6 / 25
3.
しおりを挟む◆竹山 海
朝、スタジオの最寄り駅の出口。
俺は日本の三分の一くらいの人口が此処にいるんじゃないかと思うくらいの人混みの中で、奇跡的に西原さんを発見した。
「お早うございます西原さん」
重そうな茶色のダッフルコートの背中にベージュのリュックを背負った西原さんに並んで声を掛ける。
「あ、竹山さん。おはよー。早いですね」
「西原さんも」
「今日も寒い」
「っすねー」
「いつもこの時間に来てる?」
今はまだ八時半。
「いや、今日はたまたまっすね。西原さんは?」
西原さんも俺と同じく、運良く大西監督の気まぐれに引っかかり仕事が無い日はガヤ要員として毎回通って来ている。
「俺はいつも。毎朝あそこで時間潰してるんだ。一緒に来る?」
西原さんはすぐ前のビルの二階にあるカフェを指差す。
「いいっすか?」
「めっちゃ混んでるけどいい?」
「全然いいっすよ」
並んで歩きながら、西原さんはその大きな目で度々俺を見る。
「え?」
「カイっていうの?名前」
西原さんの目は俺の黒いハンチング帽を見る。
「はい。ウミって書いてカイっすよ」
「有名なんだろ?竹山さん」
「あー、ははは!有名って程じゃないっすよ?mimikoneって配信サービスで部屋持ってるだけっす。何で知ってるんすか?」
「昨日常盤さん達と話してるの見てて、竹山さんって何者なんだろうって思って調べた。たまたまSNSでK、A、Iって打ったら一瞬で写真見つかった」
「すみません。態度デカくて」
「違うよ。ホントにフツーに気になっただけ。俺はあんまりああいう中に入るの苦手だから、羨ましいとかは思わないし、変な嫉妬とかじゃないからな?」
「あ、はい」
「竹山さんの会社が運営してる?」
「mimikoneっすか?違います。別の会社っすよ」
「YUJIって人もMAKIって人も?」
「えーっと、NACの事っすか?そうっすよ。二人もいます」
「へー」
「詳しいっすね」
俺が言うと西原さんはくっくと笑ってビルの中に入った。
カウンター周りで立ったままコーヒーを片手に新聞を読むサラリーマンやら、制服の上にコートを羽織っただけのOLがスマホに勢いよくフリック入力しているのに混じって、俺達は窓際の狭いテーブル席を確保出来た。
「え!水野遼さんと同じ事務所なんすか?」
「うん。仲良いって程、会ったことないけどな」
「来年ですけど、ウチの会社とmimikoneが予定してる四月のイベントに水野さん来てくれるんすよ。一度MAKIと一緒に仕事してるんで、声掛けたら快く受けてくれたそうで」
「そうなんだ?何のイベント?」
「朗読会みたいなものっす」
「へー、なんか楽しそうだな、竹山さんの会社」
「一寸先は闇っすけどね、はははは!イベントまで会社が存続してればいいっすけど。何せ社長がヤバイ人なんで」
「三山さんだろ?俺もちょっとだけ知ってる。竹山さんってギャンブラーなんだ?」
「ホントそれっすよ。将来大丈夫かなー俺」
西原さんはホットレモンティーを飲んで笑う。
「って言って、俺も不安」
「え?」
「今、夕方はピザ屋の宅配員してる」
「西原さんもバイトしてるんですか?」
「みんなしてるよ。声優一本で生きてるのなんて上の層だけだよ。生活しないといけないし。そんなのは覚悟してたからいいんだけど。いつまで夢なんて追ってられるかなーって感じ。ま、どんな仕事でもそれは同じだろうけど」
「そうっすよね」
「俺もやれるだけ頑張ってるけどさ」
笑顔で小さなため息をつく西原さん。
「あ、失礼かも知れませんが、俺、西原さんのパスパスした声好きっすよ」
俺はストレートティーと一緒に買った大きな三角形の、薄いホットツナサンドを食べる。
「パスパス?」
西原さんは少し気に入らなかったのか眉を寄せる。
「あー、えと。軽いタッチで、サクサク?っともしてるし、聴き取り易くて。ちょっと変わってますよね?声」
「うん。そう。変わってる」
西原さんは怒ったわけではなかったらしく、頷いた。
「すっげークセになる声っすよ」
(今のうちにサインくれ!)
「ありがとう。なんとかコレ売っていきたいんだよなー。演技の練習もしないとだし。あ、竹山さんってさ、声めっちゃ低いよな。ちょっと羨ましい」
「え!マジっすか?声優さんに言われるとめっちゃ嬉しいっすね!」
「声優さん、か。そっか、頑張ろ。その声って昔から?」
「中二で声変わりした日からいきなりコレっすよ、ははは!親も担任もびっくりしてました」
「それまでは高かった?」
「平均より高かったっすよ俺。朝起きたら急にっす」
「えーいいな。近いとすっげー響いてくるもんな」
「ははは!すみません!近所でもよく言われました。学校から帰ったのがよく分かるって」
「三軒隣でも聞こえそう!」
「ホントそんな感じっすよ!最近は気をつけてるんですけど、中学の頃なんか相当近所迷惑だったと思います」
俺は西原さんに、声が変わって直ぐの頃には、家で姉と口喧嘩をしていると近所の人に姉が他所から来た男に襲われているんだと勘違いされて数人で家に飛び込んで来られた事もあったと話した。
西原さんは「そりゃそうなるよ」と笑う。
「あのさ竹山さん」
「はい?」
「カイって、呼んでいい?」
西原さんは照れ臭そうに言う。
「え?いいっすよ。そっちの方が俺も馴染んでるんで」
「俺はあきら、でいいよ」
「あきらさん、っすね。あざっす」
(サインくれ!!)
「初対面から話しやすくてさ」
「俺っすか?あざっす!あきらさんが色々教えてくれたんで、めっちゃ助かりました」
「マジだ?ホントは俺も何してたらいいか分かんなくてさ」
西原さんはまた笑う。
「え?」
「凄い先輩ばっかでさ、緊張してたと思う。だから助かった、カイが居て。いい意味で気が紛れるって感じ?」
右も左も分からない俺でも、西原さんにとって役に立てていたらしい。
「そうなんっすね。あきらさん慣れてる感じしたんで、緊張とかしないんだと思ってました」
「え?そう見えた?カイはどうか分かんないけど、俺からすれば憧れの人ばっかだから毎回胃がヤバイよ」
「ちょ、体調にまでキテるじゃないっすか!」
俺と西原さんは笑う。
「あきらさんの一番の憧れの人って誰かいるんっすか?」
「みんないるよ多分。俺は最初は栖本さんだった。アニメ見てて好きなキャラがことごとく栖本さんだったからさ。何だこの人、全部じゃんって」
「めっちゃ分かりますそれ!」
「あ、マジ?嬉しい。で、声優ですって言えるようになって現場入ったりしてると、三条さんにも憧れたなー」
「うわー!」
「会ったのは今回が初めてだけど、どんな役でも男の色っぽさっていうか。自然のエロスっていうか?」
「うわーもー!」
「青柳さんも勿論だしって…どうした?大丈夫?」
共感出来る言葉に喜ぶ俺を、西原さんが怪しむ。
「大丈夫っすよ。続けて下さい」
「う、うん。青柳さんはもう誰が見てもみたいなとこあるけど、三条さんって主人公の真横のキャラ多いんだよ」
「っすね!」
「あ、知ってた?」
「知ってますよ」
「我儘だったり嫌味だったりするのに、主人公の為にあと一歩で儚く死んじゃう役とか結構多くて、美人薄命ってかさ。男臭い役でもどっか綺麗だみたいな。それって三条さんの声あってのもんじゃん?あの声にそういう不運が合ってていっつも泣かされてさ、俺。そのキャラ位置いいなって」
西原さんは檸檬の輪切りをスプーンで掬う。
「主人公の隣の役って、主人公より大事なんじゃないかって気がして。俺もいつかその役獲りに行きたいって思ったんだよな」
「主人公より?」
「ほら、栖本さんもそうだけど、俺って脇役が好きなんだろな。こいつ居ると間違いない脇役、みたいなさ。それになりたいんだ」
「なるほど」
「カイは?」
「え?俺っすか?」
「主人公になりたい?」
西原さんの大きな目に問われて初めて、俺は自分の立場について、自分が何を目指したいのかを具体的に考えた気がした。
(俺って声優になりたいのか?それとも、KAIでいたいのか…?)
「…俺とかって、ホントまだ何にも分かってないんすよね。ふて場に呼んで貰えたのも奇跡だし、大西監督の気まぐれだし。だから、あきらさんみたいにどうしたいのかはっきりとしてなくて。失礼っすよね、こんなの」
俺がそう言うと、西原さんは何でもない顔で答える。
「え?いいんじゃない?居るんだから、それでさ」
「あ…」
「どんな職業でもさ、ずっとそれを出来る人、出来ない人、する人、しない人っているじゃん。俺の友達は声優辞めたし。俺はまだ今は声優だし。だから、結局はさ、今その現場に居るか居ないか、それだけの事なんだよ多分。カイは今ふて場に居るんだから、そこで頑張ればいいんじゃない?奇跡も運も実力だよ。これ、本当のこと」
西原さんはふっと笑顔だ。
俺が今とても勇気付けられた事に西原さんは気付いていないだろう。
「あざっす…運っすね」
「そうだよ。俺さ、橋下風也と養成所の同期なんだ」
「あ!」
(そういえばそうだな)
「向こうは俺の事なんて気にも留めて無いと思うけど。おんなじオーディション受けて、勝ったのが橋下さん。橋下さんは運も持ってたし、それを活かす実力もあった。俺の運の巡りはあの時じゃなくて今」
(今…)
「いつ外に出されるか分かんない現場だけど、今回運があった者同士、コソコソ隠れるネズミみたいでもいいし、出来るだけ長く居座って一緒に勉強していこうな、カイ」
「はい!あざっす!」
俺はふわふわしているようで実は頼れる西原さんに頷いて、
(よし!俺もつまみ出されない程度に売り込むか!)
と息巻いたが、スマホの時計を確認した西原さんが一瞬で表情を曇らせたのを見た。
「そろそろ行かないとな…」
「はい」
(あれ?どうしたんだろう)
スタジオに着くと、まだ誰も来ていなかった。
「今日も少ないんすよね?」
「あ、うん。昨日にプラス…川俣さん、だな」
「川俣さんか」
時間的に何かをする程の猶予も無く、昨日の残りの差し入れの賞味期限をチェックしている西原さんの横でベテランの顔を思い浮かべる。
川俣利秀。
(すっげーコエーんだよな、空気が)
マニアから「伯爵」と呼ばれる川俣さんは、洋画の吹き替えやギャグアニメでも何でも出ているが、本人は常に笑えない程に血色の無い無表情で、何度も此処で会っているが俺は話した事がない。
俺が初対面の日に川俣さんに挨拶をしようとした時には、西原さんに本気の力で首根っこを掴まれて下がらされた。
「新人は川俣さんには挨拶をしてはいけない」と言うのが、暗黙のルールなのだそうだ。
現に収録中以外に誰も川俣さんに世間話なんて持ちかけないし、川俣さんも誰かに声を掛けたりしない。
一人だけ自分の世界で動き、収録になるとスルっと魔界からの亡命者、ギルディルクになる。収録中は普通に誰かと話すのに、一旦録音室のドアが開けばまた「伯爵」に戻るのだ。
(謎だよな…)
そう思っていると、
「来た…」
と、西原さんの怯えた呟きが聞こえる。
俺が階段を見ると、長身の川俣さんが静かに上って来る。
俺と西原さんは、俺達の横を通り過ぎて廊下の椅子に向かう川俣さんに無言で一礼した。その際に、たった今外から来たせいだと思うが、一瞬冷気を感じる。
(寒っ…!)
「伯爵」とは、冷徹な「ドラキュラ伯爵」という意味だ。
誰が言い出したのか、マニアは現場での川俣さんの様子も知っていて、尚且つ川俣さんがずっと住んでいる一等地の大きな洋館をまるで畏れてそう呼んでいるのだ。
噂では川俣さんの奥さんはとても華奢な美人らしく、それがまた良からぬイメージと繋がってしまっているのだろう。
「はあ…」
西原さんがいつものように胸を撫で下ろす。
(って言っても、そんなに?)
マニアが付けたその名は、その殆どが面白がるというか、弄りというか、愛情や尊敬を含めたものだ。実際に「伯爵」と呼ぶのは川俣さんの事が堪らなく好きな人達である。そしてその「念」は強く、マニアの掲示板でも他のマニアに自分がそうだと知らせる為に自分の名前の最後に「@伯爵」を付けている。
だが西原さんはまるでそれが川俣さんの真実かのように怖がって見える。勿論、西原さんがマニア間のそんな噂を知っているかどうかは分からないが。
(何かされたのか?)
川俣さんが階段横の細い自販機に飲み物を買いに来た時には、西原さんは手に持っていた菓子を床に落とし、慌ててしゃがんだが、川俣さんがチラリと寄越した視線を感じたのか、手を伸ばした格好のまま石のように固まった。
(嘘だろ!?めっちゃ不自然だって!!)
川俣さんが廊下へ曲がって行くと、真っ青になった西原さんが漸く立ち上がった。
「…大丈夫っすか?」
「うん?な、なんで?」
(いやいやいやいや!噂でしょ!?)
そんな事をしていると中黒さんが来た。
「お早うございます」
二人で挨拶すると、
「お早う。コレそこの机にお願いしてもいい?」
中黒さんは笑顔でバナナを出して来る。
「はい」
西原さんが受け取ると「ありがとう」と言って、中黒さんは廊下を覗いて川俣さんにも微笑みだけで挨拶をして自由に使えるコート掛けのハンガーに上着を引っ掛けて丸テーブルに着席した。
次に来たのは井伊さん。俺達との挨拶の後に中黒さんと全く同じ感じで川俣さんを覗いてから中黒さんのテーブルに座った。
二人は小声で話しながら、井伊さんがスマホの画面を見せて中黒さんは「えー可愛いじゃーん。買っちゃえ」と言った。
次は三条さんだ。
「お早う」
と、俺達と中黒さん達に挨拶し、廊下は見ずに階段横のテーブルにこっちを向いて座った。
コートを脱ぎながら長い脚を組んで台本を出して来るが、
(ん?)
台本を開く三条さんの手元が何やら怪しい。
「三条さんも朝ってローなんだろうな」
「ぽいっすね」
イメージからも朝は弱そうだ。
(んん?)
俺の目には台本が二冊重なって見えるが、
「現場入ってからでも台本チェック抜かりないんだな」
「…すね」
(明らか違う表紙の台本重ねてっけどな…。高校生かよ)
俺は何となくぼやっと三条さんの靴を見る。
黒いエナメルの、高級そうな細い綺麗な靴だ。それでもさっき足音はしなかった。
(大人っぽ…。あ、あれってドクターシューズ?)
パンツの裾との間に細い足首と踝が見えた。
(車で来てるのか)
冬に外を歩く靴ではないなと思いながら、家の玄関に散らばる姉の靴を思い出していると、
「あ、カイ」
「あ!」
三条さんはいつの間にか目の前に居た。
「悪いな」
薄い香水の中で唇が微笑むのを見た。
「っと、すみません」
俺が身を避けると三条さんは机の上からチョコレートを一つ取って戻って行く。
(ピアス…)
多分18金の、さり気ない小さな四角いピアスが緩いウエーブの髪の間に見えた。
(開いてたんだ?)
どんな写真でもピアスをしていたものは無かった為、穴を開けていないのだと思っていた。
そして三条司が愛用する香水は有名ブランドの「PRIDE」という名前のものだ。
パリの直営店でしか売っていない限定の香りで、芸能人やスポーツ選手らが好んでつける。
(あんな良い匂いすんだ、プライドって)
俺は今までにその香水をつけている男と何人も会ってきたが、ムスクの香りの強い「女を狙いすぎ」な香水だと感じてあまり好きじゃなかった。
(そもそも香水って苦手だったんだけど)
「お早うございます」
西原さんの声で、俺は青柳さんに気付いた。
「あ、お早うございます」
「お早う。かさ張るだろ、用が無いなら座ってろ」
ふっと笑って言われ、俺と西原さんは一番手前のテーブルに座った。
青柳さんは他の全員と挨拶をしながら廊下を曲がって行った。
四方さんや栖本さんもその後に来たが、栖本さんは直ぐに三条さんのテーブルに座ってしまった。
常盤さんは一番最後に「時間やばかったー」と三条さんや栖本さんに笑って言いながら到着したが、中黒さんに言われてバナナを一本美味そうに食べた。
西原さんと他二人がモブに扮してアリスに襲いかかるシーンのテストで、
『いい気になんなよ小娘が!』
という、ありきたりな台詞が抜けた。
そのまま最後まで続いたテストだったが、終わった直後に、
『抜けたねえ』
大西監督が言った。
誰も当たっていない台詞があったようだ。
『すみません。そこ今から誰かやって下さい』
大西監督が顔を上げる。
(きた!!)
俺が直ぐに手を上げようとしたが、
『カイがやるそうです』
と誰かが言った。
(え?)
『はい』
大西監督が頷く。
俺は急いで一番近いマイクに立ったが、さっきのは三条さんの声だったように思えた。
(カイって言ったか?)
名字でしか呼ばれなかった現場で「KAI」と聞こえると変な気分だった。
『悪党だよ。分かりやすい台詞だし。宜しく竹山君』
『はい!お願いします』
『じゃあ君だけ今テスト。はい、言って』
俺は「悪党をやれ」と言われた事で限界ギリギリの低音で叫んだ。
『いい気になんなよ小娘があ!』
するとほんの一瞬、場がざわっとした。
(ええ!?ヤベ!!)
浮いてしまった感じに冷や汗が出た。
すると大西監督が言う。
『あーそう。私、なんでか高音で考えてたよ。いいよ、君ので行こう』
ふふんっと鼻息で笑うのも聞こえた。
(あーー!!高い方か!しまった…)
「めっちゃ低いね。びっくりした」
常盤さんと四方さんがきょとんとしていた。
「あの右から三番目のアイツですね」
栖本さんが常盤さんに言う。
「三番目?Vのそんなとこ覚えてないよ」
「いるんですよ」
三条さんだ。
「いるいる。一番悪そうな奴が」
栖本さんが押し通して「いたかも」と常盤さんが頷いた。
俺がちらりと青柳さんを見ると、目が合ったが直ぐにふんわりと逸らされた。
『あ、すみませんちょっと悪党供だけで声出してよ』
大西監督が言って、直ぐにモブだけでもう一度声を出した。
『あー、竹山君結構浮くね。すっごく気になっちゃうね。低すぎる。ダメだ、ちょっとあげていこうか。はい、じゃあもう次本番で良いでしょう。ちょっとお待ちを』
「んー、惜しかったな」
常盤さんが集中しながらも気を遣ってくれた。
「あざっす…」
(ひーー。コエーよこんなの)
すると、
「竹山」
青柳さんの声がして俺は直ぐにそっちを見る。
「あ、はい!」
「あれが何で浮いたか分かるか?」
「低すぎたんですよね?」
「一人でやるならあれで良かった。が、此処には一人でやる仕事なんて無い」
「あ…」
その時には川俣さんからの視線も感じた。そして常盤さんも「そうだな」と頷く。
「仮にあの台詞をお前がどれだけ一人で練習して来てたとしても、いざ他の共演者とやるとなった時に、同じ一言が全く違う空気で必要になったりするんだ」
「俺、掴めてなかったんすね?」
「そういう事だ。毎回来てて、いざ台詞が来て舞い上がるのは分かる。でもあれは無い。分かるな?」
青柳さんの目に俺は頷く。
「はい」
「台詞も大事だが、今そのシーンがどういうノリなのか、それを理解していないといつまで経っても入れないぞ」
「はい!」
「お前に名前の付いた役が来た時は、お前がノリを作れる様な場面も来る。それまでは、今、誰のテンションが本筋なのか、ちゃんと気付ける研究をしていろ」
幸い、俺にも青柳さんの言っている意味が理解出来た。
「はい!ありがとうございます!俺、ちゃんと分かりました!ありがとうございます」
幼稚な言葉になってしまったが、言って貰えた事を無駄にしないという思いからだった。すると、
「ああ。ちゃんと分かったのが、分かった」
と青柳さんが軽く笑って場を大西監督に返した。
(ヤッベ…カッケー…)
俺が大西監督の事を少し見ると、大西監督は俺を見ていて、一度頷くようにして他の人を見る。
「さっきの、ちゃんと分かったのが、分かったってやつ。カッコイイからマンマートに貰って良い?青柳君」
常盤さんがのんびりしたような声で言う。
「どうぞ常盤さん」
青柳さんはチラリと常盤さんと目を合わせて笑った。
「どこかで渋い感じでアリスに使うよ」
「ホントにどこかでマンマートに言って欲しいですね、その台詞」
三条さんはうーんと悩む。すると、
『常盤さん。私はマンマートの最期の回の予告に使いたいなあ』
と大西監督が言って、三条さんが「そこだ!」と常盤さんを見る。
「さっすが大西さんだ。予告の最後で、ちゃんと分かったのが…分かったよ。ってね」
常盤さんは、渋くともアリスに託して逝くマンマートの誇らしげな感じを表現する。
(すげー…)
冗談みたいなノリで始まった即席の台詞だったのに、もうすでに青柳さんが俺に言った言葉では無くなっていた。
『んーん』
大西監督は「良い」とは言わないが、満足そうだった。
「鳥肌立つやつだそれ」
栖本さんが言うと皆んなが頷く。
(その予告でマンマートの口癖の「分かってないニャー、アリス」がひっそり回収されるわけだよな。原作に無いのがちょっと惜しいくらい)
「ふて魔女アリス」の予告は、時々完全に遊んでしまって現場の内輪ネタをそのまま流してしまったりする風習が前シーズンからあった。それも人気の理由の一つだ。
『ホントに最期の台詞それに変えちゃえばいいんじゃない?そっちの方が良いよねぇ?』
大西監督が平気で言って、皆が「出た」と言わんばかりに笑った。
「あー、泣いちゃう…」
マンマートとの別れを想像したのか、ついウルウルして零したアリス役の四方さんが、青柳さんに「早すぎるよ」と優しく突っ込まれて照れたのを、また皆んなが笑う。
『さ、本番。その雄姿に繋がる様に、しっかり今を納めましょうか』
「あの人最近ちょっと違わないか?」
常盤さんが昼の三時過ぎから焼酎の水割りを手に、俺の横に居る三条さんに言う。
「晃介ですか?」
不躾な質問に三条さんは、ジンジャーエールのグラスを手に取って笑った。
「あんな感じだっけ?一緒になるのかなり久しぶりだけど何かイメージ違うんだよな」
「俺ら同期にはあんな感じですけど…や、確かに仕事中はもうちょっとカタイって言うか、そうだったかも?」
奥さんが親戚の集まりに子供を連れて帰っているという栖本さんも、今はマスクを外して烏龍茶を飲んでいる。
「最近、前より柔らかいですよねー雰囲気。着てる服も、日によってちょっとカジュアルな時ありません?」
可愛い色のファジーネーブルの四方さん。
「やだ!わかる!三条さんまだ居ない時だけど、この前、前髪下ろして来たの!」
常盤さんと同じ焼酎水割りの中黒さん。
「そうそう!そうですよ!!絶対なかったですよね!?今まで」
四方さんはカクテルを置いて中黒さんの手を掴んだ。
「ねえー!私達二人で朝、誰!?ってなったもんね?ヨモモーン」
「そうなんですよー!カッコ良かっ…」
四方さんが一瞬「あ」と固まった。
「カッコ良かったんだあね?」
栖本さんが冷やかして二人は「言っちゃたー」という感じで顔を見合ってにへっと笑う。
コの字のソファー席に向かいの右から四方さん、中黒さん、常盤さん。横の一人席に栖本さん、そして俺、三条さんだ。
「どうなの?三条君。何か知ってる?」
青柳さんの友人である三条さんは、常盤さんの言葉で一気に集まる視線に長い脚を組んだまま優雅に笑った。
「元々がカッコ良い男でしょ?晃介は。前髪?珍しく時間が無かったんじゃないかな?今忙しいみたいだからね」
「お相手が出来たんじゃないの?」
さらに突っ込む常盤さん。
「さあ、でも独り身の男ですから、色々ありますよ。常盤さんだって独身の頃は身に覚えがあるんじゃないですか?」
三条さんは口元を色っぽく笑わせながら細いグラスに付けた。
「まあね?んーん、そっか。再婚とかってわけじゃないのね。だってそうなったらまた大変じゃないか」
「そうですねえ」
何となく三条さんに流されてしまった期待に、全員がそれぞれ小さく笑って諦めた。
食べやすそうな和牛の一口ステーキや大きな皿のパスタやシーザーサラダが、ソファーに合わせた低いテーブルに届いた。
俺は今、収録が終わって、午後の時間が開いていたメンバーに混じって常盤さん発信の食事会に来ている。
西原さんは別の仕事で来られなかった。
濃い緑の衝立で仕切られたほぼ個室で、それなりに良いレベルの創作料理屋だった。
まだ時間が早かったが、ランチメニューもあるらしく、店内は「やや混み」だ。
中黒さんと四方さんが楽しそうに手際良く各料理を分けてくれる。
この二人は二年前に、女キャラしか居ない女子高生の日常系アニメで共演している。
実は、俺の好きな女の声優トップファイブに入る二人だ。だからついじろじろと見たくなるが、堪えている。
「三条さん生ハム好きでしょ?一枚多めに入れてあげるから」
中黒さんの何でもない言葉でもニヤっとしそうだ。
「ありがとう」
「イケメンにはぬるい世の中だよねー。俺も生ハム好きなんだけど?」
「まあまあ、常盤さんも十分っしょ。十分イケメンですから」
栖本さんが必要以上に笑いながら言うので「ええ?」と常盤さんが冗談で不機嫌なふりをする。
「そそ、はい。渋カッコ良いマンマート師匠にはカリカリ沢山入れて差し上げますから」
中黒さんがサラダのクルトンをサービス盛りする。
「ははは!猫のご飯みたいっすね!」
俺は受け取った小皿を無言で見つめる常盤さんを笑った。
「竹山君、コレひどいよねー?あっちは柔らかい生ハムなのにやー」
「にやー」と、常盤さんが時々出してくる方言のような口癖を栖本さんが真似をして俺は更に笑ってしまう。
「はい栖本さんも。チーズ大盛り」
「あ、俺はチーズなんだ!?」
「チーズって感じ。いはははは!」
常盤さんは仕返しした。
「竹山君はプリプリだからトマト大盛り」
四方さんは俺の皿にトマトばかり積んでいく。
「プリプリ!?」
常盤さんと栖本さんの声が揃う。
何故かメインの具材が7か14で作られている料理、どうしても誰かが多く盛られる事になるが、それを中黒さんと四方さんは気遣いを大幅に越えて敢えて極端に分けて遊んでいるのだ。
「何がプリプリ…なんすか?俺」
俺は憧れの二人に盛られる皿に、正直言って興奮しかない。
「プリプリはなーに?ヨモモン」
「お肌ですよ?お姉様」
(俺今までずっと少数の「ぴより」呼び派だったけどヨモモンにしよ…)
「あ、お肌っすか…」
あのアニメを彷彿とさせる二人の会話に、俺は内容なんて全くどうでも良かった。
「何だと思ったんだい?イケメン君」
すっと三条さんから回って来た真っ赤なサラダ。ふと三条さんの口元を見る。
「あ!べつにやらしいことじゃないっすよ!?」
女性陣がクスクス笑うが、
「そんなこと誰も言ってない」
そうセクシー風に言われた俺は、三条さんの手を見ながら受け取ったのに、指を一つ、皿と一緒に握ってしまった。
「彼女いるんでしょ?竹山君」
常盤さんの質問にはっとして皿を置いて答える。
「いないっす」
「嘘だーん」
常盤さんは意地悪そうに目を細める。
「ホントです。付き合っても一年くらいで振られるんすよね、ははは!」
「何で?」
栖本さんだ。
「俺、年子の姉がいるんですけど、世間一般より仲良いって言うか。何かいつも姉ちゃんの事言われて続かないんすよね」
「何て言われるの?」
と中黒さん。
ドレッシングが付いたのか、さり気なく拭く指の爪には白いラインで描かれた小花のネイルアートがあった。
それが「ブライダル」をイメージさせた為、俺はついでに左右の薬指を見るが中黒ゆいの指に指輪は無い。
(よし!)
男なら誰でも出る、深い意味は無い心の声だ。
「え、お姉ちゃんと私どっちが大事なのって」
俺は毎回決まって言われる言葉に苦笑いする。
「ヤキモチねー。それ」
ヨモモ…四方さんだ。
フォークを持ち直す四方さんの手にも指輪は無い。
(よし!)
「そうなんすかね?」
「で、君は何て返すんだ?」
三条さんの、膝の上にあるさっきの細い指を見る。
先の二人より大きい手は、それでも俺の指より節が目立つ細い指だった。
(家事とかしないんだろうな)
「えと…姉ちゃん、すね」
「オーイ!嘘だろお前!!」
栖本さんが叫んで皆んなが吹き出して笑う。
別の事に気が取られていた俺はここでやっと話しに追いついた。
「あ!あっはははは!!違うんすよ!違うくって!!ちょ!ちゃんと聞いて下さい!!」
「何だよー」
栖本さんは一旦箸と皿を持ち上げるがまた吹き出して、それらをカンと鳴らしてしまいながら置く。
「違うんすよ!シスコンとかじゃなくって!なんつーか、何でもない事なのに悪く言われるんすよ、姉ちゃんの事。段々と敵みたいな言い方されるようになるんで、こっちももういいやってなっちゃうんすよ!」
「え?シスコンじゃん!フツーは彼女取るでしょ!」
常盤さんにまで言われて、俺はつい女性陣を見てしまうが二人は男とは少し違う笑顔だった。
「シスコン、なんすかね?シスコンになります?これって」
「なるだろっ!!」
栖本さんはまだ笑っている。ニッチなツボだったようだ。
「ははは!マジっすか?ヤバ、気付かなかったっすね。そうなんですかね?家族を悪く言われるとダメなんすよね、俺。バカ一家なんですけど、一緒に入ってくれる彼女が良いんですよ」
「可愛いー」
四方さんが言って、中黒さんが「ねー」と味方になってくれた。
「女に冷たいのに女味方につけるタイプだコリャ。年上にモテるな?君」
常盤さんは「やれやれ」の調子だ。
「誤解っすよ!彼女は大事にするんですよ?ちゃんと。でもどうしても結局姉ちゃんの事になるんすよね」
「もしかして、一緒に住んでねーだろな」
栖本さんの視線が痛い。
「あー、住んでます」
「ほらあ!ナイわ!!そりゃ言われるってお前!!」
「違う違う違う違うんですって!訳があって、っすよ?」
「実家?」
常盤さんは年齢よりずっと若いが、焼酎の水割りを傾ける仕草は堂に入っていて渋い。
「二人暮らしっす」
「二人!?」
「あはは!栖本さん!!違うんですって!一人じゃ危ないからっすよ!?危ないって言うのもワケが!」
「その歳で姉ちゃんと二人で住んでたら女は嫌がるだろ。当たり前だろ?家行けねーじゃん、なあ?」
栖本さんは女性陣に同意を求めるが、
「私は素敵だと思うなー」
と中黒さん。
「私も」
と四方さん。
「ええ!?いいの!?」
「え!お姉ちゃん隣に居てエッチできるの?君ら」
そんな常盤さんの女性陣への質問を、俺と栖本さんが急いで止める。
「もう、スケベじじい。小姑みたいな感じなの?お姉さん」
中黒さんが訊いてくる。
「スケベじじい?」と栖本さんは呟いてまた一人ツボる。常盤さん本人は全く気にしていない様子だ。
「姉ちゃんっすか?いや、全然。ただ一人じゃなんっにも出来ないんで、俺がいないと餓死するんすよ、食べなくて」
「竹山君がご飯してるの?」
四方さん。
「基本的にはそうっすね。姉ちゃんも買ったり作ったりはするんすけど、食わないんすよとにかく。何かに気が逸れたら終わりっす。俺が二泊三日の旅行に行っても何にも食べてなかったんすよ。お菓子は買って食べたみたいっすけどね。酢イカばっかっすよ。だから無理やり食わせてます」
「えー!竹山君偉ーい!」
「可愛いー!弟欲しいー」
中黒さんと四方さんは、俺が何でもない事だと思っていた事を、俺が思った以上に褒めてくれたが、
「うわー、嫌だわー、この空間!」
栖本さんと常盤さんが嫌そうに笑う。
「なー。イケメンだから良いように受け取ってるだけじゃんねー。ブ男だったらキモいとか言うくせに」
「そうそう。女ってきっとそう」
栖本さんはそう言いながら、特盛りにしてもらったチーズを美味しそうに囓る。
「そうですとは言わないけど。竹山君は年上と合いそう」
中黒さんは唇を汚さずに上手にパスタを食べる。
「そうっすか?でも選んだわけじゃないですけど、今まで全員年下でしたよ?」
「そうなのー?次から上狙ってみたら?」
四方さんはオレンジ色のカクテルをちょびっと傾ける。
(女ってだけでめっちゃ可愛いわ…二人とも。声最高だし)
最近は姉以外男ばかりの環境だった俺は、目の前で物を食べる二人に軽い白昼夢を見る。
「性欲不振とかじゃないよね?」
常盤さんは下ネタ方面もあっけらかんとお得意らしい。
「ひどいっすよ常盤さん!俺めっちゃ性欲ありますよ!」
「乗せられんな。聞きたくねっつーの」
栖本さんは笑って鼻を擦りながら「頼むから」という目をする。
「あははは!すみません」
俺が謝ると中黒さんと四方さんは「いいのいいの」と笑顔で許してくれる。
「年上落とす練習させて貰ったら?ここには美人がイチ、ニ、サン」
常盤さんの指を追うと全員が最後に三条さんに漂着した。
「ちょっと常盤さん。何で三条さん数えたんですか?王子には負けちゃうんで。比べないで欲しいよねーヨモモン」
「ほんと。王子が一番お綺麗ですもんねーお姉様」
いつの間にか会話に入っていなかった気がする三条さんは「ふう」とステーキのフォークを置いて皿に視線を落としたまま、
「いつでもエスコートしますよ?イケメン君」
と口元を微笑ませる。
「怒ったのかー?だってー。全然ノってきてくれないんだから三条君」
常盤さんが冗談で拗ねる。
「料理食べたかっただけですよ」
「シスコン話、すみませんでした」
俺は笑って謝る。
「いえいえ。でもホントの話し、君はまだ若いんだ、いつもいい子で誰かの世話ばっかしてないで。確かに年上を狙ってみると変わるかもよ」
「え?」
三条さんは俺の皿からトマトを取って、横目を向けて来る。
あの一件から、何となく見れなかった三条さんの顔。
トマトは乾燥の跡一つ無い唇に挟まれてから、中に入っていった。
「一度甘えさせて貰えたら、君の本能も真っ赤に燃え上がるかもな。海君」
甘く下がった目尻の目は、微笑んで細められた王子のそれで、
「…っすか、ね?」
俺から女性陣に向けられた。
「ま、理屈っぽいデートの誘い方くらいは俺が教えてあげるよ、お若い方」
三条さんはさっき食べられなかった一口ステーキを口に入れ、「ね、ゆいちゃん」と言った。
「もー、キザねーホント。そんなのブースの外で言えちゃうの三条さんくらいよ」
「似合っちゃうからすごいですよね」
「どんな言葉でも堂々と言っちゃえばそれっぽくなるからさ」
俺は肉を食べる三条さんをまだ見ていた。
「裏切らねー人だよな」
栖本さんは案外、人をよく観察しているタイプなのかも知れない。
「肉とか、食うんすね」
呟いてしまった俺を「ん?」と振り向く三条さんだが、細いからと言って食べない人ではないらしく。今もまた一つ口に入れた肉を白い奥歯で嚙み潰した。
「いえ、何も」
肉汁が唇を伝う前に舌が攫って行った。
(え?エロ…)
俺は自分の心の声に驚いて、目が合う前にパスタを食った。
「キザ路線行くなら、その人くらい筋金入りじゃなきゃダセーぞ?てかお前って他人の面倒見るのが好きなのか?」
栖本さんが俺に訊きながら、手にあった空いた小皿を中黒さんに取られて「ありがとう」と言う。その皿は俺と同じパスタが乗って返ってきた。
「いや、どうなんだろう…。意識してやってるわけじゃないっすけどね?」
「何かして欲しい、とは思わないのか?してあげよう、と思う?」
三条さんはそう訊きながら俺を見ずにトマトを食べる。
「あ、それ竹山君のです。まあいっか、ふふふ」
四方さんに言われても笑顔を向けてスルーして。
(トマトが不老の要か、三条司)
「したいと思ってるわけでもなくて、気付いたらしてるんすよね。癖みたいなもんっすよ。姉ちゃんに対してなら俺がやった方が早いとか、思ってますね」
「損な性格だなーソレ」
常盤さんが物凄く痛々しそうな顔で言う。
「あはは!そうかも知れないっすね!でもほら、そうやってやってたら、イイヤツだと思って貰えるし、自分が得するんで、自分の為にやってるんすよ」
俺はそう付け足しておいた。
「はあ?頭脳派かよ」
栖本さんが笑うが、隣の三条さんがフォークを置いた。
「思わぬところで株が上がっちゃったから、気兼ねして下げたんだ?」
「え?」
図星だった俺はペーパーで口を拭う三条さんを見る。
「本気で自分の得の為にやるような奴は、まずこの場で言わないだろ?ネタばらしには早過ぎる」
三条さんは常盤さん、中黒さん、四方さん、栖本さんと順に指を指して、
「まだみんな、君が意識しないで手の内見せていい相手じゃないはずだろ?此処のみんなのこと、尊敬しちゃってたりして好きなんだもんな?だからさっきのは嘘だ。根っから優しいんだよ君は」
と、最後に俺を指差した。
「そこは、そうなんだねって流してあげようよー。大人らしい口振りで一番大人げないよ名探偵くーん」
常盤さんと栖本さんが笑う。
「うあー、見透かされてんすか、恥ずいっすね。めっちゃ」
俺は堪らず苦笑いをして背凭れに沈んだ。
「三条さんのいじわるっ!コラ!だよ?」
突然のアリスに全員がくすっと来る。
(あーヨモモン。くっそ可愛い…俺は幸せ者だ)
「俺って、自分の好きな子だけは苛めたい性悪だから」
三条さんの声まで入って来て俺の耳が馬鹿になった。
「ははは!あざっす!一億回脳内再生します」
「わーお、いたいたそんな男子」
中黒さんが言い、
「似合うなーその台詞」
と、常盤さんが渋くグラスを傾けるが、
「下手したらコイツのあの事がバレるだろ?」
と栖本さんが三条さんにニヤっとする。
「ああ、ホントだ。あぶなーい」
(感情拾って来てくれよ三条さん!)
「そうだよー秘密なのにや」
「秘密?何の事ですか?」
中黒さんと四方さんが揃って常盤さんを見る。
すると何故か平気で俺の隣から声が出る。
「海が実はマニ…」
「ちょっ!!」
「うっ!!」
俺は焦って三条さんの口を抑えてソファーに押し倒した。
「いーははははははは!!」
みんながこれでもかというほど爆笑する。
「あっははは!!オイ馬鹿!!その人そういう事しちゃダメなキャラだぞ!!」
栖本さんがヒーヒー笑いながら自分の膝を叩く。
「ああっヤベ!ですよね!?すみませんマジで!でも言いかけたっすよね!?今!」
三条さんは必死で首を振る。
「三条さん!?笑っちゃう…!ぷっ!」
「ヨモモン!写メ写メ!」
「ちょお前!!早く起こせって!死ぬぞ!?」
「もう言わないっすね?」
三条さんも笑っているらしいが俺を見つめて何度も頷く。
(あれ…なんかめっちゃエロいな)
「いいですか?放しますよ?」
また頷いたのを確認して手を放した。
「あーびっくりしたあー」
と起き上がりながら三条さんが服を整えるとみんながまた笑う。
「一瞬で消えたよ!?俺の視界から!」
常盤さんは余程面白かったのか酔っているのか、顔を真っ赤にして笑っている。
「あー!おもしろーい!!」
中黒さんは目頭を指で拭ってまでいる。
「王子が…なんてショッキングな…へへへへ!」
四方さんも中黒さんの腕にしがみついて笑う。
「三条さん大丈夫ですか?」
髪を直す三条さんに問う。
「うるさいよ!自分がやったんだろ?俺のイメージが崩壊したじゃないか!」
三条さんは前の二人の反応に困って言う。
「ビビったわー。まさか…のっ!」
「ん?笑っていいんだよ?哲平」
「司を押し倒す奴初めて見たわ!マジでこわいわーコイツ…色んな意味で。あはっ、ヒヒヒヒヒ!!」
栖本さんは手まで叩いてまた笑いが止まらない。
「力強すぎだよ?海」
ちらっと横目で睨まれるが、
「ホントすみません。つい」
(さっきの…なんかエロかったな、三条さん)
三条司を力で捩じ伏せたという感覚が、妙な興奮のようにして俺の脳に焼きついた。
力で喧嘩をする男の兄弟も無く、自分の身体の下から見上げて来る目なんてものを女の目しか当然見た事が無かった俺は、「それ即ちセックス」並みの単純さで確かに色々と軽くショックでも受けたのかも知れない。
(溜まってんのか俺…ヤベーな)
「前代未聞ね。良いもの見ちゃった」
中黒さんは写真に残せなかった事を残念だと語る。
「で、秘密って何だったんです?」
四方さんがさらっと蒸し返すが、
「内緒!」
栖本さんが即答した。
「そうそう。男だけの秘密ゴトだよ」
常盤さんは酒を頼む為に店員に向かって手を上げた。
「もう、そこで男女の壁なんてずるーい」
中黒さんは肩を竦める。
「ホントですよー。でも私達はコレ!」
四方さんがスマホを出して、中黒さんも思い出したようにスマホをタップする。
「そうよねーヨモモン」
「ねー。ゆい姉様」
見せられた二人のスマホ画面に顔を寄せると、
「好きなスイーツ、一品無料?」
この店のクーポンだった。
「広い視野で見て?この世の中、女の子だけの特権の方が多いのよ?」
中黒さんは笑って、常盤さんの注文の後に同じ店員を捕まえて四方さんと一緒にパフェを選んでいる。
「確かにそうっすね」
俺が見ると栖本さんはふっと笑う。
「その方が上手くいくんだよ、世の中」
「あー。っすね」
「栖本、愛妻家、娘を溺愛。書いていいよ竹山君」
「あはは!あざっす!兄貴カッケーっす!」
「何で俺ばっかなんだよ!」
夜の六時過ぎまで楽しんだ食事会。
食事代は全部常盤さんが出してくれた。
「あ、来た。乗る子は乗りな」
常盤さんはマネージャーなのか、車を店の近くに呼んで、停車と同時にドアを開ける。
「じゃあ、私もー。ヨモモンも送って貰いなよ」
中黒さんは勝手が分かっているように、停車していられない運転手を気遣って直ぐに乗り込み、
「いいですか?助かります」
四方さんも気を遣いながら中黒さんに続いた。
「あとは?」
赤い顔の常盤さんが振り返る。
電車で帰る栖本さんと、車で来ている三条さん。
「哲平は電車で、海は俺が送りますよ」
三条さんが常盤さんに言う。
「え?」
俺は驚いたが、乗って良いのか分からない俺の為に言ってくれたのだろうと思い、常盤さんに頷いておいた。
「気をつけて。ご馳走様でしたー」
栖本さんが言って、三条さんと俺も中の二人が手を振るのに応える。
「じゃあねー。また来週。お疲れさーん」
常盤さんが乗ってドアが閉まる。
「お疲れ様でした」
すっとスムーズに列に入って流れて行った常盤さんの車を暫く見送り、
「じゃ、お疲れさん」
マスクを装着した栖本さんは、あっさりと手を上げて駅の方向へ歩いて行った。
「お疲れ」
「お疲れ様でした!」
(この流れで駅まで栖本さんの後ついてくの気まずいよな)
俺は何処か服屋でも見て帰るかと思い、三条さんを見る。
「あ、車まで護衛しますよ俺」
「そ、なら行こうか」
三条さんが笑顔でも無く言い、歩き出したので、少し後ろをついて行く事にした。
過ぎ行く女が度々、三条司だと知ってか知らずか三条さんの顔に視線を残すのを見ながら、
(この人こんな堂々と街中歩いて大丈夫なのか?)
と少し心配になる。
スタジオの裏手にある駐車場まで着いた時には、何事も無くてほっとした俺だったが。
「ええ!?コレっすか!?」
三条司のスーパーカーに度肝を抜かれた。
「乗れよ」
「え!?」
男に生まれたなら必ず一度は憧れるようなその美しい車は、夢から取り出した実寸のそれそのものだ。
「護衛のお礼で、いいとこ連れてってあげるから」
「いい、とこ?」
運転席に乗り込む三条さんを見ながら、何故か俺は「いかがわしい店」をイメージしていた。
バイト先に社長が来た時にスタッフのみんなで食事に行くと、決まって最後は男だけガールズバーに行く延長戦になるからだ。
「ああっと…」
(美音、メシ食ったかな…)
だがしかし、中から身を屈めて見てくる三条さんの目を見ると妙な好奇心が出てくる。
「秘密の部屋だ」
三条さんは言う。
「秘密…っすか?」
「どうする?」
エンジンが掛かって、地面からも低い振動。
(やべ…)
「おいで」
三条さんがそう言った時には、俺はスーパーカーのドアを開けていた。
◆三条 司
俺はマンションのオートロックを超えて、半透明な低い仕切りの奥にある郵便受けに向かう。
海はその間、俺を追うでも無く、
ペットショップから新しい飼い主に連れて来られた犬みたいな顔をして、ホールの真ん中で突っ立っていた。
(今気付いたのか?)
車ではにこやかに俺に話し掛けたりして「空気」を気遣っていた海は、今になって漸く此処が何処なのか察したようだ。
「エレベーター」
俺が郵便物を手に更に奥を示すと、海は頷くような、斜めに流すような仕草で頭を動かした。
無言のままのエレベーターで横顔を窺うと、緊張や恐れとは違う表情で海の目はランプの動きを追っている。
いつも溌剌としているKAIとは少し違って見える。
(喜ぶと、思ったのにな…)
反応が薄く、どう思っているのかが分からないが、エレベーターは俺の部屋のフロアーに着いた。
「ここ」
「っす」
廊下を歩き部屋のドアに鍵を挿れる時になって、つい痺れを切らした俺は言う。
「俺の部屋」
すると海は一瞬だけ目を合わせて、
「…っすよね?やっぱり」
と低い声で言って眉の少し上を指で掻いた。
(なんかもっと反応しろよ!)
そんな風にぼうっとしていた海だったが、俺が玄関を開けて中に入り、
「ようこそ。三条司の部屋へ」
と言うと、視線を彼方此方に巡らせながら、
「え…?ガチでガチっすか…?」
と少し目を輝かせた。
(おっそ…)
「入っていいよ」
「あ、あざっす!」
靴を脱いで玄関の壁一面のシューズボックスに入れようとすると、海は横に来て中を見る。
「うわ、すっげっすね、数。しかも整頓されて並んでる」
「殆ど履いてないけどな。最近はコレが気に入ってるよ」
俺は今日履いていた靴を見せる。
「綺麗っすよねこの靴」
(把握済みか)
「そうだろ?音がしないから便利でな」
俺は海が食い付いたエナメルの靴をしまわずに、逆の棚の上にある靴を飾る為のボードに置いた。
「似合いますね、こういう細い靴」
「そうか?」
綺麗綺麗と言われる俺のイメージには確かに合うのだろうと少し笑ってからスリッパを出した。
海はスリッパを履いて自分のスニーカーを玄関の角に揃えてから部屋に上がった。
「広いっすね…」
リビングを見回す海は嬉しそうに見える。
「寛いでくれ。上着掛けるか?」
「あ、平気っす。荷物ここに置いても良いっすか?」
海は玄関から直ぐの床にバッグをゆっくり下ろす。
「そこがいいならどうぞ」
俺も暖房と加湿器をオンにして適当にコートを脱ぐが、海の視線を感じた。
「ん?」
「あ、いや…」
何故連れて来られたのかが気になっているのだろう。
「まあ、何か飲もうか」
「あ…はい、あざっす」
「好きにしてていいよ」
俺はキッチンのドアを開けるが、海はついて来る。
「俺がやりましょうか?」
「いいから、その椅子に座ってな」
俺は気に入っているテーブルセットを指差して「待て」を言う。
「あ、はい」
湯を沸かしてホットの紅茶を用意する。
(車じゃないよな)
濃厚で香りの良いブランデーを数滴垂らして混ぜた。
「あ、ありがとうございます」
海は案の定、棚の前に立っていた。
「ブランデー入れたけど、飲めるかい?」
「いけます」
海は俺と一緒にテーブルに着きながら、名のあるカップを手に、「持っただけで割れそうっすね」と言って笑った。
「あー、大人の味っすね」
「嫌いか?」
「全然。美味いっす。へー、ブランデー入りっすか。本とかで読んだ事はありますけど、実際に飲んだの初めてっす」
紅茶の表面を見ながら言う。
「ほんの数滴だ。酔わないし検査にも出ないよ。これも良ければ」
土産で貰ったバターを挟んだクッキーを手元に押してやると、海は言われるままに一つ食べる。
「合うっすね」
(当たり前だろ)
一つ一つに感想を言う海に呆れて笑いながら、俺も紅茶を飲む。
「すっげー良い部屋っすね、ここ」
「君は?マンション?」
「築30年のボロいアパートっすよ。玄関開けたら即キッチンの、めっちゃ狭い部屋っす」
「お姉さんと?」
「そっす。殆ど姉のテリトリーっすよ」
「取り返す気も無いんだろ?」
「っすね。ははは。ウチは昔からずっと姉がマウント取ってるんで。慣れてます」
mimikoneで少し見たKAIの背景は、煉瓦の絵がついた壁紙だった。
そこにKAIが着ていそうなデザインの黒いレザーのジャケットが、シンプルなステンレス製のハンガーに掛けられて映っていた。
小汚いイメージも無く、逆に洒落た若者の部屋だ。
本人から男臭が全くしないのは姉や妹がいる男の典型なのかも知れない。
海は見事に刈り上げられた赤い髪の耳周りを見せながら再び棚に目を向ける。
「気になるかい?」
俺に言われて海はきゅーんと鼻を鳴らしそうな悪意の無い表情になる。
「すみません。性分っす」
マニアの性分。
「見ていいよ。好きにしなよ」
「マジっすか?」
そう言いながら既に腰が椅子から浮いている。
「その為に呼んだんだから」
「え?」
海の視線を受けて俺も立ち上がり、横に並ぶと棚の奥からあのCDを出した。
「マニアの君に問題。コレ、勿論知ってるよな?俺のファンなら」
海はゆっくりCDを受け取る。
「これ…」
「ん?」
表情を覗くと、パッと顔が上がる。
「え!マジっすか!?コレ、マジっすか!?」
「ああ…」
俺は途端に光る海の目に圧された。
「コレヤバイっしょ!!マジで!?」
「知ってる…んだな?」
「当然っすよ!コレ!!御塚光瑠名義のBL!三条さんが二十歳の時にBL解禁してBL専用に使おうとした名前で、結局三条司のままで行く事になったから御塚光瑠の作品はこの一枚だけしかないっていう幻のCDじゃないですか!!」
(ナメてた…こいつの事ナメてた…)
俺は何とか余裕ある笑顔で接する。
「…ご名答。聴いた事ある?」
「無いっすよ!だってもう売ってないし!実物持ってる奴に会った事も無いし!うわ…すっげぇ…。マジモンじゃん…。触っていいっすか?」
「どーぞ」
「すっげ…!」
海は嬉しそうに、CDを表裏表裏と繰り返し見ながら、目を輝かせる。
「深紅の檻だ…すっげー」
赤い背景に、赤い薔薇のアップ。
海が言ったタイトルすらも書いていないパッケージを何度も確認する様子を暫く眺める。
正直、ここまで食い付くとは思わなかった。
「じゃあ…次の問題」
海が俺を見る。
「俺の演技を評価してみろ」
「…評価?ですか?」
「今からそれを聴いて貰う」
予定になかった言葉が口を突いて出る。
海の目が驚いてまた綺麗に光る。
「え…?いいんすか!?」
「BLだぞ?」
「そんなの何の問題ですか?え!マジで!?あ、すみません。ホントですか!?これの音源もどこにもアップされてないし、一生聴けないと思ってたんで!いや、けど未開封だしそんな…!」
「ちょっと待ってて」
自分が何を言い出したのか思考が追いつかないまま俺は寝室に行き、何故か不必要な古い箱を開けて中からそれを取り出すと、リビングに戻って電池の交換をした。
そしてその時に偶然目に付いた物も手に持って海の前に立った。
「ほら、CDプレイヤー。ラップトップは今日車に置いて来てしまったし、うちにはCD聴く道具がベッドルームにしか無いから。多分まだ生きてるからこれで聴きな。こんなの見た事ないだろ君らの世代。俺の親が若い頃に流行った物だからな」
赤く四角いCDプレイヤーを海に見せる。
「何これ、かわいいー。物持ち良いっすね!」
「当時はこんな分厚いのが何万もして、みんな持ち歩いてたんだってさ」
海は興味深々で受け取った。
「へー!え、あ重っ!」
「ま、プレイヤーはどうでもいいから」
「あ、はい!どんな内容なんですか?今知れるのはタイトルだけなんで」
「イヤホン」
「あ、はい」
「あと、これ」
俺は赤いペンを出す。
「カラー、ペン?」
「俺がひたすら男達にまわされまくる話」
海はペンを受け取る手を途中で止める。
「俺が口も含めて中出しされたら左に、俺がイかされたら右に、正の字書いていけ」
俺は自分の服の袖を肘まで捲り上げる。
「な…」
「俺のはちゃんと中イキも含めろよ?君がちゃんと俺の演技で回数聴き取れるかのテスト」
椅子に座り、腕の内側を上にしてテーブルに乗せて海を見る。
「さ、どうする?」
暫くの間固まっていた海は、自分の手の中のペンを見てから俺を見る。
「余裕で正解しますよ」
「だよな。じゃあ、スタート」
CDのビニールをゆっくり開ける海が「いいんですか?」と目で確認してくるのに対して「気にせずどうぞ」と微笑み掛けながら、少しの後悔はあった。
【深紅の檻】は今から十八年も前の作品だ。
俺が演じる主人公が運の悪さからある男に捕まり、身も心も酷く蹂躙されるものだ。性的な描写も丁寧に演じ分けをさせられた。
俺にとってはあの頃も今も、聞き返したくは無い「苦い」作品だった。
三十分後、海は一度俺を見る。
俺は紅茶のカップをソーサーに戻して腕を並べる。
ペンの蓋を取った海が「本当に?」と目で訊いてくるのに対して微笑みで頷くと、海はちらりと真っ赤な舌で唇を舐めてまた耳を澄ます。
手首を軽く押さえる指が熱い気がした。
一本、また一本と左の腕に赤い線が付く。
時々眉を寄せたり、また唇を舐めたり。
落ち着きが無くなってくる海と時計を見合わせて、俺は今ストーリーがどんな状況なのかを把握する。
右腕の方に初めて一本の線が入った辺りから、海は俺の腕に目を伏せて、目を合わさなくなった。
(面白いな、こいつ)
こんな風にリアルタイムで相手の反応を見るなんて事が無かった俺は、低い咳払いも何度か混じってくるのを内心では相当楽しんでいた。
だが、後半に繰り返される長いレイプシーンで、海の視線が俺の身体を度々這うようになると流石に少々居心地が悪くなった。
(おーい。海くーん)
いつの間にか手首はしっかりとずっと掴まれているし、俺の身体を見る視線も喉まで来たり胸に行ったりと確実に意図があって動いている。
(おーい…視姦されてるみたいになってるだろ)
妙に熱っぽくなったそれと目が合うと、先に逸らしたのは俺の方。
遠慮を忘れた赤い「正」の字が次々に仕上がる頃、俺の腕は真っ赤だった。
(そろそろだな)
一時間四十二分。
海はペンを置いた。
「便所、借りていいっすか?」
「…マジか」
心の声が出てしまった。
「ああっと…。ただの利尿作用っすよ」
海は席を立ちながら紅茶を指差して恥ずかしそうに笑った。
「ああ、ごめん」
「いえ」
俺はトイレの場所を口頭で伝え、待っている間に腕を見る。
「十、二十、三十、四十…」
(完璧かよ!)
記憶にある通りの本数がそこにあった。
当然スッキリした顔で直ぐに戻った海はまた前に座りCDケースを見る。
「答えって覚えてるんすか?三条さん」
「覚えてるよ。正解だ」
海は「あざっす」と答えた。
その後も何か言うのかと思って待ったが、海は中にある声優の名前や作家の名前なんかを見ながら何も言わない。
(は?それだけ?)
今は全く涼しい顔でマニアはケースを舐め回している。
「まだそうしてるかい?」
そう感想を促してやっても、
「あ!もう少しいいっすか?これホント三条司マニアにはお宝なんすよ?」
と玩具を取り上げられそうな仔犬の目だ。
「あ、そう。ご自由に。俺は隣に居るから、好きなだけ聴いてれば?」
「あざっす!」
俺は席を立って隣の部屋に行き、やる事も無いので本棚からどうでもいい本を一冊取って、立ったままページを送る。
(なんだよ、つまんねーな…)
内容よりも「物」を喜ぶ様子に少しイラッとするが、
(BLだしな、あんなもんか)
逆の立場で考えれば納得だ。
(普通のエロの方が面白かったか…)
そうなってくると、もう何がしたいのかが分からなくなる。
自分の演技についてファンから何か言葉が欲しかったのかどうかも分からない。
(何で無理矢理あんなの聴かせたんだろな)
腕を見遣ると悍ましい赤い跡。
(あ、コレ油性じゃないか!)
全く馬鹿馬鹿しい遊びの代償。
しかし幸い明日は休みだ。
海が自分から帰ると言って来るまで放置を決め込んでやろうと、本気で読む為の本を探して棚を見る。
(最近本なんて読む暇無かったからなー、新しいの買ってなかったか)
どれも読んだ物ばかり。
この仕事は好きだが、こんな何でもない暇を埋める趣味すら無い。
(みんなの三条司は仕事ばっかのつまんない生活してますよーっと)
「ん…?」
気配がしてリビングの方を振り返ると海が立っていた。
「なんだ、もう飽きたのかい?」
ふんっと笑って棚を漁るが返事が無い。
「送ろうか?」
敢えて気難しそうな社会派のタイトルを腕の中に並べて、ごっそり海から見えるソファーに置いた。
そうして見遣るが海は黙ったままこっちを見ている。
(何だ?)
だが、海のその目には見覚えがある。
俺は咄嗟に視線をまた本棚に戻して、どうしたものかと考える。
海は、俺の名前が本名では無いと知った時の目をしていた。
(本名じゃないなんていちいち言う奴もいないだろ?)
何の為の芸名だ、という事だ。
「何か、言いたい事があるなら聞くけど?帰るならそう言わないと俺はこのままこの役立たずな本棚の整頓を続けるぞ?」
背を向けたまま小さく笑って、どうでもいい本を取ろうとするが、
急に何か、硬い壁の間に挟まれたような感触がして動けなくなった。
(あ?)
前からの壁は一体何かと腹の辺りを見ると、それは腕だった。
目の前の棚に遅れて置かれたのは同じ服の右手。
俺の真後ろぴったりには、海の身体があった。
(抱きしめら…?)
本棚の手が宙に浮いて、
(それも来る)
と思ったが、その手はまた本棚の全く同じ場所に下りた。
「すみません…」
耳の直ぐ横で低い声。
(何だ…?何が起きた?)
暫くの無言の時間で、俺は男の腕がこんなにも無遠慮で力強いものなのだと知った。
男の自分でも振り解こうとしてそれを察した相手が力を足せば苦労するだろう。
(ああ、今後女の子を抱く時は気をつけよう)
俺が現状から完全に逃避した結論を出した時には、また少し締め付けられて身動きが取れなくなった。
打開案の為に視線で手掛かりを探した俺は、本棚にある鏡に気付いた。
丁度海の肩から上が映っている。
「海?」
鏡の中、すっと開いた目はまたすぐに閉じる。
「おかしな奴だな、どうした?」
とにかく事の先手を取るべきなのは確かで、気分としては獰猛な動物を恐々宥めるようなものだ。
下手に出ても、無理に解いても怪我は必須、なような、気がする。
「コワイっすか?」
「ん?」
「俺に、こんな事されて」
「こんな…?」
(38歳にもなって、若い男に抱きしめられて身動き取れない事がか?全く怖くないぞ。ナメるなよ?)
俺は「余裕です」とふっと笑ってやった。
「めっちゃヤバかったっす、声」
海は言う。
「声?」
「あのCD」
「ああ、あれね」
「めっちゃ…エロかったっす…」
海の鼻が首に当たる。
(あ、ちょっと?)
「あれ、レイプ魔製造機っすよ」
KAIからは想像もつかない言葉に驚く。
(何だと!?)
「…ありがとう。ふふ、斬新な感想だな。けどちょっと言葉が良くないぞ?マニアが喜んでくれたなら、まあ、良かった」
棚にある海の手がまた少し動いて俺はそれを必死に見張るが、手は棚に指を掛けて止まる。
だが依然、抱え込まれる腕は緩まない。
「あんなの密室で聴かせて、犯されたらどうするんですか?俺がどんな奴か知りもしないのに」
ぼそぼそと言うようで、しっかりと聞こえる良い声だった。
(え?え?今なんか言ったか?)
「ははは、面白いな。君が良い奴だって分かってるから連れて来たんだ。マナーもあるしな…?」
俺はちらりと斜め後ろを見るが、顔を見るには至らなかった。
「けど俺、もう」
「ん?」
「いえ…」
海の左手は少し下がり、丁度腰辺りにずれ落ちた。
(ちょっと!?)
「ふふ、な、なんだろうな、大きな子供か?」
「子供…?」
海の右手がピクリと動く。
「いま、拮抗してる状態っすよ?」
海が横から顔を覗き込んでくるのを感じ、
「…何がかな?」
俺は優位に居なければならないと、目は合わせず口角を上げて余裕を見せる。
「理性と本能が、っす」
「へえー。物々し…大袈裟だな。どうやら君には刺激が強かったみたいだな、あの作品」
「声っすよ。たまんねぇ声でした」
耳元で言われ、ゾワっとする。
「それは…良かった」
「俺が子供だったら、今頃どんな事になってたか」
海の右手が棚から浮いて、俺は反応してしまわないようにぐっと耐えた。
海のその手は俺の真っ赤な腕を持ち上げる。
「ちょっと、俺で遊んでました?」
正の字を親指で撫でる。
「ははは、どうして?良かれと思って招いたんだぞ?酷い言い草だよ」
「そうっすか、すみません」
海はため息を吐いた。
暫く何も言わず、正に拮抗状態だった。
しかし、
「あのCD、売ってくれませんか?」
海は俺を放し、俺を囲ったまま両手の指を棚に引っ掛ける。
「え?」
「ダメっすか?」
そっと見た海の目は「仔犬」では無かった。
左右対称に綺麗に切れた目。
(ああ…えーっと…)
「………駄目、だな」
「言い値でもっすか?」
「大事な思い出だからな。売れない」
「どうしてもっすか?」
「ああ」
すると海は拗ねたように目を伏せる。
案外我儘も言うタイプなのだろうか。
「でも、ほら。聴きたいならまた来れば良いだろう?」
「え…?」
(え!?)
俺は自分に驚いて、海の驚いた目をハッと見るが、取り乱さず微笑んで誤魔化した。
(え?何この状況)
「それで君もいつでも聴けるだろ?俺も思い出をとっておける」
「…正気っすか?」
(違う違う!!)
だが勝手に調子付いた俺の口は止まらない。
「何かおかしいかい?」
海の目には今、自分の行いがまるで効かない謎の無敵のオーラが俺の周りに見えているだろう。
「え?」
「暫く仕事も無いし暇なんだ。丁度良かったよ。ふて場で会う日なら別にいつでも言ってくれ」
海の顔は「コイツ分かってねえ」か、或いは「そんな事言って大丈夫ですか?」と心配している。
「そろそろ送るよ。お姉さん、食べてないんじゃないか?」
海の腕が棚から離れた。
「三条さん?」
「俺も眠いから早く行こう」
「あ、はい」
海は手早く帰り仕度をしながら時々首を傾げている。
最早、何が何だか。
(と、とりあえず、もういいや!)
俺は結局最後まで無敵で余裕たっぷりを装ってしまったまま、海を家まで送った。
0
お気に入りに追加
7
あなたにおすすめの小説



BL短編まとめ(甘い話多め)
白井由貴
BL
BLの短編詰め合わせです。
主に10000文字前後のお話が多いです。
性的描写がないものもあればがっつりあるものもあります。
性的描写のある話につきましては、各話「あらすじ」をご覧ください。
(※性的描写のないものは各話上部に書いています)
もしかすると続きを書くお話もあるかもしれません。
その場合、あまりにも長くなってしまいそうな時は別作品として分離する可能性がありますので、その点ご留意いただければと思います。
【不定期更新】
※性的描写を含む話には「※」がついています。
※投稿日時が前後する場合もあります。
※一部の話のみムーンライトノベルズ様にも掲載しています。
■追記
R6.02.22 話が多くなってきたので、タイトル別にしました。タイトル横に「※」があるものは性的描写が含まれるお話です。(性的描写が含まれる話にもこれまで通り「※」がつきます)
誤字脱字がありましたらご報告頂けると助かります。

ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる