛してるだって!

『KAI KAI KAI KAI。いいよもう。ははは!なんで嘘言うのあの人、謎すぎる』

『ちょっともう、読めない、ごめん』

『えーーーと、なに?告白?ははは!荒らそうとしてんの?あいつ』

●KAI君ウケる!ww
●YUJI笑うのかわいすぎる♡
●よく笑うね今日うれしい
●無理に読まなくていいよ♡
●荒らそうとしてるっていわれちゃうKAIくんww
●KAI君かわいそうww
●笑顔もいい♡♡
●告白して荒らしってww

『そんなに笑ってる?俺。うそだ』

『じゃあ、もう始めようかな。今日は家だから朗読で。短編を一つ』

●可愛い!!
●もっと絡んで♡
●今日短いの?
●今日ヤバイ♡にこにこしてるよ?
●機嫌いいのってネックレスのせい?
●短編だからコメ読んだんでしょw
●YUJI綺麗だし可愛い!
●優しいのダイヤのおかげだね♡
●どこか行くの?
●朗読して♡
●めっちゃ可愛い!
●ネックレスほんと似合ってる誰からなの??
●最近短いね、忙しいのかな?
●エッチなのが聞きたい
●今日のもotohonで買ったの?
●YUJIの声好き♡♡♡♡

『ちょっと、また行くとこあって。あ、じゃあ移動してからする?カメラ無理だから音だけになるけど』

『エロいの…かー。今日はやめとく。ははは、ごめん』

『うんotohonで。俺の聞いて良いと思ったらみんなも買って読んで。俺プレゼントよりそっちのが嬉しいから。俺のチョイスわりといいでしょ?』

『声?ありがとう』

『みんなで決めて。今から短編読むか、そうだな…移動してからカメラ無しでコメ返すか。はい、どっちがいい?』

『進行下手?ははは!慣れてないから、ごめん。いつもコメ読まなくて。ごめんな』

●YUJI好き♡
●今
●コメ返し
●いま朗読
●短編
●きょう可愛い!ほんと♡
●コメ返し
●絡んで♡
●移動してから?
●かわいすぎ、どーしたのYUJIくん♡
●いま聞きたい
●好きだよ♡いつもありがとう♡

『結局どっちか分かんないっていう…。じゃあ分かった、移動して短編で』

●はーい♡
●待ってるね!
●待ってる♡
●了解♡


「てっちゃん、YUJI君どうしたの?終わった?」
「一旦どこかに移動するんだってよ」
「そうなんだ。ねえ、ずっとなな抱いてて疲れないの?変わろうか?」
「いい。メシ作ってんだろ?ななはパパといるよな?」
「ふーん。あ!そうそう、最近急に重くなったの。なな、いっぱい食べるからさっ」
「そういえば、重くなったな!ななは大きくなるぞー!」
「ぱーぱ」
「いひー!可愛いなーおまえはー」
「ねー、なに急にパパっぽいことしてんの?変なのー」



「YUJIどこ行くんだよー。さみしーぜ。あ、おかえりコメ用意しとくか。いや、その前にセクハラしたやつチェックしとくか…」



「昨日会ったんだってね?」
「会ったよ、木樋君が気に入っちゃってねー困った困った」
「あやつはまた…大人になれってんだよなあ?そのうち捕まっちゃうぞ。彼は大丈夫だったか?」
「手慣れたもんで。色っぽくスカしてたから大丈夫。俺も気に入っちゃったよ」
「顔じゃないだろうな。君らね、ちょっとちょろ過ぎるよ?若い子見たらすーぐだよ」
「はははは、いやいや何を仰いますやら」
「ほんとにー?」
「まあまあ、もう少し飲みながら待ちましょうよ高井君を」
「かー、鼻の下のばしてさー。やだねーオッサンは。彼は男の子でしょうが」
「いやいやいやいやいや、ささ。もう一杯。ね?」



「頼子、茶でも入れてくれるか?」
「ええ。熱心に見てますね。その方が?」
「ああ、綾斗だ」
「もう終わってしまったの?」
「いや、一緒に聴くか?」
「ふふふ。はい、そうします」






●おかえり♡
●おかえりー!待ってたよ!
●おかえりなさいませ♡
●さみしかったぜーYUJI
●始まった!よかった♡
●おかえりYUJI
●お顔見れなーい
●どこなの?顔みたいな♡
●おかえり!

『…ただいま。めっちゃ残ってるしみんな、あ、違うめっちゃ増えてんのか。ありがとう。寂しかった?40分しか経ってないのに?ははは、お待たせ』

『あー、カメラはダメ。短編読んで、コメ返ししようか、な。そうしよ』

『その前に水飲んでいい?』

●外なの?YUJI
●お水飲んで♡
●朗読嬉しい!
●あ!自販機だ
●自販機の音?
●自販機あるの?
●寝る用意して聴いてるよ♡

『うん、聞きながら寝ていいよ』

『今日は、これ、はいリンク貼った。この詩集からいくつか読むよ。この人のは綺麗で好きなんだ。otohonにあるから』

『え?そうそう、イベントのときに読んだのと同じ人。許可貰ったよ』

『さっきotohon見に行ったらこの詩集出版されるんだって。ハードカバーで良い感じだった。詩もいくつか追加してるって書いてたから買おうかな。表紙agyさんだって。知ってる?水の波紋みたいな絵で』

『ピアス…?あ、俺の?そうそう、でもこれは小さいから2万くらいで買ったと思う。だから4万か、うん。キャッチ失くしたし。予備はあったけど』

『このBGM?良い?これは♯356だよ。表紙見ちゃったから水の音にした。mimikoneはこういうとこにも力入ってるから好きだよ俺』

『そう、アギーさんの絵』

『あ、ネックレスのダイヤ見たいって?女の子ってやっぱりダイヤ好きなんだ。カメラ駄目だから今度な』

『もう俺、読んでいい?』

『じゃあ、好きなように聞いて。寝る人は、おやすみ』




「良い声だったね。詩集、買っちゃう?」
「欲しいの?」
「うん!」
「おう。じゃ、俺が注文しとく。けどちゃんと読めよ?枕にすんなよ?」
「ひどいなもう!私のこと昼寝ばっかしてると思ってない!?ちゃんと読むよー。てっちゃんに読んでもらおうかな。あ、なな寝ちゃったね。寝かせてこよーか?」
「んーや、もう少しこうしてるわ…」
「ねえ、てっちゃん。なにかあった?」
「いいや?」
「そう?」
「俺、頑張るな。仕事とか、ななのことも。愛美のことも」
「…なーに?」
「ちゃんと家族しような」
「えー?」
「なー、なな。ごめんな、パパいつもいなくて」
「やだ…」
「ええ?泣くか?」
「てっちゃん、好きだよ。ありがと」
「お、おう」



「やばいな…YUJI。俺も買う、詩集」


「うーん。いいじゃない高井君。こういう声もいいね」
「ね、いいね。あんた褒めたね」
「私があ?褒めてないよ、別にー」
「いやいやいやいや、はははは」
「最後まで聴こうよ、このちっちゃな数字が時間でしょうが。あと30分残ってる。ほら、飲んで」
「あー、はいはい。頂きます頂きます」


「上手でしたね」
「ああ、とても良かった」
「まだ聴いていますか?」
「ああ」
「でしたら、私も」



『ありがとう』

『ううん、平気。うん、増えてる。ありがとう。みんな起きてていいの?』

『いま?なんだろう、歌う?アカペラだけど』

『なにがいいかな…』

『あ…そうだ。みんな知ってるかな、このアニメ。俺が昔、ずっと聴いてた歌があるんだけど…それ歌おうかな。著作権的な云々がアウトかも知れないけど。ははは。小さい…そうそう。うん、子供の頃に。声が大好きで、ずっと聴いてた…ずっと流れてたんだこの歌が…』

『そのアニメで悪役のボスの声してた声優が歌ってたんだけど、名前はどうかな、言っていいのかな?』

『いやその人じゃない。歌ってみるよ。忘れたことない歌なんだ…ホントにずっと聴いてたから…』




「てっちゃん、知ってる?」
「うん、知ってる。俺も歌える」
「今度ななに歌ってあげて」
「おー」



「悠二はあの人を知ってたのか」




「懐かしいなー!良い歌なんだよこれが!ねえ大西さん」
「意外だねえ。そこが繋がってたとは…」
「どうしたんだい?」
「いやあ、なんでもないよ」




「懐かしいですね。歌も上手。…どうかしましたか?」
「いや…なんでもない」
「お茶、入れ直しますね。ふふふ」




「林典隆、か…」




『そう、今だに好きだよ。さ、そろそろ終わるか。もうあと少しだし』

『ん?じゃあ俺もこのまま寝る。一緒に寝よう…』

『コメ?いいよ、いつもみたいに書いてて。後からちゃんと読んでるから俺。いつもありがとう』

『コメ見ながら寝るけど、いつ寝るか分からないから先に言っておくよ』

『おやすみ』





「おやすみYUJI君」
「ななもベッドで寝ようか。ママは浮気かなー?」
「違うよ!てっちゃん…早く寝ようよ」
「っしゃ!ななはおねんねしててなー」


「おやすみ、悠二。また明日」


「あら?高井君オープンで寝ちゃったの?いいね、こういう仕組み。無視出来ないね」
「わりといい、うん。本当に。メモしておこうか、ミミネコだった?」
「ミミコネだ呉武君。逆だよ逆。やだねーオッサンは!メモ無いと覚えられないんだから。カタカナに弱くなったらボケのサインだよ?まだ50代だよね?」
「デニムのパンツをデムニって言っちゃたよこの前」
「いやだねー!引いちゃうねそれは。Gパンって言った方がましだよね。なんなのデムニって」
「ひどいなー。仲間じゃないか、ははははは!」
「やめてくれない?声がデカくて困るよ君はー」



「おやすみ綾斗」
「おやすみなさい」






「あ?」
「てっちゃんどうしたの?」



「何の音だこれ?」



「ちょっと、君いま腹音鳴ったんじゃない?アウトだよ?」
「鳴ってないよ。こんだけ食ったんだから」
「気のせいか」
「ひどいなー」



「…足音、か?」
「あら、切れちゃいましたね」









「ん…?」
ベンチに寝転がったまま、手からスマホが落ちた気がして目が覚めた。
画面は消えていて配信は止まっていた。
(あれ…そんなに寝た?)
だが、スマホは俺のじゃない誰かの手にあった。
顔を上に向ける。

「あ…」

青柳さんが居た。

俺は青柳さんと目が合ったまま、何も言えず、ただただ嬉しいと思っていた。

(会えた、本当に会えた…)

俺は昨日も今日も青柳さんと居たのに、ふと自分の居場所が変わってしまいそうな不安を感じ、また、青柳さんに会いたくなった。
でも、理由も無く会えるはずもないから、こうしてこのスタジオに来て「会えればいいのに」と願うだけ願っていた。

「来て、くれたの…?」
「その目…」
青柳さんの声が耳に響く。
奥深く、透明な泉を揺らす。

それなのに、

「あお…」
「綾斗か?」

(え…?なに?)

青柳さんの目はそっと優しく微笑んだ。

(綾、斗…?)

俺は訳がわからず体を起こした。
青柳さんは横に腰を下ろして直ぐに、俺の頬にそっと手を当てた。

「起こしたか?」

青柳さんの目が俺の顔の全てを確認するようにゆっくりと動いて、俺の目もその温かさを追って動く。だが、

(綾斗って、言った?)

何故か青柳さんは、本当に俺を綾斗だと思っているようだ。
そうでなければ、こんな風に見つめて、突然頬を撫でたりしないだろう。
「悪いな、綾斗」
俺は録音室で聴く落ち着いた神城の声を思い出した。

「…神城…さん?」

俺はそう言いながら、青柳さんの目が俺の目に戻って来るのを待った。

「今日はこっちで寝てたか」
(こっち…?)

『…どっちだ?』

青柳さんは今朝、俺にそう言った。

「窓よりはマシだがな」
「窓?」
「覚えてないのか?高井みたいに。ピアス落としたろ?向こうの窓辺で」

甘い、ネイビーの声。

(高井、みたいに?)

「あ…」

俺はやっと合致がいった。
青柳さんが何故俺のピアスを見つけられたのか。
その後何故、あんな風に俺の頬に触れたのか。

(俺は綾斗として…青柳さんに会ったのか…?)

「どうした?」
状況がよく分からない。それでもただ、青柳さんの声がいつもよりずっと優しくて、

「ううん…なんでも、ない」

俺は俺だと、言えなかった。

(青柳さんの目…)
その目も穏やかで優しい。

「顔が見たくなってな、お前で良かった」

「…え?」

またそっと撫でられる頬。
(青柳さんは…)
「本当に良く似合ってる」
目にダイヤの光を受けながら、青柳さんは指先で「K」を揺らす。

(…綾斗で良かったって言った?)

心が、痛い。

(青柳さんは、綾斗に会いに…?)

「どうした?眠いのか?」
「神城…さん」
「ん?」

神城と呼んで、応える青柳さん。

(俺は、青柳さんを)

息が苦しい。

「綾斗?」
「どうして…!?」
俺は混乱して咄嗟に青柳さんに抱きつき、肩に顔を押し付けた。
(何それ…なんで?昼間はあんなに…!)
「なんだ、何かあったのか?」
(昨日はあんなに…!)
クスクスと笑う声。
俺は更に青柳さんの膝の上に跨った。
(そんなのって…)
昨日青柳さんはここで、一度俺を遠ざけたのに。

『近くないか?』

今は甘える子供をあやすみたいに、呆れながらも平気で髪を撫でてくれる。

「寒いのか?」
震える俺の背中をも大きな手で撫でている。
(なんで?)
「うん…寒い。だから…」
俺が言うまでもなく、青柳さんは俺をすっぽりと胸に抱いた。
「神城さん…!」
「なにを甘えてるんだ?」
(青柳さん…どうして?)
俺は苦しくて体を起こして青柳さんの顔を見た。

「会いたかった…」

青柳さんの目を見る。
「会いたかったんだ、あなたに」
(青柳さん…)
青柳さんの眉が少し動いて、俺は焦った。
「神城さん…」
顔を肩に伏せて青柳さんの首に頬を当てる。血の流れる熱さで、俺の耳も顔も頭の中も熱くなった。
「俺もだ…」
綾斗に向けた言葉だと思うと胸が壊れそうだった。
体はこんなにも熱いのに、泉は驚くほど静かになって、俺の行く末を表していた。
青柳さんの鼻が俺の首筋に当たって息を吸うのが分かった。
体がどんどんと熱を持っていくのに、
透明な泉は凪。

(どうして…?)

昨日の夜、俺を慰めてくれた青柳さんは人生の先輩だった。
そして、それでしかなかった。
(なのに…)
今、ここに居る青柳さんは、
(綾斗に、会いに…)
恋人の様に触れてくれる。

最初に俺だと分かっていたら、何でもない会話をしたのだろう。
こんな風に優しく俺に触れる事なく、明日の仕事の話でもしたのだろうか。
「昨日…我儘言ってごめんなさい…」
俺は青柳さんを試してしまう。
「ん?」
「給湯室…」
青柳さんは少し笑った。
「ああ、良く頑張ったな。風邪はひいてないのか?」
また優しく笑う。
(あれは、俺だったのに…。あそこに居たのは俺だったのに…)
「うん…」
青柳さんに顎を持ち上げられて見つめられる。
「可愛かったぞ?」
ふっと微笑む。
(綾斗じゃなかったのに…)
「神城さん…」
切なくてまた直ぐに俯く。
(あれは…)
あの熱風の中で俺の手を引いてくれたのは、神城じゃなく、青柳さんだったのだろうか。
(俺を、綾斗だと信じて…)

青柳さんは俺の頸の髪を掻き上げて鼻を当てるとまた息を吸う。
俺の体が大きく跳ねて、青柳さんは言った。
「良い匂いだな」
「あ…」
「もう少し我慢してろ」
「神城さん…」
鼓動の激しさに耐えられず俺は青柳さんの首に腕をまわした。
「頸が弱いな、お前は」
「あ…!」
強く擦られて俺はぎゅっと目を閉じた。
「こっち見ろ」
「ううん!」
俺は更に俯いた。
「顔、見せろ」
青柳さんの両手が頬を包んで上を向かされる。
じっと目を見つめられて、綾斗じゃないことがバレてしまいそうで怖かった。
(バレたら、帰ってしまう…)
「真っ赤だぞ?」
青柳さんは俺の前髪に指を通して上に上げると、左目下の黒子を見ているようだった。
「ダメ」
俺は青柳さんの手を触る。
「なんでだ?」
「これは、悠二、だから…」
それを聞いて青柳さんの目が一瞬細められた気がした。
「悠二の、部分…なんだ」

『消すな』

『これが、お前だろ?傷でもないんだ、残しておけよ』

(これだけは、俺の部分)

「そうか」
青柳さんはそっと言って前髪を下ろした。

青柳さんの前に跨る俺はもう、中身がぐちゃぐちゃになってそこにあるだけだった。
「これ、ずっとつけてろよ?」
ダイヤが突かれて激しく輝く。
(これも、綾斗にあげたんだ…)
心臓が裂けて、もう、何も残りそうにない。
「他の男に触らせるな」
これは神城が綾斗に言う台詞だった。
(俺じゃなく…)
「…うん。誰にも…僕は、あなたの…」
「少しでも、これがお前を守れればいい」
これは台詞ではない。その声には青柳さんの優しさが滲んでいた。
「神城さんお願い…」
「なんだ?」
「キス…して」

(どうして、綾斗なんだろう…)

俺は、青柳さんが欲しかった。
一回だけでも、例え綾斗になりすましてでも。
だが、青柳さんは顔を近づける俺の頬に手を添えて止めた。

「体は高井だろう?」

泉は全くの凪。

胸のダイヤだけが呼吸に合わせて、青柳さんの瞳の中で乱雑に揺れる。
「ごめんなさい…」
「綾斗」
「ごめんなさい、ほんとに…」
息が出来ない。
「全部、綾斗になりたい…」
全部、綾斗になってしまいたかった。
高井悠二がこんなにも本気で邪魔になった事はなかった。
(今まで空っぽだったくせに)
「綾斗がいいのに…」
左の頬にある青柳さんの手に両手を重ねて祈った。
「体も全部…全部…」
青柳さんが求めているものになればいいのに。
「綾斗がいい…!」
(消えればいいのに)
そんな意味のない願いを聞き届けている青柳さんは、じっと俺を見つめていた。
(青柳さん!)
どうしても俺は、綾斗にはなれなかった。

「…綾斗。大丈夫だ、台本が全て終われば俺達は結ばれる」
「うん…」
辛い。苦しい。
「だから待ってろ」
俺は頷く振りをして項垂れた。
頭に伸びて来た手をそっと止めて俺は言う。
「神城さん…もう、そろそろ」
「ん?」
限界だった。
「悠二が、起きるから…」
青柳さんの少し惜しむような目を見たくなかった。
「もう、帰って」
俺は綾斗として、青柳さんに出来る限り微笑んだ。

(黒くなる。泉が、黒くなってしまう…)

透明だった泉に陰が射す。
黒を感じるのは初めてだった。
黒い何かが、上からではなく中から、底の方から湧き上がって濁らせて、知らない感情が起こりそうだ。

「ここで眠るのか?」
「うん、もうすぐ起きるから」

『僕は綺麗なままでいたい』
(赤羽の…)

あれはこういう事なのかと実感する。
(好きなんだ。だから、この人の前では綺麗でいたい…)


俺は青柳さんから離れた。
青柳さんはゆっくり立ち上がる。
背中を見たくなくて、ベンチに横になった。
「綾斗、おやすみ」
優しい声。
夜みたいな、ネイビーの声。

「おやすみなさい」

ドアが開けられる音。

「…さようなら」

俺は青柳さんが下ろした前髪を掻き上げて、目を閉じて眠ってしまおうと思った。
(どんどん黒くなる…)
でも、青柳さんの足音は何故か止まったままだ。
(お願いだから、早く…帰ってくれ)

すると荒い足音が近づいて来て、俺は青柳さんを見る。
腕を強く掴まれて引き起こされ、至近距離で見る目の強さに驚いた。
俺の前髪を手で上げてじっと俺の目を見る青柳さん。

「そんなに好きか?神城が」

静かに、怒るような目だ。

「なあ、綾斗」
片眉を上げて言った青柳さんの唇が近づいてきて、俺の唇と当たる。
激しく乱れた泉にはネイビーの雫。
黒が底に退いていくようだった。
「な…」
そこに当たったまま甘い囁きが響く。
「…キス、しようか」
唇が離れて、薄っすらと光る目に見つめられるとまた体が熱くなってくる。
「でも…神城…」
少し強く吸われて肩が震える。
青柳さんの唇が熱くてどうにかなりそうだった。
俺は腰を引かれてそのまま後ろに手を付いた。
「ん…」
俺は青柳さんを見る。
「さよならはやめろ…お前の悪い癖だ」

神城の声。

「癖…?」
「おやすみの後は、また明日だ」
今度は優しく塞がれる。
「また明日。どんな時でも誰にでも、だ…それで繋がる」

ネイビーに染まって行く。

青柳さんは俺の左目の黒子を親指の腹で軽く摩った。
「自分から一人になるな…いいな?」
(青柳さん…三条さんにもそんなこと言った…)

すみませんじゃなく、ありがとう。

(今は綾斗に…)

「うん…」
「分かったな?」
「うん」
唇が食べられて、熱くなって、心と体が逆流して死んでまいそうだった。
「…平気か?」
甘い声に身体が溶ける。
「気持ち…いい。神城さん…」
少しでも長くキスが欲しくて、
俺はまた騙す為に神城を呼ぶ。
(青柳さん…)
「来い…」
「あ…」
さっきのように膝の上に抱えられて、青柳さんは俺の頸にも一度キスを落とした。
「っ…!」
体が震えてたぶん顔も真っ赤だろう。青柳さんはまた唇に顔を近づける。
目が合って、そのまま俺の唇に視線を移されて熱い。
(俺だよ?青柳さん…)
欲しくて口を少し開けば愛しい舌が入ってくる。ゆっくり絡まって、腰が重くなる。何度も何度もキスをして、頬も耳も熱い。
俺の髪を混ぜていた大きな手が肩を通ってふと落ちるとき、たまたま俺の尻を叩いた。
「ん…!」
息が洩れて、腰が揺れる。
咄嗟にベンチの背もたれを掴んだ。
「もう…やめないと…」
膝立ちになって青柳さんと見つめ合う。
「ああ」
「待ってた…ここに来ればまた神城さんに会えると思って…」
俺を見上げるような青柳さんが、もう一度俺の唇を呼ぶ。

今までにない距離で目が合う。
真っ正面から。
(なのに…)

俺達は、すれ違っている。

「やっぱり…もっと触れたい…神城さん…」
身体が千切れるくらい、苦しい。
深いキスが、悲しい。
「綾斗…」

今朝ここで生まれたようだった俺の想いは、今夜ここで壊れてしまった。

たった1日の短過ぎる命だった。

「…台本が全て終われば、お前にも分かる」
青柳さんは再び、優しくこの言葉を言う。結末を知っているから安心しろと。
台本が全て終われば、俺はもう青柳さんには会えないのに。
「そうだね…」
俺は綾斗として微笑む。
「ああ、だから、大丈夫だ」
唇ばかり啄ばまれて、身体が切ない。
「うん…」
あちらこちらが凄く熱いのに、
背中だけが寒い。

(あの頃には戻りたくない…青柳さん)

いつも窓の外を眺めて、
そのガラスの向こうに行きたいと、ずっと望んでいた。

「もう眠れ」
(俺も連れてって…)
またそっと青柳さんに抱かれて、肩で目を閉じる。
「今日は一緒に居られそうにない」
「うん…」
(おいていかないで…)
「おやすみ」
「おやすみなさい」
(せっかく、中身が見つかりそうだったのに…)
ゆっくりと落ちていく意識。
「…また、明日」








明け方の仮眠室。

白み始めたカーテンを見て目が覚めると、青柳さんは居なかった。

胸の上に乗ったままの重い腕も、生きる糸が切れたように動かせなかった。



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