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13.
しおりを挟む◆三条 司
俺の部屋のフロアーに到着する。
「ははは!!何で!?」
「言ってない」
「ついさっきっすよ!?あー寒って!フツーに言ったじゃないっすか!」
「俺は、絶対に、言ってない」
「あっははは!エレベーターっすよ!?乗った瞬間にブルっとしてたし!あー寒って、めっちゃ目が合いましたけど!?」
「ふ…。だが、言ってない」
「何で強がる!?だがとか言って」
エレベーターを降りて、海より先に角を曲がりながら笑いを堪える。
「強がってもいない。強いんだよ俺は」
「いやもうアウトっすよさっきのは。諦めて下さい」
「震えたかも知れないけど、それはアレだ」
「なんすか?」
真横に来て覗き込んでくるのは、冗談の言い合いを楽しむ甘えた目。
このマンションの通路でも、男が二人並べばなかなかに狭い。
「ほら、エリーの真似だよ」
「エリー!?ははははは!!」
海の溌剌とした笑顔は、やはり気持ちが良い。
「抱いてると何でもない時でもプルっとするんだよ」
「それはめちゃくちゃ可愛いっすけど!何で隠すんすか?俺には何でも素直に言って下さいよ光留さん」
きゅーんと鼻を鳴らすその顔に向かって人差し指を立てる。
「あと、声がデカイぞ」
自分のうっかりを問い詰められたくない俺がしーっと言えば、海は照れたように目を伏せて笑った。
「うーわ、ズルイって」
「ふふ」
ドアの前で上着のポケットに両手を突っ込み、壁に肩を預けながら見遣ると、海はすぐに自分が持っている俺の部屋の鍵を出して解錠した。そしてノブを握って見つめてくる。
「俺もエリーに会いたいっす」
今夜また一つ、俺達は近づいた。
「ああ勿論。だから今度会わせてあげるって言ったろ?」
「え?言いましたっけ?」
「言った。……と思う」
二人してそれぞれ自分の記憶を探る。が、判断しかねて結局相手を見る。
「ええ?たぶん言ってくれてないっすけど、嬉しいっす。エリーは俺と仲良くしてくれますかね?」
「元々仲間だろ?」
「ちょっとヒデーっすそれは!ははは!!」
「冗談だ。きっと君を気にいるさ」
冷えたその鼻先を突っつきそうになった手を、今開かれたばかりのドアに添えて部屋へ入る。
「ただいま。ああー!寒かった!」
「え、ちょっ」
「あ」
驚いていた海は、驚いた俺と目が合うなり靴も脱げない程に笑った。
「違うぞ海!ただいまの後は暑かったなあ!か、寒かったなあ!がお決まりだろう?癖みたいなものだよ!」
「あっははははは!!思いっきり言ったなー!この人!」
「違う!座る時のよっこいしょ、だ!」
海は可愛い顔を崩して大笑いが止まらない。
「ほらほら!寒いだろ、ドアを閉めてくれ。手洗い嗽だ、早く!」
「あ!また言った!?」
「あ!!く…」
「はっはははははは!!」
玄関から聞こえる笑い声を聞きながら洗面所に入り、
「まったく、いつまで笑ってるんだ?」
海の居る方角に声を投げて、正面にある鏡の中でこっそりと笑う自分を見る。
嗽を終えると後ろに海が立った。
「笑い上戸は危険だぞ?現場で笑わせてくる先輩もいるんだ。すっと切り替えろ」
「はい」
我慢する気の無い海の顔を見ていると俺までつられて口元に力が入る。
「もしもし?聞こえているかい?」
「聞こえてます」
海は隣で手を洗うが、俯きながらまだ笑っているのが鏡に映っている。
「ああ、それから。冬場は特に口は閉じていないと風邪をひくし。鼻で呼吸だ」
笑いたくて仕方がない様子をニヤつかないように眺めている俺を海が振り返る。
「けど……光留さん、割といつも口開いてますよ?」
「んふ!!」
声を精一杯堪えて全身で笑う海は、限界らしく顔が少し赤い。そのくせずっと俺の顔を追って来る。
「ま、それがセクシーなんすけどね?」
「物は言いようだな。なら、今度俺の子供の頃の写真も見せてあげるよ」
「…すか?」
嬉しいのか面白いのか、更に血が上って赤くなったまま、言葉の代わりに「マジっすか?」と眉をあげる。
「ん?」
「ぐっ!」
「どの写真もぜーんぶ口開いてるから。少しずつな」
海はついに洗濯機に突っ伏して笑った。
それは団長に注意されても唯一直らなかった俺の生まれついての悪癖だ。
(晃介だって一度も指摘しなかったのに)
海は「すみません」と失礼を詫びながらも気に入ってしまったのか目に涙まで溜めて笑う。
「流石だよ。よく知ってる」
タオルを頭に放り投げてやった。
「もっと遅くなったと思ったけど、まだ十時過ぎなんすね」
キッチンに二人して入り、帰りに立ち寄ったコンビニで買った物をテーブルに広げた。
「ああ。運転慣れてたな」
上着を脱いで椅子に掛け、海がテキパキとソーダや生ハムやらを冷蔵庫にしまうのを眺める。
「マジっすか?結構ビビってましたけど」
「十分だよ」
海は帰る時にはもう、丁寧過ぎるが俺の愛車を上手くコントロールしていた。
「夢のスポーツカー運転させてくれてありがとうございました。けどやっぱあの車の運転席には光留さんが似合いますよ」
「そうか?」
「美しいっす」
海の直球なこの類いの言葉には、俺も随分と慣れたものだ。
「てか、あれ?ビール?」
冷蔵庫を覗いていた海は俺を振り返って、手に取った缶ビールを見せてくる。それは昨日の残りだ。
「たまには飲むさ」
「へー!光留さんってワインとかブランデーとかしか受け付けないんだと思ってました」
「そんな事ないよ」
「しかも、これ」
冷蔵庫を閉じた海が指差すテーブルの上には、買い占めるのは悪い為、海に二軒ハシゴさせたコンビニのししゃものパック三つ。
「好きなんだ。悪いか?」
「ははは!いえ。全然悪くないっす」
「チーズとトマトとワインとししゃも、それから時々肉。それだけで生き抜けるんだぜ、俺は」
「生き抜けても健康とは…ちょっと言えないっすね!ははははは!俺の知る限りでは酒のツマミ程度の量しか食ってないし。でも野菜は好きっぽいんで安心したっす」
気を遣いながらも残念そうに笑う。
「野菜は好きだ。最近はブロッコリーかな。蒸した方が良いんだぞ」
「ははは!もう、マジでヤベー……」
海は嬉しそうにしながらも運転に気を張って少し疲れたのか、いつも下りている前髪を雑な手つきで一度大きく後ろへ撫で上げた。
赤い前髪は直ぐに元通りになったが、初めて見たような海の顔の全貌はやはり整っていたし、前髪が無い分、元々印象的な目もより光って見えた。
「んー?あ、それから昨日あっちの絨毯にビールこぼしたぞ」
俺は気に入った海の狭い額に観念して、普段の自分のだらしなさを少しだけ出した。
「え!?光留さんが!?」
「俺は全く気にならないけど、鼻の良い君にはちょっと匂うかも知れないが許してくれ。直ぐに消えるさ」
「はは!!何してたんすか?暴れた?」
海は正面から、当たり前のように俺の背に両腕を回して一歩近付いて来ると、小さなキスを額にくっ付けた。
(おお!?)
「いや……」
「え?」
(な、なかなか爽やかじゃないか!)
何も言えずの俺を海はそのままじっと見つめてくる。
しかし、その目は「爽やか」とは、違った。
「いや。あ…ギャ…ただ、可愛いワンコを見てたら勝手にビールが噴き出したんだ」
今の海には、拗ねるような甘さがあった。かと言って、いつものきゅーんと鼻を鳴らしそうなあれともどうやら違う。
月の下で見せたあの表情が、俺の意識に残っている。
「なんか今、ギャって出ました?」
「いいえ?まあ、昨日はただワンコを見て癒されていたんだよ。それだけだ」
昨夜の配信とは違って、今は目の前にあるその鼻を俺はまた指で軽く押した。
すると海は、
「へー。ワンコね」
と、それだけ言って俺から離れると、食器棚から小皿を出してししゃものパッケージを開け始める。
「全部開けておいてくれ。どうせ足りないからな」
「ははは!姉ちゃんの酢イカみたいっす!」
今はいつもの笑顔だ。
「ふふ、酢イカか」
もしかすると、海はダメな人間に弱いのかも知れないと内心で笑う俺だ。
「あ!光留さん。今日はちょっと良いものあるんすよ?」
「ん?」
「光留さん持ってるかもと思ってたけど、無いっすね」
海は食器棚を彼方此方と開けながら言う。
「何だい?」
「バーテンダーから教えて貰ったんっすよコレ。ネットじゃ明日着だったんで、今日買いに行きました」
海はバッグから紙の箱を取り出した。
「たった一日が待てないなんて、凄い時代だな。少し前までは注文して届くのに最速三日はかかって当然だったのに」
「ははは!時代っすね」
「ほおーーーーーーーーーーー」
「あ!いや、てか!せっかちなのかな俺」
「さーな」
わざと冷たく返すと、海は思った以上に気にしてヘコんだ目を見せる。
「ふ、冗談だよ。早く開けなよ。中身が楽しみで仕方がないんだ」
俺が海の横に行くと、海はすぐに嬉しそうに笑って箱を開けた。
「知ってます?ミキシンググラス」
「ああ、見た事はあるが、使った事は無いよ。それをどうするんだい?」
「光留さん、シェリー酒好きっしょ?」
その笑顔は、堪らない。
「こんなちっさなグラスなんすね」
「これはシェリー用だ。冷やしてないグラスもあるけどな」
今夜の気分で、冷凍庫に入れていた方の薄い小柄なグラスを渡すと、海がニューアイテムを使って冷やしたシェリー酒を静かに注ぐ。
「どうぞ」
「頂くよ。バーテンダー君」
立ったまま飲む、いつもより冴えたシェリー酒のフルーティーさが気分を良くさせる。冷たさが飲みやすく、つい一気に飲み干した。
「んー!美味い。最高だ!」
「マジっすか!?」
「美味しいよ。良いなコレ」
今まで買うには至らなかったミキシンググラス。海の手にあるまま横から蓋を開けて、バースプーンで残った氷を混ぜ回した。
「やった!気に入ってくれた!光留さん使って下さいね」
海の手が俺の左へ、俺を腕の中へ囲うようにテーブルに引っ掛けられた。
(彼女か?俺は)
違和感はある。が、海ならば拒む程では無い。
「いいのかい?代金は払うよ」
「金もいいっす。俺が勝手に買って来たんで。それにウチに持って帰っても俺は家で酒って飲まないっすもん」
「じゃあここで飲みなよ」
「あざっす。あ!あと言ってたシャンプーも持ってきましたよ」
海はすっと動き、離れた場所で細長い紙の箱も取り出した。
(妙に意識してるのは俺だな!)
テーブル越しに箱を受け取る。
「ありがとう。コレは払うよ」
「あー、良ければプレゼントしたいんすけど」
「駄目だ」
「そっすか…。じゃあ、3800円です」
(高っ!!)
「君が使ってるのと同じブランドなのかい?」
「そうっす。サロン専売品っす。マジで良いので使って下さい。頭皮がスッキリするけど乾燥はしません。一回の使用量も少しでいいんです。泡もモチモチしてて気持ちいいっすよ」
「へえ、楽しみだ」
代金を渡してから箱を開けて、中から半透明な白い角張ったボトルを出す。
その瞬間はふわっと海の髪の匂いがした気がして鼻を近づけるも、
「えと、密封されてるんで、匂いは開けないと」
「あ」
「あ!その、まあ誰でも一回は嗅いじゃうっすよねシャンプーって、なんか。でもキツイ香りじゃないんで、光留さんの香水の邪魔はしないっすよ」
「うん、知ってる」
何となく気恥ずかしくなり、さっさと箱に戻した。
海はまた俺の髪を見ている。
「何だい?」
「マジで可愛いっす。それ」
結った前髪を指差される。
「ヨーキーヘアかい?」
「陽気…ヘア…?」
「ヨーキーだ。ヨークシャー・テリアの事をヨーキーって言うんだ。君が似てるって言ってきたんじゃないか」
「あっ!そーいう!」
「今またちょっとニヤっとしたな?」
「してないっす」
「陽気なヘアで」
「ぐ、全然。似合ってるなって、思って。めっちゃ好きっす」
「ん?」
「髪型!髪型めっちゃ好きっす」
「陽気なピカルさんが好きか?」
「ははっ!…」
海は大きな口を開けた後に慌てて鼻を摘んだ。
「ホラ!!」
「ははははは!!ズルイって!!今のは絶対ズルイっす!!自分から仕掛けて来てるじゃないっすか!!」
突き出した俺の人差し指と手首を握って罰から逃れながら笑うが、目は完全に詫びてしまっている。
「ホントに失礼だな君は」
「ピカルとか言うからっす!」
「俺は悪くない」
「はい。俺が悪いっす」
「だな?」
「はい」
「さあ、もう一杯。飲みやすくなると飲みすぎるなこれ。危険だ」
二杯目を楽しみに、さっきの位置まで戻って来た海の手元を見ていると、海は今度は急に耳に小さなキスをしてから、
「めっちゃ可愛いっすね、ホント」
と言って、俺が混ぜて溶かしてしまった水を捨て、二杯目を作る。
さりげなくアピールするようなその行動には、不覚にも動揺しかけた。
「まったく……」
俺が呟くと海はちらりと視線を寄越して、少し照れるように口元を一瞬緩めたが、またバーテンダーさながらに目を伏せる。
「…生意気な知識を身に付けてきたんだなっ!」
「あっはははは!!」
海はバースプーンを投げ出して笑った。
海は車で飲めない為、コンビニで買ったソーダを氷入りのグラスに入れた。
「三条くーん、スキップしてるのかい?って」
「あっははははは!!大西監督がっすか!?」
海と、洋間のソファーで話している。海の目はずっと止まらない俺のししゃもの手を追っている。
「そう。あの人の場合は茶化すつもりも無いから、言われたこっちはもう複雑だよ」
「やべー!」
「いえいえ、ちゃんとマラソンしてますけど?みたいな」
「はははは!!走る演技って確かに難しそうっすよね!」
「それだけ下手だったんだろうな、昔の俺が」
「で、OK出るまでやったんすか?」
「三回目くらいでやっとOKだよ。ゆいちゃん居る前でかっこ悪いし、何より常盤さん待たせて気まずいったらないよ」
「うわぁ、こわ!けど放送見てる俺からすると全然上手かったすよ?」
「当たり前じゃないか、あの人のOK出てんだから」
「あ!そっか!そっすね!」
「それ以前から大西さんとは細々と会ってたけど、この人には誤魔化し効かないなって悟ったよね、あん時」
「へー!そうなんすね?誤魔化す時もあるんすね?」
「聞き流せ。まあ凄く研究されてるよ、全員。こっちの上限知ってるからそれを求めてくるシーンなんか、とにかくしつこいぞ?あの人」
「へー!!すげー!」
「その分良いところも見てくれてるんだ。君も大西さんと仕事する時は特に気を抜くなよ?」
「はい!」
「ま、君なら大丈夫だ」
これまでのやり取りから察するに、海は唐突な変更やらにも臨機応変に対応するし、それなりに本番に強いタイプに見える。
「それに大西さんは新しいもの好きだしな。意外かも知れないけど器は大きいよ」
適度な酔いと空間の心地良さで、調子に乗って頭だけ齧ったししゃもを振り回して話す俺。
「そうなんすか?」
「うん。その器で遊ばれる事もあるから何とも言えないけど…まあ、うん。それにあの人自身がフリーになったのも、業界では早い段階だったはずだよ。大体、大手抜けると監督だって仕事も減るのが当たり前の時代だったんだけど」
「へー!!そんな時にフリーに?」
頭の無いししゃもが気になるのか、海の目がずっと追うので試しに口の前に差し出すと、あっさり食べた。
「そ、でもこのアニメは大西さんに頼みたいって声は続いたんだよ。曲者で、なかなか手強いけど多方面から信頼があったんだろうな。勿論、役者からもな」
「うわー、かっけーっすね。俺達マニアの中でも有名っすからね大西監督」
俺が新しいししゃもを手にすると、海は一瞬だけ「まだ食うんすか!?」という目をしたがそれは無視だ。
「そっか。それは嬉しいな。まあ、たまに機嫌悪い日もあるけど、あの人の近くに居る時はチャンスだと思って勉強するんだぞ?」
「はい!」
素直に頷く海を見ていると、つい頭でも撫でてしまいたくなる。
(海は大丈夫だ、うん)
可愛がられる人柄なのには間違い無い。
「あ、光留さんの新作のBL、予約しますね」
「ん?」
ラスト一匹を半分齧り、半分海に食べさせた。
「水野遼さんとの。美味いっすねししゃもって」
「あ!もう知ってるのか。流石に耳が早いな」
「勿論っすよ」
「なかなかの出来栄えだと思うぞ?楽しみにしてていいよ、マニア君」
「っす!」
「マニア君に教えておいてあげるけど、遼は伸びるぞ?」
「やっぱっすか?俺もMAKIと水野さんの作品聴いてヤバイなって思ったんすよ」
「良い耳してる」
俺はやはり、海の赤い髪を撫でた。
それは褒めたかったからという理由からでは無く、何となく、触れたかったからだろう。
「あざっす!ははは!ダテに三条司の演技見てないっしょ?」
「ああ。目が肥えてる。あ、耳か」
今日もよく笑う海だが、今静かにソーダのグラスをテーブルに置く横顔は何故かいつものように明るくはない。
(まただ……)
かと言って、暗いわけでもなく。何か違うのだ。
(俺も海の事は殆ど知らないからな)
カランと、アイスペールの氷がずれた音。
「あ、飲みますか?」
あの月の下から、合う目が時々違う気がする。
「ああ。頂くよ」
「氷、取って来ますね」
キッチンに向かった海。
(何だろうな…)
とにかくどこか妙だ。
俺が、妙な気持ちになるのだ。
氷を積んで戻った海が少し間隔を開けて座り、シェリー酒を冷やしてくれる。
「バーテンダーというより、指名したホスト君だな」
「え?なん、俺っすか?そんな良いもんっすか?ははは!光留さんが言うなら何にでもなりますよ?俺」
そんな事を言いながらも目が合うのは一瞬で、その横顔にはやはり今はいつもの「きゅーん」が無い。
もしかすると、自分が此処に居る理由に漸く疑問を持ち始めたのかも知れない。
「現実が見えてきたのか?」
「え?」
そっと問いかけると、今日はKAIみたいにピアスが垂れ下がる耳だけを寄せてくるが、バーテンダーにしてもホストにしても、海の性格ではあまり向いていない気がする。
(手練手管のクセの悪い客が来たら、きっと君の方がおとされてしまうな)
海から俺好みのシェリー酒が届く。
温度に弱い小さなグラスの冷たいドリンクを、手渡ししようとするバーテンダーは居ないはずだが、それがまた無知で可愛い。
そんな海はしかし、こんな時に限って俺の指に触れないようにだけは気を遣った。
俺には、海が何で笑い、何で白けるのかがよく分からない。
「ビデオゲームでも買ってあげようか?」
「え?ゲームっすか?」
「君にはつまらないだろう?酒の相手ばかり」
最近の若者は何を好むのだろうか。
初めてそんな事を思いながら、この部屋に大型テレビを置く場所を目で探していると、視線を感じて海に行き着く。
冴えているようで、切なそうな目だった。
何かを思い倦ねているのは確かなようだ。
「君は何に興味があるんだ?」
対応に些か困って、思い付きの質問を投げる。
「興味、っすか?」
「ああ。どんなものが好きだ?」
「声優っすね。特に三条司って人です」
「それはもう随分と聞き飽きたよ」
「あっはははは!!ヒデーっすね!」
海は俺のマニアだといつの間にか冗談めかすようにもなった。
「さあ、それ以外だ」
「んーー。あ!服はめっちゃ好きっすね」
「あー、服ね」
(知ってる)
「なんだかんだめっちゃ買います」
「じゃあ君のクローゼットは常に一杯なのかい?」
「いや、着なくなったらキレイなうちに売ってるんで少ないっすよ?」
「へーーー」
(アッサリサッパリ系か)
「他には?」
「アクセとか、バッグとかも」
「それも飽きたら売るのかい?」
「いや、売るのは服だけっすね。物持ちは良いほうなんで、小物は長く使います。だから長く使えそうな物をちょっと高くても気に入ったら買います。でもめっちゃ慎重に、ははは!店員にまだ買わないんすかってよく笑われますよ」
こんな話題なら哲平と話している時と変わらない海だ。
「ふーーーん。他は?」
「あ!洋楽っすね」
「へーーーーー」
「あれ?全然俺に興味なくないっすか?ははは!!」
「あるよ?」
「ホントに!?」
「ハイ、次!」
「えーと!あ、タトゥーとかちょっと興味ありますね、昔から。俺の好きな海外のバンドのドラマーがめっちゃカッケーやつ首とか腕に入れてて」
「あーーー、でたよ」
(その大量のピアスから何となく知ってたよ)
「はははは!!そーいうのダメな人っすか?」
「まあ、別に良いけど。まだしてないんだろう?」
「まだっす、デザインにかなり悩んで。左の腕に入れたいんすけどね。男はフォーマルって基本長袖っすからいけますよね?」
海は左腕を持ち上げて袖を肘まで捲った。健康的な腕には何の傷も無い。
「まあ、そうだけど。あ!職種によっては腕はキツイんじゃないか?まだまださ」
「あー。んーそっすね。一生モノっすからね。あ!光留さんの名前にしよっかな俺」
「ふふ、バカ。一番ダメなやつじゃないかソレ」
「あっははははは!!いいじゃないっすか!許可して下さいよ!ここにHIKARUって入れてえな」
海は一文字にそこそこの幅を手で示しながら、手首から肘までを六つに区切った。
「長めのフォントで、一見は太いバーコードみたいに見えるけど、引きで見るとHIKARU。みたいな」
「ふ!若気の至りの極みだろう。しかもTSUKASAじゃないとお仲間に通じないんじゃないのか?」
「いや、HIKARUっすね、俺は」
(あ、頑固)
「俺は許可しないよ。他のクールなものにするんだ」
「えー!じゃあもうタトゥー入れないっす、一生」
「そうしな」
「はい」
(あ……拗ねた)
ほんの僅かにムスッとした物言いたげな横顔に、つい手を伸ばして赤い髪を一度撫でたが、
その瞬間に海が俺の手を握ろうとしたのを察知して、俺は何故か全力で手を引いてしまった。
目を逸らして、何とも言えない気不味い時間が流れる。
別に手を握られたからといって何だというのか。
それ以上の事も二人で超えたばかりで、手を握られようと、全くもって今更なのだが。
俺はまだ凡ゆる非常識を受け止められずに、同じ所で何度も引っ掛かっているのだ。
若い海のような柔軟性が、無いのかも知れない。
何も言えず無言が過ぎて、ついに海が、意を決した声を出した。
「話していいっすか?」
「ん?何だ急に」
口の端で笑って、マウントを獲る。
「言いますね?」
優雅に間を置く振りをして、心の準備を済ませてから海を見る。
「どうぞ?」
「俺は此処に、光留さんに会いに来てます」
きっと俺は今、きょとんと、馬鹿な顔をしている。
「それで、えっと…俺は三条司のファンでマニアですから、光留さんが話してくれる三条司の話しも大好きです」
相槌も出来ずに真剣なその目を見ているだけだ。
「ああっと、違うな。えっと…あ!」
海の目が大きくなって、釣られて俺の目もそうなる。
「三条司は、男とセックスなんかしません」
肋骨の真ん中が貫かれた。
「そうですよね?」
驚きの言葉だったが、その肋骨が揺れる程に俺はきっと安堵している。
「で……?」
だが、受けた衝撃は唐突でやはり大きく、口から出た声色はあまり優しくはならなかった。
それでも海は物怖じしない。
「今は、光留さんですよね?」
「二重人格だとでも言いたいのかい?」
「違います。でも俺が抱いたのは光留さんでした。三条司じゃないって事です。三条司は、ずっと三条司です。俺にとっては。初めて知った日から何も変わらず三条司のままです」
そんな意味不明な海の宣言は、
俺にだけは、意味が分かる。
「へえ……」
海の目はいつも、相手が生きやすい道を探して見つけるのだろう。
俺自身よりも、今の俺を素直に受け入れているのかも知れない。
「そんな三条司のマニアで居るのは嫌だから、君の方でそう割り切りたいのか?」
「違います」
即答する海に、俺もそういうつもりで言ったのではないと分かってしまっている。
このたった数日のうちに、海なりに俺の妙なプライドを感知して、それを蹴り崩そうと先手に出たのだろう。
「俺は、光留さんの事もカッコいいと思ってます」
俺自身よりも自信を持って言ってくる。
その目で何を見ても、海にはそれが「その人」なのだろう。
(その目だよ)
今夜のパーティーで色んな思いに煮詰まった時、自分でも知らずに俺はこの【鏡】を見たいと思った。
これが他の何よりも、俺に自信を取り戻させる魔法のアイテムであると知っているからだ。
だから、
海に会う為に、俺は帰って来たのだ。
(弱くなったもんだな)
「で?」
俺がちょんちょんと指で結った前髪を触ると、海は嬉しそうにする。
「だから、安心して何でも教えて下さい。俺に、光留さんの事を」
楽になった。
何かが途方も無く、楽になった。
「成る程」
「どうっすか?間違ってますか?」
今は不安気にする海にソファーを手の平で歩いて顔を近付けると、その目は煌めきながらも緊張して、身も少し硬直した。
「怒ってます?」
俺は海の鼻先にキスをして元の位置に戻った。
「ピカルさんって、呼んでいいよ」
「あ、それは絶対に嫌です。すみません」
照れを隠せずの海にあっさり断れたのが可笑しく、ふっと笑うと海も笑った。
「ピカルはズルイっす、マジで。てか絶対今までの人生でもピカルとかってイジられたりしてないキャラっしょ?光留さんって」
「当たり前だ。誰だと思ってる」
「そうでしょ!?マジでイケメンっすもん!格が違って名前イジるとか冗談でも出来ないっすよ!」
「うるさいなー。だから、君にならいいよって言ってあげてるんじゃないか」
「ええ?」
また照れた海だ。
今まで溌剌と笑いはしてもそれ程感情的でもなかった海の表情は、今、とても分かりやすい。
「それに弱点攻撃は当たり前だろう?」
「ちょ!ははは!!何で攻撃されるんすか俺」
海が笑っていると、それだけで安心する。
それだけで、全てこれで良いのだと思える。
「生意気だからだよ、色々と」
「マジっすか!?喧嘩売ってる気ないっすけど!?」
「例えばさっきのだよ。……俺が抱いたのは、光留さんでした。キラリんちょ」
「だあああ!はっず!!クッソはずい!!」
海はソファーの背凭れに顔を押し付ける。
「ふふ!」
「てか良い声!!あざっす!!俺そんな良い声じゃないっすけど」
「光留さんでしたワン」
「ワンは言ってないっす!!」
「言ってた。君いつも語尾にワン付いてるぞ?」
「はっはははは!!」
顔を少し赤くして恥ずかしがっている海を見て、可愛いと思う。
(あーーーイチャついてるなあ俺……)
それもまた悪くない。
「あーあ、mimikone見よーっと」
「ええ!?急に!?」
俺は肘置きを枕に寝そべり、両足を海の膝に乗せてスマホを見る。海は直ぐに俺の足をマッサージするように摩った。
「ガチの涅槃!!てか今っすか!?もう俺と喋ってくれないんすか?」
「あ、YUJIだーーーー」
「うわ無視!ははは!好きっすねホント!あれ?……え?mimikone?光留さんmimikone入れてたんっすか!?」
「ああ」
「知らないみたいな顔してたのに!?」
「ふ!いいじゃないか別に」
「いいっすけど!」
海の足裏マッサージが思いの外に上手い。
「YUJI何やってます?」
「……ん?」
「あれ、寝てます?」
「mimikone見てるんだよ」
海は怪しんだのか、自分のスマホを手に取り、
「ちょ!YUJIやってねーし!!はははは!!ナンデ嘘?」
と、俺に乗り上げて来た。
「ああもう。狭いな、何だ」
背凭れと俺との間に割り込まれて笑いそうになる。
「嫌っすよ!誰の見てんすか!」
「なんか…この子?」
「はははは!めっちゃテキトーっすね!しかもこの子って、この人OBさんつって、光留さんよりうんと年上っすよ?」
「ふーーーん、だから?」
「はははは!!マジそれっすね!なんかツレエ!!」
海は子供みたいに可愛い顔で「てか、なんっか時々矛盾してんだよなあ?」と笑いながら、多分俺に対して首を傾げる。
「じゃあー若い子がいいかな。誰見ようかなー」
「もー!嫌っすって!ちょっと光留さん!じゃあ俺の見て下さいよー!」
大はしゃぎの大きなワンワンの下で、俺の耳がピクリと反応する。
「ん?何だって?」
「あの、YUJIやってなくて、もし暇なら俺の部屋見て下さいよ」
「君の?」
「暇ならっすよ?」
じっと目が合う。
「ふーーーーーーーーーん」
「はっはははは!嫌なんすか!?」
「あ、この子どうだろうな」
「ちょーー!!ダメっすってば!」
海は笑ってスマホを取り上げようとする。
「昨日見たよ」
俺は言いながら背を向け、スマホを取り返して海の気配を探る。
「え?」
海が大人しくなったようだ。
「朗読してたろう?」
「光留さん、見てくれたんすか?」
俺の腹の辺りに腕を回して抱き締めながら、顔を覗き込んで来る。
「ああ」
「どうでした?」
「下手だった」
「うわあーー!!」
海は背後で沈没した。
「ナ行がな。他は良かったよ」
「ナ行っすか?」
「君は声が低いから、意識せずに読んでしまうとボヤけるんだ。ナ行が多い文章だとダラっと聞こえるんだよ。特に、に、が聞こえないよ」
「あーー!!そうかもっす!!」
「そう。に、に、に、って息を切って、他の音も一つ一つを大事にきっちり出す意識をするんだ。直ぐに上手くなるよ」
「あざっす!!」
また抱き着いてくるが、疎ましくもない。
だから後ろの海の顔を振り返って言う。
「ナニナニなのに、とかの文章、殆ど死んでたぞ」
「はっはははは!!」
「ふふ。言葉が流れているのと濁っているのとでは全く別だ。上手くやってるつもりでも出来ていないものは通用しない」
「はい!」
「他が上手いだけにその一か所が物凄く気になってしまうんだ。勿体ないだろう?」
「はい!」
「うん。それだけっ。ハーーイ」
「ははは!可愛い!」
俺はまたスマホを見て、昨夜のKAIの動画を再生する。
「ありがとうございます」
真剣な礼が耳に届く。
「ああ。俺が教えてあげられる事は何でも教えてあげるよ」
「はい」
包み込まれたまま、二人で動画を見る。
「あ、ホラ!変な顔した!」
「ははははは!!それはリスナーが光留さんっぽいコメント打ってくれたからっすよ!」
「ん?」
「ワインとかチーズとかって!それでちょっと光留さん思い出したっす、はは!」
「それでこんな顔するのか?」
「いいじゃないっすか!!」
「ホラ!ここも!犬みたいな!」
「ははははは!確かに!!ヤベー恥ずかし!」
「君がヒカルさんヒカルさんって言うからビール零したんだぞ?」
「え?」
ちらっと振り向くと海は驚いていた。
「ワンコって…俺の事だったんすか?」
「……そうだよ」
咳払いをしてまたスマホを見る。
海はより腕を強く締め、脚まで絡めて首に鼻を埋めて来る。
「擽ったいぞ」
「光留さん」
「ん?」
窮屈な幅の中、海を見る。
海はまた、何とも言えない表情をしていた。
少し悩むような間があったが、海は言った。
「もし俺が立派な美容師になって独立したら、いつか、光留さんの髪、切らせて貰えますか?」
俺は、思ってもみない質問に驚く。
「美容師……?」
「もしもの話しっすよ?」
「……もしも?」
(美容師?)
俺は改めて海を見て、海には色んな道がある事を知った。
「ダメっすか?」
俺の知らない道が、若い海には幾つもあるのだろう。
「俺は…俺が今ヘアケアを頼んでいる人は、本当に長年世話になってる美容師だ」
海の表情が曇る。
「だから、君の店には行かないよ」
今時そんな操立てみたいな事をする必要もなけりゃ望まれもしないだろう。
俺はただ、海の未来が途轍もなく広く長いもので、眩しくて、恐ろしくなったのだ。
「でも、開店祝いの花くらいはさせて貰うよ。誰よりも綺麗なものをさ。君が成功するのは俺も嬉しいからな」
俺が微笑むと海の目は何も言わず、ぐっと静かに何かを堪えた。
「その時には必ず俺にも知らせるんだぞ?」
鼻先を突っついてスマホを見る。
胸が騒ついて仕方がない。
「俺、将来どうしようかって悩んでます」
後ろに沈んだ海はまた抱き着いてくるが、俺は腕を上げてその髪を撫でるだけだ。
自分も若者に将来的な相談をされる年齢になったのかと知る。
「そんなに急ぐ年齢でもないじゃないか。俺達の時代と違って今の若者にはもっと沢山選択肢があるだろう?全部見てから決めたっていいさ」
「間に合わないっす」
「間に合うさ。俺より上の人がリタイアしてまでやりたい事をやってる時代だ。本当にやりたい事ってのを見つけられる時代なんだ、ゆっくり決めれば良いよ」
「でも、俺には今しかないんです」
やけに急く海を不思議に思い、顔を見る。
その切ない目は、俺を射た。
あの月の下と同じく、背ける事すら儘ならないシグナルだ。
「海?」
「今しかないんです、きっと。俺が何になっても、結局は今しかないんだと思います」
今しかないという言葉がとても嫌になる。
海が此処に居るのも今だけだからだと思い知るからだ。
もし、太陽の下で泣く人の絵があったなら、
それがわざわざ額縁に入れられ意図して齎すものとは、知る者だけが気付く果てしない絶望だろう。
他が首を傾げて通り過ぎるその絵の前で、自分だけが足を取られたという焦り。
寒色にある陰よりも、暖色に見た陰の方が空恐ろしいものだ。
また後ろから海に鼻を首に押し付けられて、
触り心地の良い短い後頭部の毛を撫でるばかりだ。
ずっとそうしていると何かを憎いと感じ、自分の碌でもなさが浮き彫りになった。
(今夜はもう帰してやるべきだ)
そう思うだけ、自分の願望が見えてくる。
「俺は本当に、格好だけの男だな」
スマホの中のKAIよりも、今、熱を合わせている海が特別だと知る。
「光留さん?」
相談していたはずの海の方が俺を気遣って来る。
俺は言葉を決めて海の目を振り返るが、
「帰らないっすよ、俺」
先に言われて何も言えなくなった。
「帰らないっす」
俺の知らない顔だ。
辛そうで、苦しんでいる。
だが同時に救いを求めてくるその目が、俺が作り上げてきた常識を端から壊していく。
指で海の首を真横に撫でる。
例えばそこに、真っ赤なベルトでも。
俺の名前が入った何かを。
だが俺はやはり、海にとっての悪にはなりきれない。
なりたくない。
息を呑むのが伝わって来ると海の顎先を引いて耳に口を近付け、ピアスの間を割って舌を這わした。
(すまないな…)
帰してやれば良かった、そう思うだけ気分が高まり、耳ごと咥えて吸った。
海の吐息は俺の首筋で熱くなり、その静かに打ち寄せる波は遅くなるだけ強くなる。
次第に同じくらいの熱さの手が腰回りを探ってくると、その熱波はいつの間にか俺の脳を覆ってしまっている。
熱く赤い大きな舌が首の肌を這う頃には、波は脳から身体へ広がっていた。
「全身、舐めていいっすか?」
海がしたい事を、俺はもう理解している。
「いいっすか?…光留さん」
「ああ…」
酔いしれた溜息のようになって出た俺の答えに一拍も置かず、海は本格的に乗り上げて首に吸い付いてくる。
例えば今こんな風に必死にではなく、何となくでいつもの笑顔の海に抱き寄せられていたなら、俺は俺のままで居られたのだろう。
「俺、今日、なんか……堪んないっす…」
切ない訴えに敏感に反応したのは俺の身体だけではなかった。
本能の波を表すように当たってくるのは、海の身体だ。
俺の束ねた前髪を触りながら額を撫でる指。
下へ下がって行った海は、暫くは臍を中心に腹を舐め、セーターの中に鼻先を潜り込ませながら捲り上げるように肋骨をなぞる。
(違うな……)
懐いて戯れて来るようだったこの前とは違い、海の舌はじっとりと色っぽい動きをする。
脇まで丁寧に舐めた舌を乳首へずらすと音を立てて吸った。
「めっちゃ…抱きたいっす、光留さんのこと」
そんな言葉にまたくだらないプライドが引っかかって脳が痺れるが、同時に海に対する記憶がある身体も、別の熱を持った。
「一回じゃ…足りないっす」
段々とソファーから尻がズレ落ちていた俺の身体を、腕の力でひっくり返した海は、絨毯に膝を着かせて背後から被さって来る。
「海」
四つん這いになった俺の耳を噛んで来る。
「何回も、したいっす」
スエットのウエストから両腕を突っ込んで、腿の外も内も撫でられる。
「ん…」
「こんなか、あったかいっすね」
(ああ……今日は良くない…)
今夜はきっとこれに呑まれると分かりつつ、口角を上げる。
「脱がさないのか?」
「着てていいっすよ?光留さん」
「ん?」
「寝取ってるみたいで、興奮するんで」
硬い声で、海は嘘が下手だ。
「寝取る…?」
俺が振り返ると海は気付いて顔をあげる。
「あ、こういうのって良くないっすね?俺、その辺りのルールとかあんまり知らないんで…」
いつもより低くなっている声は何処か投げやりで、熱波を妨げている。
俺は意味を捉え損ね、顎に伸びて来た海の手にソファーの背凭れを見るように言われたまま、そうした。
「普通の恋愛観落とし込んじゃって」
「……恋愛観?」
「セフレとか、した事ないんすよ、今まで」
そう言って笑う声を聞く。
「でも、俺以外にもついつい妬く奴いるっしょ?光留さんっすよ?俺だけじゃないと思う。面倒だって思います?」
腰を舐め上げられてゾクリとする。
「んん…?待て、海」
「光留さん本当に気にしないんすか?光留さんのお気に入りが、他の男としてても。全く?」
「待てって言ってるだろう?」
後ろに腕を回して海の頸を掴む。
海は俺を見る。
「もしかして、妬いてるのか…?」
海は「しまった」という目をして自分の舌を口の端で噛む。
「……そうなのか?」
「あの、俺別に…」
胸が締め付けられて、海の言い訳を聞く前に頭を引き、鼻を噛んだ。
「バカだな君は」
(それじゃまるで……)
惚れられたように聞こえるだろうと、顔を舐める。
「光留さん…」
「あと、駄目だ。他の男としたなら、もうここには入れないぞ」
また鼻を噛んで離すと海は辛そうな顔をした。
「…駄目だ。絶対に俺以外とは駄目だ、いいな?」
「しないっすよ」
震えたように聞こえ、赤い髪を掻き混ぜる。
(そんな事をされたら、俺が報われないじゃないか)
「海、駄目だぞ?」
俺以外の男に捕まったら、誠実で可愛い海はきっと放して貰えないだろう。
「遊びは遊びだ。人生捨ててまでやる事じゃない」
「…分かってますって」
「それに君は…。今は、俺のだ。他の男と共有なんてする気はない」
海はじっと俺の目を見張っていたが、
「その辺りの言葉、もっと聞きたいっす……」
目を逸らし、唇で顎に噛み付いてきた。
若い海は目の前の束縛を欲しがる。
それがどれだけ後の自分の人生にとってリスキーかも知らずに。
(俺だって知らないのに)
「触りたいっす、光留さんに。もっと、ずっと」
熱が上がる毎に、触りたい触りたいと零し続ける今この瞬間の海にとっての俺は、薄情の塊だろう。
(それでいい)
歯車は噛み合っている。
しかし、二つの輪の接点は小さく、時間は極めて短いものだ。
(今だけ……)
俺が得意としてきた、人との時間の使い方だ。
良い時だけ。濃い時だけ。
人がそれを【美しい】と言うのは、飽きがくるまでの刹那だ。
(それならもう、な……)
「気の済むだけ触ればいいさ、お互いに」
熱い目を振り返って鼻先を吸う。
海の唇に再び顎を噛まれると自然とその頬を撫でて、髪を撫でていた。
そんな自分の手が、俺の真実だ。
自分の部屋が、まるでそうじゃない緩い檻のようだ。
「光留さん、俺マジで今日……」
「ああ、食べていいぞ」
下着の上から欲望を押し当てられて海の胸に背をつけると、遠慮無く首を吸われて意識が濁る。
「いいんすね?」
「君との時間は気持ちが良いよ…」
守って。守られて。
海の身体から熱い【赤】が広がって、
俺が用いた格子は、結局誰の事も傷つけられない程度の強度に下げられていく。
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白井由貴
BL
BLの短編詰め合わせです。
主に10000文字前後のお話が多いです。
性的描写がないものもあればがっつりあるものもあります。
性的描写のある話につきましては、各話「あらすじ」をご覧ください。
(※性的描写のないものは各話上部に書いています)
もしかすると続きを書くお話もあるかもしれません。
その場合、あまりにも長くなってしまいそうな時は別作品として分離する可能性がありますので、その点ご留意いただければと思います。
【不定期更新】
※性的描写を含む話には「※」がついています。
※投稿日時が前後する場合もあります。
※一部の話のみムーンライトノベルズ様にも掲載しています。
■追記
R6.02.22 話が多くなってきたので、タイトル別にしました。タイトル横に「※」があるものは性的描写が含まれるお話です。(性的描写が含まれる話にもこれまで通り「※」がつきます)
誤字脱字がありましたらご報告頂けると助かります。

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