王子の苦悩

忍野木しか

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最終章

青い記憶

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「ほう」
 清水狂介は舌を巻いた。
 彼の右手に構えられた白銀の銃──ベレッタM92Fは元々小野寺文久の銃であった。その冷たい銃身は思いのほか軽い。彼にとっては手頃なサイズと云え、弾数に関しても少年時代の文久と同じく記憶の切り替えにより無限の補充が可能で、トリガーを引き続ける限り弾が連発するフルオート機能には慣れなかったが、思う存分に実践を重ねられた。だが、それでも機能自体には未だに不明瞭なところがあり、構え方や目線、角度の調整、対象の狙い方などは中々しっくりといかず、どうしたものかと試行錯誤を繰り返した。
「ねえ! 何ボサッとしてるのかな!」
 それと比べて、三原麗奈の正確さたるや、まったく目を見張るものがあった。その細い腕に支えられた拳銃の向き、精度、反動の逃し方、反撃に怯まない胆力、次々と撃ち続けようとも乱れない集中力──予備の銃は彼女の側に山のように積まれてある──特に彼女の姿勢の美しさなどはまさにあの荻野新平を思わせ、やはり彼女は類まれな表現者だと、狂介は思わず指揮を振りそうになるほどに、三原麗奈という女に魅了されていた。
 と、携帯が鳴った。
 この夜の校舎において電波の繋がりなどあろう筈がない。が、狂介はさして警戒することなく携帯を耳に当てると「無理だ」と淡々とした声を落とした。そんな最中、こっそりと廊下を覗いて彼の頬を、二発の銃弾が掠めた。そのどちらも彼のすぐ前で片膝をついた麗奈が放ったものである。いったい、どうして真後ろの自分に向かって銃弾が飛んでくるのか──。興味は尽きなかったが、そこは表現者たる麗奈のことであり、何か深い意図があるのだろうと狂介は感慨深げに頷いた。そうして携帯を片手にトコトコと暗い教室の中に戻っていった。
「おーい? 何で? ねぇ何で? さっきから何してるのかな? 早く戻ってこっち手伝えバカアホ髑髏!」
 また銃弾が頬を掠める。狂介は気にせず窓辺に向かう。彼には彼なりの考えがあった。
 現在、彼らは銃撃戦の最中にあった。相手は現役の軍人、対してこちらは素人の寄せ集め以下の少年少女である。銃撃戦など本来であれば出来るはずもない。が、それでも現状は彼らが有利な立場にあった。それは曲がりなりにも多勢で、相手の軍人──花巻英樹が冷静でなく、さらに弾数が無限に近いという普通ではない状況にあったからだ。ただ相手は腐っても軍人、一向に攻めて来ない少年少女の弱さにやがて気がつき、軍刀を片手に一転攻勢をかけることは十分に考えられる。そうなった場合、当然の如く全滅もありえるだろう。
 そんな最悪の事態を避けるために狂介は無言で動いた。
 頬を掠める銃弾とよく通る少女の怒声にお構いなく、窓辺に跪いた狂介はヴェンヴェンと泣き喚く宮田風花と小田信長を傍に避けると、もはや死に体である睦月花子の前に膝を付いた。
「生きてるか」
「ああん……?」
 狂介はまた舌を巻いた。息があるどころではない。花子の意識はハッキリとしていた。全身に重度の火傷を負い、両腕を失い、片目を失い──それでも残ったもう片方の瞳は燃え盛る炎のように力強かった。
「まだ戦えるか」
「お……生憎……様ね……。指の……一本だって……動か……せないわ……」
 そんな皮肉を言いつつ、花子はモゾモゾと体を起こそうとする。
「キェエエエエエエエエエエ!」
 狂人の絶叫が銃撃の合間に響いてきた。無限に近い弾丸を持つこちら側と比べて、細々とではあったが、花巻英樹の攻撃も止む気配がない。つまりこの戦場ではない日の本において、女学生が通う学舎に向かうにあたって、十分な数の弾丸を揃えてきたということである。花巻英樹という男は常軌を逸していたが、残弾数の確認を怠らないくらいには冷静で、異様に入念だった。その奇声が演技でないとするならば、彼の行動を予想するのは非常に難しく──そんな男との攻防に勝手に見切りをつけた狂介は、ならば、と力技で押し切る方向に無言で作戦を変更したわけであったが、当然ながら麗奈には伝わっていなかった。
「ねぇ君さ、撃ちたいの? 撃たれたいの? ねぇどっちなのかな? かなぁ?」
 狂介は、いつの間にか真横に迫っていた麗奈の空色の瞳に向かって、不満げな顔をした。廊下の方から「麗奈さん? 麗奈さーん?」と一人残された徳山吾郎の情けない声が響いてくる。この隙に空き教室の向こうに潜む花巻英樹が攻めて来ないとも限らず、狂介はすぐそばで悲鳴を上げていた信長と風花の首根っこを掴むと「加勢しろ」と廊下の方に放り投げた。
「なぜ持ち場を離れた」
「それこっちのセリフ!」
「相手は軍人だ、すぐ俺たちの弱さに気が付く」
「そうなるようヘタクソに撃ってたんじゃん!」
「ふむ」
 狂介は唸った。彼からすればむしろ完璧に思えた射撃だったが、麗奈はわざとヘタクソな演技をし、相手を誘き出そうとしていたという。
「その瞳か」
「まともにやって敵うはずないし、なら裏技でしょ」
「なるほど」
「あんな奴、一人なら精神操作で簡単に落とせるから」
「なら何故それを先ほどやらなかった?」
 麗奈は口を噤んだ。まさか動揺していたからなどと口が耳まで裂けても言えない。代わりに狂介の金的を蹴り上げてやる。
「しかし、それなら尚更二人で十分だろう」
「え?」
「早く持ち場に戻れ」
「え? え?」
「俺にはやる事がある」
「女の子に喧嘩させといて自分は怠けようって? え? 冗談? 君、男だよね? そんなに殺処分されたいのかなぁ?」
 麗奈の両眼は真冬の夜に月を浮かばせた湖のようだった。もし相手が生徒会副会長の徳山吾郎であったならば、すぐに平伏し、持ち場に向かって匍匐前進を始めたであろう。
「ねぇ君さ、今度はいったい何をしようっての?」
 廊下の前ではその徳山吾郎が顔面を蒼白させながら急場を凌いでいた。先ほど加勢しろと放り投げられた信長と風花は四つん這いに頭を抱えてしまい、とてもではないが応戦出来る状態にない。“火龍炎”の参謀である長谷部幸平は耳と目を塞ぎつつ優雅に足を組んでおり、こちらも全く役に立ちそうにない。頼みの綱だった花子はといえば死の淵にあり、戦う戦えない以前の問題である。この場において五体満足で冷静かつ荒事にも慣れた清水狂介の手は絶対に必要で、そんな彼を舞台の上で怠けさせるわけにはいかないと、演出家兼脚本兼俳優の麗奈は慌てて持ち場を離れたのだった。それはその後の脱出から、幕引きまでを含めたあらゆる場面を想定してのことだった。
「私の舞台でこれ以上の勝手は許さないけど」
「この女を復活させる」
「はい?」
「この女の力が必要だ」
「それって、まさか花子の体を再生するって話……?」
 にわかに空色の瞳が細くなる。
 狂介がこの夜の校舎において、例えばチョークや火災報知器、拳銃、また水や雷、炎などを発生させられることはすでに分かっていた。それは完璧なる記憶の再現であり、にわかには信じられない話だったが、小野寺文久という例外も存在し、また麗奈も無意識の内に自身の体を再生させていた為、狂介の才能について差して疑問を挟まなかった。だが、他人の精神に干渉し、その肉体まで再生出来るとなれば話は別である。
「へぇ──どうやって?」
 もし狂介が他者の記憶まで操作可能であるとするならば、それはもはやヤナギの霊と同じ、この夜と精神と繋がった者と考えるより他ない。そうであるのならば必ず消しておかねばならない──麗奈は動揺しそうになった心に蓋をし、柔らかく微笑んでみせた。
「まずは耳を塞いで目を瞑れ。あの男と同じように」
「……なんで?」
 麗奈は首を傾げた。黒板の前では優雅に足を組んだ長谷部幸平が耳と目を塞ぎながら鼻歌を歌っている。
「それから別のことを考えろ。昔の思い出でもいい。この女と遊んだあの頃のことを鮮明に思い出せ」
「遊んだことありませんけど?」
「なら好きな男のことでも考えてろ」
「死ね!」
「おい、聞こえるか」
 狂介は片膝をつくと、ボロボロの花子の体をそっと抱き寄せ、彼女の耳元に頬を寄せた。その様はまるでお姫様を抱く王子様のようで、麗奈は中指を立てながら頬を薄赤くした。
「なに……よ……?」
「お前に話しておかねばならない事がある」
「はん……改まって……。らしく……ない……わね……」
「洞窟のことだ」
「洞……窟……?」
「日本一周したと俺に話しただろう。その時、お前は岩手の鍾乳洞に立ち寄ったんだったな」
「あ……ああ……」
 花子はゆっくりと視線を動かしながら、その時の情景を思い返した。蝉の声の騒がしい真夏の午後。山に囲まれた静かな町。洞窟の中はひんやりと涼しく、地底湖は落ちていきそうなくらい透明だった。窓の向こうの夜空を見上げた花子は、もう無くなった腕をそれでも真上に伸ばそうと、小さく肩を動かした。
「懐かしい……わね……」
「因みにその鍾乳洞の名前は覚えているか」
「ええ……もちろん……。あれは……岩泉の……龍泉洞……」
「やはり、そうか」
 狂介の声色が変わった。僅かに頬を強張らせた彼はゆっくりと首を振る。それは普通の人であれば合ってないような変化だったが、能面のような顔をした彼の声に抑揚が生まれると、まるで重大な何かが起こりつつあるような緊迫感に夜が張り詰めた。
「お前が昨年の夏休みに訪れたという洞窟は、やはりあの地底湖の美しい岩手の龍泉洞だったか」
「そう……だけど……?」
「お前が面白そうな横穴を見つけたという洞窟は、やはりあの地底湖の美しい岩手の龍泉洞だったか」
「そう……だってば……」
「お前が洞窟の奥に挑まんとする純情を観光協会のおじさんに踏み躙られたという洞窟は、やはりあの地底湖の美しい岩手の龍泉洞だったか」
「そうだっ……つってんでしょ……!」
「その龍泉洞だが、ひと月ほど前に崩落したらしい」
「はあああん?」
 やっと狂介の意図を組んだ麗奈は目を閉じ耳を塞いだ。それでも本当にそんな事が可能なのか半信半疑で、うっすら目を見開いた麗奈は別のこと──足田太志の笑顔──を想いつつ、見るともなしに目の前の二人を眺めた。
「あの東日本の大震災が直接的な原因らしい、地盤が相当緩んでいたそうだ」
「ちょ……はあ? う、嘘おっしゃいな! そんな話……聞いてないわ!」
「知らないのも無理はない。何故ならお前はひと月以上もの間、この夜の校舎を彷徨っていたのだから」
「だから……あり得ないっつの! そもそも地震なんて三年も前の話じゃない!」
「ひと月ほど前に洪水があった。十年に一度の台風が日本を襲ったんだ。百年に一度の大地震で緩んだ地盤はその十年に一度の洪水に耐えきれなかった」
「だから!」
「すまん。だが、これは現実だ」
 有無を言わせない。狂介の表情は真剣だった。それは裏を返せば無表情と同じで、やはり何を考えているか分からず、無性に腹が立った花子の額に青黒い血管が浮かんだ。
「ああ、俺も一度くらい龍泉洞の地底湖を見てみたかった」
 狂介はそう淡々と呟き、花子の瞳をジロリと覗き込んだ。花子の瞳の奥に眠る、かつての美しい情景でも観察するように。
「さぞ美しかっただろう。静かな地底を流れる小川。透き通るような水の幻想。しかもお前は未探索の横穴まで見つけたという。いったいどれほどのロマンがそこに眠っていただろうか。新たな地底湖を発見できたかもしれない。未知の生物と出会えたかもしれない。異世界に繋がる横穴だったかもしれない。だが、お前は探索を諦めてしまった。おじさんに注意されたというたったそれだけの理由で、お前は未知への道を閉ざしてしまった」
「くっ……!」
「何故そこで立ち止まってしまったのだろう。俺は哀しくなった」
 作文を読み上げる学生のように白々しい。まったく哀しそうでないし、むしろ煽られているように感じた花子のボルテージが上がっていく。が、狂介の言うことも一理あり、未知への探索を簡単に断念してしまった自分が何とも愚かで情けなく思えた。
「この話をお前にしようか悩んだ。何故ならお前はもう永遠にその横穴を探索することが出来ないのだから」
「無理なもんですかい! 私はやると決めたら必ずやる女よ!」
「鍾乳洞は崩落した。お前の夢は儚く散ったんだ」
「嘘よ!」
「さぁ、せめて思い出せ。あの青い夏の日を、美しい地底湖の幻想を、未知の横穴を見つけた感動を、流した汗と涙を、冷え切った水の甘みを、自販機のジュースの値段を、夏休みの人混みの騒がしさを、蚊に刺された腕の痒みを、危ないから入るなと怒鳴るおじさんの形相を──」
「あんのクソジジイがぁああああッ!」
 麗奈はそっと瞳を開いた。途中から視線を逸らし、しょうがなく花子の昔の姿を思い出していた麗奈は、今まさに目の前でかつての姿そのままに青黒い血管を細腕に浮かべた花子を見つめ、安堵のあまり膝から崩れ落ちそうになった。慌てて左の頬をペシンと叩いた彼女はゴシゴシと目元を拭うと、それまで通り空色の瞳を快活に見開き、腰に手を当て、ため息まじりに悪態を吐いた。

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