レッド ルーム

輪念 希

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例えばさ、

花っていうのは、

何かに添えてこそ価値が出るものなんだ。

見てごらんよ、一本だけ、こうしてホラ、際立つだろう?
この花あってのこの雰囲気だ。
こっちの花束とどっちが花としての仕事をしてるように見える?

花なんてのは、それ自体がどんなに美しく咲いていても、それだけ。その時は愛でられて求められる。でも、それだけ。

俺は、枯れた後でも、俺とすれ違った人の中に残るだけの意味を持っていたい。

こっちの花は、同じ花の束の中で枯れる。
でも、「これだ」と選ばれて、何かに一本添えられたこっちの花は?

この靴を見る度に何度でも咲くと思わないか?

この花を見る度に、この靴を思い出さないか?



何を言いに来たのかは知らないけど、

君はまだ、添えられた花の価値を見出せるほど生きていないんだよ。
つまり、そういう事だから、帰りなよ。


あと一つ、

君のそのマニアックな辞書の、
俺の名前の項目に、
出来るだけ丁寧に付け足して置いて欲しいんだが、




俺は「薔薇」がキライだ。
















◆三条 司

「チッ、悠二の朗読に感想コメ入れるタイミング逃したじゃないか。あの運転手め…」

俺は楽しみにしていたYUJIが参加する、配信アプリmimikoneとゲームアプリ「美男子学園」のタイアップイベントの生配信を、mimikoneの運営チームの配信枠に行ってスマホで見ている。
視聴者の数はとんでもない数字だった。
そして凄まじい勢いのコメントの流れ。
mimikoneの人気配信者達が参加しているイベントなのだから当然と言えば当然なのだろう。

『じゃあこのアプリはどんなアプリか、YUJI君に訊いてみましょうか!』
『え…俺?』
mimikoneナンバーワン人気のYUJIが注目されると、広いイベント会場の観客から黄色い大歓声が上がる。
YUJIは今日も、今着ているTシャツの「国宝」というプリントも頷ける、美しい顔とアンニュイな雰囲気を持っている。
そしてこのTシャツをYUJI自らが選んで着たのではない事も、YUJIのファンなら直ぐに察しが付く。
更に言えば、ファッションに敏感なYUJIがこれを黙って着ているのだから、提案者の名前も分かってしまうのだ。

「はは、焦ってる。頑張れ悠二」
俺は廊下にある細くて硬い白いソファーに腰掛けて、スマホに集中する。

『YUJI頼むぞ!』
人気ナンバーツーの「宇宙ニート」プリントのMAKIがYUJIと肩を組んだ。
子供みたいに明るい笑顔のMAKIは、あまり他の配信者と絡まないYUJIが特に贔屓にしている数少ない配信者のうちの一人だ。
Tシャツの提案者はこのMAKIだろう。
『えと、どんなアプリか…は、タイトルに全てあります』

「ふっ!なんだよそれ。可愛いな」
俺は最近、明らかに独り言が増えた。

会場も笑いの渦。
『確かに!YUJIヤベー!あははは!』
『確かにね!あるけどね!』
もう一人のアプリサイドのMCもYUJIの肩に手を置く。

「おっと、触んなよ。てか誰だよお前はー」
俺は華やかでクールな男だった。ファンの子や、付き合う予定の女の子や、ちょっと意味の分からない「少数派の男」に追いかけ回される事はあっても、俺が誰かを追いかけるなんて事は一度も無かった。
「YUJI」に会うまでは。

『すみません、俺に来ないと思ってたその質問、ふふ』
『ヤベー!!』
『ヤマ張るところじゃないから別に!』
MAKIに続いてツッコミを入れたのは、今月ランキングを上げてナンバースリーになったKAIだ。このKAIもYUJIと仲が良い。Tシャツには「ボンクラ成功者」とある。
このイベントの初っぱなに、自分がMCをすると張り切って言ったMAKIよりも、実はずっと安定したサポートで全体の進行を支えているKAIは、今日はその端整な顔の横に簾のような派手なピアスをぶら下げている。
このYUJI、MAKI、KAIは、SNSで有名な三山紀夫みやま のりおが設けた人材派遣会社「チームネットアクト」、妙な略し方をして「NAC」のメンバーだ。YUJI以外の二人のTシャツのプリントロゴはネットで浸透している三山紀夫のあだ名だ。
その三山本人はというと、「社長」というプリントのTシャツを着て、黒い巻きが付いた白い中折れ帽を被り、舞台と観客の間でスタッフのように腕を組んで立ったまま、観客と同じように笑ったりしている様子を時々カメラに抜かれている。

『因みにどこが当たると思ってたの?』
アプリのMCがYUJIに尋ねる。
『え?あなたのキャラクターを紹介ってやつ』
『あーはははは!!全員言うトコだってそれ!なあみんな!!』
MAKIは観客に向けて言いながら観客と一緒に爆笑している。

「MAKIのMCは乗れるからいい」

『ちょっと待って、もう一回いい?えーと、美男子しかいない学園にあなたが入学して、四方八方から、…いじめられる?』
YUJIの答えには俺までにやける。
『いじめられないから!』
KAIがまた突っ込む。

「ちょっと抜けてんのがたまんねーぜ」

『あ…間違えた』
YUJIが困った様な顔で観客に救いを求めると、「大丈夫大丈夫!」とフォローが返ってくる。
初見だと少々あざといようなYUJIの仕草は、これら全てが本人は「出来るだけしたくないし、自分のそういう所がホンキでキライ」な正真正銘の天然モノなのだから、最早「自覚無き悪魔」だ。

YUJIはどちらかと言えばサバサバした性格なのだが、それでも最近はよく笑うようになった。
俺が初めて会った頃よりも表情が明るく、配信中でもカメラ目線でリスナーに話し掛ける事が増えた。
YUJIのファンなら皆この変化に気付いているだろう。
そしてその変化のせいでリスナーの数もどっと増えた。

『あのー、そんなツライゲームじゃないよ?皆さん。安心してね!?』
アプリのMCも笑って客席に声を投げる。
『ふ!五十嵐さんごめんなさい。えーと、言い寄られる?言い寄られるゲームです』
『んーまあ、そうかな?さっきより全然良いよね!』
『あ!よりどりみどりです。お気に入りを一人選んで、いろんな学園イベントを楽しむっていう、夢のあるものです』
『そうだね!』
『あはははははは!!ちょ、YUJI!』
『良いんだよ?MAKI君。間違っちゃないから』
そんなOKが出てもYUJIは頑張って取り戻そうとする。
『えーと、誰を選ぶかはプレイヤー次第っていうハーレム系アプリですね。他のキャラとも沢山絡みはあるし。で、そのイベントもどんどん増えて行きますので、飽きずにどっぷり浸って貰える感じの。ね?五十嵐さん』
『そう!YUJI君素晴らしい!』
『ホントごめんなさい…ふふふ!』
YUJIは顔を隠すように背中を見せる。
『確かにタイトル通りだったな!』
KAIが言うとまた会場は笑いに包まれた。

「悠二よく頑張った、うん」

そんな時、俺の前を誰かが通ったが、配信が見たい俺は「お疲れ様です」とスマホを見たまま、誰がどう見ても「笑顔です」と分かるような口元を作って簡単な挨拶をしておいた。
(今は話しかけてくるなよ?)
それがさりげなく伝わるようにイヤホンを触ってアピールする。
この時間にこの廊下を歩いているのだから、七割くらいの確率で「演者以外」だろう。
しかし、
「何やってんだ、お前」
俺は稀な方の確率を引き当てたらしい。
顔を上げると、目の前に立っていたのは俺の良く知る男だった。
「ああ、晃介か。お疲れ」
たった今別の現場から此処、「ふて場」に入ったのだろう青柳晃介あおやぎ こうすけは、俺の一番信用の置ける声優仲間だ。
元々学生時代に有名なブランドのモデルをしていただけあって、顔は良いし、身体は良いし、おまけに声も今一番ホットな男だ。晃介の声や演技の良さは、実はもっと歳を重ねてから分かるものだろうと俺は思っている。
俺達は最近は互いに忙しくて会っていなかったが、それまでは仕事帰りにも度々食事に行く事もあった仲だ。
「何で此処に居る?」
台本と水を手に持つ晃介は、さして珍しくもなさそうに俺に言う。
「ああ、ちょっと空気当たりにな。俺も明日からだし、帰りに寄ったんだ。今は悠二のイベント見てるから、休憩の時にでも軽く顔出すよ。長丁場だろ?今日は」
そう言うと晃介は「そうか」と言った。俺はまたスマホを見るが、晃介の気配がまだ俺の前に留まっている為、もう一度顔を見た。
すると晃介は、今度は悠二のファンである俺を少し揶揄うような目を合わせて来た。
「何も此処で見なくていいだろう」
「うるさいなー。タクシーで来たから車が無いんだ。晃介は最近見てるか?悠二のこと」
俺達が高井 悠二たかい ゆうじと仕事をしたのは、今から四ヶ月程前の事だ。小野江おのえマリナが書いたBLの【Reset】は、本も、俺達が演じたCDもかなり好評だ。
「ああ…まあな」
「プレミアムリスナーになったか?」
「いや。俺はもう中に入るが、こんな廊下で独り言ぼやいてニヤニヤすんな。不気味だぞ?」
「悠二が可愛いんだよ。あーほら、さっさと行けよ。皆んな待ってるぞ、魔王様」
俺がイヤホンをつけ直すと、晃介は呆れたように笑って録音室に向かった。

画面を見ると丁度順番の最後にYUJIが自分が声を担当したキャラクターの紹介をするところだった。
『俺のキャラクターはこの子です』
『カッコイイよな!』
『めっちゃカッコイイ!』
MAKIやKAI達もフリップが見易いように少し左右に移動する。
『うん、カッコイイ。性格はちょっとクールな感じで…』
『ちょっといじわるちっくなんだよね?』
アプリのMCは言いながら手に持っているキーホルダーの中からYUJIのキャラクターを探して、後ろの大きなモニターに映すように手元カメラの前に翳す。
『はい。そうです』
『だからいじめられるって言っちゃったんだよね?』
『そうですそうです』
『そしてYUJI君!この子は他の子と違って金の枠がついてますよね!』
『はい、ついてます』
『と言うことは?YUJI君。どういうことでしょうか!?』
『はい。ズバリ、課金です』
観客は爆笑した。

「言うのかよ」
俺もつい笑ってしまい、廊下を見渡すが、流石に今はもう誰も居ない。

『あははははは!ヤバイな!』
『YUJIのキャラは課金しないと出ない?』
KAIがYUJIに確認する。
『うん。デートはできません。選択画面に居ません』
観客から「えーー!」と非難に見せかけ
た笑いが起こる。
『この気持ちいいくらいの課金しろ感が素敵でしょ!?』
アプリのMCが慌てて賛同を得ようとする。
『ホント、最初からこんなにはっきり課金しろって言ってくるゲーム見たことないんですけど五十嵐さん』
YUJIが笑って言う事で観客も「まあいっか」という空気になるから凄いものだ。
『みんな!今日五十嵐さんが出口で300人先着でキャラクターのキーホルダー配ってくれるから!選べないけど許してあげて!』
MAKIが言うと盛り上がる。
『五十嵐さん!五十嵐さん!』
KAIがアプリのMCに向かって挙手をする。
『はい、KAI君!』
『まさかそれもYUJIのキャラ課金じゃないっすよね?1000円払えみたいなの無い?ははは!』
会場は笑いと悲鳴で混乱したが、
『大丈夫です!大丈夫!黒いビニールに入ってるから渡す私も選べないですが、YUJI君のキャラクターも他と同じ確率ですから!皆さんの運ですから、出口で襲わないでね!?』
と、半ば本気のお願いの言葉で笑いへと落ち着いた。
『じゃあじゃあじゃあじゃあ、そろそろ行きますか!五十嵐さん!』
MAKIが声を張った。
『行きましょう!皆さんは大きいモニターをご覧下さい!』
注目させられて一度静まった観客の声は、スピーカーから爽やかな曲が流れて、モニターに桜の花弁が舞うCGアニメーションが映った瞬間にまた大きく盛り上がった。
アプリのデモンストレーションが始まるらしい。
『スゲー!!』
『我らBIGMANIA、記念すべき最初のアプリ、美男子学園です!!』
MAKIに続いてアプリのMCが言うと歓声と同時に拍手も起こる。
如何にも女の子が好みそうな制服姿のイケメンキャラクターが一人ずつ曲に合わせるように切り替わりながら映し出される。
正直に言うと、よくある女性向けのゲームアプリだ。
暫くすると拍手は手拍子に変わり、アニメーションの最後には大きな洋風の校門前に全キャラクターが出揃って、気だるそうな一人のキャラクターが『美男子学園』とタイトルを言った後、『あーあ、眠い。今日アイツ、来んのかな』と言った。
『はい!流石!!ここでモッテルYUJI君!!』
アプリのMCがマイクをボンボンと鳴らしてしまいながら拍手する。
『今のYUJI!?』
MAKIが聞くと、YUJIは『あ、俺』とモニターを見たまま軽く手を上げた。歓声がまた一際黄色い。
俺が知っている悠二の声よりも低く、キャラクターに似合った、「俺様感」をしっかりと意識しているものだった。
「上手いぞ、悠二」

『YUJIじゃないって、えーっと結城 輝夜君だろ!』
KAIが笑ってキャラクター名を言う。
『あ、そうそう、カグヤ君。ごめん』
YUJIも口元を押さえて笑った。
『流石!!』とまだ喜んでいるアプリのMCを『どうせ課金催促のために事前にプログラムした仕込みでしょ?』とKAIが冷やかしてまた笑いが起きた。
『あ!画面ちっちゃくなった!!なになになに!?戻して戻して!?』
MAKIが急に縦長になった映像に慌てるが、
『あのー、すみません。予算の都合で此処からは実際の私のスマホ画面を映してデモやります』
とアプリのMCがごにょごにょと言い、MAKIは観客と同じように手を叩いて爆笑した。
『あーはははは!!オモシレー!!』

「一気にこじんまりしたなぁ」
俺も呟いて、配信を見ている人に、手持ちのスマホの小さな画面の中のその更に小さなモニターで、どうやってアプリの様子を見ろと言うのかと悩んでいたが、mimikone運営のカメラ自体がモニターをアップしてくれたようだ。
「ナイスナイス」

『俺やりたい』
YUJIが今度はピンと手を上げた。
『お!!段取り無視って感じがライブ感あっていいよね!やってやって!YUJI君!私の汚いガチの私用のスマホだけど』
『YUJIがしていいの?じゃあ俺も手伝うー!』
モニターに向かってスマホを弄るYUJIの横にピッタリとMAKIが引っ付くと「可愛い」と声が飛ぶが、二人はアプリの操作に真剣になって背を向けたまま集中してしまった。
『五十嵐さん、カグヤ君居るじゃん!』
MAKIが笑う。
『あ!居ますよ!』
『へー。カグヤ課金したんだ?五十嵐さんも』
KAIの言葉に笑いが起こる。
『勿論!!ちゃんと私の小遣いで課金してますからね!これホント!』
『どうしてそんなに焦るの?まー、その辺りはこれ以上訊きませんけど』
『KAI君!?KAI君!』
『だはは!俺何も言ってないっしょ』
KAIは間を繋ぐ為にアプリのMCをイジって笑いを取っていく。
『あ、始まった!』
YUJIが連動したモニターを見て言う。
『あ!けど今はKAI君ボイスのルイ君でお願いします!大人の事情です!ルイ君は初日から選択して楽しめますからね、皆さん』
モニターに「ルイ君」が映り、選択されるとハートマークが飛び散り、
『しょーがねー。一緒に行ってやるよ』
と、低い穏やかな声が流れてまた歓声が上がるが、
『てか、ね。オカシイでしょお前ら』
次にKAIが言うと「ずっと突っ込んで欲しかった」とばかりに観客とアプリのMCからもクスクス笑いが漏れる。
『え?』
二人が同時にKAIを見る。
『お客様と視聴者様にケツ向けないで?』
『あ!!』
YUJIとMAKIが同時にこっちを振り向いた。

「ふっ!KAIがいなかったら無法地帯だな、NAC」
俺は微笑ましいデモンストレーションを見守り、

『さあ皆さん!たった今から事前登録開始ですよー!事前登録をしていただいた方には特典として、YUJI君の結城 輝夜と、KAI君の鮫島 類のブレザーオフの制服アーンド、お洋服ガチャ券200枚が貰えますので!是非登録お願いします!来月のイッピにリリースですがリリース後の登録は特典貰えませんのでご注意下さいね!あ!強制はしませんので!』
とアプリのMCが言うと同時に、俺は別の画面を開いて事前登録の内容を読み始める。
『みんなで一緒に今日登録しよーぜ!!俺も今するー!』
MAKIがそう叫ぶと、イヤホンから窺える会場が盛り上がった直後に静まり返ったことで、皆が作業を始めたのだと分かる。
「はい、完了っと」
直ぐに画面を戻すとMAKI、YUJI、KAIも自分のスマホを取り出して操作していた。
『あ…ちょ、KAIやって』
MAKIがスマホをKAIに押し付けると『何で!?』と笑いを取りながらKAIがMAKIの手の中で操作を始める。
YUJIは一人黙々と登録を終え、前髪を掻き上げながら会場をゆっくりと見渡し、
『すげー静か』
と言い、また客が喜んだ。

四カ月前、悠二は声優にはならないと言っていた。
正直なところ、それは凄く勿体ない事だ。
だがこうして職業に拘らず、若いうちに色々と体験しておく事は損では無いだろう。それに悠二ならば本気になればいつからでもどこの世界にでも入って行ける気がする。
俺はそんな「YUJI」を陰ながらずっと応援すると決めている。
(頑張れよ、悠二)

そして、NACで一番一般的な性格らしいKAIは、現在このスタジオで収録中の人気アニメ「ふて魔女アリス・シーズンⅡ真ノ魔王」に参加しているという。
一度きりの仕事だったらしいが、ガヤ要員として大西さんが時間があれば来るようにと声を掛けたのだとか。
その事は俺と一緒に明日から「ふて場」に入る哲平、栖本哲平すもと てっぺいから簡単な世間話の流れの中で聞いた。
俺もそうだが、哲平は特に「今回は大丈夫なのか?NACの傭兵は」と多少心配そうにしていた。
悠二の時に導入で躓いた記憶がまだ新しいからだ。それに今回は人数も多いし、俺達より上のベテランも何人も混ざっている。
一人一人が忙しいスケジュールでこの「一箇所」に集まって来ては、集中して仕事をし、また別の現場に散って行くという、ある意味殺伐とした時間の交差点が具現化した「駅」のような場所では、悠二の時のような新人の自由なんてものは殆ど利かないだろう。
「こうやって見てる分には、問題なさそうだけどな」
俺が見たKAIは、MAKIがもはや手放してしまった進行表を持って、アプリのMCと共に事前登録のメリットを詳しく客席に説明している。
それに、引き続き此処に通っているのだから、逆にスムーズなのだろうと考えるのが妥当だ。
俺は香盤表をカバンから出して眺める。
竹山 海たけやま かい
たぶん、これがKAIの本名だろう。
役名は空欄で、入りも何も書いていないが一応名前は載っている。
「それにガヤだしな。大丈夫だろう」
俺はスマホに目を戻す。
丁度KAIが客のリクエストに答えて、「ルイ君」の台詞をいくつかやって見せてアプリへの興味を引いている。
(たまにネタでやってるザラザラしたバスバリトン声は気に入ってるけどな。俺も)
mimikoneのYUJIの部屋に頻繁に通っている俺は、KAIの声の幅も演技力もそこそこなら知っている。
KAIの持ち味である低い声は、同じ声優陣の中で言うならば、今の時点では年齢の若いライバルはそこまで多くいないポジションに思う。
(大西幸人おおにし ゆきとの気が向けば、いつか脇役一つ当たってもいいくらいだ)
素人のくせにずっと此処に出向いて来る姿勢からも、本人も自力の営業も「隙あらばやる」気構えがあるタイプなのだろう。
でなければ、石ころのような扱いを受ける事もあるベテランとの現場に、今の若い子供等が臆せず好んで入って来られるとも思わない。
(ま、俺の可愛いYUJIじゃないんだ。助けはしないけどな)

「あ、終わったか…」
俺がmimikoneのアプリを、後ろ髪引かれる気持ちで終了したタイミングで録音室のドアが開いた。

新人がドアを開けて中からぞろぞろと出てくる。
俺を見つけて「あ」と小さく手を振ったのは中黒なかぐろゆい。三十二歳。
声優歴は晃介と同じくらいの中堅だ。
「お疲れ様」
俺も程々に挨拶を返す。
いつもなら話し掛けてくる彼女だが、今は集中と緩和の間のような空気感もあってか、一度微笑んでから休憩をしに一人で歩いて行った。
続いて目が合ったのは大ベテランの常盤基宏ときわ もとひろ。六十五歳。
大ベテランと言っても性格は少し砕けた感じの、誰にでも構わず話し掛けて歩くような人だ。今も前触れ無く俺の肩に腕を回しながら挨拶もさせずに言う。
「三条くーん。青柳君こわいよ。きっちりし過ぎって言っておいてよ?」
別に晃介が仕切り倒しているわけではない事は分かっている。このチームの中だと多少他より背負わなければならない晃介と、普段から晃介と仲の良い俺。その両方へのこの人なりの挨拶なのだ。
「常盤さん楽でしょ?晃介がやってくれた方が」
「そ。頭良い子居るとすっごい楽!俺は台本読むだけでいいんだから」
「またまたー」
「ホント。別の人だった頃はぐっちゃぐちゃだったからね」
ふて魔女アリスの最初のシーズンの頃は、演者同士で何かと色々あったというのは有名な話だ。
音響監督の大西幸人が「私もうやらないよ?」と急に思いっきり投げ出した回があったのも、有名な話だ。
それでもそれを知らないファン達には『人気アニメ』としてたいそう愛されているのだから、内と外との壁は厚いものだ。そして我々声優の能力も、伊達では無い。
それでなくとも、「見なくていいもの」はこの世に溢れている。
「はは、聞きたくないですそんなの。怖い怖い」
晃介はその頃にも作品に参加している為、先代と同じ轍を踏まないように多少の意識はしているだろうが、敢えて意識していなくとも「安心して任せられる人」というのは存在する。
嫌な役を買ってくれる人が居ると自然と纏まるし、嫌な役そのものも必要が無くなるものだ。
俺にはそんなリーダーシップは無いが、元々乱すタイプでも無い。
「あ、三条君、今度また飲み行こうよ。中黒ちゃんとも言っててさ」
「行きますよ勿論。常盤さんのお酒は美味いですからね」
「嬉しいね」
常盤さんは笑顔を残して離れて行った。

昔の俺は顔のせいでアイドル声優だとか言われ、俺自身がそれを良しと出来なかったが為に、現場での他人の評価を必要以上に気にし、上手く溶け込もうと無駄に意識して毎回精神も体力も減らしていたが、今はそれを一切やめた。
浅く広く、それでも仕事に集中する為の努力や付き合いはそれなりに大事にしている。
今では気持ちよく世話になれる先輩も多く、後輩からもあまり俺への苦手意識を感じない。同期周りには少し冷めているとは言われるが特別仲が悪い相手も無し。
今のこの状態が一番仕事が上手く進められる環境だ。
元々が付き合い下手だった俺が、この良い盛りにこうして精神的な地盤を整えられたのは運が良かったとしか言えない。
そして、上手くこなそうとういう意識にプラスして、俺は前よりもこの仕事や役を貰うという有り難さを実感出来るようになった。

その思考はやはり、あの四ヶ月前の【Reset】の収録現場に由来するのだろう。

悠二と接した事で、俺はある人のある言葉の意味を体感として理解したのだ。







◆竹山 海

「オツカレーーーーーイ!!最高だったな今日!!」
帰り仕度をしていた俺とYUJIの部屋のドアを思いっきり開け放ってMAKIが入って来た。
「ドア閉めろって、MAKI。通れないだろ?」
YUJIはロンTの上に着ていた「国宝」Tシャツを脱ぎながら言う。
丁度mimikoneで活躍しているダンスチームのメンバーがぞろぞろとこの控え室の前を通り、YUJIの言うように道を塞ぐドアを避けるついでについ中を見てしまった順に挨拶を投げてくる。
俺は小走りで入り口に立った。
「あ、お疲れっした。すんませんねドア。もうそっちに開けちゃって良いっすよ。お疲れっしたー」
「みんなオツカレーーーーーイ!ダンス対決マジかっこよかった!またイベントやろうな!」
MAKIは「ホーイ!」とはしゃぎながら、自分にノリを合わせて手を出して来る全員と一人ずつハイタッチをしていく。
俺もMAKIと一緒に、この列が途切れるまではと笑顔で応えていたが、途中、肩に手が乗って後ろを見るとYUJIが俺とMAKIの間に立って廊下を見ていた。
そんなYUJIに驚いたのはMAKIも同じだったらしく、ハイタッチを忘れたMAKIに、手とテンションのやり場に困った通行人達は、MAKIよりも少し下に出されていたYUJIの手に遠慮がちに、それでもやたらと嬉しそうにタッチしていく。
「お疲れっしたYUJIさん」
「ども!お疲れっしたー」
「いつも見てますよ!」
「N・A・C!最高!」
「お先っす!」
「ラッキー!お疲れっすー!」
YUJIはタッチを受けながら「お疲れ様でした」と全員と目を合わせて返している。
俺とMAKIはきょとんと顔を見合わせるが、MAKIが嬉しそうに笑ってからYUJIと一緒に手を出して、いつからか増えた通行人との挨拶をし続けた。
中にはYUJIが持っていたTシャツを握った女の子がいて、YUJIがTシャツを放すとそのまま恥ずかしそうに顔を隠して持って帰ってしまった。
「俺のもあげる!」
MAKIはそれを見てその場でTシャツを脱いで掲げ、それを掴んだ見ず知らずのムキムキな男と「イエーーーイ!」とハグまでした。
「KAI!ほら!KAIも!」
「え!マジ!?いきなりそんなノリ!?」
俺もハイになったMAKIに言われて慌てて脱いで適当に投げると、意外にもめちゃくちゃ可愛いダンサーの女の子が手を伸ばして取って喜んでくれた。
「やべ、クソ可愛い」
引き締まったウエストと短いスカートに目が釘付けになってつい口走ると、笑ったYUJIに頭を叩かれた。

「俺だけ男だったんだけど!ナンデーー!!はははは!!」
漸く列が途絶えてドアを閉めるとMAKIが笑って言う。
「だよな!何で?てか、あんな人いたっけ?」
俺にはどうも名前が思い浮かばない。
「俺も知らないけどとりあえずハグしておいた!それよりヤバー!Tシャツ配っちゃったよ!三山さんのお金で作ったのに!どーしよ!」
「いいんじゃね?別に」
YUJIはスマホで誰かにメッセージを入れながらバッグを肩に掛けて立ち上がる。
最近YUJIはよくスマホを弄っている。
「いっか!また作ってもらおー!てか勝手に発注しとこ!」
「で、三山さんもう車回してくれてんの?MAKI」
俺はそれを確認しに行っていたはずのMAKIに尋ねる。
「あ!ヤベー、忘れてた。もう裏に来てるよ」
俺達は笑って、特に急ぐでも無く控え室を出た。

「はいはい、お疲れさん。うあ寒っ!早く閉めろ!」
ファン避けの為に建物の裏手に停めてあった三山さんのワゴン車に俺達が乗り込むと、三山さんは暖房を強めた。
「片付けいいの?手伝わなくて」
助手席に乗ったYUJIがあっという間に暗くなっていた外を見ながら言う。
「道栄さんと俺で業者頼んである。お前らがゆっくりお着替えしてる間に殆ど済んでるぜ。お前も後ろ行けYUJI」
「うん」
「KAI、そこにタブレットあるだろ」
俺は前に居る三山さんに言われて、YUJIが一番後ろに行くのを待ってから隣のMAKIの背中に潰されていたタブレットを引き抜いた。
「フォウッ!こちょば!」
「あっはは!!ありますよ、三山さん」
「道栄さんと五十嵐さんにメール送ってくれ、どっちのももう文章作ってあるから」
「はーい」
言われた通りに未送信のメールを確認して送信した。すると三山さんの横の窓がノックされる。見ると会場の警備スタッフだった。
三山さんは窓を開けながら被っていたハットを助手席に置いた。
「お疲れ様です。すみません、もう車出しますので」
「そうですか。じゃあついでに裏の門を開けますので、良かったらこのまま右へ出て下さい。表、かなりお客さんが残ってるみたいなので」
「あー、助かります。ご迷惑お掛けします」
「では」
「ありがとうございました」
警備員が前を走って行き、三山さんは、
「お前らカーテン閉めてろよ」
と言ってゆっくりと車を動かした。
「きゃは!俺ら芸能人!?」
「いいからMAKI、そっち閉めろ」
俺も自分の横と真後ろの、YUJIの居ない方の座席のカーテンを手伝った。
三山さんは出口でもう一度警備員に会釈して誘導に従ってスピードを上げた。
その時に数人の女の声が聞こえた。
「この後どうするんだ?お前ら」
「俺は三山さんち行くー。配信していい?」
MAKIはまだまだ元気があるらしい。
「ああ。二人は?」
「俺は帰ります。明日ふて場行くんで。YUJIは?」
「俺は…えーと、このままこの道走っててくれれば途中で降りるから」
「何だソレ!」
三山さんとMAKIと俺は同時に笑った。
「危ねえってYUJI!」
「え、飛び降りたりしねえよ。それ死ぬし俺」
MAKIが本気で安心して爆笑するのを見て、YUJIと俺も「この疲労でスタントかよ」と、つられて笑う。
「お前ホンットに怪しいな、最近」
三山さんだ。
「何が?そんなこと言っていいの?」
YUJIは身を乗り出して運転席に言う。
「う…。あっ!お前ら腹減ってないのか?」
何やら一瞬で降参した三山さんとルームミラーで目が合う。
「かなり減った!」
「俺も!めっちゃペコペコ!三山さん、俺ハンバーグ食べたい!」
MAKIも声を大きくする。
「お子様ランチな。YUJIはどうする?」
「ランチとっくに終わってるし!」
「んー、まだ多分時間あるから付き合う。喉乾いた」
「OK。ま、ファミレスだな」
「なーランチ終わってるんですけど?社長」
俺はさっきのYUJIの妙な言い回しが気になって後ろをそっと振り返ると、YUJIが俺に気付いて、何処にどんな風に隠れたいと思ったのか、
「お子様ディナーでしたねーん」
「顔!ウザァ!あははははは!」
咄嗟に何もできなかったYUJIはMAKIのシートに頬を付けると俺に小さく笑って、また背を後ろに凭れさせてスマホを弄るように翳し、顔を隠した。
(なんか…赤くねえか?YUJIの顔)
「なあなあ、Tシャツの事言った方がいい?」
MAKIがコソコソと俺に言い、YUJIにも意見を求める。だが、普通に三山さんに聞かれていた。
「Tシャツあげたんだろ?お前ら」
「ええ!何で知ってんの!?」
「持ってたし。出て来るコが着てたし」
MAKIが「あーちゃー」と笑う。
「あっそうだ!ガチムチがお前の着てたぞ!?」
「きゃはははは!!あげたの!俺が!あの人着てくれたんだ!?」
「可愛い女に渡せよバカだなー。胸のぱっつぱつの意味が違うだろ?」
三山さんは別に怒る気も無いらしい。
「まあ、次はちゃんと作ろうぜ。今度は数作って何かの企画で配ろう。んー、とりあえず30ずつ発注しとけMAKI」
「やった!!太っ腹じゃん!!」
「ああやって着てくれんなら宣伝になるからな。これは無駄金じゃねえ」
「確かにそうっすね」
俺は頷きながらもう必要の無いカーテンを開ける。
「なあMAKI、次、平仮名でみやまってプリント作ったら?」
YUJIがMAKIのシートを抱いて覗き込む。
「みやま?みやまTシャツ?ははっ!良いかも!可愛い可愛い!あ、けどそれ着たら動く的じゃねえ!?」
「あ…」
「あーもう絶対ヤバイ!生卵ぶつけられるよな絶対!」
俺は想像して暫く笑いが止まらなかった。
「お前らなー」
何だかんだで今回俺達が着ていた三つのロゴと、三山さんが着ている「社長」に追加して「みやま」と「NAC」のTシャツを作る事になった。
MAKIの決定で、より多くの女子に着て貰う為に「みやま」Tシャツには文字と同じ筆書きのリボンマークを付ける事となった。



「ご馳走様でした」
YUJIがファミレスで別れてから、俺は姉と借りている自分のアパートまで送ってもらった。
「ホントお疲れ、ありがとさん。明日頑張れよKAI」
「はい。お疲れ様っす。じゃあなMAKI」
「おう!KAIまたな!おつおつ!バーイバーイ!」
助手席に乗ったMAKIは車が動いても窓から頭を出して手を振る。
「ははっ!危ないっての」
(どんだけテンションおばけなんだっつーの)
三山さんのワゴンが見えなくなると郵便受けに向かいながらスマホで時間を見た。
九時半。
「まだこんな時間か。良かった、間に合うじゃん」
姉が一切受け取らない郵便物を手に階段を上がるが途中で着信が入って、声が響く階段を下り、コンビニ方面へ歩いた。

「お疲れ様っす」
『海?今いける?』
「大丈夫っすよ新尾さん」

新尾にいおさんは俺のバイト先の先輩だ。
俺は普段、フィットネスジムのスタッフ兼トレーナーをしている。
バイト先にはmimikoneの事もNACの事も話していて、NACに入る際に事情を説明して、不規則な仕事で迷惑をかけるだろうから辞めさせてくれと言ったが、有り難い事に理解のある会社で、元々大人数で回しているタイムシフト制だから辞めなくていいと言ってくれた。
俺はその厚意に甘えてかなり自分の都合でシフトを入れて貰っている。

『イベント、控え室で流してみんなで見てたぜ。頑張ってるな』
「げ、マジっすか!?めっちゃ恥ずかしいっすね!」
『おたふくちゃんがNAC厨だからな。お前人気あんじゃん。びっくりしたよ』

おたふくちゃん、というのも先輩で女。そして古参の「三山信者」だ。

「お陰様で。ホント勝手ですみません、シフトも中途半端だし」
『いいって。後輩が有名人って悪くないし。夢追い人だろ?ウチの誰も邪魔しねーよ』
「感謝っすよ、ホント」
『あー、それでさ。あの子、名前何だっけ?あのー、綺麗な子』
「YUJI?」
『YUJI!!サイン貰ってくんねー?七枚。それと三山って人のを二枚と、MAKI?だっけ、もう一人の子。それも三枚貰ってくんね?』
「ちょ、それの電話っすか!?新尾さん」
『うん』
「だっははははは!!有名になったらサイン強請られるんすか俺!」
『えー?そんくらいしろよお前ー』
「あっははははは!!いいっすよ!頼んでおきますよ!」
『やった。サンキューな』
「誰にあげるんすか?」
『ウチのスタッフと、社長と…』
「社長!?」
『来てたんだよ。で、一緒に見てた』
「あはははは!何やってんすか!で?みんなと?社長と?」
『と……俺』
「俺も来ちゃったーー!!」
二人で笑っている間にコンビニに到着した。
『ったくよ!まあまあまあ、社長のだけでいいから、名前書いて貰ってよ』
「社長のだけっすよ?」
『まーーたコイツ!!』
新尾さんの独特な笑い方が輪をかけて俺を笑わせてくる。
(めっちゃYUJIのサイン欲しいんだな新尾さん)
「あーあ、ウケるっすわー。了解です。ちゃんと頼んでおきますよ」
『ありがとさん!ほいじゃ、あ、お前のサインもだぞ。お疲れーがんばれー」
「はは!最後テキトー!はーい、失礼しまーす」

スマホをパンツのポケットに入れようとすると今度は姉から掛かって来た。

『下まで帰ってたでしょ?』
「今コンビニ。何か要るか?」
『うん、何か買って来て』
「何がいいの?」
『わかんない』
「めんどくさいなー、いつものでいいんだろ?」
『任せた。あと20分でラジオ始まっちゃうよ?』
「うん、すぐ帰る。あ、課金カード買ってってやろうか?」
『だいちゅき』

俺の姉、竹山 美音たけやま みおんは24歳のゲームオタクだ。格闘ゲームが昔から異常なくらい強くて、俺もそこそこ強いが一度も勝てた事がない。
姉は三年前からWORLD TUBEでゲーム実況者を始め、ちょっと有名になった頃にスカウトされたプロゲーマー育成チームに入っている。
昨年はアメリカで行われた世界大会で賞金を獲って、さらに釣りまでして真っ黒になって帰って来た。
「女の子」というには少々…。

「あーもー、片付けろよ」
姉はとにかく靴が好きで、バカみたいに靴ばっかり買ってくるのに一切下駄箱に入れない。
いつも通り、玄関を入ってすぐのキッチンにその姉は居る。
「蹴らないでよー。それ7万だよ海」
「靴ばっかり買ってないで、この百均のカチューシャとヨレヨレのコレ何とかしろよ。昨日も着てたじゃんそれ」
ピンクの見るからに安いカチューシャを軽く叩いて、モコモコのグレーのワンピースの伸びた肩を摘んでから冷蔵庫に向かう。
「ブラ線見んな。エッチ」
炭酸飲料と姉の明日用のゼリーを入れて冷蔵庫を閉める。
「ケーキもあるけど、いつもの酢イカでいいの?」
「んー、いま?」
「うん」
「ケーキが良い」
姉は今ライブ配信の為にメイク中だ。
夜間にオンラインでランダムなプレイヤーとマッチしてぶつくさ文句を言うのを垂れ流してファンに付き合って貰っている。
コンビニのショートケーキを皿に乗せて、クリームの天辺でドヤる苺をフォークで刺して外し、フォークごとケーキの横に添える。そしてその皿を課金カードと一緒に鏡の後ろに置いた。
「置いとくよ?」
「かーくんだいちゅき」
ライトで顔を照らす仕様の鏡を見たまま、ピンクのグロスを塗った唇をチュッチュと動かす。
いい歳して「ありがとう」が恥ずかしいのだとか。
(そっちの方が恥ずかしいだろ)

俺は三年前から、姉のチャンネルでは「彼氏のかーくん」だ。
ゴミの中でも一週間は平気で生きられる姉だが、配信中は格ゲーのキャラさながらの派手なメイクを頑張り、出来るだけ近い日に同じ服を着ないという決まりを作ってカメラ前にいるし、美人タイプではないが顔もふっくら可愛いく、下手にグラマラスなので格闘ゲームなのもあって女より男のファンが圧倒的に多い。
女の配信者の多くが悩まされるのは、男のファンからの執拗なストーキングだ。
大量のDM、配信中のセクハラコメント、最悪は家まで特定しようとしてくる奴がいる。
俺は「お父さんとお母さんに何かあったら怖い」と姉が親に言わずに家を出て配信者になろうと決めた時に、自分から二人で住もうと言った。姉は「ついでに彼氏役もやってね」と言った。
親も俺と一緒なら家を出る事も配信者になる事も良しと許可し、ここを探してきて頭金を払った。
姉のスマホ料金と駐車場代だけはずっと親が払ってくれている。

勿論俺は、mimikoneの「KAI」だ。
そしてNACの。
姉のチャンネルに顔は出していない。
面倒なコメントが来る日に姉は「かーくん、変な奴また来た」と叫び、俺は「ゲームなんかするからだろ」と声だけ返す。
配信を終えて欲しくない他のファンが慌ててその悪人を退治してくれるからだ。
一度だけ姉に頼まれてSNSに顔から下だけの写真をアップされた。
「デートだよ♡」というコメント通りに、顔を盛っている実の姉を腕に抱く気分は何とも言えないものがあったが、小さな頃からずっと一緒に居るのでそこらの姉弟よりは仲は良い。

「ねえ、海」
「ん?」
姉は椅子から立ち上がって鏡の向こうにあるケーキを横着して取る。
グレーのワンピースの中の小さなピンクの下着が見えるが、こんなのはいつもの事だ。
「ラジオ、始まるよ?」
苺を口に入れて振り返る。
「そーだった!危ねえ」
俺は急いで自分の部屋に入ってPCの前に座り、マウスを動かしながら上着を脱いだ。
「おいしかったー!おっしゃあ!シャキッと着替えるぞーう!」
秒でケーキを食ったのだろう姉の無意味な宣言が聞こえてくる。

そんな姉の弟である俺は、

声優マニア、だ。

「ぴったり始まった」

『こんばんはー!橋下風也の生ラジオ!Casa Fuuu ya!今夜はシークレットゲストの日!やっと来て下さいました!みなさんお待ちかねのこの人!声優界きってのイケメン様をゲストにお呼びして、良ーい香りも乗せて始まりますよー!』

一言一句聞き逃させない完璧な滑舌の橋下風也はしもと ふうや
ボリュームアップするジングルに乗せて提供が読まれる。

「きってのイケメン?…誰だろ。最近多いからなー」
俺がいつも聴いている人気声優の橋下風也の週二回のラジオ番組。
一回は今日のように生、もう一回は収録分だ。
基本的には橋下風也の出演中の現場の話やその作品の番宣のような内容だが、今日のように不定期でゲスト声優が来る。
これがまた楽しみで、番組開始から二年近く、聞き逃したのはほんの数回だ。

段々と小さく絞られていく明るいボサノヴァ調のBGM。

「くるぞ…」
俺はヘッドホンを耳に押し付けて集中する。
ラジオは完全なる無音となった。

『僕が来たからには、今夜、君は眠れないね』

エコーの効いたこの台詞はネタである。

「おおっ!?珍しい!!」

「海うるさい。ライブするのー」
「あ、ごめんごめん」
「シークレット誰だったの?」
三条 司さんじょう つかさキタ」
「マジ?王子なの?録っててー」

『ということで!超レアカード引きました!』
『はい、僕でした』
『いやーもー、カッコいい!美しいです!そして良い匂い!!』
二人の笑い声。

「はい、確定。俺得神回ドーン」
俺はモニターを一人で指差す。
「海!聞いてる?」
「録ってるって。安心して」

『いえいえ』
『じゃあ、ドキドキしてるリスナーに向けて、神々しいそのお名前をお願いします!』
『神々しい?』
『神々しいです。お願いします』
『はい。三条司です。こんばんはー』

「やっべ…。まさかだったなー」

『僕らの王子様、三条司さんです!パチパチパチパチ!』
『ありがとう。へー。拍手も口でするんだね?』
『声優ですから!』
『手抜きとか、SE付けてくれないとかじゃないんだよね?』
『ははは!違います!違います。ボタンここにありますから!どんどん押して下さい。拍手はここです!拍手ー!』
『あ、ホントだありがとう。あーなるほど…なかなかうるさいね?』
『捨てましょう、こんなモノ!』
二人してクスクス笑いが起きる。

「ちょ!二年も愛用してきたのに」
SEボタンはリスナーからの提案で採用されたもので、毎回喜んで押していた橋下風也の声を思い出すと面白い。

『いつものボタンは今日はお休みです。はい』
『はい』
『もうお忙しい中、本当にありがとうございます三条さん』
『こちらこそ。前に約束したのよね、僕ら。共演した時に』
『そうです、確か四カ月くらい前ですよね。夏に』
『そうそう』

「四カ月前の三条司と橋下風也?…って、え!Resetじゃん!」

丁度その頃にこの二人が一緒になるのなら小野江マリナのBLCDの【Reset】しか有り得ないと、俺の脳内にある「声優特化の辞書」が言っている。

そしてその【Reset】には、我らのYUJIが主役で参加している。

『僕現場以外でこうやって三条さんとお話しするの初めてなんですよ?』
『あれ?そうだった?あー、でもそっか。そうだよね。橋下君とはしょっちゅう何かの現場で会うから、改めてって感じが全くしなかったよ。気楽に来ちゃった』
『え!嬉しいです!僕は今日の事が決まった日からすっごく意識してました!楽しみだし緊張するし、シークレットだから誰にも言えないしで、さっきまで大変でした!今日ホント嬉しいです!』
『ふふ、大袈裟だよ』

「そーいえば、確かに無かったよな。この二人がトークって」
三条司がゲストだった上に二度美味しい感じだ。

『約束、忘れられてるかなって思ってましたよー』
『遅くなったね、ごめんね橋下君』
『全然全然!嬉しいです。そしてあの収録が懐かしい』
『ねー。あの人は?来た?』

「誰?」

『あ、まだ来て頂けてないですね』
『だよね』
二人はまた笑う。
『三条さんと同じくお忙しいですからね』
『僕より忙しいからねー。死ぬ日までキープなんじゃないかな』

(三条司より現在忙しいってなると、青柳晃介だな)
わざわざ三条司がネタにするのも友人だからだろうし、青柳晃介は現在三つのアニメに参加している。それ以外にもまだ公開していない仕事も多々あるだろう。

『わー、地獄ですね。あ、いえいえ、我々は求められてナンボですからね』
『そうそう。ね。けど僕最近ちょっと暇だよ?』

「なワケねーじゃん。てか良い声してんなー」
三条司の声は特別ずば抜けた特徴は無いが、役によって全体的に終始高かったり、また違う役だとずっと低かったりと決めた音域でキャラを守る。
そして何より、今話している地声からして優雅でセクシーだ。

『お休みあるんですか?』
『ある。丁度今まとめて終わった所だから』
『じゃあ、訊いちゃっていいですか?何されてるんですか?お休みは』
『そーだね…何してて欲しい?』

「シャンパン飲んでた、パリのシャンゼリゼ通りで」

『え?優雅なバラ風呂とか?』
『あ、おとといしたよねー』

俺と橋下風也が、同じ日本の別の場所で爆笑する。

『浮かべて入ったよ。勿体ないけどさ』
『はぐらかされる!』
『そんな事ないよ?』
『ホントは何してたんですか?』
『寝るのが好き』
『寝てた!三条さんのお休みは寝ていた!』

「天蓋付きのベッドで?」

『バラ風呂でね。ふふふ!』
『あ!バラ風呂で!』

また俺と橋下風也が笑う。

『全裸でお昼寝だよ』

「どんだけ?」

『セクシィーー!!』
『ああ、セクシーな方向にいっちゃったか』

俺はワイヤレスヘッドホンをズレないように正して椅子を立つと、クローゼットを開けて上着をハンガーに掛けた。

『あれ、僕が違いました?』
『もう38だからさ、王子ってのを返上しようかと思うんだけど』

「38か、見えないよなー。最近はちょっとくらい老けたのか?」
暖房を付けてライトの明かるさを落とした。

『お誕生日だったんですよね!おめでとうございます!あの、裏に今日バースデーケーキご用意してるので。後半で』
『え?なんにも嬉しくなーい』

「はは!ひでぇ」
三条司はノリも良いが、ちょいちょい冷めた感じの我儘タイプだ。

『はははは!ちょっと三条さん!』
『38回目だからさ、何の感動もないよね。これからは素敵なおじさんを目指したいかなって』
『おじさん!?待って下さいよー!無理ですよ。三条さんは王子ですから。27くらいで止まってますよ』
『えー?』

「あー確かに27って感じ。絶妙だな橋下風也。あの顔でおじさんは絶対無理がある」
YUJIと買いに行ったパイプベッドに座って、靴下を脱いで部屋の入り口に置いている洗濯機行きの特急カゴに投げ入れる。

『27ってさー。キッツイよもう』
『ダメですよ。改めて向かい合っててその美貌に僕ドキドキしますもん』

「ドキドキは違うだろ」

『上手いよねーホント』
『違います!ホントです!』

「どっちだよ。ま、嘘ではなさそ」
橋下風也は多少あざといが、全くの嘘を言うタイプでは無い気がする。

『気分が良いよ、橋下君がそう言ってくれるから』
『そんなつもりじゃないですよー』

この三条司は、持ち前の綺麗な顔立ちと立ち居振る舞いで「王子」と呼ばれている。
最近でこそメディアへの露出が増えたものの、十年程前までは事務所が出す写真くらいしか情報が無かった人だ。動いているのを見たければイベントに出向いて行くしか方法が無かった。当時から写真だけでも「王子」と既に呼ばれていたのは、見た目の他にもこのセクシーな声のせいもあるだろう。

『ではここで一旦、ゲストの三条司さんとご一緒に』
『はい』
『僕が出演させて頂いているアニメ『ひと夏のメッセージ』より、僕が歌わせて頂いた、いつものこの一曲を、お聴き下さい。どうぞ!』

俺は洗濯行きのカゴを持ってキッチンに行くとグラスに炭酸飲料をたっぷり注いで半分くらい飲んだ。
橋下風也の歌を聴きながら、風呂場に行き、姉が唯一きちんと洗ってある湯船をさっと水で流してから、栓をし、シャワーと蛇口を切り替えて自動湯張りのスイッチを押す。

三条司が当たり前のように姿を見せるようになったのは、丁度、青柳晃介が急激な注目を浴び始めた頃からだと思う。
俺にとって青柳晃介の存在はある意味衝撃的だった。
それ以前にそこまで表立ってワイドショーなどで私生活を注目される声優があまりいなかったのもあった。
声優界について俺は、秘密のベールに包まれた世界であり「裏方感」を持っていた。
だからこそオンラインゲームで遊ぶ友達の中にいても、自分は少し大人びたつもりで親からの小遣いを全て費やし声優界をマニアックな目で追っていた。
俺が初めて禁忌の如く大人の世界を見た気がしたのは「エロ本」では無く、身の回りの友達がまだ誰も買わない「声優雑誌」だった。

俺がこの世の中を多少知り始めた頃に現れた青柳晃介は、色々と揃い過ぎていて、声優だと言われても「結局はモデルなんだろ?」とか、「俳優に転向したいから注目必須の映画の声当てたんじゃないの?」とか、正直なところそう思っていた気がする。
当時は「にわかが増える」という厨に入った意見も目にしたりした。

きっと最初からそんなものは何処にも無かったのだろうが、俺にとって、良い意味で俺の中にあった理想の声優の「垣根」を壊したのは、たぶん青柳晃介だった。
と言っても青柳晃介は結婚や離婚をいちいちお世話なメディアに取り上げられつつも、ずっと声優で、モデルとしての肩書きで仕事はしないし演技も声も秀逸だった。
俺ら世代の声優マニアの中で、あの中学高校当時、青柳晃介と三条司は他とは少し違う棚に置くような存在だったと思う。
変な言い方をすれば、「中の人」を初めて「こんな風に存在するんだ」と思った瞬間だった。
共演をきっかけに友人同士だという噂があった二人が、ある時初めて対談した雑誌の記事や写真を見た日のインパクトなんてのは強烈で、ファンとして揺るぎない憧憬の念を持ったものだ。
それと同時に、夢中になって毎日同じその記事を読み返すうちに、不思議と「カッコイイ兄さん達」という、まるで身近な親戚に対する思春期的な思い入れも足されていったように思う。
だけれどそれは「あんな風になりたい」と言うよりは、「こんな人達を俺はよく知ってるんだよ」と、自慢気にしているような感じだった。

俺は今でも声優マニアの古参には「じゃあお前ら青柳世代か」と言われたりする事がある。それが嬉しかったりもする。
因みに現在30~50辺りのマニアは「林 典隆はやし のりたか世代」だ。
そして俺と同じ「青柳世代」のアニメを見て育ち、「青柳さんに感化された」と公言する今の橋下風也という天才。
だからつまり、青柳晃介と三条司の登場は「革命」だったのだ。

俺と殆ど違わないあのタイミングで二人を見て、「あんな風になりたい」と思った側に居たのが、橋下風也なのだろう。
だから橋下風也に対して俺達世代のマニアは、橋下風也がもし、今の様に天才でなかったのだとしても、ほぼ無条件で、勝手ではあるが表に出てくれた勇者、仲間のような目で、現状と変わらず応援していたはずだ。

とは言え、こんなのは一部のマニアが勝手に言っているだけの事で、
多くの人々はいちいちそんな事を考えていないだろうし、たぶんそんな大それた変革など無かったのが現実だろう。

それでももし「今一番会いたい声優は?」と訊かれたとしたなら、女の声優以外なら「三条司」と俺は答える。
何故なら、青柳晃介には幸運にも既に会えたからだ。

そして、三条司の芸歴は、実は青柳晃介よりもまだ何年も長い。

風呂場を出ると姉がキッチンで俺のグラスの残りの炭酸飲料を飲んでいた。
「ゲップ出すなよ?」
「私の酢イカは?」
姉のピンクの短い爪の両手がヘッドホンに伸びて来るが回避した。トイレ休憩だったらしい。
「ここ。ほら。ジュースは?もういいの?」
「このまま残り貰ってく」
「おん」
姉が部屋に引っ込んで、新しいグラスに飲み物を用意して俺も部屋のベッドに戻る。

『はい。改めまして、ゲストの三条さんです』
『はーい、こんばんは。橋下君歌上手いね』
『おー!ありがとうございます!僕あれですよ、一番最初のオーディション、三条さんのキャラソン歌ったんですよ?』

俺の辞書に追記された。

『そうなんだ?どれだろ。受かった?』
『受かりました!歌の人が多かったんで直前まで悩んだんですけど、どうしても三条さんの歌がよくて』
『へー。可愛いねーホント』

「感情どっかに飛んでってんじゃん」
俺は三条司の言い草を笑う。

『そんな!全然です。でも栖本さんに、何で俺のを歌わなかったんだって言われました』
二人は笑う。

「あれはオーディション向きじゃないよな」
栖本哲平は橋下風也と同じ事務所の先輩だ。主役としてというよりは名脇役としてマニアからの人気は平均してずっと高い。任侠だったりヤンキーだったりの男くさい役が多いが、女のマニアが意外にも多いのが栖本哲平だ。
私生活を見せずにいたのに、子供が産まれた日に直ぐに病院に駆けつけて、SNSで親子三人の写真をファンに出したのも好印象だったのだろう。

『確かにね。哲平のキャラってちょっとクセがあったよね?』
『そうなんですよ!目立つには良いですけど、ちょっとテンションが必要な歌で』
『橋下君でもオーディション緊張する?今でも』
『当然ですよ!毎回ガッチガチです』
『僕も慣れないな』
『落ちることあります?三条さんが』
『結構落ちてるよ?』
『え?』

「え?」

『落ちるよ?難しいかなーってヤツで落ちるよ』
『えー!意外です!』

「難しいとか思うんだ?意外」
数年前に演じた大男の役は、俺でもエンディングで名前を見るまで気付かなかったくらい別人だったが。

『いけるなってのは受かるよね、やっぱり。比較的緊張しにくいからさ』
『それはありますね。緊張はホント辛いですよ』
『ねー。オーディション前に常盤さんに会うと受かるってジンクスがあるよ僕』
『常盤さん!』

追記された。
常盤基宏はベテラン声優だ。人気アニメによく出ていてファンも多く、こうして本人が居ない場所で名前が上がる事が多い人物でもある。「常盤さんと飲みに行ったときにー」というフレーズは老若男女問わず頻繁に聞く。
高齢ではあるが自身のSNSでもよく飲み会中の写真をアップしていたりとアグレッシブなイメージだ。
俺は「ふて場」で、主人公アリスの師匠である「黒猫のマンマート」役の常盤さんと挨拶程度だが話した事があり、印象としてはフランクな人だった。
何かの対談で、俺達世代のマニアの中では「神」と呼ばれる林典隆の事を「のりちゃん」と呼んでいた記事もあった。
俺の年齢か、それより若いマニア同士の会話なら、常盤さんの事は「マンマートさん」で通じる事が多い。

『緊張を取ってくれるんだよね』
『少し分かります!僕なんかにもいつも目が合えば話し掛けてくれるから嬉しいです』
『ねー。あ!出てきた!』
『ケーキ来ましたね!食べましょ!』
『ありがとうございます。キレイだね、大きいし豪華。ラジオなのが残念だよ』
『王子様をイメージしたデコですよ!ホームページに写真アップするので、リスナーの皆んなはそっちで見て下さいね!宝石みたいですね、苺』
『橋下君撮ってあげるよ』
『逆ですよ!三条さんのお祝いですから!』
『あ、そうか。じゃあスタッフさんに撮って貰おう』
『そうしましょ!』

「つーか、めっちゃ見たいんだけど…。ここのスタッフ終わってからアップするんだよなー。リアルタイムって言葉知ってるのかよー」
ホームページのタイムラインをチェックしても昨日の記事のままだ。
「忙しいんだろうけど。もういっそ俺を雇ってくんねーかなー。悪いようにはしないのに」

『橋下君、アップしていい?僕の二年くらい前から更新してないここに』

この番組のスタッフよりもずっとズボラな三条司。

『どーぞどーぞ!!え、僕も今アップして良いんですか?』
『しよしよ』

「ナイス!」

俺はPCに駆け寄り「KAI」とは別のアカウントで、フォロー済みの三条司と橋下風也のSNSのページをそれぞれの画面で開く。
橋下風也の更新の方が早かった。
「ガチだ」
バースデーケーキが写るようにかなり引き気味だが、二人が豪華なケーキに寄り添うようにしている。
橋下風也の方には『今夜のゲスト三条司さんです!ドキドキのバースデーケーキと』というコメントと番組のURLがあり、
三条司の方では『橋下君のラジオにお呼ばれ中。誕生日祝ってくれたよ』とある。
「顔…めっちゃ遠いけど良い写真。あ!27だ!」
俺はケーキの蝋燭が27を表している事に気付き、大いに満足した。

普段はこんな感じで声優特化辞書を充実させているものの、俺なりに「声優マニア」と「竹山 海」は分け隔てて「ふて場」に行っているつもりだ。
「ふて場」で見た「口外に支障のあるもの」をマニアの仲間に言ったりする気は無いし、それはルール違反だ。
YUJIやMAKIにはちょろっと言ったが、全くの一般的なファンには絶対に言わない。

「もう風呂入んなきゃ。疲れたなー今日」

ヘッドホンからの空間で三条司と橋下風也が楽しそうに会話をしていて、書き留めたいネタは沢山ありそうだが、身体が疲れていた俺は録音しているのもあって、今日はここまでにしておいた。
「明日も気合い入れてこ」
音響監督の大西幸人には、暇があればスタジオに来るように言って貰えている。
俺にそう言った時の大西監督の目は「毎回来なさい」と言っていた。
(ありがてぇ)
週に三回の四時間も無いくらいの収録で、俺が声を出すのは一日に一回だけ、そんな事は当たり前だ。
それでもかなり幸運だ。
大西監督は最初「もうちょっと居て、他の悪党もついでにやってよ」と言い、毎回スタジオに来る俺にも新人の声優と変わらないチャンスをくれている。

分け隔てていると言っても俺も人間だ。
人数が増えたり減ったりする現場で声優達の仕事を生で見るとやはり嬉しい。
そういう意味でもスタジオに入れるのは「ありがたい」。

「明日からエンビリアンとシュニックが参加だよな…誰が来るんだろ」

今シーズンのふて魔女アリスは、ラスボスの真の魔王を含む中ボス以外の、その他の重要な敵キャラの声優は放送を持って発表とするというファン泣かせの完全なシークレットだ。
(それだから余計に沸くんだけどな)
出演者にもそのキャラが参加する直前まで香盤表は空欄だ。
だが、一人だけ全ての出演者の名前を事前に知っている人物がいる。
真の魔王エティリオ役の青柳晃介だ。
「…今日行ってたら分かったのにな」
新たに参加する二人のキャラの声優の名前は今日の収録で知らされたはずである。
「気になって寝れねーぜ」
勿論アニメや声優のファンが今、嵐のようにこぞって必死に無力な予測を立てている。

しかしながら、今夜の橋下風也のラジオを聞いたファン達は、その予測と言う名の熱い要望欄から、一つ重票な名前が呆気なく外れたのを知ったのだ。

「ふて魔女イチの、残忍で美しいエンビリアンは、三条司じゃなかったのか…」

確実に動向を見張られている対象が、既にふて魔女アリスに出演して惜しまれる役目を終えた声優のラジオにふらっと出る。

これは「外れのパターン」だった。

「大西幸人。これはひでーよ…」







翌日、俺は九時半にスタジオに入っていた。
今日は出演者が少なく、俺を含む所謂新人達はいつもより気楽にしていた。
「竹山さん、エンビリアン誰か知ってます?」
録音室の出入り口近くに座って極端な小声で話し掛けてきたのは西原にしはらあきら、二十四歳。
「知らないんすよね。シュニック兄さんも」
「あーマジ?」
「知ってます?」
「うん」
「誰?」
すると西原さんはくっくと笑って答えない。
「ひっでー。教える気無いんじゃないですか」
「外、フラついてみたら?来るんじゃない?」
またくっくと笑う。
「じゃあ…ちょっとだけ」
俺は廊下の長椅子で時間を潰している声優達の気が逸れないように静かに広場まで歩いて行った。
そこにも白くて丸いテーブルと椅子が置かれていて何人かが台本を見たりスマホを弄ったりして、朝は基本的には皆一人ずつ距離を開けて座っている。
すると、
「竹山君、だっけ?」
急に後ろから廊下に居た常盤さんに呼ばれて驚いた。
「はい」
「お菓子取って来てくれないかな?お腹すいちゃった」
「何でもいいですか?」
「うん。あ、バナナあったからそれで」
「分かりました」
「ごめんねー」
俺はすぐに広場に行き、出演者がそれぞれ持って来た「差し入れ」が置いてある長机から、バナナを一本取った。
(これ用意したの、中黒さんだよな)
中黒ゆいは何度かSNSで「今日も大先輩の好物持ってお仕事いきまーす」とバナナの写真をアップしていた。それに対して常盤さんがハートマークのみのコメントをした事も一度だけあった。
「どうぞ、常盤さん」
「ありがと。助かるよ」
「いえ」
ついでに椅子の近くにあった小さなゴミ箱も常盤さんの手の届く範囲に置いてからもう一度広場を見ると、
(あ!!)
マスクをした栖本哲平が奥の階段を上がって来た。
いつの間にか横に立って居た西原さんが小声で言う。
「シュニックは栖本さんだったよ」
「マジっすか」
(もう最高じゃねーか!!)
余裕が無くなるといつも口汚く可愛いアリスを罵るのが印象的なコミカルなシュニックは、エンビリアンの相方だ。この二人のキャラは中盤から終盤まで長く活躍する為、ファンの注目度はとても高い。
そして中盤はどちらかと言うとシュニックの方がメインになる。
エンビリアンが本性をさらけ出すのは、一度アリスに瀕死にまで追い込まれて真の魔王に復活をさせて貰った後からだ。
しかもそれもまだ何人かの中ボスを挟んだ先の事。
(いや、もう最高…マジで)
栖本哲平は周囲に居る何人かと目を合わせて適当な挨拶を済ませると階段直ぐのテーブルに一人で座り、スマホを弄り始める。
「挨拶、後の方がいいな」
西原さんが言う。
「そうっすね」
西原さんが何となく伝えて来る通り、栖本哲平の「近付くな」オーラは凄い。
すると、またその後ろの階段を誰かが上がって来た。
(ええ!?)
階段を上がりきった所で栖本さんに気付き、そのままそのテーブルにこちらに背を向けて座ったのは、それは「無い」と思っていた三条司だった。
(まさかの!?)
俺は確認の為に西原さんを見る。
「エンビリアンだよ」
「マジ…すか」
(ヤッベ…。このコンビとかヤッベ!!鳥肌立つって!!)
俺の興奮はマックスだった。
(やっぱ三条司だよな!エンビリアンは!!三条司しかいないよな!!)
「今だったらいいかも、挨拶行こうか」
栖本さんのオーラが薄まっていた。
「っすね…」
俺と西原さんは静かに近付く。
先に俺達に気付いたのは勿論こちら向きで座っていた栖本さんだ。
少し面倒臭そうにした。
「すみません、お早うございます」
西原さんの声で三条司も振り返り、西原さんは慣れた手早さで挨拶をした。俺も流れを切らないように直ぐに続いた。
「お早うございます、NACの竹山海です。宜しくお願いします」
「お早う。俺は三条司、こっちは栖本哲平。エンビリアンとシュニックだよ。宜しく。えと西原君と、竹山君」
三条さんが一緒に紹介すると、栖本さんの目はずっと俺を見ていた。
「宜しくお願いします」
俺と西原さんは揃ってお辞儀して邪魔しないように二人から離れた。
(ヤッベ…生だ。てかコエー、栖本哲平)
俺は廊下に戻りながらも、もう少しだけと二人をチラ見した。
すると、
(…うわ、ガン見してんじゃん!)
三条さんは首だけ、栖本さんはマスクを指で摘んでこっちを見ている。
(コエーよ。声優コエーよ。どうしたんだよ。え、お前何でココいんの?誰?的なやつか?)
俺が中途半端になった会釈をして角を曲がってしまおうとすると、
「ねえ、竹山君」
三条さんの声が響いた。
(げっ…何だよ、何言われんだよ俺)
俺が見ると三条さんがちょいちょいと手招きした。
(行きたくねえし…)
「はい…?」
素早く二人の前に行く。
相変わらず栖本さんは俺をガン見している。
「NACってさ、YUJIの?」
三条さんが爽やかに訊いてくる。
(うーわ、俺に話しかけてるぞ三条司。いいのか?)
「はい。同じ会社です。Resetの時にYUJIが大変お世話になりました」
(ガチじゃん…ガチでイケメンだぞ)
「ふーん」
三条さんは栖本さんを見る。俺もつられて栖本さんを見る。
「元気か?」
「…え?」
(ヤッベ、全然聞こえねえ!!勿体ねえ!!)
俺は咄嗟に栖本さんに一歩寄った。
「あいつ、元気してんの?」
意外だった言葉に俺は驚いた。
「YUJI元気?」
三条さんに通訳されてやっと答えた。
「はい!元気してますよ。昨日もイベントで…」
(って、これ言っても仕方ないか)
「そうなんだ。俺らの事何か言ってたか?」
栖本さんは案外これが普通のテンションらしい。
「めっちゃ良い人達だったって、言ってました。すごくお世話になったんだって」
「へー。ま、そんな言うほど何もしてねーけどな」
栖本さんはやっと俺から目を逸らした。
「ありがとう竹山君、もう行っていいよ」
「はい、失礼します」
俺はまた直ぐに二人から離れた。

(くぅー!YUJI!!ホントありがとう!!今度会ったら何か奢るわ!!)






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