レッド ルーム

輪念 希

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◆竹山 海

翌朝、八時。
昼からジムのシフトを入れていた俺は、コンビニに二人の朝食を買いに行こうと思い、服を着替えながら、昨日SINが配信をしたのかどうか見てみようとmimikoneを立ち上げる。
もしSINが、その項目の通知を許可していれば、俺が自分を「お気に入り」に登録した事を知ったはずだ。
(ハイランカーなら登録の通知はずっと鳴るからみんなオフしてるけど。SINはどうだろうな)
気付いていないだろうな、と思いながらログインすると、リスナーアカウントからの登録通知の中に紛れて、配信者からの登録を表す一通があった。

それは、SINからの通知だった。

「マジか。結構話せる奴なんじゃね?」
mimikoneの風習では相互に登録し合った場合、コラボOKの意になる。
とは言え、俺が「ハイランカー」である以上、なかなか無視もしずらいのかも知れない。
そう言った事を踏まえても、登録をやり返して来たSINは「思ったより普通だった」という事だ。
「DM入れてみっか…」
俺は椅子に座ってSINへの挨拶メッセージを作ってみる。
「登録返しありがとな。えーっと、もし時間があればちょっと話そうぜ、と。…いや、これ明らか勧誘だよな。どうすっか…」
すると、mimikoneから配信予告の通知が来る。
「YUJIか?」
しかしそれはSINのものだった。
「お!今mimikone開けてんだ!?」
俺は咄嗟にSINにカメラ無しの音声通話を掛けた。

『はい』
早々に相手が応えた。
「あ!SIN。朝からごめんな」
『いいよ。おはよう』
落ち着いた静かな声だ。
「おはよう。登録返しありがとな。今ちょっと見てたら通知来たからさ。時間あんの?」
『ああ、うん。あるよ。あ、初めましてKAIさん』
「あ!あっははははは!そうだよな!初めまして!さんは要らねーから。俺もSINって呼んじゃったし。ははは!」
『じゃあ、KAI』
MAKIや三山さんがYUJIっぽいと言ったのを頭の何処かで意識してしまっていたが、YUJIとの初対面と比べれば普通に会話が出来ている。
「おー。宜しく。コラボとかも良いのか?」
『宜しく。コラボか…どうだろう』
SINの声は息が長く、ずっと一定の声量で横に流れて行くような感じだった。
(聴きやすいなー)
だがその分、感情が鈍い声だ。
「あー…。ま、別にいいんだけど。俺が俺の枠に呼ぶくらいなら迷惑になんなくね?」
『そうだね。でも話合うかな。そこが心配だよ』
(え!?はっきりと…)
「合うんじゃね?合わね?」
『俺は全然良いよ。KAIは平気かなと思ってね』
「俺ぜんっぜん平気。寧ろ仲良くしたい」
『そっか、良かった』
本当に「良かった」と思っているのか分からない声だ。
そんな会話をしながら、俺はSINのプロフィールを慌てて見る。
(24か、大人っぽく見えたけど一個上だったのか)
「歳も近いしさ」
『そうだね』
「SINってさ、mimikoneで仲良い配信者いんの?」
『いないよ』
「え?そっか、じゃあまあ俺で丁度良いじゃん。ははは!」
『ありがとう。君だったから返したんだよ』
「そーなのか!あんま絡みたくないタイプか?」
『そうだね。どちらかと言うと』
「えーっとさ…」
『ん?』
「NACの三山さんからスッゲーアプローチ来てね?あっははは!」
『ああ、来るよ。それでKAIが?』
「それでってワケじゃねーけど。嫌だったら、理由聞けばなんとか…ってさ」
三山さんかSINか、どちらに対しての「何とか出来る」なのか自分でも曖昧だ。
『理由か…』
「そうそう。NAC入っても損な事ってねーと思うからさー。何が気になるのかなってさ」
『うーん。実はmimikone辞めようかと思っててさ』
「え?何で?」
『理由は無いんだ』
「あー…」
(理由が無いってなんだそれ)
『急いで今年中にってつもりもないんだけど』
「そうなんだ?じゃあそれまでに一回コラボしよーぜ?」
『うん…そうだね』
「誰か呼んで欲しい奴いる?」
『え?』
SINは暫く考えるような間を取ってから、
『YUJIさん』
と言った。
(え!?ナンバーワン出して来た!気の弱い奴ってわけでもないのか)
「へー!SINもYUJI好きなのか?呼べるぜ?」
『一度話してみたいと思うよ』
「マジ!?じゃあ決定な?MAKIは?」
『うん、MAKIさんも。けど彼こそ話し合わないんじゃないかな』
(彼?MAKIを彼なんて呼ぶ奴初めてだな俺)
「ちょ、さん付けやめよーぜ。なんか変だから。合う合う!あいつ煩いけどめっちゃ良い奴だから。煩いのダメか?はっはは!」
『そんな事はないよ。向こうが面白く無いんじゃないかな?』
「それは無い。めっちゃ興味津々で絡んで来ると思う!」
『だと良いけどね』
(育ちが良さそうなのビンビン伝わって来るなーSINって)
「え、じゃあさ、YUJIとMAKIに、SINの事話していいか?コラボしよって」
『ああ、それは全然良いよ。日にちもそちらで決めてくれれば良いよ。宜しく、KAI』
「宜しくなー!」
(ぜんっぜん普通じゃん!)
『じゃあごめん、そろそろ』
「あ!そうだな!ごめんな急に、ありがと!」
『うん。それじゃあ、また』
「おー!」
通話を終えて椅子を回転させる。
(あー、良かった)
そう安堵して、ふと。
「あれ?どんな声だっけか…」
俺はSINの声を思い出せなかった。
そのせいで、好印象だったのかどうかも分からなくなった。

「…まあ、とりあえず三山さんに報告」
三山さんへのメッセージに、
『SINと話しました。mimikoneに友達はいないけどYUJIの事が好きみたいっすよ。今度コラボ持ち掛けます』
と書いて送った。

昼前に家を出る頃には、

『ナイス!』

というメッセージが来た。
三山さんはスタンプの類いを一切使わない人だ。










◆三条 司

「三条さん、お早うございます。挨拶宜しいですか?」
「あ、はい。二葉役の三条だよ。お早う水野遼君」
「あ!」
録音室の中、緊張した面持ちで俺の前に立っているのは、水野 遼みずの りょう
俺が参加した小野江マリナの作品【Reset】の片割れ【青空のアンカー】に参加した新人だ。
NACのMAKIが主人公役で、この水野遼はその親友役だった。俺はmimikoneリスナーとしてだけで無く、YUJIの件で少しだけ面識のあるMAKIの演技に興味があったのでCDを聴いていた。
「遼。青空のアンカー、凄く良かったよ」
「え、ありがとうございます!」
俺が珍しく「売れる」と直感したこの新人は、少し狼狽えながら嬉しそうにはにかんだ。
「あと来るのは肥後君と二岡君だけだから。挨拶なんて良いから座んなよ。幾つ?BL、初なんだって?」
俺は荷物を退けて、真横の椅子を空けた。
「21です。あ…失礼します。BLは初めてです。なのでご迷惑をお掛けすると思いますが…」
普段はきっと大人しそうなタイプの、色白のガリガリ体型の水野君は、躊躇いながらも素直に座った。
「あ、保!」
俺は到着したばかりの二岡 保におか たもつに手を上げた。
「お早うございます!」
水野君はまた直ぐに立って挨拶する。
「あー、お早う。今年急に寒いねー。少し前まで秋だと思ってたのに」
笑顔で入って来る保は、多分緊張を和らげてやろうとする自然な意図があって、水野君の横まで来て上着とバッグを椅子に置いた。
「久しぶりだね三条さん。水野君だよね?宜しく。僕は三条さんのお兄ちゃん役の二岡保です」
「太一役の水野遼です。宜しくお願いします」
「宜しくお願いします。座ろ座ろ」
保が椅子に座って、水野君も急いで座る。
「今日は筆下ろしだよ、遼の」
俺が言うと保が笑う。
「あはは。そっかそっか!良かったね水野君!三条さん受けもすっごく上手だから安心して大丈夫だよ」
「はい。お世話になります」
「任せて。御開門の時に相当仕込まれたからね、俺」
俺は【深紅の檻】でBLのノウハウを嫌と言う程に叩き込まれた。
「御開門って!ははは!誰だっけ監督」
「奥名さんだよ。ホント嫌い」
勿論「冗談」だ。
水野君が今回世話になる音響監督の名前にそわそわしたが、「三条さんの冗談だよ?」と保が微笑んでフォローした。
(ホンキだよーん)
目が合った水野君に俺も微笑んでおいた。
「でもさ、次は僕とだよねー水野君」
「はい!」
「そうなの?受け?」
「次は受けです」
「そうなんだ。ま、BLは出来た方が良いよ」
「はい。勉強させていただきます」
「筆下ろししたの俺だって、人気出てもちゃんと言うんだぞ?」
これは本当に冗談のつもりで言ったが、
「勿論です!凄く光栄です!」
真っさらな水野君はガッツリ頷いた。
「そうだよねー。三条さんでしたって言えば自慢になるよ」
「はい!いつか共演させて貰えたらって、ずっと夢だったんです」
「BLで?」
「あ、いや…ジャンルまでは考えてませんでしたけど…」
「あっははは!でもじゃあ今回はホント良かったね。人も少ないからゆっくり三条さんと演技出来るね。おめでとー水野君!」
保は拍手して祝う。
「ありがとうございます!」
水野君は初々しく照れて笑った。
だが、そんな様子を見ながら俺は、
(そういえば海って肝が据わってるよな…)
マニアのくせに俺との初対面でも平気な顔をしていた。

『あれ、レイプ魔製造機っすよ?』

(ああ、ちょっと待て、思い出すのそこじゃないから)

俺は台本で自分の頭を叩いた。

「どうかした?三条さん」
「いや、何でもない。遼の門出に、めっちゃエロい声出してやろうと思ってね」
俺が微笑むと、水野君は困った様に赤くなって「俺も、頑張ります」と小さく言った。

設定としては高校生のカップルで、内気なタチを攻める受けだ。
俺が演じる「二葉」が、水野君の「太一」の尻を叩いて叩いてやっと恋人同士になったのだが、あと一歩が踏み出せない。

『太一。グズグズすんな…早く』
『待ってよ二葉…入れたら出ちゃうって』
(やっぱり良い。売れるな)
俺は自分の予感が当たる事を確信した。
『俺じゃ嫌なのかよ?』
『違うよ…でも。親、帰って来るかも』
『ハア…じゃあもういい。俺帰る』
『二葉!?』
『もう太一とはやんない。別れよ』
『え?』
『男向いてねーよお前。さっさと彼女つくれよ?じゃねー。バイバイ』
『あ!二葉!!』
『痛いなもうっ!』
『ごめん二葉!!俺だってしたいよ…でも』
『でもでもでもでも!毎回それ!ウジウジしてる奴興味ないから』
『二葉が好きなんだ!だから別れたくないよ』
『ホンキじゃねーからセックス出来ないんだって。俺が…男だからさ。もういいよ太一。ぶっちゃけ、俺も疲れちゃった…毎回必死で誘うの…』
『二葉…』
『俺だって…愛されたい。求められたいんだ。必死になって無茶させなくても、抱いてくれる相手がいい…』
『二葉?…嫌だ、二葉が俺以外と付き合ってるのなんて、見たくない!』
『わかった。ハイハイ。とりあえず帰る』
『二葉!帰るなよ…』
『もう…なに?』
『二葉が痛いかなって思って…出来ないんだ』
『太一?』
『俺、童貞だし。好きすぎて…焦って…傷つけちゃうんじゃないかって。でも、本当は、すっごくしたい…。二葉のこと考えるとすぐ勃つし…二葉の中…入りたい』
『太一。今まで、俺の為に?』
『うん…ごめん』
『なんだ…そっか。太一は俺のこと好きじゃないんだって…思ってた。嫌々付き合ってるんだって…』
『二葉!大好きだよ!』
『太一』
『二葉を想う気持ちは誰にも負けない!』

水野遼の、迫真の演技。
奮い立たされるものがある。
(誰にも負けない、か…)

『俺の大好きな、ふたば。もう一度…俺にチャンスくれる?』
『うん。太一、俺にいっぱいエロいことして…』
『いっぱいする。大好きな二葉に。いっぱい…』

水野遼の人生、一回しかないBL初挑戦。

(俺が、華を添えてやる)

「三条司で良かった」と、思わせてやる。

途端に火がついたタチを見事に演じる水野遼との収録は、実にスムーズで、互いに熱が入った良い仕事だった。

保も、もう一人の肥後君も水野君を絶賛した。監督の奥名さんも満足した様だった。

「三条さん!お疲れ様でした。本当にありがとうございました!」
水野君は帰り間際にもわざわざ俺を追って来た。
「ありがとう。良い演技だったよホント。これから先も役を選ばず自信持って頑張れよ?遼」
「はい!!」
嬉しそうに頭を下げる。
「うん、それじゃ。またいつか」
「はい!また共演させていただけるように頑張ります!」
「ありがとう」
憧れの熱い目で見送られているのを感じながら俺はスタジオを出た。

(俺もまだまだいけるな、これ)

高校生の爽やかさを演じた自分にも納得出来た俺は、気分良く愛車に乗った。

収録中、実は水野君以外にもずっと意識をした相手がいた。

(聴いておっ勃てろ、マニア君)

聴かれる、という意識の中で収録したのは新鮮だった。

「ホント面白いな、この仕事。全く飽きなーい」

俺はルンルンで、充実したドライブを堪能した。




だが、次の「ふて場」での収録日。
否、その前日の夜間の内に、
俺は「とりあえず置き」してしまったままの海の存在を、どうしたものかと意識していた。
そして更に、この休日の間、
(YUJIが見たかったのに、YUJIを見ようとしたのにな?どうして?)
俺はKAIの配信を見て過ごしたのだった。

「あのさ三条さん、訊くぞ?訊いてって言ってるし、その百回目くらいの溜め息がさ。なので、ハイ。どうかしたんですか?」
収録前、向かいに座る哲平が言う。
(やっぱり変だよな、俺)
寝不足だし、海が近くを通る度に台本をさり気なく顔の前に持ち上げている。
「え?何か変かな?」
「うん!変!」
高い声で何かのキャラみたいになって言った哲平だが、「さっさとお願いします」とマスク越しの地声で頬杖をついた。
「えーっと。ふふふ。そうだねー。えーっと、悪ふざけで、ちょろっと餌を与えた飼ってるわけじゃない野良犬に、思ってもみない方向から手を噛まれかけた、みたいな?」
「犬?なんじゃそりゃ。あーでもいるよな、おいでって前に手出してんのにわざわざ後ろ回ってケツの下から鼻出そうとする犬。ん?ってことは、つまり何も起きてねーな、それな。野良犬が拾い食いしただけだな」
「いや、起きそうな事は起きた」
「そうですか。そもそも何でそんな事した?危ないぞ?」
「きゅんきゅん尻尾振ってる可愛い犬だと思ったら、とんでもない獰猛な牙を突っついてしまった、みたいな」
「あー、小型犬?」
「中型から大型」
「え!勇気あんな。責任取って歯磨きしてやれよ?」
哲平は小さく笑う。
「人生捨てる覚悟が必要になるな」
「38で?」
「絶対に嫌だ」
「110番してくれる?危ないから、そんな犬が街中を歩いてるのって」
「110番なんて、俺の立場が危うくなるんだよ」
「野良犬の話しだよな?」
「あ、そうそう。けど、まあ、誰にでも襲いかかるタイプじゃないとは思うから」
はあ、と、また溜め息を吐いてしまい、ちらっと海を見るが、西原君と一緒に楽しそうに常盤さんと話している。
「はい?」
哲平の異議に、哲平に視線を戻した。
「ん?」
「野良犬は誰でもいいと思うぞ?餌くれりゃあ」
そんなの当たり前だろ?と言う目に、気分が斜め下に落ち着いた。
(誰でもいい、か)

「ああ、そうだな」





今日の収録は少しバタついていた。
と言っても、俺以外、だが。
「一気に減りましたね、人」
自分と俺と川俣さんと四方ちゃんと、西原君ら新人二人の、六人だけになった休憩時間に、海が声を掛けて来た。
「みんな他があったからね」
「前、座ってもいいっすか?」
「どうぞ」
俺は余計な態度を取るよりはと、微笑んで促した。

他にも足を突っ込んでいる役者達のスケジュール合わせの為に、今日だけ部分録りのようなイレギュラーな収録をした。
勿論これを踏まえて、前々から放送分までの余裕は十分に残してあったのだろう。
事実、シュニックとエンビリアンがアニメの放送に登場するのは、まだ何話も先の事だ。
現在の午後二時までに、晃介、常盤さん、哲平、川俣さんの役が絡むシーンを断片的に録る作業で、どの役のどのシーンにも入らなければならなかった俺は、総当たりのバトル会場の勇者のようにマイク前に立ったまま、取っ替え引っ替え変わる相手に休憩無しでやりきった。
シーンもテンションも違う演技の入れ替えは、俺でも少々疲れる。

今は、過酷な朝の通勤ラッシュを乗り越えたサラリーマンか、水泳の後の授業中かの、とにかくあのお座なりな空気みたいな、変に気が抜けた休憩のひと時だ。

「何読んでるんですか?」

海は丸テーブルの向かいに座って、静かな声で尋ねてくる。
(図書室か)
ラッシュ後の水泳からの、図書室だった。
「BL漫画」
俺は離れた席で軽食を食べながら、俺と同じように疲れてぼうっとしている四方ちゃんを一度だけ見てから、此処の作品の台本だけを落とし漫画の表紙を見せた。
「今日は漫画っすか」
海の一言に、俺は前回ここで水野君との作品の台本を読んでいた事がバレていたのだと知った。
(めざとっ!!)
「…今度録る作品の原作だよ」
俺は海の視線を遮るように両肘をテーブルに立てて、事務所に台本を取りに行った時に借りた本を顔の前に持ち上げる。
「あー、成る程」
それから何も言わなくなったのが気になり、顔を少し上げて様子を確認した。
するとガッチリ目が合った。
「平気なんすね、BL」
それを聞きながら再び顔を隠してやった。
「お・し・ご・と」
「っすね。けど、ブックカバーぐらいつけません?」
「ふふ。あのさ、もしバレたって誰が気にするの。ここ声優しかいないんだぜ?」
「まあ…っすね。けど、エロいお兄さんの絵の峰の向こうにある三条さんの美顔はちょっと困ります。俺は」
「見るからでしょ」
「いや、見ますよね誰だって」
「海、君幾つだっけ?」
読めてもいないページを繰って、真剣に読んでいる顔を作りながら、パックのジュースのストローを吸う。
「俺っすか?23ですよ」
「38のおっさんに美顔なんて言って、仮にも今一緒に現場入ってる先輩に対して失礼だなーとか思わないのか?」
「え…」
ページを捲る。
(つーか、心の声多すぎるな、この主人公)
モノローグがページをほぼ埋めていた。
「女性に言うんだよ、そういうおべっかは」
「すみません」
「そこ謝るんだ」
「あ…悪いとは思ってませんけど。三条さんの気分を害したんだし」
(え!こいつこのページも一言も発してないじゃないか!脚本家泣かせ!演者泣かせ!素敵!)
「結局は謝ってないって事か」
「そう、っすね。思った事言うのってダメですかね?」
三ページも繰って、やっとちゃんとした吹き出しがあった台詞は『うん』だった。

「押し強いな、俺にだけ」

海の空気が一瞬怯んだ。
俺はそのままページを捲るが、

「悠二、最近どうしてる?」

急展開にギョッとしたのを勘付かれないように、背凭れまでゆっくり身体を起こして、片手で肩を摩る。
今漫画から目を逸らすのは良くないと、何でも無いページのように見続ける。

「昨日ネット通話でモニター越しに会いました。元気ですよ」
「そっか」
「気になります?」
「なるね。悠二好きなんだよ俺」

また海は黙った。
(あ…今のはちょっと…)
同じmimikone配信者に対して優劣を指したようで良くなかったのではと、俺が顔を上げようとする前に言葉は返って来た。

「あいつ最近…」

何やら心配そうな雰囲気の声だった為、俺は本を立てたまま海を見る。

「ケホっ。ん?なに?何かあったのかい?悠二に」
(俺が見ていなかった間に!俺のYUJIに一体何があった!!)

「あ、今ここでする話しじゃないっすよね?すみません」

「……」

(おい。こら)

「誰かに聞かれたらマズイし。では、お邪魔しました三条さん」
「あっ、ちょ…」
何でも無さそうに席を立った海の唇は、一瞬だけニヤっと笑った。

(ほぉおおお!?いい度胸してるじゃないか!!)

その時に見た海の左耳には、
シルバーの太いフープピアスが耳朶に食い込むようについていた。

「あ」
「あっ!」

海は俺の手から本を取り上げて、それを眺める。

「へえー。…スゲーっすねこれ。漫画は初めて見ました」

海は「ども」と、爽やかに微笑んで本を俺に返し、去って行った。






三時半には収録は終わっていたが、録音室を出る間際にたまたま目が合った大西さんと、少しの時間だけ、カップのコーヒーを飲みながら久しぶりにミキサー室の中で話した。
大西さんは【Reset】の次に【青空のアンカー】も担当した為、俺がさり気なく水野君の名前に触れてみると、大西さんは、
「ああ、水野君ね。覚えてるよ、良いよね、声も演技も人柄も」
と、あっさり頷いていた。
(やっぱりな。あの人が言うなら間違い無い)
自分の予感がいよいよ本物だったと知る事が出来て、あの作品が世に出るのが楽しみになった。
それと同時に、NACのMAKIが声優事務所のスカウトを二つも断っていた事も知った。
「どうやら槇君も随分と丁寧に話しを聞いたそうだよ。真剣な考えも無く断ったんじゃないみたいだから面白いよね」
YUJIに続きMAKIまでも、そう思う気持ちはあるが、俺はこれからの時代、それも一つの道だと思っている。
一般とプロとの間に居るような、多才なインフルエンサー達。
(NACだから出来る事ってのは、きっとあるからな)
何足の草鞋でも、それが一日でも早く宙ぶらりんな定義で無くなる日が来ればいい。
それを推し進めて行くのが彼らなのだろう。

(今日はYUJIの顔を見られるな)
mimikoneからYUJIが午後五時から配信すると通知が来ていた。
(詩の朗読が良いなあ、いや、歌も聴きたいなあ…。YUJIなら何でもいいな!)
「うんうん」
軽い足取りで階段を下り、
何か簡単な夕食でもテイクアウトして帰ろうかとスタジオのドアを出ると、

「あ」

横に海が立っていた。
鼻を指先で押さえながら俺に気付く。
「お疲れ様です。遅かったっすね」
(え!?今まで待ってたのか!?)
「どうしたんだい?」
とりあえず、微笑み返す。
「今日、時間ありますか?」
赤い鼻頭を挟んだ目。
(犬っぽ…)
「まあ…ね」
「一時間後くらいに行っても良いですか?」

海は、「秘密の部屋に」と言った。



俺は愛車を飛ばしてマンションに帰ると、簡単に部屋を整えて、今日少し汗ばんだ為、さっとシャワーを浴びた。

(あいつ、持って来る気だな…)

一旦家に帰る様子だった海。
俺は電気配線の延長コードをテーブルセットの足元に用意してやった。

海は十分程遅れてインターホンを鳴らした。
「どうぞ。鍵開けておくよ入っておいで」
『はい』
その後、玄関の様子をチラチラと伺いながら待つも、
(え…?迷ってるのか?)
俺はやけに遅い到着に首を傾げて玄関へ行き、ドアを開ける。
すると何やら鈍い音がした。
「あ…ごめん」
海はドアの前に居たようだった。
「いえ…」
「入れば良いのに」
突っ立っていた海は、妙に気を取られる表情だったが、ふっと笑って「失礼します」と言った。
海の手にあったのは、背中に背負うタイプの斜めがけの平たいバッグだけだった。
(あれ?軽そうだな…)
「そういえば、何か食い物買って来ましょうか?」
「あー、そうだな。行こうか」
「俺行って来ますよ。パスタで良いっすか?」
「え、ああ。…パスタ?」
「キッチン、借りても良ければ」


キッチンで料理をする海を後ろから眺めている。
「へー。慣れてるね」
「はは!だいたい俺が作ってますから。パスタは簡単っすよ?」
そう言いながらもまあまあ手の込んだソースをフライパンで仕上げながら、合間に湯切りをする。
「あ、すみません、皿って…」
「ああ!出すよ綺麗なのがあるんだ」
「あざっす」
俺は気に入って買っておいたが、まだ一度も使った事が無かった大きな皿を二枚棚から出して並べた。
「マジっすね、薄い」
「この白、良いだろう?」
「ミルクって感じっすね」
縁取りに広い間隔を空けて赤い丸が並んだデザインだ。
「イタリアンでもフレンチでも、美味そうに見えるんじゃないかと期待して買ったんだ」
「ステンドグラス?っすか?」
「赤いところはな。ガラスだよ」
「高そうっすね」
「こういうのは値段じゃない。せっかくの料理だから、お洒落にしたいだろう?」
「うわー、カッコいいっすね、その考えが。俺なんかデッカイどんぶりで、箸でパスタ食いますよ、ははは!」
「あー、それも良いけどな。皿にちょっと拘るのは作って貰った料理なら尚更さ。ボロネーゼかい?」
「ボロネーゼ風っすね、即席の。あ、嫌い、とか?セロリとかダメっすか?」
「好きだよ」
「良かった…!」
海は本当にほっとした顔で皿に盛り付ける。そしてパルメザンチーズの筒を袋から出すのを見た俺は、やっと役目があったと手を叩いた。
「チーズなら他にも色々あるよ、ここに」
俺はチーズ専用のクーラーボックスを開けて海に見せる。
「スゲ!流石洋酒好きっすね!安いパルメザンより美味いでしょうね」
「少しずつ出して削ったり簡単に乗せて食べようか」
「はい!あ、パセリ忘れた!」
「ある」
俺はパセリの小瓶もササっと渡す。
「あざっす」
「この匂いワイン飲みたくなるなー。海も飲むか?」
「あ、俺今日車なんで。三条さん飲んで下さい」
「じゃあ、悪いけど俺は一杯だけ飲むよ。君の料理が美味そうだからな」
「あざっす!」


「へぇーあ、美味いよ」
俺は即席とは思わせない味に驚いた。
「あざっす。気に入ってもらえて良かったっす」
海は少しニヤっと、褒められた子供みたいに表情を崩した。
「美味い美味い。ほら、チーズ。どれでも食べなよ。えーとパルミジャーノは定番だろ?あと俺が好きだから勧めるのは、エメンタールとかコンテは美味しいよ。それから…」
少しずつ切り出したチーズを乗せた皿を渡して説明をしてやろうとするも、
「あ…俺…」
(ぇーーーーーーーーーーーー)
俺はすっと皿を置いた。
海はチーズが苦手らしい。
「言えよ、さっき」
(せっかく教えてやろうとー!)
「すみません、はは。給食とかのオマケで出るようなのは好きだし食えるんすけど」
「プロセスチーズかい?」
「っすかね?多分それっす。そういう紙に包まれたようなガチのやつは、噛んだ時の匂いが…鼻にこう…来るっしょ?でもそれ言うと三条さんのテンション下げるかなって。すみません」
海は申し訳けなさそうに小さく笑う。
「チーズにも色々あるんだけど?まあいいよ。そんなの気を遣うとこじゃないだろ?鼻が良いのか?やっぱり」
「やっぱり?」
「あ、んん!何でもないよ、ふふ。俺はチーズ足して食べるよ?」
「勿論!どうぞ!好きなように食って貰えたらそれが一番嬉しいっす」
気の良い一流シェフみたいな口振りで俺の食事を見守る海。
「んーん!ひき肉のこの仄かなガーリックも、たまーに当たるセロリのクセも、チーズと合っててスッゴク美味しい。香り高くてワインが進むなあ。ああ、贅沢なひと皿だ」
「あっはははは!意地悪っすね!」
「見てないで君も食べなよ」
「っすね!」
自分もフォークを取って、雑だが汚くは無い食べっぷりの海。
「皿が綺麗だと味が一段上がって感じるっすね。今回が一番上手くいった」
運転の為に酒を飲めない海は、俺の言いなりで俺のチェイサーと同じ微炭酸のソーダを料理の共にしている。
(海のソーダに搾れる檸檬でも置いてあれば良かったな…)
目を伏せてフォークを回すのを見ながら赤ワインを飲む。
目尻が切れ上がっていると伏せた時にさり気なく男っぽいのが羨ましい所だ。
(晃介とか哲平もそうだよな)
生まれつき、というものは憎いものだ。
(それにしても…)
「君の顔って、本当に左右対象だな」
海は目を上げる。
「よく言われますよそれ。今はどうか分かんないっすけど、子供の頃に鏡を、こうやって遊ぶアレで」
海は左手を鼻の前に立てる。
「みんなは変顔になるのに、鏡寝かせていくと、俺って俺になるってネタやってました」
笑った口の端の高さもシンメトリーだ。
「でも服はアシンメトリー?」
俺が言うと「そっすね!」と海は更に笑った。
「足のサイズも長さも一緒なんすけど、腕の長さだけ右が3センチ長いんすよね」
「3センチも?」
自分を含め人体の左右の差は誰にでもあり得るとは思うが、「差」と言うもので「3センチ」は結構なものではないかと思う。
「バスケでダンクの練習という名の遊びをずっとやってたからだと思ってるんすけど」
「ちょ、見せて」
「いいっすよ」
二人して立ち上がって、テーブルの上をこちらに伸ばして来た海の指先を見る。
「あホントだ、長い。え長!え?長!!」
「あっははははは!」
「左右の差もそうだけど、腕の長さからおかしいから」
「そうっすね!忘れてた。そうなんすよ、俺腕長いんすよねー」
「横に出て、気をつけして立って」
「ははは!」
海が真っ直ぐ腕を下ろして立つとその腕の長さが良くわかった。
「へー。関節部分が伸びたってこと?」
二人で再び席に着く。
「ん…どうなんっすかね?けど関節伸びたらヤバくないっすか?ははは!」
「そっか。じゃあちゃんと骨から?伸びたんだな?きっと。骨と身が」
「と思いますよ」
海は俺を面白そうにしながら食事を続ける。
「晃介も長いよ。水泳のバタフライ得意だったらしいからさ」
「あ!やっぱり水泳っすか!バタフライ…なるほど!肩ヤベーって思ってたんすよ!」
「うん」
「確かにナゲーっすよね青柳さん。俺より長いっすよ多分。身長のアレもあるでしょうけど」
「うんそう。晃介って筋肉感そこまで無いのに脚とかも筋肉あるんだよ。どうなってるんだろな」
「水泳の人ってそうっすよね」
「え?」
「あ、NACとは別で俺ジムのバイトもしてんすけど」
「事務?」
「はい。ジムっす」
「へー…事務?その髪で?」
「え?めっちゃ自由っすよ?陸上の筋トレのみの人と水泳やってた人の身体って違いますよ。なんつーか筋が浮いてないんすよね。コアだけスッゲームキムキって言うか。水泳を長年やってた人は太りにくいみたいっすね体質が出来てて。マシーンで身体作るとよくブランクで太るんすけどね」
「へー、アフターファイブ的な?」
「え?っすね。多いっすよ会社終わりにって人」
「へー」
「…フィットネスジムっすよ?俺のバイト」
(あ!そっちね!)
「うん、知ってた」
「…っすか?ま、なんでー、子供の頃から水泳するのはおススメっすね。出来れば20歳くらいまでは」
「なーるほどー」
「青柳さんの身体は理想っすね」
「そうなんだ?モデルしてただけある?」
「ありますよ!カッケーっす」
「俺もジム通うようにしようかな」
「三条さんが?っすか?」
「え、何だい?」
意外!と言いたげな様子に少しイラっとした。
「いや…続けられるのかな…と」
「失礼だな」
「三十三歳の頃、朝のマラソンにキックボクシングに腹筋マシーンにスクワットマシーンにヨガ、全部終わりましたよね?一ヶ月以内に」
「………」
「SNSも、橋下さんのラジオ以前の二年間一度も更新無かったし、あの日以来もう既に死んでますけど。橋下さんとか他にも色んな声優さんが沢山コメしてましたよ?見てないっしょ」
「だって…」
「でも、思ってたよりちゃんと食ってるみたいですし、三条さんは何もしなくてその身体なんだから良いじゃないっすか。マジで老けないし」
「そうかい?」
「そうですよ。細いけど背もあって肉は付いてる綺麗なプロポーションっすから三条さんは。それに、通うなら今より食わなきゃならなくなりますよ?じゃないと痩せるんで」
「ふーん。じゃあいっか。休日に早起きして出掛けるのなんて馬鹿らしいしな」
「寝てたいんっすもんね?」
「うん。そう。今は死ぬほど暇だけど」
海は笑った。

(あ、趣味あったな俺。寝る事)




食事が終わると海は「俺が片付けますね」と手際良く動いた。

俺はその間、海の荷物を気にしていた。
そして、

「そうだ、これ見ます?」
夜のティータイムに海はバッグを開けた。

(ん?雑誌?)

「三条さんと青柳さんが初めて雑誌で対談した記事っす」
今も俺の良く知る声優の女の子が表紙だ。
「うわ、懐かしいなー!」
「でしょ?」
「若いなー晃介!こんなの取ってたのかい?」
「はい」
海は俺の方に雑誌の向きを変えてテーブルをゆっくり滑らせる。
「アニメの最終回の放送の特集のな」
「そっす。覚えてます?」
「見たら思い出すよ。へー」
「これが初めて三条さんと青柳さんが写真として出た時っす」
当時の俺は二十六歳。晃介は二十四の声優を始めた一年目の終わり頃だ。
「そうだったなー。これ、晃介だったから受けたんだよ俺。この時にはもう仲良かったからさ。知ってるかい?」
「勿論知ってますよ。二人が仲良いらしいってマニアではもう広まってましたから」
「そうなんだ?へー。そういう情報ってドコ発信なんだ?」
「ホント全然変わんないっすね、三条さん」
(ドコ発信なんだってば!!)
「そんなことは無いだろ。ちょっとまだ痩せてるね。激ヤセして戻る頃。すぐ疲れてた頃だよ」
「体力が無くて?」
「そうそう。へばってた。へー」
懐かしい記憶が蘇る。
「晃介、最初から今と変わんなかったよ。新人なのにスタッフが気を遣ってんの。このコーヒーあるだろ?これも二回くらい淹れ直したんだよ、冷めたでしょ?青柳さんって」
「ははは!最初から人気が爆発的でしたもんね」
「そうそう。あと顔」
「はははは!それはデカイと思います。この二人っすから、写真もスッゲー力入ってる感ありますもん!」
「ねー。無駄に良いホテルでね」
「そうっすよね!」
当時あの空間に居なかったはずの海と、あの空間の話を通じ合わせているのが不思議だ。

『俺、三条さんにはめっちゃ詳しいっすよ?』

海は親戚のような顔で笑いながら、指でマーカーを引くみたいに俺の「王子発言」を強調する。

「少し、借りていいか?」
「どうぞ」

俺は暫く海の存在を忘れて、懐かしいその記事の、当時の自分や晃介の言葉を読んだ。




「そう、一番初めは町内会の催しのアナウンスだよ。で、会長がちょっと力がある人で、小4で子供向けテレビ番組のナレーションやってみないかって話しになって」
「ちびっこニュースっすね?」
「そう、正解」

俺はその時にはもう「三条 司」だった。

「で、卒業まで学校とタレント養成所に通いながらやって、番組やめて、声変わり前にってアニメ映画に出て、じゃあ勉強するんでってやめて、大学出て、オーディション来てってなって、行って受かって3つか4つに出て。その後が多分俺の初仕事って事で知られているあのアイドルアニメで、その後も色々やって、晃介と出会ったコレだな」

二杯目のコーヒーは海が淹れた。
時刻は午後六時を過ぎたところ。

「三条さんの公式にアイドルアニメからしか載って無いのはどうしてっすか?それまでの作品も三条さんの名前単体や作品名を調べれば出るのに」
「会社が変わったからだよ。それ以前はマネージメントしてくれてたのが地元の劇団の運営会社だったからな」
「それが理由っすか?」
「そうだよ。当時まだその辺り曖昧だったんだよ。今の新人達のようには明確にしてない人も多かった。俺が声優に本腰入れたのもアイドルアニメからだし、変に芸歴長いのも嫌だし。実際ブランクはあったし、無かった事にはしないけどふわっとしてた部分は取り止めて書いてない、それだけ」
「そうっすか…」

俺は、晃介に会うまでは、この仕事を続けるかどうか迷っていた。

「晃介と会ってから初めて、ちゃんとこの仕事を続けようって思ったってのもある。気分的にも業界的にも中途半端だった期間をばっさりカットして、掻い摘んだものが公式のレコードだな」
海は納得したのかどうか、何度か頷いた。
そして、
「じゃあ、【深紅の檻】は?大学で休業中に録った作品って事になりますよね?」
「あれはだから、二十歳だから、そうだな。そうそう。ホント隙間の一枚だった」
「そうですか」

海の質問が止んで、暫く無言になった。

俺は、海は今日、ラップトップか何かを取りに一度家に帰ったものだと思っていた。

【深紅の檻】を、コピーする為に。

だが海が取って来たものは懐かしい俺の過去。

玄関の前で立っていた海の、何処と無く寂しげな表情の理由に大方の察しが付いてきた。

「これ、どうぞ」
海は雑誌を俺に譲ると言う。
「もう要らないのかい?」
当たった予測に、俺は微笑んでコーヒーを見る。
「良ければ青柳さんにも」
「そう。ありがとう。伝えてみるよ。興味があるかは分からないけど」
「すね。ははは!」
海は明るく笑ってコーヒーを飲む。
そして、
「あの…。後これだけ訊いてもいいですか?」
と言う。
「ふふ、君からの最後の質問かい?何だ?」
俺はカップを戻して海を見る。
「あの、あのCDについて、ホントにほぼ情報が無かったんで、この前聴かせて貰った時に書いてあった共演者、覚えてた名前だけ調べたんですけど」
「うん?」

少し、面倒な質問だった。

「明平 帝内って声優、今も存在しますか?」

俺は自分が少し浅はかだったと思った。
しかし、不思議と悪い気分では無い。
(そうか、やっぱり海は気に掛けたのか…)

「三条さんの御塚 光瑠と同じく写真も無いし、その名前であの作品だけしか出て来ないんですけど」
「さあ、どうだろうな。俺もあれ以来会ってないよ」
カップを取る。
「会ってない…すか。どんな人でした?」
「うーん、良く覚えてないな。なにせ十八年も昔の事だし、この世界も広いからさ」
「全く、っすか?」
「そっか、マニアだもんな君は。知らない名前は知りたくて仕方ないんだ?」
「まあ…。作品の中のキャラのイメージで言わせて貰えば悪どくて、三条さんを…するのが他のキャラより印象に残ってて。それって上手いって事だし。声も凄く良かったなと。どんな人なんだろうって」
「明平帝内に抱かれてたのは俺じゃないけどね。あれは君の言う通り、俺の遊びだったんだ」
俺は今は何の跡もない腕を見せる。
「あ」
海は少し笑って、「やっぱりな」と目を伏せて言う。
「うーん。そうだなー、海の言う通りカッコ良かった、って記憶かな?俺はもう面影がはっきりとしないけど」
「そうっすか…」
海は腑に落ちていない。
「じゃあ、はっきり言おうか?」
「え?」

「明平帝内は死んだよ」

俺がこの話は終わりだと告げたのを理解した海の目は、頷くその仕草に反して、より疑い深いものになった。

「今日は聴いて行かないのか?」
「あ…」
「飽きたかい?」
海は黙ってコーヒーを飲む。
「そ」
俺は椅子を立って棚に向かう。
そして赤いCDを手に取る。

(最初は海に渡すつもりでいたのにな)

俺はこの作品自体には、然程執着は無いはずだった。

(渡してしまえばいいのに)

その時背後に海が立つ気配がして、俺は振り返るなり、避けるなり出来たのだが、結局はまた海の腕に捕まってしまった。

今日は、両腕だった。

何か茶化そうかと小さく笑って顔を上げるも、また少し抱き締められてタイミングを逃した。

「マニア、失格っす。三条司にこんな事して、ルール違反っすよ…」
海の腕はまた少しきつくなって、少し緩んだ。
「違反?」
「っす…」
マニアのルール。

「あんたの事も、もうよく分からないし…」

海は腕を緩め、俺の首の真後ろで言う。

「俺、中学くらいからずっと三条さんの事見てたんすよ。だから、全部知ってる気になってたんですけど…全然知らねー」
海は額を俺の髪に預けるように付けた。
ぎゅっと締まる腕。

「誰なんすかね、あんた」

海の辞書が崩壊したのはあの時だ。

「それで?」
「え?」
「ファンやめますって言いたいわけだ?」
「三条司マニアは失格って事っす」
「本名じゃなかったから裏切られた的な事が言いたいんだろ?ずっと」
「え…?三条さんは悪くないっすよ?普通の事じゃないっすか。芸名なんて。俺だってネットじゃ名字言ってないし」
「煩い。ほら」
俺は海の肩にCDを当てる。
「要らないなら捨てて来い」
「な…」
「外、捨てて来い」
「何で…?」
「早く。あと、もう放せ」
「ちょ!」
「放せ」
「無理っす」
腕を開こうとするが。
(あれ…強いな)
「海!」
俺は更に海の腕を掴んで引き剥がそうとするも、肘の角度が悪く力が上手く入らない。
「無理っすって!何か怒ってます!?」
(強コイツ!!)
「ふふ、怒る?俺が?どうして?放せよ!」
「やっぱ怒ってるっしょ!ダメっす!!」
「放せ!!」
「なんっ!ちょ!ダメっすって!」

(つよぉーーーー!!鋼ーーーー!!)

「落ち着いて下さいよ!」
「分かった、分かった」
俺は脱力した。
「いいっすね?」
「分かった。落ち着いた」
(解けなかったわけじゃねーからな!?)
「びびったっすよ、急に」
「はははは。でも一回、一回だけ放そうか」
「ダメっす」
海は言いながら首に唇を軽く当てて来た。
「ちょ…」
(どさぐさで何した!?いま何した!?)
「ダメっす…CD、棚に戻して」
俺はサッとCDを棚に置いた。
「戻した」
「OKっす」
(あれ?)
「…大丈夫っすか?」
(何で俺が宥められてるんだ?)
「俺…何か怒らせる事しました?」
耳にきゅーんと鼻を鳴らしそうな、気分の沈んだ海の息が掛かる。
「お、怒ってないよ。ふふ、どうした?」
「ホントっすか?」
横から覗き込んで来る目。
「海。気のせいだ」
「でもさっき、ちょっとはキレてましたよね?」
「いいえ?」
俺は取り繕ったまま微笑みかけるも、海の両腕が這うように下がった。
「ああ…海?ふふ、何だ?」
(ちょちょちょちょちょ!)
「スキャン…っす」
「スキャン…?はは、面白いな、君は。記念に3Dプリントでも作る気か?」
「まぁ、気にしないで下さい。それより、何で俺を此処に入れてくれたんすか?」
(おい!手つき!)
しかし動じるわけにはいかない俺は平気な笑顔で適当に答える。
「暇、だったからな」
「え?何すか?」
真横にある海の目は、俺のピアスを見ている。
「久々ののんびりスケジュールで、逆にする事無くて困っているんだ。君が居ると話し相手になって貰えるだろう?」
俺の口はまた、勝手な事を言う。
「…マジっすか?俺で、良いんすか?」
「それは…どうかな?ふふ」
「へー。…じゃあ、今は俺で、って感じっすか?」
俺は覗き込んで来る海と目を合わせていられずに曖昧に微笑んで棚に視線を移した。
「暇、なんすか?そんなに」
「ああ。何か良い遊び知らないか?みんな何してるんだい?」
余裕をかまして海を見る。
じっと目が合う。
海の目はいつからか、パスタを作ってくれた可愛い青年では無くなっていた。

(あれ…?これ、何かヤバくないか?)

「じゃあ、もっと俺と遊びません?」
「ん?」

海は暫く俺を見つめた後、光るその目をまたピアスに伏せて、耳に囁いてくる。

「気持ちいいコト、しませんか?」

俺は「若い雄」が放つダダ漏れのそれに、一旦は混乱して思考が停止したが、直ぐに浮上する。

(この俺を相手にマウント奪りに来てんなよ、ワンちゃん)

「ふん、ちゃんと秘密に出来るのか?海」
余裕綽々で微笑んでやると、海は少し苛ついたように目を細めた。
「当然っすね」

(はーん、なら来いよ。受けて立つ!!)





「未知」というものは、どうしてこうも「羞恥」を強いてくるのだろうか。

「あ、風呂、入ったんすね…」

依然、棚の前に立って後ろから抱き締められたまま、海の唇が俺の耳を喰む。

「ふふ。今日は忙しかったろ?」
「いつもの香水の香り、しないと思って」
「悪いな」

海の右手は腹の少し下、左手は服の中、俺の胸の中央を摩っている。

(だってまさかだろ?こんな展開。香水なんて用意してないだろ誰も…)

「全然。ただ三条さんのプライドはスゲー良い香りだったんで」
「へえー、そう」
「俺、香水の匂いでそう思った事なくて」
「鼻が良いからか…?」
「っすかね…。あ、けど」
海は鼻を耳の裏に押し当てて嗅ぎながら、「こっちの方が好きっすね」と言った後「前、触って良いっすか?」と訊いてくる。
「さあ…」
俺が小さく笑うと躊躇い無く右手で前を開けて、下着の上を滑らせて入ってくる。
海は「やべ…」と、一人で呟いて、今度は吸うように耳を責めて来た。

(マジか…これ)

「ふふ、興奮してるのか…?俺で」
「めっちゃしてます…」
「へえ…凄いな」
笑うと海の舌が耳を舐めた。
「あ…」
「耳、気持ちいいっすか?」
「舌、熱いよ」
俺がそう言うと、海はまた興奮したように少し息を荒くして下着をずらして直接指を絡めて来る。
「俺のどうなってる?」
「勃ってますよ」
「そう…」
ふふふと笑うと、海は耳の裏をべろりと舐めた。
胸にある海の左手が強くなって、身を海の方へ反らされると本格的に下の愛撫が始まった。
「…上手いじゃないか」
「この体勢なら、自分のするのと似てるんで」
「へえー、こんな風にしてるんだ?」
「ちょ…」
海は笑って、仕返しのように首筋を舐る。ぺろりぺろりと舐め上げながら喉の近くまで回り込んで来ると、
(んーん、悪くないな)
俺は喉を反らして海の胸に頭を置く。
「えっろ…」
「ふっ!」
海は左手を枕のように俺の頭に当てて暫く俺の喉に執着した。
(ああ…やばい)
「ん…」
前への刺激が効いて来た。
「三条さん…」
(いま呼ぶなよ…)
海の低い声が喉に響いて気分が乗ってしまう。
「このまま…抜かれるのか?俺って」
何の気無く訊くと、海は俺の前を覗き込むように見ながら息を熱くした。
「イキそうっすか?」
海の手が強くなる。
「あ…!ちょっと、強いぞ…」
落ち着かせようと海の手に手を重ねるが、自分がされている事を実感してしまい俺まで興奮が増してしまった。
「あ、海…」
「ヤベ…!」
背中がゾクゾクして、急いで頭を起こして棚を掴んで立ち直すも、海は直ぐにぴったりと身体を押し付けて来た。
そして、
「堪んないんで、舐めていいっすか?これ」

「……え?」

俺は耳を疑った。

(何だって??)
すると海はまた耳を強く吸いながら言った。

「フェラ」

(はあ!?)

一瞬本能的に逃げようとした俺に気付いたのか、海は思いっきり手を動かして扱いて来る。
「ああっ」
びくりと腰が跳ねてしまった。
「ああもう…まじやばいんすけど…」
海は腕力で俺の身体をクルっと返して棚に凭れさせると、一気にしゃがんだ。
「ちょ…海?」
前を完全に開き下着もさっと引き下げて、海は全くの躊躇無く舌を押し当てると根元から先までを舐め上げた。

(あ、やばい。こいつ…)

平気で何度も繰り返した海は、俺に向かって真っ赤な舌を出した。
「俺の舌、平均よりめっちゃデカイんすよ」
(何そのベローーーーー!!)
見ただけなのに腰が痺れる。
「あっ…海。ふふ、す、少し待て…」
起き上がらせるように指を引っ掛けて、先を口に入れる。
「この舌、中に入れると、女って吹くんすよね…」

(ああ…何か、ヤバイな…)

あのKAIという名の常識的なイケメンが、たった今俺の前で何か凄い事を平気で言っている。
「あ…海…」
片膝を着いて、甘い飴の棒でも舐めるように、丁寧にフェラをしている海を見て、野性的で綺麗だと思った。
(男なのにな…)

「気持ちいいっすか?」

見上げて来るその光る目に、どんどん鼓動が速まる。

(当たり前のように…)

誰かを手助けするのと同じように、海はこの行為を恥じていないのだろう。

「……ち良いよ」
海の赤い髪を撫でる。
ワックスでのセットをわざとゆっくり崩してやった。
海は目を伏せて、まるで自分の限界を試すように喉の奥に咥えていく。
「ぁあ…海?」
苦しそうに眉を寄せて搾られると、勝手に俺の口から声が出た。
少しずつ慣れるように、海は俺を呑んで行く。
強く吸いながら引き摺り出されると一瞬で頭が変になりそうだった。
「少し、強いぞ…」
「女の上品なフェラじゃないんで…」
「へぇ…」
「綺麗な三条さんに…こんな風に乱暴にする奴、いないっしょ?」

いない。
こんな風に荒々しく、衝動のままにぶつかって来る奴なんて。

(気持ちいい)

強烈な快感に電撃のようなものが身体を走った。

(これは良くない事になったな…)









◆竹山 海

「ん…!ああ…っも…つよいぞ海…」
三条さんの優雅なのに息の上がった声が
益々俺を煽って来る。
ボディーソープの匂いがまた、それを増幅させた。
喉が慣れてきた俺は興奮のままに三条さんの腰を掴んで追い込む。
「も…待て」
強く吸えば吸う程、三条さんのものは膨れて硬くなり、時々腰をビクつかせた。
「海…」
俺の髪を掴んだり撫でたりする三条さんが、一度大きく膝を震わせた為、俺は一旦止めて立ち上がった。
「向こうのソファー、行きましょ。危ないんで…」
「まだするのか…?」
ふわふわした顔の三条さんを見ると暴走しそうになるが、必死に堪えて支えながら歩かせる。
「なあ海、少し…」
ソファに着くと三条さんが休もうと言い出すのを知って、直ぐに押し倒した。
「ダメっすよ…。俺、止めないんで…」
脚の間に割って入り、寝かせた状態でまた咥えると三条さんの腰が一度浮いた。
(ヤベェ…)
右手を腰に添えながら、左手でシャツを捲り上げる。薄い腹にある臍に興奮する。
(ヤベェ…)
自分のものも、相当窮屈だ。

両手で髪を混ぜられて、
フェラを続けながら目を上げると、普段爽やかな三条さんが汗ばんだ顔で目を閉じて唇を少し開けている。
(めっちゃエロい…)
勃ち上がった俺のがぐっと、パンツのファスナーを押した。

(ああ…この人ヤリてぇ…)

目の前にあるのは間違い無く男の身体だ。
それをそうと正確に認識しながらも尚、激しい興奮を覚える。
三条さんが感じて腰を揺らす度に俺の愛撫は強くなって、三条さんの綺麗な顔を色っぽく歪ませる。
「痛…い…ぞ海」
そう文句は聞こえるが、手で触れている腰は今までに無く悩ましく突き出された。
それを合図に俺は唇から喉の奥まで全部使って、思いっきり激しく責め立てた。
「っ…!海、もう…」
三条さんは両手を自分の頭の上にだらりと持ち上げて背中を浮かせ、軽く歯をくいしばるようにして俺の愛撫に合わせて腰を震わせる。
(やっべえ、マジで!!)

興奮が、メーターを振り切ってしまった。

「んあ!あっ!待て…海!いっ!」
エロい声で止めようとする三条さん。

どんどんと高まって来る性欲に任せたまま吸い立てながら、股の間に手を突っ込んで後ろの二つを触ると三条さんの尻が浮いて喉の奥を突いて来る。
負けじと喰いついて吸いまくると、
「あっ!強すぎっ…だ!あっあっ!」
俺の吸い上げでボールがバウンドするみたいに、何度も何度も三条さんの尻が跳ねる。
そして慌てて俺の頭を引き離そうとする三条さんの両手を掴まえて腹の上で拘束すると、苦しそうとも言える三条さんは喉を反らせる。

「海…!」

低いような高いような、とにかくエロい声で俺を呼んだ三条さんは、俺の口の中で弾けた。
「あぁ…」
俺の口元を見ながらまだ少し流し続ける自分のものを指で挟んで、俺が吸うのに合わせるようにゆっくりと引き抜いた。

そしてその手の先を俺の顎に当てて、俺が全て飲み込んだのを知ったようだった。





押さえ込まれた体勢で寝そべったままの三条さんは、どこかぼんやりとした顔で俺を見ている。

(やべえ…)

そのアングルが、成人雑誌の巨乳のヘアヌードを何故か遥かに超えていて、心臓が直に拳で殴られ続けているくらい激しく暴れる。

(やべえ…!)

目の前の、濡れた性器。

(やべえ!!)

俺は咄嗟に近くにあったクッションを三条さんの下半身に当てて、一度ソファーから落ちて膝を強打しながらも慌てて便所を目指す。

「…っ!やべえ!!」

ドアを閉める余裕も無く、タンクの蓋を掴んで自分のものを必死で扱いた。
何の躊躇も無くさっさと果てて出たものを水に流す。

(やべえ…)

壁に頭の横をぶつけるように凭れ掛かり、暫しの間だけ、森羅万象を掌握した。

それが済んでも尚、まだ体内に熱い芯があるように思えた。
息が整って頭も冴えて来たのにも関わらず、何の後悔も起こらないのは何故だろうか。
(でもこれ…終わったな)
この後リビングに戻れば間違いなく何かしらの厳しい状況があるのだろうが、微かな恐怖すら無い。
それどころか、どうせなら、と、もう一度あの姿を見たいと思っている。
(もう一度だけ…)
そう脚を運んで便所を出ると下着を戻してはいるがまだ前を寛げたままの三条さんがドアのサッシを掴んで出て来た。

「…い…」
「え…?」
「ウガイしろ!」

三条さんはふらつくような踏み鳴らすような足取りで俺にぶつかって来ると、俺の腕を掴んで引っ張った。

洗面所に連れ込まれると鮮やかなグリーンのボトルを開けてそのキャップに透明な液体を入れた三条さんは、
「強烈だから、これ。吸い込むなよ?」
と、まだどこかふわふわした目で差し出して来た。
強いミントの匂いが鼻を刺す。
「もしかしてこれ、三条さんが幼少期から愛用してる例のハワイの…」
「いいから!!」
無理矢理口に流し込まれて手で塞がれる。
(うお!!かっっっらあ!!)
確かに強烈な液体で口の中を洗浄して吐き出した。
蛇口を捻ってえずく。
「おえ!!何これクッソキツイ!!ゲホッ!!」
手で何度も水での嗽を試みるもミントの刺激はなかなか薄まらない。
「精子よりましだろ」
顔をあげるとタオルを押し付けられる。
(痛え!死ぬから!!)
何とか三条さんの手首を取って呼吸する。
(あともう一回だけさっきの言ってくれ)
漸くちゃんと見られた三条さんの表情は笑っていた。

笑うと言っても、あの無敵オーラの方だ。

(くっそ…)

俺が肩を掴もうとすると三条さんはぱっと払った。

「もう終わったろ」

俺を素通りして洗面所を出ようとする横顔は「三条 司」がたまに見せる「冷めた一面」だ。

(終わった…?)

その言葉は覚悟もしていたし理解も出来るが、実際に口に出して言われると頷けない。

「…何がっすか?」
俺は加減も出来ずに三条さんの背を無理矢理抱き締め、壁に押し付けて止めた。
「海」
「何がっすか?」
「放せ、もう済んだだろ?しつこいぞ」
「嫌っすよ。俺、明日も来るんで…」

ミントの匂いで三条さんの香りがせず、鼻を首周りに押し当てる。

「海」
「もし、もう駄目だなんて言うなら…」

カチ、カチ、カチと、点かないチャッカマンか火打ち石。

「今日、このまま犯しますよ?」

三条さんは身動きを止める。

「俺、本気ですよ?…いいんすか?」

返事が無く、俺は平たい胸板に手を滑らせる。
すると、

「あっはは、ははははははははは!!」

三条さんは壁に縋るようにして急に大声で笑い出した。

「…三条さん?」
「あーあ。全く似合ってないぞ?」
俺が気を抜いた隙に三条さんは身をくるりと返して正面から俺を見る。
口角は上がったまま。
だが、その手は俺の髪を混ぜる。
「なあ…俺をレイプしたいのか?」
「え?」
「優しい君が?違うだろ?だったら、さっきみたいに気持ちいい方が有意義だと思わないか?」
その甘い声と目尻に、俺は理解が及ばず。その間に三条さんはゆっくりと俺の背中に腕を回した。
「確かに、女がするより感じたよ。…あんなに舌で捏ねくりまわされたのは初めてだ」
妙に男らしい声で、耳に息が掛かって、肌の表面が騒ついた。
「気持ち良かったよ。海」
息が笑うのを聞くか聞かないかのうちに、俺は三条さんの腰を引き寄せて前を押し付けた。
「でも、今日はもう駄目だ」
「今日、は…?」

カチ、カチ、カチ。

「またおいでよ」

三条さんの唇の端は、優雅に上がっていた。








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