王子の苦悩

忍野木しか

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最終章

システムのバグ

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「零」


 今や風前の灯火に近い。
 はっ──はっ──と苦しげな吐息が響いている。
 それでも小野寺文久は、その傲慢な瞳をギラギラと激らせながら、夜の校舎を必死に這いずっていた。
「このクソ……クソがッ……! 動け、動け、動け……! 動き……やがれってんだッ……!」
 血の滝とも夕刻の壁ともつかぬ赤々とした階段が続いている。
 それを一段、一段、一段。
 二歩、三歩、四歩──。
 針の山を下るよりは遥かに楽な道中であろう。
 文久は思わず笑った。
 自分という人間の弱さがあまりにも可笑しかった。
 どれほど智謀を巡らせようとも、どれほど肉体を鍛えようとも、どれほど武器を揃えようとも──。或いはより智謀の優れた者に、或いはより肉体の優れた者に、或いはより優れた武器を持つ者に──敵わない。さらには愚かにも策謀に敗れ、無様にも深傷を負わされ、今や逃げることすらもままならない裸の王様である。そんな自分がどうしようもなく可笑しく、どうしようもなく腹立たしく、そんな気持ちを思い出せたことがただひたすらに嬉しかった。
 チョークに塗れた手摺りを掴み、竹槍に貫かれた体をズルズルと引きずっていく。
 脇腹から滴り落ちる血に足元が照り輝いていた。それは赤いチョークを翳らせるほどに眩い赤で、文久は暫し見惚れてしまった。
 やっと二階の廊下を踏み締めた時、文久はずっと視線が下がったままであったことに気が付いた。
 あまりにも愚かで怠惰──凄まじい怒気に顔が歪んだ。死にかけているなどと言い訳にはならない。いいや、死にかけているからこそである。一歩足を前に引き摺ると、階段中央の手摺りに左肩をぶつけた文久は、呼吸を荒げたまま視線を持ち上げた。そうしてすぐに臨戦体勢に入る。小太りの女生徒が目の前に立っていたのだ。
 村田みどりは変わらず醜い顔の上に、彼女らしい満面の笑みを浮かべていた。
「クソが!」
 文久は唸ると、胸ポケットから黒色の拳銃を引き抜いた。引き金に指を当て、上体を落としながら、銃口を前に構える。だが、そこまでだった。左腕は動かないのである。手摺りを離すともう体の自由が効かず、そのまま膝がガクリと崩れ落ちてしまい、さらに脇腹から全身を貫く激痛に危うく意識を失いかけた。
「ク……ソッ……」
 文久は焼けるような痛みに喘いだ。吐き気を堪えようと歯を食いしばった。それでも意識を保とうと目だけは見開いていた。
 そうして少しずつ異変に気が付き始める。
 どうにも階段を下りているようだった。
 一歩、二歩、三歩──。
 何故、下を向いていられる。
 何故、歯を食いしばっていられる。
 フラつきながら、朦朧としながら──何故、地獄のように思えた階段をいとも容易く下っていける。
 文久はハッとして体を捻った。
 激痛に視界が赤く染まる。それでも構わず数歩ヨロけた文久は、廊下の壁に寄り掛かると、真横の女生徒に向かって銃口を構えた。村田みどりは、自身もまた文久の血に赤く染まりながら、その笑顔だけは絶やしていなかった。
「テメェ……!」
 そこはすでに一階だった。
 村田みどりに体を支えられながら階段を下っていったのだ。
 一階もやはり男の狂気に隙間なく埋め尽くされている。黒雲を走る雷でもイメージしたかのようなチョークの渦は悪趣味で、毒々しい黄色に夜の校舎の風情もない。ただ、今の文久にそれを嘲笑ってやる余裕はなく、彼は彼の目の前で微笑む醜い女生徒に向かって、拳銃を構えるのに精一杯だった。
「何……の、つもりだ……!」
 村田みどりは何も答えなかった。昔のように妄想話を始めることはなく、突然ワッと発作を起こすこともなく、無表情に相手を傷つけることもなく、顔を隠すために目を潰そうとすることもない。
 文久は壁に肩を当てながら訝しげに彼女の顔を睨み続けた。
「何も変わってないよ」
 涼やかな風を頬に感じた。
 ゆっくりと振り返った文久は昇降口の前に佇んでいた美しい女生徒に目を細めた。
 大野木紗夜は青い花を両手で握りしめたまま、哀しげに微笑んでいた。
「くだらねぇ」
 文久はまた歩き始めた。
 血みどろの体を引き摺りながら、一歩、一歩、夜の校舎に魂を紡いでいく。
 銃声が夕立の山に木霊する雷のように遠く響いてくる。
「傲慢なる王よ。次の器は見つかったのか」
 ちょうど渡り廊下に差し掛かった頃だった。
 虚心坦懐とした男の声が背後から響いてきた。
 文久は外へと繋がる扉の影にドサリと背中を預けると、そんな声を掻き消すように、廊下の奥に向かって銃弾を撃ち放った。
「テメェ……女を殺りやがったな」
「悪霊を祓っただけだ」
「はっ」
 文久は、クック、と血の混じった吐息を漏らすと、さらに一発、銃声を轟かせた。
「ヤナギの霊が二人かよ……」
 そう呟く。
 脇腹の血は乾かない。
 痛みと吐き気が治まる気配はない。
 血の流れ落ちた体が重い。
 それでも死は一向に想像出来ない。
「なぁおい、どうそれに気付きやがった……?」
「ヤナギの霊が五人いるという話を聞いた時、おそらく根本を違えているのだろうと思った」
「それで王子の生まれ変わりに気付いたってか……? 解せねぇ野郎だぜ……」
 文久は何かを怪しむように、痛みを堪え、呼吸を抑え、僅かに銃口を下げながら、薄暗い夜の廊下に空色の独眼を向けた。
「五人いるとなれば単なる生まれ変わりではあるまい。ヤナギの霊は記憶のみを受け継がれた存在である──と、それは後に分かったことではあるが、そこでまた新たな疑問が浮かび上がった。つまりは因果関係だ。記憶を受け継がされている理由は何か。いったい誰の意思によって繰り返されているのか。そこにいったいどんな意味が込められているのか──」
 狂介もまた職員室の影に身を隠すと、その平静とした口調に少し熱を帯びさせながら、白銀の拳銃を顔の真横に構えた。
「いいや、意味などないのだ。誰の意思も介在していない。ヤナギの霊がはや五人目であると分かった時点で、俺はそういう結論に至った。おおよそ十八年の周期で起こっているという。四人目が生きているにも関わらず五人目のヤナギの霊が生まれているという。王子に憧れた山本千代子という少女の想いが直接的な原因だと考えられたとして、それでもこの学校に固執する理由や、それが十八年という周期で起こる理由には至らない」
「馬鹿な女がそういう夢を見たってだけの話だ……。当然意味なんざあるわきゃねぇ……」
「そうだ。意味などない。つまり、ヤナギの精神とは、コンピューターにおけるプログラムのようなものだったんだ」
「ああ……?」
「根本はヤナギの木だろう。この夜の全ては校庭のシダレヤナギに精神が生まれたことから始まった。だが、当然ながら、ただの植物であるヤナギの木に感情などある筈もない。であるならば、山本千代子の願いを叶えてやろうという意思も存在しない」
 文久は一瞬痛みを忘れると、唖然としたような表情で、銃口を斜め下に落とした。
「生まれ変わり──いいや、記憶のコピーか。それが偶然にもプログラミングされた指示であったとしよう。そして山本千代子の夢──いわゆる王子と結ばれるという思いがメモリに保存されたデータであったとしよう。であるとするならば、ヤナギの木がコピーした記憶をペーストされるのは一人とは限らないと考えられる。つまりは二人。山本千代子と王子。俺はそれを姫宮玲華という六人目のヤナギの霊の存在により確信した」
「六人目だと?」
「小野寺さん、貴方はとっくの昔にこの夜を見限っていた。ゆえに四人目と五人目の共存や、六人目のヤナギの霊の存在に興味を抱けなかった。俺は幸運にも新参者であったがゆえ、すでに集められていた情報をじっくりと吟味することができ、さらに湧き上がっては止まない好奇心により、思考が自然に前へ前へと進んでいった」
「クソ野郎が……」
 夜の校舎は静寂を保っている。
 舌足らずな少女の声は聞こえてこない。
 文久はさも楽しげに口元に皺を寄せながら、それでも村田みどりの様子を僅かばかり気にするように、その視線を遠くに漂わせていた。
「聞くところによると、姫宮玲華というヤナギの霊は存在自体が曖昧だった。それでもこの夜の校舎における特異な能力、他のヤナギの霊の記憶を有しているという点、さらには王子に執着しているという話から、彼女が六人目のヤナギの霊であろうことは想像に容易かった。ただ、やはり他のヤナギの霊と比べると異質な存在のように思える。何かが抜けているような気がするし、何よりも周期を大きく誤っている。そこで俺は六人目の彼女の存在がシステムのバグではないかと考えた。もしそうだとすれば、バグの発生した原因が他にあるのだろうとも」
 狂介は淡々と話を続けた。
「王子と呼ばれる少年がいた。一つ上に三原麗奈という名の五人目の王子がいるにも関わらず、吉田障子という少年もまた王子と呼ばれていた。彼はいわゆる六人目の王子なのだろう。これもまた奇妙な事ではあるが、実際に存在してしまっているのだから仕方がない。そう仕方がない──と、人であればそう考える。が、相手は感情を持たないヤナギの木である。つまりはシステム、ただ指示を遂行するのみの機械、そこに柔軟な思考などは存在しない──。一体なぜ姫宮玲華というバグがこの夜に生まれてしまったのか。それは六人目の王子である彼が先に現れてしまったからだ。つまりはヤナギの精神という名のシステムが、六人目の王子である吉田障子に合わせて、六人目のヤナギの霊である姫宮玲華を用意してしまったのだ。この事実から、俺は山本千代子の生まれ変わりと共に、王子と呼ばれるもう一人の生まれ変わりの存在を確信し、さらにあの木崎隆明という男が、ヤナギの霊であったのではないかという疑いを持った──」
 銃弾が交差する。
 暗い廊下に足を踏み出した狂介が銃弾を放つと、それを牽制するように、文久が銃弾を撃ち返した。錯綜する火炎に、一瞬、チョークの絵画に毒々しい校舎の様相がグッと浮かび上がる。
 文久は再び血みどろの体を引き摺り始めた。渡り廊下にズルズルと赤い跡が伝っていく。
「どうしてあの野郎をヤナギの霊だと思った……」
 体育館には冷え冷えとした、おどろおどろしい影が広がっていた。それをズシリと踏み締めた文久は渡り廊下に向かってまた銃弾を放った。これで弾数は残り二発。男の狂気に支配された校舎である。もはや記憶の操作は行えない。だが、文久は構わず、さらに銃口から火を吹かせた。
「木崎隆明が王子だったという話を聞いた。そこで俺は、あの男の奇妙な行動、態度、存在、その全てが鮮明となった気がした」
 狂介は銃弾を返さなかった。
 ただ夜闇の底から、飄々とした態度で、その淡々とした声のみを伸ばしていた。
「あの男は愚か者ではなかった。三原麗奈という類稀なる表現者に踊らされた振りをして、その実、逆に彼女を手のひらの上で転がしていた。小野寺文久の従順なる下僕であると思わせながら、その実、小野寺さん、貴方を裏切ることに一切の迷いがなかった」
「クック、あの気色悪ぃ根暗野郎を思い通りに出来たことなんざ一度もねぇよ……」
「いいや、表向きには従順だったはずだ。おおよそ数十年間、貴方の指示に従い続け、この街を離れようとすらしなかったはずだ。にも関わらず、予め用意されていた銃弾で、迷いなく、貴方の額を撃ち抜こうとした。そのニュースを知ったとき、これは流石に奇妙であると、その数十年間に隠された別の意思を想像せざるを得なくなった」
「あの野郎はガキ共に手を貸してやがった。ガキをこの夜に巻き込ませまいと影で動いていた。従順な振りをしてやがったのはそれが理由だろ」
「いいや、それにしては何とも中途半端だ。あれほどの男であればもっと他にやりようがあったはずだ。だが実際には、夜の校舎が為に、生徒たちが失踪するという事件が頻繁に発生し、さらには貴方自身の手によって、四人目の王子とされた白崎英治が命を落としている。つまり、三人目の王子でありヤナギの霊である彼の真の目的は、四人目、そして五人目の自分の捜索であったのだろう──と、俺はあの男の数十年間を想像した。なるほど、あの冷静沈着な男の生まれ変わりであれば、むしろ四人目の代役として別の王子を用意するのも当然の結果だろうと、そう頷けた」
 最後の一発を撃ち放った。
 文久の呼吸がまた荒くなる。
 体育館を壁伝いに進んでいった文久は、脇腹から落ちる血に構わず倉庫の扉を乱暴に開くと、その乾いた空気の中にドサリと膝を付いた。それでも文久は止まることなく、脇腹に刺さったままの竹槍を揺らしながら、防空壕へと繋がる閉ざされた扉に向かって体を引き摺っていった。
「それで……仮にそうだったとして……、テメェはいったい何がしたい……?」
 暗い倉庫には様々な用具が敷き詰められていた。雑に積まれた跳び箱。用途の分からないフラッグの束。カゴから飛び出たバスケットボールをイライラと横に弾いて進む。白いチョークによる絵は意外にも床と壁を僅かに彩るのみで、ただそれが逆に、乱雑な用具を背景にしたアートのように感じなくもなかった。
 文久はゆっくりと顔を上げた。荘厳なる山の頂を見上げるが如く。外へと繋がる扉は高く重ねられた体操マットの下にあった。
「ただ知りたい。もうすぐこの夜も明けるだろう。ならば全てを分かった上で、俺はそれを静かに見送りたい」
「傲慢な野郎だぜ」
 そう笑うと、高く積まれたマットの頂に、赤く血に塗れた腕を伸ばした。
 痛みに構わず、動かぬ体を奮い立たせ、広い肩を聳えさせる。その不屈の精神で、傲慢なる王の意思で、マットの端を引っ張る。だが、動かない。もはや文久には薄汚れたマットの一枚を動かすことすらも出来なかった。
 文久は憤怒の形相でグッと体を起こした。脇腹から、鼻から、口から、血が噴き出す。それでも文久はマットの端を右手で掴んだまま、硬く汚れた布にガバッと噛み付くと、動かぬ体ごとそれを横に引き摺り落とそうとした。すると、やっと、ほんの僅かにマットが動きを見せた。血の混じった唾液がマットに染み込んでいく。額に浮かんだ脂汗がつっとほおを伝う。
 文久は嬉しそうに喉を鳴らした。
 が、そこまでだった。
 白銀の銃口を後頭部に突き付けられる。
 右手を離し、口を離した文久は、堂々とした態度で後ろを振り返った。そうして男の右腕に彫られたブラックアンドグレーの髑髏のタトゥーを睨み上げた。
「また……俺が鬼か」
「いいや、これで終わりにしよう」
「いいや、終わらせねぇ」
 そう黒色の拳銃を夜闇に掲げた。
 が、もはや弾は残っていない。
 それでも文久は口元に皺を寄せ、傲慢なる王がままに微笑んでいた。
「このクソ野郎が」
 無情なる銃声が寒々とした空虚なる夜に響き渡った。

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