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最終章
軍刀
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「妖術じゃ! 妖術じゃ! アヤツラ人じゃない!」
花巻英樹はゼェゼェと喘ぐような姿勢で、軍刀の剣先を檜板の廊下に突き刺しながら、そこかしこに垂れ下がった目を暴れさせていた。この男、普段は無愛想で大層もの静かなものであったが、ひとたび頭に血が上れば飢えた獣のようにダラダラと涎を垂らしながら、白刃を床に這わせる癖があった。口調もガラリと変わり、粗暴で下品な男の相貌が露わとなっている。
「斬る斬る斬る! とにかく斬る! アヤツラの血が赤いがかァ、知るにはぶった斬るしかなか!」
そんな英樹の後ろ姿を、来栖泰造は腐肉に群がる野良犬でも見下ろすような目付きで眺めていた。
その激情に呑まれやすい性格はもはや泰造にとって不要を通り越して不快であった。いつどこで彼がのたれ死のうともかまわないと、泰造は考えていた。だが、それでも野良犬のようにしぶとい男である。結局この時分まで花巻英樹という男は生き残ってきた。それを見過ごしてきた泰造であったが、国の存亡に関わる戦局が移り変わっていくと共に、どうにも彼の存在それ自体が許せなくなってきた。彼の死がこの国にとって益にこそなれ、損失となることはない──。泰造はそっと軍刀の柄に手を置いた。
「おんしの刀じゃき。本望ぜよ」
英樹は突き立てた軍刀で暴れる体を支えながら、泰造を振り返ることなく、そんなことを呟いた。ゼェゼェと未だ血に飢えた野獣のように呼吸は荒い。それでも彼はその芯に揺るぎない決意を秘め続けているようである。泰造は静かに頷くと、軍刀の柄に手を置いたまま、カッと踵で廊下を踏み締めるようにして身体を反転させた。
「ゆくぞ」
そう言って、怪しげな若者たちの消えていった校舎に背中を向けてしまう。
これには泰造を大いに慕う英樹も眉を顰めてしまった。ここを訪れた三人の警官の中で最も大柄な岸辺惣太郎などは、軍刀が鞘から飛び抜けるような勢いで、ダンッと厚い胸板を前に出した。
「敵に背を向けると仰るか!」
なんとも威勢の良い言葉である。が、泰造は白けたような顔つきで、惣太郎の方など見向きもしない。花巻英樹が汚い野良犬であるというならば、泰造にとってこの岸辺惣太郎という男は、糞に群がる蝿に等しい、理性のない虫ケラ程度でしかなかった。
「怪しげな者どもを捕えるのが我々の役目でしょう!」
惣太郎は鼻筋の太い鷲鼻を大きく膨らませながら、ギンッと胸を張った。その下半身のイチモツはズボンを突き破りそうなほどに硬くそそり立っている。
泰造はそんな彼を完全に無視し、カツカツと廊下に足音を響かせる前に、窓の向こうに流れるシダレヤナギの若木をジッと仰いだ。
「人じゃないがか?」
英樹もまた新芽の青いシダレヤナギに目を細めた。幾分か落ち着きを取り戻してきているようで、その口調も表情も、普段通りの静かなものへと沈んできている。
「ああ」
「では、あやかしですきに?」
「その類だろう。ここは曰くのある場所だ」
「ここを知っておられるようで」
「かつては屋敷だった」
「屋敷……」
「アヤツラは何度でも現れる。何度でも」
「はぁ……そうですか」
英樹はヌッと背筋を伸ばすと、軍刀を鞘にしまい、無愛想に視線を落としてしまった。泰造もそれ以上は何もいうことなく歩き出してしまう。惣太郎のみが欲望に満ちた瞳で名残惜しそうに校舎の奥を眺めていた。そんな中で、未だ腹を抑えたまま苦しげに喘いでいた丸メガネの男が、ひどく情けない声を上げると共に、後者を去ろうとする三人に向かって唾を飛ばした。
「なぜです! なぜ捕えようとしない!」
三島恒雄は呼吸を荒げながら、過ぎ去ろうとする三人に向かって、小綺麗に整えられた短い爪を伸ばした。
「アイツラはスパイだ! 国に仇なす非国民だ! それを捕えるのがアナタ方の役目でしょう!」
そう勢い余って、泰造の右後ろに付き従っていた英樹の腰にしがみ付いてしまう。恒雄の腕が白い軍刀を横に揺らすと、カッと目に火花を散らした英樹の形相がまた変化した。
「キエェェエイッ」
白目を剥き、鞘を投げ捨てた英樹の腕の先で、抜き身の刃がギラリと煌めいた。その肩を泰造が素早く押さえる。しばらく二人が揉み合っていると、惣太郎がやや気だるげな表情で、その太い拳を恒雄の顔面に振り下ろした。
「アヤツラはあやかしじゃき、それをどう捕えろというんじゃ!」
「ア、アイツラは人です……。共産主義団体のスパイです……。我が国に仇なす非国民なのです……!」
「人じゃなか! あやかしじゃ! あの婆娑羅な格好も、天狗のよう巨躯も、鬼ちゃ見間違う顔も、人とは思えんき! あやかしは我々の知るところじゃないぜよ! 我々の相手はおまんのような生意気な野郎じゃき!」
と、声色を変えた英樹がまた軍刀を恒雄に向けようとするので、彼の上官である泰造はもう彼を斬ってしまおうと、軍刀の柄にスッと手をかけた。それは英樹のものと寸分変わらぬ刀のようであった。だが、まるで抜く動作の見えない泰造の所作のもと、鏡のような抜き身がぬらりと怪しい光を放つと、その殺気たるや、しとしとと雪の降る夜の風よりも冷たかった。英樹は軍刀の先を恒雄の首に向けたままう息を止めてしまった。
「敵に背を向け味方に刃を向けるとは、来栖殿、御立派な御決断ですな」
惣太郎はさも興味なさげに皮肉を言った。その下半身は未だ硬直しており、弱き者、特に若い女性への加虐性に蝕まれた彼の心は、先ほど教室で見かけた長い髪の麗しい女に向けられたままであった。
「ゆくぞ」
そんな惣太郎を横目に、軍刀を鞘に納めた泰造は、静かに歩き始めた。英樹もまた刀を納めると幾分か不機嫌な惣太郎とともに彼の後に続く。
「なぜです……なぜ……」
三島恒雄の瞳は真っ赤に染まっていた。彼はブツブツと胸を渦巻く激情を呪文のように落としながら、一人、校舎の闇に囚われ続けた。
そこは戦中の校舎だった。
姫宮玲華は焦っていた。
ヤナギの霊である彼女の常識では測れない事態が発生していたのだ。
戦中の校舎は、静寂に呑まれた戦後の夜とは異なり、異様に騒がしかった。
「“動くな”」
玲華は叫んだ。
すると、こちらに細い銃口を構えた男の動きが止まる。ミイラのように頬のこけた男であり、カーキ色の上着はカビに塗れている。それでもその瞳のみ、ギラギラと精力的であった。
「なんなんだよ! さっきからなんだよアイツら! いったいどっから現れやがる!」
田中太郎は浅い呼吸を繰り返しながら、何度も何度も後ろを振り返った。そうして男の姿が見えなくなると、ほっと呼吸を重くする。だが、すぐにまた現れる別の男に、呼吸を乱してしまうのだった。
「“動くな”」
二人の男の動きが止まった。度の強いメガネを掛けた男と鳥の巣のような髪を後ろで束ねた男。二人は驚愕に目を見開いていた。
「“動くな”」
そこは少し肌寒い朝の校舎であった。小鳥の囀りが何処からか聞こえてくる。軍刀を片手に固まった大男の視線が何やらニタニタとイヤらしい。
「“動くな"」
銃弾が玲華の腕を掠めた。夕刻に赤い校舎である。
彼女の声が響く前に、白い羽織りを纏った優男が、拳銃の引き金を引いたのだ。それは数分前に、いいや、ここ数十分の間に幾度となく現れた人殺しの瞳を持つ男たちとは違う、何処か華族的な雰囲気の漂う、優雅な表情をした男であった。彼の背後ではさらに二人の男が、なぜか拳銃ではなく茶色い数珠を両手に、慇懃に頭を下げている。
「おい、大丈夫か!」
太郎は慌てて玲華の体を支えた。右腕を押さえる彼女の手が血に塗れている。それでも玲華は気丈な態度で首を振ると、太郎たちに走るよう促せた。
「いつまで走るんだ? いったい何処に逃げるつもりだ?」
階段を上がっては下り、木造の校舎をとにかく前に進んでいく。すでに見飽きるほどに走る続けたはずの戦中の校舎は、それでも何やら不可思議な、深い森の奥を彷徨っているような、見慣れぬ雰囲気に包まれていた。
「おい玲華ちゃん! アイツらは何なんだ!」
「分かんない!」
玲華は叫び返した。今にも倒れそうなほどに頬を青白く薄めている。
「分かんないから逃げてるの! だからとにかく走って!」
「と、とにかくって! さっきからずっと走り続けてるだろ!」
「なぁ玲華さん」
徳山吾郎は幾分か落ち着いた調子で黒縁メガネのブリッジに中指を当てた。
「もしや空襲のあったあの日に向かって走り続けているのではあるまいかね?」
玲華の細い顎がコクリと前に倒れると、途端に吾郎の顔から血の気が引いた。
「いったい何を考えているんだ、君は!」
「だってしょうがないんだもん! そっちしか逃げ場がないの!」
「どういう意味だね? 特攻警察らしき男たちと関係があるのか?」
「そうに決まってんじゃん!」
カツカツと厳格な足音が響いてくる。廊下の向こうに詰襟の黒い洋服を着た男が現れると、玲華は甲高い声で「“動くな”」と叫んだ。
「待ちたまえ、待ちたまえよ、玲華さん。確かに武装した彼らは危険だが、それでも空襲のあったあの日よりはマシであろう」
「一緒だよ! むしろ敵意のない空襲の方がマシ!」
「隠れてやり過ごせばいい。そのうち花子くんか誰かが助けに来てくれるはずだ」
「やり過ごせないの! 止まってると集まってきちゃうの!」
玲華は半狂乱に長い髪を振り回していた。吾郎は何とか心を落ち着かせながら、そんな彼女の黒い瞳を凝視した。
「集まってくるとはどういうわけか。それではまるで我々を捕らえようとしているようではないか」
「そうだよ! あの最悪の警官たちにもう目を付けられちゃってるの!」
「いや……何故? いやいやいや、そ、そうだとしてもだ! 我々はこの摩訶不思議な校舎の中にいるんだぞ。少し歩けば時間がズレるようなこの場所で、まさか捕えられるようなことはあるまい」
そう言っている間にまた別の男たちが現れる。
次々と。
途切れることなく。
それまで何とか冷静さを保ってきた吾郎の呼吸もだんだんと荒れ始めてきた。
「何故……何故? 何故こうも頻繁に我々の前に現れる? ここは時間も空間も出鱈目な夜の校舎であろう……それなのに、何故?」
「出鱈目じゃない」
もはや玲華の声は掠れ掛けていた。ただその分、彼女の唇は濃いルビー色に深みをましており、その瞳の奥底に宿る光には別人のような老獪さが現れていた。
「私たちは標的にされている」
「それは分かっているが、しかし……」
「つまり時間が強制的に動かされてしまう」
玲華の唇が怪しく煌めいた。「“動くな”」と老婆のように掠れた声が校舎に響く。すると武装した男たちの動きが止まる。
「もはや進み続ける以外に逃れる術はない」
そう呟いた彼女の唇からつっと血が溢れ落ちた。
花巻英樹はゼェゼェと喘ぐような姿勢で、軍刀の剣先を檜板の廊下に突き刺しながら、そこかしこに垂れ下がった目を暴れさせていた。この男、普段は無愛想で大層もの静かなものであったが、ひとたび頭に血が上れば飢えた獣のようにダラダラと涎を垂らしながら、白刃を床に這わせる癖があった。口調もガラリと変わり、粗暴で下品な男の相貌が露わとなっている。
「斬る斬る斬る! とにかく斬る! アヤツラの血が赤いがかァ、知るにはぶった斬るしかなか!」
そんな英樹の後ろ姿を、来栖泰造は腐肉に群がる野良犬でも見下ろすような目付きで眺めていた。
その激情に呑まれやすい性格はもはや泰造にとって不要を通り越して不快であった。いつどこで彼がのたれ死のうともかまわないと、泰造は考えていた。だが、それでも野良犬のようにしぶとい男である。結局この時分まで花巻英樹という男は生き残ってきた。それを見過ごしてきた泰造であったが、国の存亡に関わる戦局が移り変わっていくと共に、どうにも彼の存在それ自体が許せなくなってきた。彼の死がこの国にとって益にこそなれ、損失となることはない──。泰造はそっと軍刀の柄に手を置いた。
「おんしの刀じゃき。本望ぜよ」
英樹は突き立てた軍刀で暴れる体を支えながら、泰造を振り返ることなく、そんなことを呟いた。ゼェゼェと未だ血に飢えた野獣のように呼吸は荒い。それでも彼はその芯に揺るぎない決意を秘め続けているようである。泰造は静かに頷くと、軍刀の柄に手を置いたまま、カッと踵で廊下を踏み締めるようにして身体を反転させた。
「ゆくぞ」
そう言って、怪しげな若者たちの消えていった校舎に背中を向けてしまう。
これには泰造を大いに慕う英樹も眉を顰めてしまった。ここを訪れた三人の警官の中で最も大柄な岸辺惣太郎などは、軍刀が鞘から飛び抜けるような勢いで、ダンッと厚い胸板を前に出した。
「敵に背を向けると仰るか!」
なんとも威勢の良い言葉である。が、泰造は白けたような顔つきで、惣太郎の方など見向きもしない。花巻英樹が汚い野良犬であるというならば、泰造にとってこの岸辺惣太郎という男は、糞に群がる蝿に等しい、理性のない虫ケラ程度でしかなかった。
「怪しげな者どもを捕えるのが我々の役目でしょう!」
惣太郎は鼻筋の太い鷲鼻を大きく膨らませながら、ギンッと胸を張った。その下半身のイチモツはズボンを突き破りそうなほどに硬くそそり立っている。
泰造はそんな彼を完全に無視し、カツカツと廊下に足音を響かせる前に、窓の向こうに流れるシダレヤナギの若木をジッと仰いだ。
「人じゃないがか?」
英樹もまた新芽の青いシダレヤナギに目を細めた。幾分か落ち着きを取り戻してきているようで、その口調も表情も、普段通りの静かなものへと沈んできている。
「ああ」
「では、あやかしですきに?」
「その類だろう。ここは曰くのある場所だ」
「ここを知っておられるようで」
「かつては屋敷だった」
「屋敷……」
「アヤツラは何度でも現れる。何度でも」
「はぁ……そうですか」
英樹はヌッと背筋を伸ばすと、軍刀を鞘にしまい、無愛想に視線を落としてしまった。泰造もそれ以上は何もいうことなく歩き出してしまう。惣太郎のみが欲望に満ちた瞳で名残惜しそうに校舎の奥を眺めていた。そんな中で、未だ腹を抑えたまま苦しげに喘いでいた丸メガネの男が、ひどく情けない声を上げると共に、後者を去ろうとする三人に向かって唾を飛ばした。
「なぜです! なぜ捕えようとしない!」
三島恒雄は呼吸を荒げながら、過ぎ去ろうとする三人に向かって、小綺麗に整えられた短い爪を伸ばした。
「アイツラはスパイだ! 国に仇なす非国民だ! それを捕えるのがアナタ方の役目でしょう!」
そう勢い余って、泰造の右後ろに付き従っていた英樹の腰にしがみ付いてしまう。恒雄の腕が白い軍刀を横に揺らすと、カッと目に火花を散らした英樹の形相がまた変化した。
「キエェェエイッ」
白目を剥き、鞘を投げ捨てた英樹の腕の先で、抜き身の刃がギラリと煌めいた。その肩を泰造が素早く押さえる。しばらく二人が揉み合っていると、惣太郎がやや気だるげな表情で、その太い拳を恒雄の顔面に振り下ろした。
「アヤツラはあやかしじゃき、それをどう捕えろというんじゃ!」
「ア、アイツラは人です……。共産主義団体のスパイです……。我が国に仇なす非国民なのです……!」
「人じゃなか! あやかしじゃ! あの婆娑羅な格好も、天狗のよう巨躯も、鬼ちゃ見間違う顔も、人とは思えんき! あやかしは我々の知るところじゃないぜよ! 我々の相手はおまんのような生意気な野郎じゃき!」
と、声色を変えた英樹がまた軍刀を恒雄に向けようとするので、彼の上官である泰造はもう彼を斬ってしまおうと、軍刀の柄にスッと手をかけた。それは英樹のものと寸分変わらぬ刀のようであった。だが、まるで抜く動作の見えない泰造の所作のもと、鏡のような抜き身がぬらりと怪しい光を放つと、その殺気たるや、しとしとと雪の降る夜の風よりも冷たかった。英樹は軍刀の先を恒雄の首に向けたままう息を止めてしまった。
「敵に背を向け味方に刃を向けるとは、来栖殿、御立派な御決断ですな」
惣太郎はさも興味なさげに皮肉を言った。その下半身は未だ硬直しており、弱き者、特に若い女性への加虐性に蝕まれた彼の心は、先ほど教室で見かけた長い髪の麗しい女に向けられたままであった。
「ゆくぞ」
そんな惣太郎を横目に、軍刀を鞘に納めた泰造は、静かに歩き始めた。英樹もまた刀を納めると幾分か不機嫌な惣太郎とともに彼の後に続く。
「なぜです……なぜ……」
三島恒雄の瞳は真っ赤に染まっていた。彼はブツブツと胸を渦巻く激情を呪文のように落としながら、一人、校舎の闇に囚われ続けた。
そこは戦中の校舎だった。
姫宮玲華は焦っていた。
ヤナギの霊である彼女の常識では測れない事態が発生していたのだ。
戦中の校舎は、静寂に呑まれた戦後の夜とは異なり、異様に騒がしかった。
「“動くな”」
玲華は叫んだ。
すると、こちらに細い銃口を構えた男の動きが止まる。ミイラのように頬のこけた男であり、カーキ色の上着はカビに塗れている。それでもその瞳のみ、ギラギラと精力的であった。
「なんなんだよ! さっきからなんだよアイツら! いったいどっから現れやがる!」
田中太郎は浅い呼吸を繰り返しながら、何度も何度も後ろを振り返った。そうして男の姿が見えなくなると、ほっと呼吸を重くする。だが、すぐにまた現れる別の男に、呼吸を乱してしまうのだった。
「“動くな”」
二人の男の動きが止まった。度の強いメガネを掛けた男と鳥の巣のような髪を後ろで束ねた男。二人は驚愕に目を見開いていた。
「“動くな”」
そこは少し肌寒い朝の校舎であった。小鳥の囀りが何処からか聞こえてくる。軍刀を片手に固まった大男の視線が何やらニタニタとイヤらしい。
「“動くな"」
銃弾が玲華の腕を掠めた。夕刻に赤い校舎である。
彼女の声が響く前に、白い羽織りを纏った優男が、拳銃の引き金を引いたのだ。それは数分前に、いいや、ここ数十分の間に幾度となく現れた人殺しの瞳を持つ男たちとは違う、何処か華族的な雰囲気の漂う、優雅な表情をした男であった。彼の背後ではさらに二人の男が、なぜか拳銃ではなく茶色い数珠を両手に、慇懃に頭を下げている。
「おい、大丈夫か!」
太郎は慌てて玲華の体を支えた。右腕を押さえる彼女の手が血に塗れている。それでも玲華は気丈な態度で首を振ると、太郎たちに走るよう促せた。
「いつまで走るんだ? いったい何処に逃げるつもりだ?」
階段を上がっては下り、木造の校舎をとにかく前に進んでいく。すでに見飽きるほどに走る続けたはずの戦中の校舎は、それでも何やら不可思議な、深い森の奥を彷徨っているような、見慣れぬ雰囲気に包まれていた。
「おい玲華ちゃん! アイツらは何なんだ!」
「分かんない!」
玲華は叫び返した。今にも倒れそうなほどに頬を青白く薄めている。
「分かんないから逃げてるの! だからとにかく走って!」
「と、とにかくって! さっきからずっと走り続けてるだろ!」
「なぁ玲華さん」
徳山吾郎は幾分か落ち着いた調子で黒縁メガネのブリッジに中指を当てた。
「もしや空襲のあったあの日に向かって走り続けているのではあるまいかね?」
玲華の細い顎がコクリと前に倒れると、途端に吾郎の顔から血の気が引いた。
「いったい何を考えているんだ、君は!」
「だってしょうがないんだもん! そっちしか逃げ場がないの!」
「どういう意味だね? 特攻警察らしき男たちと関係があるのか?」
「そうに決まってんじゃん!」
カツカツと厳格な足音が響いてくる。廊下の向こうに詰襟の黒い洋服を着た男が現れると、玲華は甲高い声で「“動くな”」と叫んだ。
「待ちたまえ、待ちたまえよ、玲華さん。確かに武装した彼らは危険だが、それでも空襲のあったあの日よりはマシであろう」
「一緒だよ! むしろ敵意のない空襲の方がマシ!」
「隠れてやり過ごせばいい。そのうち花子くんか誰かが助けに来てくれるはずだ」
「やり過ごせないの! 止まってると集まってきちゃうの!」
玲華は半狂乱に長い髪を振り回していた。吾郎は何とか心を落ち着かせながら、そんな彼女の黒い瞳を凝視した。
「集まってくるとはどういうわけか。それではまるで我々を捕らえようとしているようではないか」
「そうだよ! あの最悪の警官たちにもう目を付けられちゃってるの!」
「いや……何故? いやいやいや、そ、そうだとしてもだ! 我々はこの摩訶不思議な校舎の中にいるんだぞ。少し歩けば時間がズレるようなこの場所で、まさか捕えられるようなことはあるまい」
そう言っている間にまた別の男たちが現れる。
次々と。
途切れることなく。
それまで何とか冷静さを保ってきた吾郎の呼吸もだんだんと荒れ始めてきた。
「何故……何故? 何故こうも頻繁に我々の前に現れる? ここは時間も空間も出鱈目な夜の校舎であろう……それなのに、何故?」
「出鱈目じゃない」
もはや玲華の声は掠れ掛けていた。ただその分、彼女の唇は濃いルビー色に深みをましており、その瞳の奥底に宿る光には別人のような老獪さが現れていた。
「私たちは標的にされている」
「それは分かっているが、しかし……」
「つまり時間が強制的に動かされてしまう」
玲華の唇が怪しく煌めいた。「“動くな”」と老婆のように掠れた声が校舎に響く。すると武装した男たちの動きが止まる。
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