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最終章
銃撃戦
しおりを挟む黒い雨が降り頻る。
ザーザーと音の止まない夜。
それは正確にはスプリンクラーからの放水だった。戦中の校舎にはなんとも不釣り合いな代物であろう。撒き散らされる霧状の水滴に隙間はなく、一階の廊下は均一な雨に埋め尽くされていた。
荻野新平は重心を斜め前に移動させた。霧状の雨に押し流されるような動きだった。ただ廊下に溢れる水は僅かにも揺らさない。別に黒い雨の一粒一粒、その水面に反射する月明かりの揺らぎまでもが、彼の瞳に鮮明に映っているわけではない。それでも不規則な雨の影は捉えているようで、彼の構えるスミス&ウェッソンM29から放たれる44レミントンマグナムが、黒い雨に妨げられることはなかった。
「キェエエエエエエエエエエ!」
細かな雨粒に震えが走った。
花巻英樹が発狂したのだ。脂ぎった巻き髪を乱し、目をギラつかせながら、軍刀を振り上げている。
そんな男の額に向かって、新平は真っ直ぐ銃弾を放った。だが、当たらない。マグナムは狂人の頭蓋を破壊することなく、その巻き髪を僅かに掠ったのみで、夜の終わらぬ校舎の奥へと消えていった。もうすでに二発目の銃弾だった。どうにも不可解な事実ではあったが、濡れた巻き髪を逆立てる狂人──花巻英樹の目には音速を超える弾道が見えているようだった。
ズズッと雨が動く。
それは何とも奇妙な表現だった。
花巻英樹の斜め前に広がる空間である。
スプリンクラーからの放水による落下の運動ではない、まさに降り頻る黒い雨の一部、水滴が見えない何かを避けるように真横にズレたのだ。そう見間違えるほどに、元満州国軍中尉、来栖泰造の動きは異様だった。
新平は僅かに銃口を下げた。そうして重心を後ろに移動させる。
二対一の状況だった。さらに得体の知れない彼らが軍人であるらしい事が分かり、ならば遮二無二攻勢に繰り出すのは得策ではないと、守勢に回ることにした。一瞬の躊躇が命取りとなる戦場である。けれどスプリンクラーの雨により視界は悪く、濡れた衣服はズッシリと重く、廊下は水に滑りやすい。そして真夜中という事もあり、むしろ迎え撃つ方が有利だろうと、新平はそう考えた。
来栖泰造の体が雨を押し出すようにしてヌッと前に出る。そんな彼の足が踏み出されるであろう位置──ほんの数センチ前にあらかじめ銃口を構えておく。さらに新平は左手を下げ、腰のホルスターからサバイバルナイフを引き抜いた。その間コンマ数秒。接近戦を想定しての事だった。
と、その時、泰造の斜め後ろで発狂していた花巻英樹が予想外の動きをした。ひとしきり軍刀を振り乱すと、扉を蹴り開くようにして、教室の中に飛び込んでいったのだ。そこは少年少女が逃げ込んだばかりの教室だった。
当然の如く予想すべき行動だった。ただ短時間で仕留められる相手だろうとたかを括り、また狂人であるとその行動予想を怠ってしまった。
新平は軽く舌を打った。別に皆を助けようなどという大義を掲げる男ではない。が、多少は見知った者たちであり、また彼らがほんの子供であることを想うと、僅かながらに乱れが生じた。
威嚇射撃を一発、正面に放つ。さらに二発──狂人の後を追うように別の扉から教室に飛び込むと、地を揺るがすような怒鳴り声を上げた。
「伏せろ!」
だが、拳銃が火を吹くことはなかった。代わりに新平は、はたと動きを止めた。教室の中はあまりにも静かだった。狙うべき標的が見当たらない──。
光源は夜空の星々のみ。僅かな影も動かない。
どうやら瞬き一つも終わらぬ内に、教室の中と外の時間がズレてしまったようである──そう気付いた新平は勢いよく体を折り曲げ、ザッと前方に転がった。さらに並んだ机の一つを掴み、引き倒す。そうして廊下との間に壁を作ると、右手のリボルバーを離した。より軽いグロック17の方が有用だと考えたのだ。
そこはまさに死地であった。
それでも新平は冷静だった。
ダンッ──と銃声が頭上を超える。
さらに二発、三発と、銃弾が薄い壁を突き破る。
その角度と反響音から、新平は、迫り来る敵のおおよその位置を捉えた。
乾いた机を背に、四角い小椅子を一つ、ふわりと真上に蹴り上げる。そうしてすぐに真横に転がる。四発目の銃弾が彼を追った。体勢を立て直す暇などない。揺れ乱れる視界の中、それでも新平は周囲の状況を捉え続けた。
五発──。
並べられた机の影に身を潜め、ようやっと視線を上げつつ、フッと重心を落とし、上体を揺らす。そんな彼を追う軍人の拳銃──十四年式拳銃にはマガジン装填前にスライドがリリースされてしまうという欠点があった。その為、どれほど銃の扱いに手馴れていようとも、装弾数八発の銃弾を打ち尽くした際、必ず隙が生まれた。対峙した時点で新平はその古びた拳銃の弱点に気が付いていた。
六発──。
新平は目を細めた。
グロック17の銃身を前に向ける。
その銃口から赤い閃光が放たれると、9ミリパラベラム弾が夜を切り裂いた。だが、すでに敵の姿はなかった。先ほどの廊下での銃撃と合わせ、銃弾を打ち尽くした来栖泰造もまた冷静に守勢に回ったのである。
新平は音もなく立ち上がった。ともかく窮地は脱した。が、時間がないことに変わりはない。状況は悪化していくばかりだった。
グロック17の銃口はそのままに、ナイフを逆手に持ち替える。
軽く床を蹴った新平は周囲に耳を澄ませると、影を置き去りにするような速度で、闇夜に紛れた獲物の後を追った。
超自然現象研究部一年、小田信長の絶叫が夜に響き渡った。そんな彼の真隣で生徒会書記の宮田風花もまた金切り声を上げている。
教室の中は水浸しだった。
机や椅子は押し倒され、流され、乱れている。半分の月は黒い雲に隠れ、仄暗い。黒板の前で足を組む長谷部幸平の鼻歌のみ何やら優雅だった。
銃声が交差した。
それに呼応するように悲鳴が大きくなる。
現在、戦中の校舎を彷徨う彼らは、肌の垢黒い巻き髪の軍人と空き教室を一つ挟んだ廊下に向かい合う形で、激しい銃撃戦を繰り広げていた。
信長と風花は子猫のように身を寄せ合いニャーニャーと絶叫を繰り返した。
いったい何故そんな状況に追い込まれたのか、そもそも自分たちの身に何が起こっているのか、二人に分かる筈もなかった。ともかく怖い怖いと震えるばかり。銃撃戦などと、そんなもの二人にとってフィクションの話である。戦争ともヤクザの抗争とも無縁の世界を生きてきた少年少女だった。それを現役の軍人たる狂人──花巻英樹を相手に、何とか形なりにも対等な位置に持ってこれたのは、ひとえに清水狂介の迅速な対応と、三原麗奈の冷静かつ冷徹な判断の賜物であった。
「おおっ、おおおっ! おおおおおおお! おおおおおおぉぉあああああああッ!」
花巻英樹は奇声を上げ続けた。
抜き身の軍刀を右手に、左手で十四年式拳銃を撃ち放つ。それでも残弾の計算は怠らない。狂ってはいれども、死は恐れてなくとも、彼はただ敵に向かって万歳突撃をするような愚か者ではなかった。その為、過酷な戦場をドブネズミのように生き抜いてこられたのである。
そんな彼が今まさに対峙する奇妙な格好をした少年少女たちは、彼の異様に拙く偏った常識から判断しても、魑魅魍魎の類以外の何者でもなかった。
「こんのあやかし共めェェェエエエエエエエエッ!」
それはほんの数刻前に遡る。
場面はスプリンクラーからの雨の降り止まぬ夜の廊下──その時点で戦中を生きる英樹にとっては狐につままれたような状態にあった──向かい合うは突如として現れた猛獣のような男。即座に荻野新平を強敵と判断した英樹は、真正面からでなく真横から、上官である来栖泰造と挟み撃ちの形で新平を仕留めてしまおうと独断した。それゆえに軍刀を振り乱しながら教室の中に飛び込んでいったわけである。が、結果、新平を挟み撃ちするどころか、瞬きの終わらぬ間に二人を見失うという、まさに狸に化かされたような状況に陥ってしまった。
英樹は大いに焦った。
ただ当然ながら、その状況で焦ったのは彼だけではない。
殺人鬼とも形容できる軍人と教室の中で向かい合う形となった。そんな少年少女の焦りなどは想像を絶するものだろう。それでも冷静かつ迅速に行動を起こせた者が二人いた。清水狂介と三原麗奈である。
先ず麗奈が動いた。
血みどろ睦月花子を背負う徳山吾郎をグイッと引き寄せると、息も絶え絶えな花子を無理やり立たせ、発狂する英樹と向かい合わせた。これに英樹は動揺してしまう。手榴弾をまともに食らった少女が立ち上がるなど考えられない話だった。しかも死に体でありながら、片目のみギラギラと燃え上がっている。まさに魑魅魍魎の類。流石の英樹も言葉を失い、ヨロヨロと後ずさった。そんな彼に追い討ちを掛けるように狂介が掌底を伸ばした。が、これは簡単に避けられてしまう。そこは戦場を生き抜いてきた男であり、立ち直りは早かった。それでも英樹は人間だった。常識外のことには動揺した。ゆえに彼はまたも起こった天変地異に仰天し、思わず仏に祈りながら、廊下に転がり出たのだった。今度はバチバチと鳴る雷と共に教室の中に雨が降り始めたのだ。
「去ね!」
麗奈が追い討ちを掛けるように叫んだ。よく通る声。その瞳は澄み切った空色に薄れていた。
血みどろの鬼と青い目の亡霊、さらに手足の長い髑髏の悪魔を背に、英樹は無様に廊下を這いずった。そうしてすぐ己を恥じた。危機的状況になればそうやってドブネズミのように生き残ってきた彼であった。だが、そこは戦場ではない、日の本の学舎であり、そして相手はたとえ妖怪の類であろうともまだ子供のようだった。何より独断専行のすえ上官と逸れてしまうなど軍人としてあるまじき行為である。
英樹は「キェエエエエエ!」とまた奇声を上げると、素早く体勢を立て直し、いったん別の教室に身を隠した。相手は魑魅魍魎である。勝算があるかは分からない。が、それでも大日本帝国の軍人として、これ以上の生き恥を晒すわけにはいかない。英樹は十四年式拳銃を構えた。
銃撃戦の始まりである。
トコトコと暗い校舎を歩く者がいる。
いわゆる座敷童子である山本千代子はいつものように学校を見回っていた。
人けのない校庭を見つめる。ハラハラと黒い枝を揺らすシダレヤナギを見上げる。どの教室にも声はない。廊下を走り回る生徒の姿も、ヤンチャな生徒を叱る先生の姿もない。閑散として寒々しい校舎である。
おおよそ七十年の時、千代子はそうやって一人で、学校を彷徨い歩いてきた。
それでも彼女の中に寂しいだとか悲しいだとかそういった感情の乱れはなく、時おり怖いと思うことはあったが、いつまでも変わることなく校舎を見守り続けた。
平和が大好きだった。
千代子に後悔はなかった。
だが、そんな校舎も少しずつ変わっていった。稀に訪問者があった際などは校舎の様相は大きく変わってしまい、そんな時はいつにも増して張り切るのだったが、空回りしてしまうのが常だった。
最近は特に訪問者が多い。
それも普通の人たちではないようで、千代子はともかく学校を守ろうと走り回ってみたものの、やはりどうしても上手くいかなかった。今や戦後の校舎の大部分が色とりどりのチョークに埋め尽くされてしまい──嫌いではなかったが──そして奇妙なことに、どうしてもその先の未来には進めなかった。それはとても眩しい一日で、一番新しい今日この日で、その日を境に窓がパアッと開け放たれ、校舎中に声が溢れ、爽やかな夏の終わりの風が吹き込み──でも、その風に揺れるヤナギの枝は見当たらなかった。旧校舎裏はいつにも増して閑散としており、広々と明るく、寂しかった。
千代子は引き返していった。
別に静かな夜が好きだったわけではない。ただ、少しだけ怖くなって、その日から離れた。シダレヤナギが無くなっていたのだ。太い根っこのみ残して、立派な幹と、長い枝と、わあっと大きな影はさっぱりと消え去っていた。或いはそういう事もあるのかもしれない。そう思ってはみたものの、やっぱり怖くって、不安だった。千代子はいつも自分が見守る立場にあると思っていた。けれども実際はあの大きなヤナギの木に見守られていたのだと、その時になって初めて気が付いた。
千代子はどんどん引き返していった。とてもうるさい戦中の校舎は好きではなかった。だからそれよりも昔の校舎に向かった。歩いて歩いて、彷徨って彷徨って、そうしてまだ見たことのない景色を見た。つまりは彼女の記憶にない校舎──そこは千代子の生まれる前の学校だった。
いったい何故そこまで歩けたのかは分からない。ただ不思議で、何やら楽しくって、それ以上歩いても仕方がないというところまで歩いて、守るべき校舎が見当たらなくなってもまだ歩いた。すると、周囲が再び明るくなってくる。そこはもう学校ではなかった。立派な武家屋敷のようで、長い縁側の先に、枝葉の多い赤松が見える。とうとう道に迷ってしまったのだ。千代子は途方に暮れた。とりあえず縁側に腰掛けると、乾いた地面に視線を下ろした。夏の陽射しに暖かな庭だった。小さな木が雑草と共にゆらゆらと揺れ動いていた。
千代子はジッとその木を見つめた。何やら可愛らしい。そして何処か懐かしい思いがする。
しばらくそうしていると、今度は微かな声が聞こえてきた。それは少年の悲鳴のようで、怒鳴り声も混じっている。だんだんと切迫した様子が伝わってきた。
千代子は立ち上がった。そうしてトコトコと明るい縁側を走り始める。声に向かって。とにかく守らねばと黒く煤けた手足を躍動させた。ただ、その瞳の色が薄れることはなかった。
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