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しおりを挟む◆ 青柳 晃介
朝八時半。俺はスタジオに入った。
いつものように栖本が煙草を吸っている。その前に二岡と橋下風也がいる。
橋下風也は声優になってまだ二年程だが、養成所に入った頃から講師やらの口伝えで名前が広まり、何かと注目されていた。そして一年目くらいのオーディションで大西さんに気に入られ、獲得した深夜アニメの主役で一気に人気が出た。
声のバリエーションはそれほど多くないが、少年や青年をやらせれば格闘ものでもギャグでも歌ものでもBLでも、とにかく演技が上手い。十年に一度、新人にいるかいないかと言われる「天才」だと公に評価されていたりする。
「おはようございます青柳さん!」
人懐っこい笑顔で俺を見つけると、良く通る声で駆け寄ってくる。
「お早う」
だがしかし、表向きは明るく人懐っこいのだが、実の性格はあまり良い方でもないようだ。その事はもう、ある程度周知の沙汰だろう。まあ「本当に性格が良い」と言われる役者なんて、俺は二岡一人くらいしか知らない。
だから「悪い」と言っても、拗ねた橋下に目を付けられれば面倒だ、という程度の事だろう。
そしてそんな事よりも、俺が実際に多少気になっているのは、橋下が俺に可愛がられているアピールをあちらこちらでして回っている事だ。俺がラジオ出演や雑誌の取材を受ければ必ずと言っていい程「ついでにー」の入り口でこの橋下に対するコメントを求められる。声優ファンは橋下を「青柳さんの弟」と言っているらしい。
事務所も違って一体何の得になっているのか知らないが、人気も出たのだからそろそろ離れてもいいだろうとは思う。
「今日俺めっちゃ嬉しいんです!青柳さんの相手役できるんですよね?今までBLで共演させてもらってもいっつも恋人役じゃないですから」
「そうだな」
「セフレセフレ」
栖本がスマホを弄りながら煙草を振る。
「でもちゃんとオフィスの後輩役の方もあるんで。俺は嬉しいんです栖本さん」
「媚びすぎ」
橋下と同じ事務所の栖本は、勿論橋下の性格を知っている。知っていて辛口だ。
今はここにいない司も、口には出さないがあまり気に入っているとは言えないようだ。
「橋下君は色んな先輩方に可愛がられてるよね。僕なんていまだに喋ってくれない人多いのに」
二岡は誰にでも友好的だ。
色んな奴がいる。だがこの世界では歴の長さもさる事ながら、演技が上手ければそれが強い。そして言ってしまえば上手い下手だけでもない。要領の良さはやはり不要ではないからだ。
橋下は後数年もすればもっと高い地位を築いているはずだ。
「高井には会ったのか?」
俺は橋下に確認する。
「会いましたよ。美人でびっくりしました。あ、来た来た。こっちこっち」
丁度高井が二階から降りてきた。
「お早うございます青柳さん」
高井は昨日とは違って少し笑顔を見せた。雰囲気が落ち着いていて柔らかい。
「お早う」
(なんだ?別人か?)
「俺も座っていいですか?」
高井は栖本にまでその調子だ。
「おう。お前も食えよ」
栖本も内心不気味なはずだがチラチラと見ているだけで、自分が持ってきた包みを高井の方にやった。
「なんかわかんないけど良かった」
二岡は自分から輪に入った高井に素直に喜んでいる。
「俺もいいですか?栖本さん」
橋下も手を伸ばす。
「食え食え」
「あ。すみません、そっちに」
高井は焼き菓子を一つ取って、残りの箱ごと橋下に渡した。
「なんかそれ、嫁が買ってきた。若い奴らで流行ってるお菓子だって」
栖本はまた高井をチラ見して言ったがすぐにスマホを弄る。
「お早う晃介」
司も二階から降りて来た。
「ああ…」
「ん?どうした?」
「いや、お早う」
「三条さんここどうぞ」
橋下はすかさずベンチを指すも、司はさっきまで寝転がっていたから今は座らなくていいと橋下に笑顔で言った。
「青柳さんは?」
高井の声だ。
「…何だ?」
「ここ座ります?」
「いや、いい」
俺は自販機前に行き水を買う。
高井が馴染んだならそれに越した事はない。
俺がペットボトルの蓋を開けながら何となく見遣ると、司、栖本、二岡、橋下が箱の中を覗いて会話している。
だが、高井はそんな皆をどこか遠くから見るようにして、急に無表情になっていた。まるで人形をベンチに座らせて皆で菓子を選んでいる、そんな異様な風景に見えた。
そして高井はすっと窓の外を見る。それから俺の視線を感じたのかこっちを見た。
妙に、印象的な目だった。
しかし高井は急にふと微笑んで、
「座らないのって、俺?」
と言った。
「…あ?」
全員がどうかしたのかと俺を見る。
高井はどうやら俺が座らないのは自分のせいか、と訊いているらしい。
「いや」
俺は栖本の横に座った。高井はもう橋下や二岡と普通に会話している。
「じゃ、俺も座ろうかな。なんかこうやって雑談ってあんまりないよな他の現場でも」
司も楽しげに二岡の横に座る。
「ない。みんなこわいもん」
二岡が苦笑いする。
それに対しては流石の橋下も気まずい愛想笑いで流した。
「ここが可笑しいんだっての。仕事前にこんなのんびりした現場なんてないからな」
栖本が鼻で笑うと「そうですよ」と橋下が頷く。
橋下は自身が人気急上昇中である以外にも、普段からの要領の良さで色んな中堅やベテランに顔が効く。数多くの席について行っているだろうから業界の情勢にも詳しいはずだ。
誰と誰がどう、そんなのも知っているだろうがそれを軽く他所で言ってしまうほど馬鹿じゃないから生きている。言ってしまえよと詰められるような苦労ももしかしたら人知れずにあるのかもしれないが。
「高井さんの服オシャレー」
橋下はさっと話を変えた。若い者同士で話が合うのか服のブランドについて話している。
「これの下ってタンク?」
橋下は高井の大きなTシャツの袖を引っ張った。
「てか、肌しろ!」
「まあ…生まれつき」
高井のデコルテはやけに白い。
(完全な日本人じゃないのか?)
目を見た時にもそう思ったが、顔付きは海外のものとも言い切れない。そのバランスが良いのだろう。明るい髪も、少し見える根元は黒に近い。
「こんな人いるんだなあ。声優界でいうと三条さんだ」
「上手いなあ君は」
橋下に笑って言う司も要領の良い方である。
「ネックレスはしないのか?」
俺は白いデコルテを見ながら尋ねた。
高井は耳には複数ピアスをつけていて、時計と、手首にぴったりとフィットしたシルバーのバングルも付けている。現場でアクセサリーは当然避けるべきだが、今回のメンバーにいちいちそれを咎める者はいない。音が鳴らなければ何処に何をつけていようと構わないだろうと俺は思う。しかし、そんな型破りな高井の首には何もない。
「首輪っぽいから」
場が静まり返って、栖本が噎せた。
なんとなく栖本の反応も分かる。高井が言うと「背徳感」めいたものがあった。
単なる「猫の首輪」の事ではない気がするから不思議だ。
俺はふと神城が綾斗にネックレスをプレゼントするという台本の流れを思い出した。
「高井さんって、なんかエロい」
橋下が呟いた。
高井の目が一度さっと橋下の方へ振れたが直ぐに何でもないように床に戻った。
俺が何となく橋下を見ると橋下は服を正す高井を少し冷めた目で見ていた。
妙な嫉妬のようだった。
「彼女いるの?」
司が言うと高井は首を横に振った。
「今は。皆さんはいるんですか?」
「俺も今はいない。で、哲平は新婚の子持ちで、保は…」
「僕四年いない、ははは!仕事が楽しくて」
二岡だ。
「で、晃介は結婚したけど別れた。一瞬で」
司は余計な話をする。
「結婚、してたんだ…青柳さん」
高井は意外そうに言ってくる。
「ああ。二十代後半でな」
俺は26で結婚し30でスピード離婚している。
「当時俺まだ声優じゃなかったけどニュースでやってましたよね、青柳さんの結婚も離婚も。ファンが騒いで」
橋下はやはり詳しいようだ。というより高井が声優に興味がないだけか。
「丁度仕事が増えた時期で忙しくなってすれ違ってな。やっと家に帰っても暗い空気ってのに耐えられなかった」
「暗い奴ダメなんだっけ?青柳さん」
栖本が珍しくスマホを置く。
「暗い女は無理。付き合ってた頃はそうでもなかったんだが、まあ俺が悪いんだがな」
顔も体も申し分のない賢くて良い女だったが元々少々影を背負っていた。忙しくてまともに帰れない日が続くと嫉妬深くてとにかく手に負えなかったのだ。
「重いのと暗いのは友人でも男も女も嫌だな。懲りた」
俺が苦笑いすると、誰よりも早く若い橋下が「分かります」と笑った。
そして、何故かは分からない。多分誰にも分からない。
「高井さん、重そう」
橋下が急に高井に言った。
二岡と栖本が凍りついた。
「え…俺…?」
高井は一瞬ピタリと止まったがすぐに橋下を見る。
「俺、めっちゃ重いよ?」
今度は橋下が動かなくなった。間近で見た高井の完全なる無表情にかなりの衝撃を受けたようだ。
「俺を受け止められる奴なんて、この世に一人としていないから」
高井は「ヤバくない?」と、今度は不敵な笑みを送った。
誰もが何も言えずにいると、高井は前髪をかき上げながら大きなため息をついて立ち上がり、そのまま外へ出て行ってしまった。
橋下も黙り込んで、誰も今起こった事を直ぐには理解出来なかった。
「…これは何だ?そして何であいつは毎回毎回外へ出て行くんだ?」
俺は栖本に訊くが、
「オマエラキライ、かな。ったく、めんどくせーことしてんなよお前も」
栖本の視線に橋下も目を逸らしたが、こっちはこっちでヘソを曲げたようだ。
どうやら高井の何かに嫉妬した橋下が高井を喰らいに行って逆に喰らわれてしまったらしい。
橋下がこうして分かりやすく直接攻撃したのを見たのは俺は今日が初めてだった。基本的に俺の前で面倒を起こす奴はいなかったし、橋下も栖本が言うように子供っぽい嫌味を言うタイプでもなかった。
先に仕掛けたのは橋下だが、周りとの協調性が欠けている高井にも原因はある。どんな職場でもそれは同じ事だ。
「ああ、理想郷が木っ端微塵だ。俺もう少し寝てくるよ、じゃねー」
司はしれっと二階へ引き上げた。
「僕は…高井君みてこようかな」
二岡が高井の後を追おうとするが俺が止めた。
「やめておけ。何か知らんが仕事さえしてくれればそれでいい」
「うーん…」
二岡はどうしたものかと唸るも、
「あーあ。だっるー」
栖本は高井と橋下の二人に対して苛ついている。
まあ、俺は橋下より高井の方がややこしいと何となく気づいていたが。
狐は今日、頑張って被っていた猫の着ぐるみを即刻脱ぎ捨てたようだ。
◆
大西監督は今回は基本的に「テスト本番」というやり方で収録を行うと言った。
常に本番のつもりでテストを録りそれが良いものなら本番とするという事だ。
昨日一日を見てそれが合っていて良いと判断したそうだ。
俺は端から二番目、橋下風也は俺の横のマイクその前に二岡さん、そしてその横から順に栖本さん、青柳さん、三条さんが並んでいる。
神城の視点で進むシーン。
橋下さんはまだ出番じゃないのにずっと立っているつもりらしい。
『おつかれい』
三条さんが同僚その1。
『お疲れー。じゃあな神城』
二岡さんが同僚その2。
『おう、お疲れさん』
青柳さん。
そして三条さんと二岡さんの会話。
『メシ食って帰ろうぜ』
『いいねぇ、ビールビール!』
三条さんと二岡さんはゆっくり椅子に下がった。
『お前らまだ帰らないのか?』
神城が綾斗と大月に言う。
『こいつが付き合えってんで、しゃーないっすよ。今日一緒に営業かけた先の報告書の書き方教えます。今回の客は個人なんで岸に任せてみようかなって』
栖本さんは頼られて嬉しい大月を表現する。
『ほー。いよいよ独り立ちか』
『まだまだ大手は俺のサポートですけどね』
『大月さん、いいから早く次も。僕も大月さんのみたくここに相手の要望書けば良いんですね?で、ここにその対応策?』
綾斗は大月を急かす。
『そうそう。よく見てんじゃねーの偉いぞ岸』
『もう分かったので書いてる間コーヒーお願いします。ミルクと砂糖多めで』
『はい!?』
神城はクスクス笑う。
『まあいいや、今日は俺がいれてやるよ。待ってろよお子ちゃま』
大月が給湯室に向かう。
『あんまり勢い付くなよ?最初はゆっくり丁寧にな』
『…はい。わかってます』
俺の綾斗は神城が相手になった途端に大人しくなるように演じる。
『あとで言った言わないってのが一番面倒だから電話じゃなくメールを使った方がいい。客は増えてくる。専用のメールフォルダ作って他のメールと混ぜるな基本だ』
『はい。あ、ちょっと…すみません電話。はい、今まだ会社…うん、先に食べてていいから。わかんない。帰りに電話するから。うん』
綾斗の父だ。
『待ってる人がいるのか?』
『え?はい、一応…』
『女?』
神城は少し冷やかす。
『べ、別に関係ないでしょ。神城さんはまだ帰らないんですか?』
『ん?』
ここで大月が戻る。
『あまーーいの作ってきてやったぞ』
『あ、どうも』
『ミルク温めてコーヒーと砂糖溶かして、だろ?俺だってお前のことちゃんと見てんだぜ?いい先輩だろ?』
『はいはい』
『それより、今日は親父さん電話したのか?また心配してるんじゃねえの?』
『な!?』
『親父?』
神城はさっきの綾斗の電話の相手を知る。
『そうー、超過保護なんですよ岸のパパ。ちょっと遅くなると電話かけてきて』
『うるさい!黙って下さい!』
神城はまた笑う。
『こないだ出先から直帰した日なんかも雨降ってるからって迎えに来ちゃって、俺も高級車で家まで送ってもらえたんでラッキーでしたけど』
『ちょっと!』
『一見めちゃ渋いのに、もーう息子にデレッデレ。綾斗はちゃんとやってますか?ご迷惑かけてませんか?つって』
『もう!やめてってば!』
『痛い痛い!なになに!?あ~お前恥ずかしいのか~?』
『あんたほんと最悪!言わないって言ったクセに!』
『ちょっ!お前真っ赤だぞ!?カワイイー!!』
『おいおい、お前ら。暴れてPC壊すなよ?俺はもう帰るぞ、お疲れさん』
『あ!神城さん!』
『お疲れ様でしたー』
俺と栖本さんは出番を終えて後ろに下がる。
その時に橋下さんのじっとりとした視線を感じたが無視した。
{俺はマンションに寄らず、そのままバーに入った}
神城のモノローグ。
{適当に酒を飲んでいるとカウンターの端にいる若い男が目に入った。何度か視線を送って来ていたその男は自分から俺の横に移ってきた}
『こんばんは』
橋下さんはこの一言だけ俺に声を似せたような気がした。その理由はこの後にあるのだが。
{若い奴は後を引きやすい。俺は今まで極力避けていたが、今日はやけに気に入った}
『何か飲むか?頼めよ』
青柳さんはもう神城のプライベートの甘い声に変えている。
『いいの?じゃあ。ホワイト・ルシアン』
橋下さんは台本になかったカクテルの名前を足した。
『珍しいのを飲むんだな』
青柳さんのアドリブだ。
『そう言ってほしくて』
橋下さんは落ちついていながらも語尾がすこし跳ねる可愛らしい言い方をしてそれに応える。
ここは神城の世界を出せればそれでいい為、いくらアドリブを入れようが流れに沿っていれば構わないのだろう。台本通りだと確かに出会いからベッドまでが安直で少し味気ない感じでもあった。
『どうして?』
『あなたの今までの相手に、少なくとも俺のカクテルの好みと同じ人はいなかったってわかるから』
『なるほど』
この空間にいる俺を含める全員が神城の言葉に共感したはずだ。
ここから台本に戻る。
『名前きいてもいいですか?俺は晴臣』
『拓馬だ』
『拓馬さんか。ここ、許してくれてありがとう。いただきます』
乾杯の間。
(猫…)
俺は橋下さんをオレンジと紫色の猫だと思った。
橋下さんは大きくコクンと喉を鳴らして飲んだ演技をする。
『美味しい』
{さっさと連れて出るか…}
『甘いのか?それ』
『うん、でも見た目ほどくどくないよ。飲んでみて』
アドリブだったカクテルの名前。ここにも合うように橋下さんは考えて付け足していたのだろう。
青柳さんも少し音を立てて飲んだ演技。
『ふん、確かに飲みやすいな』
『甘くて飲みやすいけど、キツイのが好きなとこ』
橋下さんは色気を出す。
俺は素直に、橋下さんを上手いと思った。
青柳さんは本領発揮で、甘くて低い、耳に残るような声を使う。
『お前もこんな感じか?』
橋下さんはその声に引き寄せられたように囁く。
『じゃあ…試してみてよ』
『はい、OKです。次いこう』
大西監督の声で一度空気は緩むものの、青柳さんと橋下さんは脇目を振らずに台本を見て立ったままだ。
俺、二岡さん、栖本さん、三条さんは録音室を出る。その途中監督は俺に手招きして自分の横にヘッドホンを置いた。
俺はまた大西監督の横に立って青柳さんと橋下さんの演技を見せてもらう事になった。
『まって…』
橋下さんの声が聞こえた瞬間にゾクっとした。
バーでは神城と対等かそれより実は上から来ていたようだった晴臣が、神城のキス一つで完全に押されているのがすぐに分かったからだ。
『早くこうしたかったんだろ?』
ホテルのドアを超えた時から神城は子供相手の態度ではない。
『けど…!ああ!』
『どうした?』
『拓馬さん!まだ…待って!』
『ずいぶん誘ってただろうが』
青柳さんは今までにないほど冷徹な声で神城を動かす。
キスをしながら服を奪っていくのだが、狼が子猫を爪で引っ掛けて弄ぶような姿が目に浮かぶ。
『ああ…すごい…』
晴臣は自分を襲う勢いでくる神城にそれでも狂酔しているような息づかいと言葉で応えている。橋下さんの時折弱く掠れる声が快楽を映し出すのだ。
『甘えてないで立ってろ』
『そんなの、む…り…』
キスをしている二人の真横に行って聞いているようなリアルな演技だった。
後から録る神城のモノローグを入れる間でもそれは続く。
モノローグの内容は普段なら若い相手を避ける神城が、何故か晴臣を気に入ってしまう理由を自問自答するものだ。
『仕方ないな…』
興奮のあまりに鼻をすすり出した晴臣に神城が優しくそう言い、長いキスシーンになる。
じっくりとなだめるようなキスだ。
晴臣は感じ入りながら何度も神城を呼ぶ。神城はやはり呼び返しはしないが優しくしていることは青柳さんの息づかいで分かる。
甘ったるい橋下さんの声や二人の息の掛け合いが合致したこのキスシーンが、とても良いものだと俺でも分かった。俺はふと大西監督達を見ると全員が前の二人の背中を見つめたり目を閉じたりして集中していた。
俺の綾斗は、最終的にこれを超えなければならないのだ。
収録が開始されるまで、別に仲睦まじく付き合っているでもない役者同士が、監督の合図一つで普段の生活とは全く掛け離れた恋人やセックスの対象役を演じる。当たり前のように切り替わる声優達の頭の中。
(こんなの、出来るわけない…)
俺は初めてそう思った。
『拓馬さん…もう、欲しい』
晴臣の溶けるような声が聞こえると俺はヘッドホンを置いてミキサー室を出た。
廊下には三条さん、栖本さん、二岡さんが居た。
「あれ?いいの?」
二岡さんが極端な小声で不思議そうにきいてくる。
この人達もドアを閉めても聴こえてくるこんな演技を何ともない顔で聴いている。
「ちょっと、水飲んできます」
俺はそう言ってロッカー室に向かった。
泉は透明のまま。
綾斗は降りて来ないのだろうか。
段々と不安は大きくなって来ていた。この先は俺の力では誤魔化しきれないからだ。
「…どうすればいいんだ?」
さっきの神城と晴臣のキスシーンには綾斗の存在が関係していると後で分かる事だ。俺が下手な事をすればこのキスシーンの出来の良さが浮いてしまう。
綾斗が晴臣に勝たなくては神城の布石が弱くなってしまうのだ。
(青柳さん…)
せっかくの青柳さんの演技が無駄になる気がする。
(あの人はきっと綾斗とのシーンまでに色々と工夫してメリハリを付けているはずなのに)
更に言えば神城が綾斗の前でどうなるのか、青柳さんがそこをどう演じるのかさえも俺には見えない。
今まで俺は何度かBLの作品を演じた事はある。でもここという場所は俺達が居た場所とは全く違っている。
プロの仕事をしていた。
本物だった。
(俺達はきっと、そうじゃなかった)
気の合う知り合い同士で、PCの向こうにいる自分に興味がある事が前提のファンを喜ばせていたに過ぎない。
(全く違ったんだ…真似にもなってなかった)
キャラクターを脱げば恋人同士でも何でもない。友人でもないかも知れない。
当たり前のように誰かになって、当たり前のように自分に戻る。
それがここに居る人達だ。
『勝たせてやりたいよな』
MAKIの声が思い出される。
「勝てっこない…こんなのに」
だが、MAKIなら当たり前のように出来たのかもしれない。
「でも今は俺がやらなきゃ…」
俺は今「出来ない」では許されない場所に居るのだ。
「綾斗、頼む」
強く祈ったその時、
「青柳さん!?」
二岡さんの声がドアの向こうから聞こえた。
俺の目の前にあるドアが勢いよく開いて青柳さんが入ってきた。
「お前、ずいぶんと余裕だな」
青柳さんの表情は少し怒っていた。
「せっかく他人の演技を見られる時にこんなところで休憩か?」
俺は水のボトルを手から滑らせて落としてしまった。
「こんな内容の作品だから無理にとは言わないが、見学しておいて損はないだろう。もしお前が出来なかったら俺は怒るぞ高井。お前は主人公の一人で、俺の相手役なんだからな、中途半端はするな」
俺は何も言えず、青柳さんの静かに怒る目をただ見るだけしか出来なかった。
「自覚しろよ?主人公ってのは脇役じゃないんだ。お前でこの作品が決まるぞ」
青柳さんの後ろに橋下さんが走って来た。そして何事だと青柳さんを見て、俺を見る。
「…てる」
俺はこの状況に対して「追い詰められている」と思ってしまう自分の甘さに腹が立った。
「なんだ?言いたい事は逃げずにちゃんと言え」
青柳さんは正しい。なのに苛々する自分がいる。
「分かってるって。でもあんたが相手役を変えたいなら変えればいいんじゃないのか?」
俺は横を通って出る際に橋下さんの背中を青柳さんに向かって軽く押した。
その後俺は綾斗と大月のシーンを録った。
綾斗が初めて任された客の件で問題が発生した。たまたま電話で話をすすめた変更点の内容を後になって相手が言っていないとクレームを付けてきたのだ。綾斗は大月に付き添ってもらって謝りに行ったものの自分の不甲斐なさに落ち込んで一人会社に戻る。
栖本さんが出番を終えて二岡さんと一緒に椅子に下がる時に、さっきのロッカー室での一件に対して栖本さんが俺に反感を持った事がなんとなく空気で伝わって来ていた。
栖本さんはぶっきらぼうだが、部外者に自分の後輩を嫌味のネタに使われて何も感じない人ではないだろう。
だが俺はこの後に綾斗と神城のキスシーンがある為、それを気にしていられなかった。
青柳さんがいつもの位置に立つ。
俺はすでに、綾斗を完全に見失っていた。
台本は綾斗視点で動く。
『岸、なんだ、また残ってるのか?』
『神城さん…』
{僕はこの人の顔を見てどこか安心している}
『ヘマしたって?大月が心配して連絡してきた』
『そうですか…』
本来ならもっと弱々しくするつもりだったのにどうしても声に角が付いてしまう。
『ご迷惑、お掛けしました』
これもなんだか謝りたくないのに口先だけで謝っているような感じだ。
『俺はなにも迷惑してない。それより、さあ今日こそ帰れ。落ち込んでいても何も変わらないぞ?』
{神城さんは落ち込んでいる僕にいつもより優しく声をかけてくれている…}
『でも僕、まだ帰りたくないんです』
『どうしてだ?』
『分かりません…でも…』
『言ってみろ』
『神城さんに…メールでやり取りしろとアドバイスもらってたのに、電話の後に確認のメールをしていればこんな事には…それをしなかった自分が情けなくて…』
俺はただ、文章を読んでいる。
『それじゃあまるで、お前が落ち込んでるのは俺のせいみたいだな。そう思って今日のことは忘れればいい』
『違います!そうじゃないです…』
『たった一回のミスだろ?ミスとも呼べない相手の我儘だ。みんな分かってるよ。気にするな岸、そこまで落ち込むほどの事か?』
『だって僕、いつも大月さんに大口叩いてるのに、こんな初歩的なことで…』
ここで大西監督の声。
『一旦止めます』
俺は青柳さんが手を上げているのを見た。
進行を止めたのは大西監督ではなく青柳さんだったのだ。
「お前、それ綾斗か?」
出来ていないのを言い当てられて俺は大きなため息をついて苛ついた。
「もう一度お願いします」
二度ほど繰り返して漸く次に進む。
だが青柳さんが俺の演技に納得していないのは分かっていた。
悔しかった。
『帰るぞ、ほらこっちに来い』
『もう少ししてから帰ります。気にせず帰って下さい』
『弱ってると狙われるぞって言ってるんだ』
『また、それですか。今、僕笑ってられない…』
(これじゃ…ただの口喧嘩だ。綾斗じゃない…)
『なら岸、メシでも食うか。ほら行くぞ』
『家に持って帰りたくないんです。父が気にするから。もう少ししたら帰ります、だから…もう帰って下さい』
{神城さんが突然腕を引っ張った}
『また俺にキスでもされたいのか?』
『ちょ…』
『自信家がこんな風に弱ってるのを見てると結構くるぞ』
『神城さん?』
青柳さんの手が口元に持ち上がる気配がして俺は焦った。
神城の本性を引き出すはずの綾斗が全く魅力的じゃないまま、神城が綾斗の唇を奪う。
(これじゃダメだ…)
そう思いながら俺も手に唇を付けるだけで、ストップがかかるのを待つようにちぐはぐな演技をする。
当然、青柳さんが手を上げる。
『はい、止めて』
大西監督も言う。
「お前さっきからずっとハズしてるぞ。それも分からないのか?」
「分かってる。ちょっと待って。出来るから」
俺はずっと苛々したままだった。
最近の俺はあまり他人に好まれる性格をしていないが、今回ほど露骨に人前で苛ついたりするタイプでもなかった。それなのに今は頬にかかる自分の髪でさえ疎ましいほどだ。
悪態をついてしまい、それがまた青柳さんを怒らせる。
「ネットの人気者だかなんだか知らないが、俺にはそんなことどうでもいい。ここに来たなら求められる仕事をやれ」
そんな青柳晃介の怒りは、奇しくもその甘くて低い、深い声のせいで、まるで何かの台詞のようにブースに響いた。
(その声…いやだ)
俺は青柳さんを睨んでしまう。
「待ってって言ってるのに」
(あんたの声は調子が狂うんだ…)
「お前は昨日俺に練習しなくてもいいと言ったろ。でも全く出来ていない。どうなってる」
「それは…」
確かに俺は昨日青柳さんにそう言った。
「さっきもそうだろう?研究もしないでベッドシーンでも待って下さいか?ここは趣味の遊び場じゃないぞ」
「晃介」
三条さんが止めようと入ってくるが青柳さんは怒っている。
「たった一つの役をみんなやりたがってるんだ。橋下だって努力してきた。お前がこの仕事に興味がないのも分かるが嫌ならしなくていいだろう?こっちが判断する以前の問題だ。自分で決めろ」
俺は三条さん、栖本さん、二岡さん、橋下さんを見る。きっとそれぞれが言いたかった事を青柳さんが代表して俺に言っているのだ。
大西監督を見るも、大西監督は椅子に深くもたれ、顎を触りながら無言で俺を眺めている。
「お前は自分じゃ何もせず、ずっと何を待ってる?」
ネイビーの声が透明な泉を揺らす。
正しい事を言って、俺を追い詰めてくる。
「…いつも通りに出来ると思ってた…でも、やり方が分からなくなって…」
俺が言うと三条さんが気遣うように答えた。
「やり方は合ってるよ?けど…」
三条さんは自分の手の甲にキスをして見せてから悩む。
「後は何だろ。んー、イメージ、かな?キスはしたことあるだろ?全く同じじゃないけど少しは掴めないかな。あ!ほら、甲にサインペンでリップマーク描いたっていいし!イメージは本当に大事だ。さっきはイメージしてやってみた?恥ずかしいなんて言ったらそれはもう終わりだからな?」
笑わせようとしてくれているのか、三条さんは明るく言うが、俺は何も言えなかった。
「イメージ云々か?まあそれでもいいが、そんな演技もここに来る以前に身につけて…。おい、まさかキスしたことないなんて屁理屈言わないよな」
青柳さんは苦い顔をしている。
三条さんの声は普通に聞こえる。なのに青柳さんの声は心臓を突き刺してくるようだ。同じ耳から聞いているはずなのに、作用する場所が違っているかのように。
「…してくる」
俺は、キスをした事がなかった。
「は…?」
青柳さんだけでなく、全員が唖然としている。俺は半ばパニック状態だった。
「してくる。大西監督、一人三時間もらっていいんですよね?二時間ください。出来るだけ早く、昼休憩後までには戻ります。すみません」
言いながら出て行こうとするが栖本さんに腕を掴まれた。
「おいおいおいおい。お前女いないんだよな?犯罪だけは勘弁してくれよ?」
「女捕まえてそんな事しない。でも男なら問題ないですよね?」
「はい!?」
「それにこれBLだし」
俺はそのままロッカー室に行きバッグを肩にかけるとスタジオを出た。
とにかく歩いて方法を考えた。
(何とかしないと。大事なシーンなんだ)
それは俺も理解している。
(なんとか…)
パッと頭に浮かんだのはKAIと三山さんだった。MAKIは車を持っていない。
だが、流石に知り合いにキスをしてくれと頼むのはキツい。
信号待ちの間、車避けに腰掛けて行き交う人達を見ていると、段々と男に急に迫るのも犯罪だろうと気付いた。
(どうする…)
明るく暑い街の中で、自分だけが別の場所に居るように感じる。
整えられた都会の街路樹にいる、場違いみたいな蝉の音が一際大きく聞こえる。
(またこの感覚…)
背中全体に風が吹き抜けるようで、手先が冷たくなって、酷く不安になる。
これはずっと前からよくある症状だった。それでも大学生になってからは滅多に感じなくなっていた事に気づく。
(何で、今更?)
そんな時、ふと見た地面にピンクチラシが落ちていた。俺はすぐに閃いた。
(先ずはホテルだ)
古くて安いビジネスホテルの狭い部屋にチェックインした俺は、ベッドの横に腰掛けて到着を待っていた。
20分ほどで着くという。
(もうめちゃくちゃだな…俺って)
少し頭が冷えてくると、自分が引き起こした恐ろしい現実に漸く気が付いた。スタジオの皆は今頃俺の降板でも話し合っているだろうか。
だが大西監督は、あの人はとりあえず戻って来た俺がどんな演技をするのかくらいは見るだろうと思う。
同情してというわけじゃなくて、ギリギリの奴が何をやってくるかとか、そういうのが性格的に好きそうだからだ。
何なりとみんなに言って場を収めていそうだ。
大西監督はそうでも、青柳さんはもう俺とはしないと言うかも知れないが。
俺は両腕を開いてベッドに仰向けに倒れた。
「怒ってた…」
青柳さんの目を思い出すと仕事場を出て来た自分が情けなくなった。
(なんでこんなに上手くいかなくなったんだろう…)
そして時間丁度。
細い男が一人、部屋にやって来た。
「高井さん。こんにちは、俺は平井って言います」
平井さんは堂々としていて、自分を呼んだ見ず知らずの客の部屋の様子を窺う事もなく、平然と立っている。
「あ…入って」
見た目は全然違うが、何となく三山さんみたいに飄々とした雰囲気がある。
ちょっとした事では動じないような、場慣れした、という感じの。それでも三山さんよりもずっと夜っぽい空気があった。
初めて利用した「裏のサービス」だったが、思っていたよりも爽やかな相手で俺は少しほっとした。
「じゃ、失礼して」
平井さんは微笑んでから俺の横を通り、ベッドまで行くと黒いバッグを置いた。
「ご利用は初めて?」
俺を振り返る顔は、改めて見ると綺麗だった。ホスト、そんな感じだ。
「うん」
「一応規約とかあるんだけど、読む?サインが必要なんだ」
俺が平井さんの手にある紙を見ると、
「因みに、何かプレイの希望とかある?俺は別に何でもするけど」
後で高額請求でも来るのだろうか。そういう事なら今この紙を読んでサインをしたところで同じな様に思う。どうせこれで護られるのは俺の立場ではないのだろうし。
「キスして欲しいんだ」
「キス?だけ?」
「そう」
俺はドレッサーに行きペンを取るとサインした。
「読んだ?」
「サインはした。早く、あんまり時間ない」
紙を見せながら言うと、平井さんはこっちに向かって歩いて来る。
「キス?」
「教えて」
「したことないの?」
「ない」
「いいの?」
「何が?」
「大事な人が相手じゃなくて」
その言葉が、少し癪に障る。
「ああ。全然。今が大事な時だから」
「大きなお世話だろうけど…」
「金、払うの俺だろ?キスなんかで説教でもすんのかよ」
「まあ…な」
「俺は21。平気だって、早く。免許証見たい?」
「だったら、まずリラックスして」
平井さんは紙をドレッサーに置いて俺の腕を指差した。
「近づけないよ」
微笑まれて気付いた。
俺は知らないうちに胸の前で腕を組んでいた。
「ああ、ごめん…」
「もらうよ?君の初めて」
わざとなのか、そんな言葉を使う平井さんは仄かに香水の良い匂いをさせていた。
「立ったままがいいの?」
「うん」
近付いて来る唇を見ていると少しだけ触れた。
(温い…)
「ちゃんとして欲しい…遠慮なく舌も使って」
「噛まないでね?」
待つ間もなく初めて口の中に他人の舌が入ってきた。
「練習、かなにか?」
「え?」
「今度好きな人とするから。ってセックスなら何度かあったけど」
「そうだよ」
「好きなのに最初を他にあげる気持ちが理解できないな」
平井さんはきっとキスが上手い人なんだろう。俺まで玄人のように自然に思える。少しずつ慣らされるようだ。
「相手が欲しがってるわけじゃないから、じゃないか?」
「なるほどね…」
「体なんて、目に見えてるものなんて大したことじゃない。好きな人にあげたいのは、その人の好みに近付けた体と、性格、それからそこまでしたいという気持ちの方だ」
「意外にも献身的なんだな」
(意外、なのか…)
キスを受けているうちに、意識が靄の中に紛れていくようだった。
あの場所に居ていいのは、あの場所に居る為に何かを貢献出来る者のみだ。
俺はいつだって自分を変えてきた。どんな状況でも、変幻自在に、望まれる俺を演じてきた。
なのに、何故か急に俺は俺でしかなくなった。
「君のままじゃ、ダメなのか?」
平井さんは俺の肩に置いた手で俺を自分の方へ少し引き寄せた。
「それで手に入るならそうしてるだろ?」
キスは、俺の最後の砦のようなものだった。
こうして実際に明け渡してみると、びっくりするほど安っぽくて、やっぱり俺も人並みの人並みに、誰かの温度に頼る。
他者の温もりに簡単に流されて、自分の存在を感じている。
「もっと俺を追い込んで、どんな風になるのかが知りたいんだ」
そして自分以外の存在の確かさを欲しがる。そこに、誰かの中に自分の居場所が欲しいからだ。
そんな現実を突きつけられたくなくて、俺は今まで一度もキスはしなかった。
居場所を探して回るのはもう嫌だから。
「謎だね。一つ注意しておけば、君みたいなタイプはハマりやすいよ?淫乱体質に」
「淫乱?別にそれって悪いこと?」
「今どきのコって感じだなー」
「深く考えなくていい。さっきのは嘘。俺は仕事の都合だ。仕事で必要だから知っておく…」
綾斗はきっと最初耳に受けたキスで神城に流されている。知らなかったものを教えられて、もう神城以外見えていない。
誰かに憧れるのも、きっと初めてなんだろう。
例えば神城と離れて新しい誰かに会う日がくるとしたら、その日までずっと綾斗の心は初めての相手である神城の面影にすがって生きるのだ。
その「居場所」でどんな事をしたか、どんな風に感じたか。幸せだったのか、辛かったのか。
窓の外の景色が何万回周回しようと、そんな過去のものに自分の居場所を残したまま。
『ああ、必ずまた会いに来るよ』
太くて重い声が急に脳裏に響いた。
(何だろう、今の)
「…なに?」
俺が気づくと、いつの間にか平井さんは俺の顔を見ていた。
「まだする?」
「え…嫌?」
「ぜんぜん」
再び唇を啄ばまれる。
「ちゃんと払う金、持ってるから安心して」
キスとは、例えば丸い林檎が、同じ場所からずっと奥へ奥へと囓られていくような感じだった。
気持ち良いとはまだ思えない。だが慣れてくればどこまでも深く繋がれそうな気がする。
どちらかの芯が折れるまでは。
「そんな相手やめればいいのにって思ったけど恋じゃないんだね。良かった。何の仕事?同業者?」
「違う。…役者」
「AV?」
「違う」
自分を一口囓った相手の存在が大きい程、神城が他の誰かを見る程、綾斗は囓られて欠けた場所に合うものがなくて苦しむのだろう。
「顔、綺麗だね。最初に見て驚いたんだ。俺は仕事なの忘れたいな」
平井さんの笑った息は熱い。
「なあ平井さん。変なこと…していい?」
気分が良いならと、俺はもう少し平井さんに頼る事にした。
ほんの少し前まで、全く知らない他人だったからこそ解放できる一部がある。
「興味しか湧かないな。何する?」
「音、立てていい?」
「音?」
「その練習」
「声優かなんか?画がないから音。当たり?」
「ハズレ。声優の真似事。本物ならこんなことしてない」
「手伝うよ」
平井さんは少し目つきが変わった。客に呼ばれて来た出張ホストから男に。俺は平井さんの唇を吸うたびに大げさな音をつけた。舌を絡めたなら鼻から声を漏らして。
「ちょっと、クセになりそ」
平井さんが言う。
「ホント?」
自信がなかった訳じゃないが、
『お前さっきからハズしてるぞ。それも分からないのか?』
青柳さんに下手だと言われたのは事実だ。橋下さんのキスシーンに勝てる気がしない。
だからこうして平井さんに反応されると成長した気分になった。
本物のキスを知って、イメージの糧が出来たからだ。
(囓られて囓られて、残りが無くなってしまえば、もう探さなくて済むのに)
「もっと、教えて…」
平井さんのキスが濃厚になってくると俺は少し息が辛くなってきた。
顎が重くなり、経験がないせいで少し開いたままになった場所を勝手にされてしまう。
中に何かがあったわけじゃない、それでも何か盗られてしまったように思うのが不思議だった。
(返して…)
何もなかったのに、俺は自分から平井さんの唇を追う。
「…本番、ダメ?金いらないよ?」
「キスだけ。もっと追い込んで」
「なら少しは触るよ?」
きらりと光る男の目をほんの少し怖いと思った。別にこの際だ最後まで失ってもどうでもよかった。だけど得体の知れない事をしてまた現場に迷惑をかけるような事は避けるべきだ。
「ガチなところ以外なら、別に…好きにしていい」
平井さんの腕が俺の腰を引き寄せる。思ったより強くて踵が浮いたが壁に押されてなんとか転ばなかった。
「君ヤバイね…」
大西監督もそう言っていた。
俺は周りと違っている自覚はあった。どこに居ても浮いてしまう理由は、顔だけじゃないと薄っすらわかっている。
きっと何かズレているんだろう。知らないうちに馴染めない輪との距離が徐々に、とても遠くなっていっている。
自分ではもう、何をどうやれば取り戻せるのか分からないところまで。
彼女を作ってもいつも不安にさせるだけだった。同じ距離感を繰り返して別れる。
俺は愛というものに、あまり触れたくないのだろう。
だけど、
「そうなりたかったわけじゃない…」
俺は熱くなった平井さんが、服の中に手を滑らせて背中を撫でたり、裾の広いハーフパンツを捲り上げて腿に直に触れるたびに良くない期待を持ってしまいそうだった。
「冷たくて気持ちいいよ君の肌…」
「そう、なんだ?」
こうやって肌を合わせることで輪に近づいていられるんじゃないかと。
キスと同じだ。
この先を知ればそれがずっと欲しくなるだろう。
(淫乱体質、か…)
相手が女なら傷付けたくないと思える。
でも男なら?
壊れるのは自分だからこんな風に一時的でいいのなら、それを楽だと思って抜け出せなくなる気がする。
金を払ってその分だけの居場所を買えるなら、俺にとってそれは幸せになり得る。
それなら、誰にも自分を偽らずに居られる。
それなら、続けられる。
だけど、これは自分が欲しい輪ではないと幸いにも理解出来ている。
(俺のは淫乱ほど軽くなれもしないもっと重いもの…)
救いようのない海の底の遺物だ。
「ついでに、なにかそれっぽいことちょっとしてみて」
ベッドシーンに役立つことはないか。俺は飲まれそうになった思考を取り戻して研究する意地を呼び起こす。
やれるだけやって駄目なら仕方ない。
「これ思い出して演技するわけか。光栄だ」
平井さんは手を止めて客の注文を聞く。
「言っておくけど役者がみんなこんなことしてるわけじゃないからな。俺くらいだ」
「わかってるよそんなの」
平井さんは笑う。
「って、そこはダメ。一応仕事中だから」
「え、仕事中?」
「あ…うん」
平井さんに驚かれて俺は目を逸らした。
「じゃあ、そうだな…」
平井さんは「残念」と笑って俺の腰を引いたまま床に座った。そして首筋にもキスを始める。
「こんな感じはどう?」
「うん、それでいい」
熱い唇や舌が耳やデコルテを啄ばんだり舐めたりしている。
「あんた…プロだな。断ったりしないの?」
「色気ないこと言うね」
平井さんが俺の頸を強く吸って短い痛みを感じた。
「だってあんたらこそ演技するだろ?」
「ノーコメントだな。君だったらプライベートでもいいんだけど」
唇に戻ってきてまた丁寧に俺の舌を吸う。
「ああ、成る程…そうやって返すのか。プロだ」
「ねえ、唇くっついてるのわかってる?」
ここに来て平井さんは初めて俺の頬に触れた気がする。
「ん…?」
「相手が仕事だからってそうやって煽ってると、いつか犯されちゃうよ?」
「なに言ってんだよ」
つい笑ったが平井さんに唇を塞がれる。
「お稽古してるのは君だけで、こっちは違うんだから」
「あ…そっか」
「でも俺は安心してくれていいよ」
平井さんは俺の肩を吸いながら「リクエストじゃないなら無理強いはしない主義」と言った。
俺の目の前には知らない世界がある。平井さんは小説や漫画の中の人じゃない。
「なあ…男とセックスしたことある?」
「あるよ。なんでまた。受ける役するの?」
「うん。どんな感じ?」
「苦しい、かな。身体は勿論だけど、こっちも男だからなんて言うか、本能的にキツイっていうか。それとの混乱がある。でもすぐにそんなのも忘れるよ」
「気持ちいいの?」
「相手によるかな。でも君のはどうせ愛し愛されるストーリーだろ?」
「そう」
「なら気持ちいいよ。嘘じゃなく凄く気持ちいい」
「そっか」
「してみる?」
「いや、いい。俺たぶんそういうの弱いから。ホントは手とかも。温いのに弱いんだ。変わってるから」
すると平井さんは俺の顎先を指で持ち上げて言った。
「悪魔」
「え?」
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平井さんはまた笑ってキスをしてくる。
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平井さんは横にあったドレッサーからメモを取ってスマホの番号を書いてくれた。
「いや、いいよそんな」
「冷たいこと言うな。俺直通だから、変なの来ないよ。何の練習でもいいから呼び出して」
平井さんは結局規約の紙を破り、俺からの金を一切受け取らずに帰った。
一人になった時に自分の体から自分じゃない匂いがする気がして、俺は簡単にシャワーを浴びてから急いでスタジオに戻った。
平井さんとの時間はたぶん無駄ではなかった。寧ろ良い経験だったのだろう。俺はずっと体の何処かがソワソワしているような、緩んでいるような感覚になって、少しだけ自分が誰かの所有物になったような気がしていた。そのせいか、頭だけでどう演じるかを考えるだけでなく、心で考える余白を得た気がしていた。
『帰るぞ、ほらこっちに来い』
『もう少ししてから帰ります。気にせず帰って下さい』
『弱ってると狙われるぞって言ってるんだ』
大きな鼓動が透明な泉に響く。
子供扱いしてきた神城。綾斗はこの度の失敗でそれを当然だと思ったはずだ。神城や大月に甘えていい気になっていた頭を打って、現実を見たのだ。だからこの次の台詞は悲しくて投げやりで、それでも繕ったもののはず。
『また…それですか。今、僕笑ってられない』
俺は自嘲的で強がったような弱い綾斗を演じる。
『なら岸、メシでも食うか。ほら行くぞ』
神城は今葛藤しているんだろう。
綾斗はその葛藤を上回って、綾斗にも神城にも分からないうちに神城の鍵を外してしまうのだ。
『家に持って帰りたくないんです。父が気にするから。もう少ししたら帰ります、だから…もう帰って下さい』
神城に慰めて欲しくて、綾斗はここで神城が来てくれるのを待っていたのかも知れない。
何か与えて欲しいけど何を求めているのかも分からないまま、
何かもらえると思い、綾斗は帰らなかった。
{神城さんが突然腕を引っ張った}
『また俺にキスでもされたいのか?』
キス、という単語が脳に響く。
『ちょ…』
『自信家がこんな風に弱ってるのを見てると…結構くるぞ』
『神城さ…?』
唇にキスをされて綾斗は驚いたはずだ。自分が突然神城にとってそんな対象になった事に混乱したはずだ。
『神城さん、やめて』
『逃げるな、綾斗…』
『ん!』
綾斗と呼ばれて、透明な泉が何度も揺れる。
『やだ…なんで…?』
棚に押し付けられて奪われる。
(林檎が欠ける…)
初めて他人の熱を知って綾斗は怖がる。
『じっとしてろ…』
息のしどころも分からず苦しむはずだ。俺は苦しそうに唇を閉じて演技し、それでも時折神城への憧れを出す為に息を吸う度に少し甘えた声を散りばめた。
『やだっ…僕もう、かえ…る…』
今までにない少し乱れたような青柳さんの息を聴いて神城の混乱も伝わってくるようだった。
晴臣の時とは明らかに違う。
流石だ、そう思った。
『暴れるな、怪我をする。手、かせ。押さえててやるから』
『…かみしろ、さん…』
触れられて、綾斗は神城の肉体やそこに宿る熱を意識しただろう。
ネイビーが一滴、泉に落ちる。
(ああ…広がる)
『唇…噛むな綾斗』
『神…城さん…どうして?』
綾斗は今度は神城の熱に浮かされ、神城とのキスを心地いいと思い始めた。
俺は優しくなった青柳さんの息に合わせて目を閉じる。
漏れるのは慣れない息だけで、声も出さず、おとなしくして、神城の唇の言いなりになった。
もう一滴。
鼻から息を吸えば、神城の匂いがするようだった。
綾斗は初めてのキスを教えてくる神城の存在を、より遠く、眩しく思っただろう。
(何か、言って欲しい)
ネイビーの侵食に怯えているように震える泉の水面。
(染まってしまう…)
本物のキスとは違い、肘が痺れて腕が重くなり、唇と喉が疲れてくる頃、俺は足の爪先から徐々に上へ、赤外線ヒーターでも当てられているように熱くなってくるのを感じた。
イメージをして興奮しているのだろう。
(橋下さんも、今の俺と同じように青柳さんの神城にこれを感じてたのかな…)
本物達は、こんなにも違う。
『僕…こわい、あなたが…』
少し綾斗にしてはあざとい声になってしまったような気がした。綾斗より大人っぽく、「こわい」の意味が広がってしまったように、思った。
綾斗の中で憧れが形を変え始めている。神城との距離を近づける為に心の形を変える決意を固め始めるのだ。
憧れから、恋へ。
囓られて欠けた場所に、囓った相手から見合うものを与えて欲しくて。
(このままじゃ綾斗が神城を囓ってしまう…まだそこまで成長してないのに)
『綾斗…』
だが神城は我に返り綾斗を放す。
『神城さん…?』
(危なかった…)
『何ぼうっとしてる…。やっぱりお前は簡単だな、岸。これに懲りたらもう残るなよ?』
『…え?』
綾斗はショックだったはずだ。
林檎は囓られた後だ。
神城は明確に綾斗の最初の男になってしまった。
『遊びは終わりだ。帰るぞ荷物取ってこい』
『神城さん…?』
綺麗な丸だった林檎は失われてしまった。最初の形には、もう二度と戻れない。
(もう、俺は…)
俺は腰まで上がってきていた熱が一気に足先から抜け出て、左目から出た涙が一つ、頬を伝って落ちるのを感じた。
{僕は何がなんだか分からず、何も話さなくなった神城さんの背中を不安に思いながら会社を出た}
『はい。OKです。二人はどう?』
『OKです』
青柳さんがOKを出したのを聞きながら、俺は自分の唇がちゃんとあるのかを無意識のうちに指で確認していた。
唇は酷く乾いていた。そして手の甲が少し赤い。
「大丈夫か?」
青柳さんが声を投げてきた。
「え、ああ、すみません。俺もこれで大丈夫です」
大西監督を見ると大西監督はごく普通に頷いた。
俺はひとまず降板にならずに済んだようだ。安堵して天井を見る。
(なんとか、繋がった)
『あ、そうだ高井君』
大西監督に呼ばれて俺は少しびびったが、表情を見る限りダメ出しではなさそうだ。
『休憩していいよ。さっきまでで他のキャストは一冊目収録済んだから。あとは君絡み』
『本当に、すみません』
俺は全員に頭を下げた。
『うん。喉使い過ぎても明日困るから短い休憩挟んでいこう。10分くらいかな。いいよ、休んで』
『はい…』
『みんなも』
大西監督が言うと皆それぞれにドアを目指した。
俺は喉が渇いていた為、急いで飲みものを調達しようと誰よりも早足で歩いた。
するとこの中で唯一俺に話しかけてくれようとしたのだろう、後ろにいた二岡さんから呟きが聞こえた。
「あれ…?高井君…シャンプー…」
正確には首周りにだけさっと付けてさっと流しただけのボディーソープの匂いなのだろうが、仕事場を勝手に出てシャワーを浴びた事には違いない。ゆっくり風呂に入ったという事で、もう構わない。
収録前にどうしてももう一度台本の確認をしたかった俺は、二岡さんには悪いがとにかく急いで録音室を出た。
少しだけ喉が痛い気がする。
自販機の前で台本を確認し終えた俺は、座ったベンチに置いたままになっていたケータリングの籠からのど飴を一つくすねた。
袋を剥いて指に挟んで窓に翳す。
(まだ綾斗から神城を望んではダメだ。曖昧にしてないと…さっきみたいに神城を囓りにいってしまうから)
黄色のような、オレンジ色の飴。
(綾斗はキスの先にセックスがあるのなんて知らないんだからな。段階を踏んじゃダメだ。常にそこが山の最高峰だと演じないと)
飴を口に入れる。
(綾斗に次なんて余裕はない。そこが常に最後。必死で。踊らされて転がされて奪われていく)
「にが…」
喉にじんわりと染みる飴。
(これマズ…、何か喉の対策考えないと)
俺は何となくもう一度手の甲を見た。
まだ少し赤い気がする。赤いということは、
(俺は合わせる程度の方がよかったのに、やっぱりちょっとやりすぎたか…)
空になった小さな飴の袋を引き伸ばして表示を読みながら、歯の横で飴を鳴らす。
「おい」
急に前から声がして心臓が飛び跳ねた。
「要るか?」
青柳さんがいつの間にか前のベンチに座っていて、俺の腹にコンビニ弁当などに付いている小さな調味料の袋のようなものを投げて乗せた。
俺は真空パックされた薄緑色のそれを手に取った。
「先に水を飲んでからな」
それはオリーブオイルだった。
「どうも…」
(マズそうだなこれも…てか、いつからいたんだこの人)
俺は言われた通りに水を飲んでからオリーブオイルを吸った。
「あ、お前」
「ふ!うっ!…ん??」
飴を丸々、ちゅるんと飲み込んでしまった。
「バカだな」
美味くはないオリーブオイルのおかげで飴を喉に詰めずに済んだ。
それに少し喉表面の乾燥が楽になった。
「テッカテカだぞ、唇。誰も全部飲めなんて言ってないだろう」
俺はティッシュペーパーを口元に押し当ててさっきの袋を見る。
「これ、いつも?」
オリーブオイルの老舗メーカーだ。
「最近はいらないが。喉のケアは蜂蜜なりオレンジジュースなり、吸入器なり、自分に合うものを探せ。それでいいなら二階の仮眠室に置いてるから使え」
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新人にあげるのか、
「ん?」
なんて質問はやめておいた。
「いや、なんでも…ありがとうござ…す」
俺は後半を有耶無耶にして、今度は甘い飴を口に入れたが、
「ん!ん?」
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ぼんやり話しながら青柳さんの目を見る。青柳さんは涼しい目で俺を見ている。
「お前、台本読んでるだろうな?」
読んでいる。結末は知っている。でも俺は都度払いで演じたい。傷つくときはそうやって、幸せなときもそうする…。
全部、綾斗の時間通りに。
「どうせ結ばれるんだからいいだろってこと?」
青柳さんは何も言わなかった。
俺とは違い、青柳さんはいままでに何度もこのパターンを繰り返して来ているのだから。
古い舞台演目のように。
こう始まって、こうなって、こう終わる。
実際に青柳さんは色んな作品で色んな役者と演技をしてきたのだ。何度も何度も。
沢山した仕事の中の一つ。
俺の存在も、沢山の中の一人だ。
声優はいつもが「初めて」ではない。
(こんな風なキャラクター、前にあったなって俺でも思ったりする)
声優はいつもそう思っているのだろうか。
一度着た服をクローゼットに入れるように。そしてまた、この服はここにあったと取り出すように。
青柳さんは今、どのくらいの服を持ってしまったのだろうか。
まだ一着しかなかった頃、新しい服をクローゼットに入れる時に、青柳さんも今の俺の様に悩んだりしたのだろうか。
どっちにしても、今の青柳さんにとって神城は別段、特別なキャラクターじゃない。
綾斗に対しても、よくある「受け」でしかないのだろう。
『他にも悪い役も良い役も、だいたいがカッコイイ男だ。つまらないよね?でも完璧男のくせに実は主人公や相手役に振り回されてましたって流れで。崩されて弱い男だった、みたいな。ねえ大西さん。僕にお願いしてくれる人ってどうしてみんなそんな役なんでしょうね』
青柳さんの言葉だ。
『仕方ないよね』
あの言葉に全てがある気がしてくる。
ふう、とため息をついて窓の外を見る。
ここの誰もが無数のうちの一つの仕事をいつものように仕上げたい。
でも俺にとっては、持っているものを全部捨ててもいいたった一つの仕事。
何でも差し出せる。
この作品が良くなるのなら。
勿論、声優達が手を抜いているわけじゃなくて、俺にこの人達程の経験や能力がないから幼稚な身を切って揃えるしかないだけだ。
(それでもいい。全部無くなってもNACの道が繋がれば…)
「お前、いつもどこ見てる?」
青柳さんの声で目が覚める。
「あ…これ、ありがとうございました」
俺はちゃんと礼を言い直してベンチを立った。
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