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最終章
彷徨える者
しおりを挟む吉田真智子は重い足を引き摺りながら、暗い夜の校舎をいつまでもいつまでも彷徨い続けていた。
その木造の様相から、そこが戦中の、もしくは戦前の校舎であろうことは分かった。だが、自分がいるこの瞬間を見極めようとする意思は残されておらず、ただ感情のままに、憎しみの対象である三原麗奈の後を追って、ズルズルと赤い糸を伸ばすばかりだった。ひたすらに怒りが湧き上がる。決して悲しみは拭い切れぬ。その心は恐怖に支配されつつある。それでも肩を震わせながら、真智子は歩いた。
ぱあっと眩しい何かが夜を弾いた。
その明るい光に視界が覆われると、真智子は悲鳴とも嘆きともつかぬ吐息を漏らし、腕を勢いよく前に振った。蜂の大群に襲われた老女のようである。ただあくせくと肩を捻り回した。
「ううぅ──」
何も地獄の業火が逆巻いたような赤い光だというわけではない。燦々と地上を照らす太陽の白い光でもない。夜空の中心でその存在を主張する月の青さでもない。初雪の溶ける透明な光とも、黒い雲を穿つ黄金色の光とも、少女の瞳に濡れる黒い光とも違う。なんとも表現しようのない、言ってみれば野生的な荒々しさを纏った、それは人の光であった。
真智子にはそれがひどく恐ろしかった。その為、光が現れると、真智子は慌てて腕を振った。恐ろしい何かを蹴散らそうと、強過ぎる光を追い払おうと、さまざまな妄想に身を委ねた。すると光は慌てたように、真智子から離れていくのだった。真智子はほっとして、また、彼女の目的である空色の瞳の少女を追った。するとまた光が現れる。真智子は取り乱して、駄々っ子のように腕を振って、光を追い払った。
その繰り返しだった。
空色の光を追い、強過ぎる光に怯える。光を拒絶し、光を求める。
ただ無限に近い時間だけが無意味に過ぎ去っていった。
やがてそれが習慣のようになってくると、徐々に感情が薄れていった真智子は、やっとその光の正体を知った。
光はやはり人であった。さらにそれは少女の姿をしていた。髪の短い、一重瞼に少年のような眼差しを宿した、小柄な少女だった。少女の腕には鬼のような青黒い血管が浮かんでいる──真智子が恨み、嘆き、追い求めた空色の瞳は、そんな小柄な少女の腕の中にあった。
真智子は歓喜した。
憎しみに心を乱した。
悲しみに目を濁した
怒りに全身を奮い立たせた。
そうして新たに恐怖した。
「あ……あ……」
それは得体の知れない少女たちだった。
その果てしない人生、山本千代子から連なる記憶の螺旋、さまざまな人々との出会いと別れ──。
それらを総括しようとも、こうしてヤナギの霊である自分に安易ならざる敵意を向け、人智を超えた知力と暴力を持って、その残虐性と冷酷さを惜しみなく、無邪気な少女の手の内に老獪な魔女のナイフを忍ばせるような者たちの存在を受け入れることなど不可能であった。
強過ぎる光が前方に現れる。それはそれまでとは違って、まるで真智子を待ち構えていたかのように、真っ直ぐとした熱を帯びていた。
「あ、貴方……」
真智子は掠れた声を落とした。今や話せるまでに彼女の擦り切った心は僅かながらの日常を取り戻しかけていた。
「もう一人は……?」
そう声を震わせた。
悠々と右手を腰に当て、廊下の真ん中に一人立ち塞がった睦月花子に向かって、その不安定な感情をさらに揺さぶらせた。
「もう一人って、もしかして麗奈のことかしら?」
花子はそう言うと、薬指と小指の欠けた右手で顎を掻いた。真知子との距離は教室二つ分離れており、それまでのように逃げるわけではなく、また猛獣の如く向かってくるわけでもない。
「貴方……」
その有様は悲惨の一言であった。
いったいそれは真智子の感情の矛によるものか。はたまた三原麗奈が仕掛けた残虐な炎の名残だろうか。炭のように黒くなった足先から太ももにかけての皮膚は焼け固まり、裂け目からは焦げた肉が覗いている。左腕は焼失し、深く抉れた左肩に見える骨は歪で、顔の左半分は焼け爛れ、左目は閉じてしまっている。ただ、それでも火傷後の目立つ右腕には鬼のような青黒い血管が走っており、その薄い唇には不敵な笑みが浮かび上がっている。彼女の顔の右側は依然として煌々と、黒い瞳にはギラギラとした鋼の意志が瞬いている。
恐ろしかった。
真智子は唾を飲み込もうと舌を動かした。何かが喉元につっかえて離れなかった。
いったいこの女は、そのあまりにも痛々しい姿で、この奇怪な夜の校舎において、こうしてヤナギの霊である自分を前にして、どうしてそうも平然としていられるのか。まだ三原麗奈の方が人間味があると思えるくらいである。ただ、ただ恐ろしい。真智子にとって、いいやヤナギの霊にとって、もはやこの睦月花子という少女の存在そのものが、未知の亡霊であった。
「その……お、女は何処に……? まさか隠したの……?」
「隠したってアンタねぇ。たく、目ぇ覚ましたから捨ててきたってだけの話よ。まぁ、あっちも早く外に出たがってたようだしね」
真智子はあっと息を呑んだ。
愚かにも、三原麗奈が逃げるという選択肢を失念していたのだ。
「さーて邪魔者もいなくなったことだし、私たちもそろそろ決着を付けようじゃない」
そう言って、花子はゴキゴキと首の骨を鳴らした。小さな笑みを口元に浮かばせている。ただ、表情の割に、一向に距離を詰めようとする気配はない。
真智子はといえば、もはや目の前の花子の存在など歯牙にも掛けていなかった。距離を詰めるつもりも、背中を向けて逃げるつもりもない。彼女の視線の追う先にあるのは三原麗奈という少女の冷酷な瞳のみである。もし外に逃げられれば──そうなればもはや手出しのしようもないだろう。そう焦り、恐れ、怒り、怨霊の視界がすうっと広げられていった。
「な……な、に……これ……?」
結果、真智子はさらに唖然とさせられた。痩せた女の影が揺り動かされた。
正気は完全に取り戻していた。取り戻してやっと校舎の異変に気がついたのだ。
いいや、それはもはや異変などと呼べるような代物でもなかった。言ってみれば天変地異の類か。世界の半分が、いいやそれ以上が消えてなくなっていた。夜の校舎を見渡せない。記憶の大部分が空虚な闇の底へと沈んでしまっている。戦後から今、およそ七十年あまりの、膨大な記憶が、である。だが、今の真智子にはそれを深く考える余裕も、また、確かめようとする意思もなかった。彼女の目的、その感情のゆく先にあるものは、瞳に空色の光を宿した冷酷な少女なのである。三原麗奈の存在が、いずれ彼女にとっての宝物である息子に最悪をもたらすというのであれば、何を持ってしても、その邪悪をこの世から消してしまわねばならない。それは母としての本能か。はたまた女としての感情か。
もうどうでもいい、と、真智子はスッと視線を下げ、そうしてその視界にやっと捉えた三原麗奈の亜麻色の髪に、ひっと邪悪な笑みを溢した。
「そう。そう。そう。そうなの。逃げられないのね──」
真智子は天変地異に感謝した。
どうしても塞ぐことの出来なかった抜け穴は戦後にあった。戦前戦中の、やがて空襲に地獄と化す防空壕は外への出口となっておらず、その為、この夜からの脱出は戦後に頼らなければならなかった。その戦後そのものが天変地異により消えて無くなってしまっていたのである。
「許さないから」
月夜の仄暗い校舎に痩せた女の影が揺れる。窓の向こうには星々が大粒の雨と降り頻りそうなほど鮮明に瞬いている。
真智子はそれでも僅かに、目の前の強過ぎる光を気にする素振りをみせた。
小柄な少女。青黒い血管を浮かばせた鬼。もはや満身創痍であるとしかいいようのない睦月花子は、その勇猛そうな右の瞳をギラリと光らせるのみで、一向にその場を動こうとしなかった。不敵な笑みを乾いた唇に浮かべるばかりで、飢えた野獣の如く飛び掛かってくる素振りも、一瞬の閃光と弾ける火花のように走り去る素振りも、見せようとしなかった。
それが何やら不自然だった。
が、よく考えてみずとも、全身に重度の火傷を負い、そして左目と左腕を失った少女がそれまでのように動けるはずもない。だからといって、人間離れした精神と肉体を持つ少女をこれ以上相手にする気にはならない。
動かぬというのであれば、そのまま、いつまでもいつまでも木のように立ち続けていればいい──。
そう微笑むと、ふっと花子から視線を外し、その暗い影を夜の底へと沈ませていった。
先ず、その香ばしい匂いに顔をしかめた。
鼻をヒクつかせ、下唇を突き出してみせる。
そうして早瀬竜司は気怠げに瞼を開いた。
それはコーヒーの香りだった。
穏やかな夜の静寂が彼を包み込んでいた。一番明るい星々の瞬きと、満月の青い斜光が、教室に並んだ机の影を浮かび上がらせていた。
「あらまぁ!」
素っ頓狂な女の声を耳にする。
竜司は全てを察したように目を瞑り、さらに深く眉間に皺を寄せた。そして理解し切れぬ現状を思い返してみる。いったいなぜ自分は生きているのか。いいや、もしくは彼女と同様に、既に死んでしまっているのか。
「お目覚めになったのね! ね!」
ゆさゆさと肩を揺すられる。
竜司はそれを無視した。
だが、ゆさゆさゆさ、と、女の細腕はその歓喜の声を緩めようとしない。「ね! ね!」と、朝日に顔を上げた花の蜜の匂いがコーヒーの香りに溶け込む。
堪え切れなくなった竜司は「どうせ誰も飲んでねーんだろ!」と鈴木英子の手を払い除けた。それでも英子は嬉しそうに「みんなのために淹れたのよぅ!」とますます声を弾ませるのだった。
竜司はやれやれと体を起こした。撃たれた胸の傷に痛みはない。それをあえて確かめようとも思わない。代わりに彼は机の上に並べられているであろう白いカップの群を想像し、苦笑した。
肩をすくめながら顔を上げ、教室を見渡す。コーヒーの香りに満たされた静かな夜である。
竜司はハッと目を見開いた。
窓辺に一人の男が座っていたのだ。
「テメェ……」
すぐにその猫のようにしなやかな身体を跳躍させた竜司は鋭い怒声を上げた。
「おいキザキ!」
「おはよう」
カップから一筋、白い線が夜闇に霞んでいる。
木崎隆明は変わらず陰鬱な表情で、コーヒーカップを片手に足を組んでいた。
「キザキさん、そろそろ話してくれ」
竜司は歯を剥き出しにするも、すぐに視線を動かした。やっと別の男の存在に気が付いたのだ。閉じられた扉の前である。純白の特攻服にシワを作った野洲孝之助が腕を組んで立っていた。さらに見渡せば、何とも影の薄い少年が、鈴木英子のすぐ真横に佇んでいた。
「野洲くんじゃねぇか。今まで何してたんだ?」
「ずっとここを彷徨っていた。お前の方こそいったい何をしていた」
「俺ぁ別に何も……」
竜司は多少落ち着きを取り戻すと、それでも木崎隆明を横目に睨みながら、鈴木英子を振り返った。そうして彼女の側でもの哀しげに背中を丸めた──というよりは心ここに在らずといった表情で床を見つめていた吉田障子に向かって「よぉ」と片手を上げてみせた。
「無事だったか」
「……え?」
「やるじゃねぇか」
竜司はそう言って、ニッと快活に微笑み、拳を前に出した。
障子はオロオロと顔を上げ、おずおずと首を傾げるも、小さく微笑み返した。
「キザキさん!」
孝之助は堪えかねかようにドンッと壁を殴った。そんな低い声と衝撃音もすぐに静寂に呑まれてしまう。コーヒーの香りばかりが何時迄も夜を漂って離れなかった。
竜司は軽く肩を回し、木崎を睨んだ。いつでも飛び掛かれるよう重心を低くした。
「ああ、英子さん」
一口、陰気な男の口元に白いカップが運ばれる。
陰気な男の視線が立ち昇る白い煙の跡を追う。
「彼らの分もコーヒーを淹れてきて貰えないだろうか」
ルンと長い髪を揺らした英子は「そうでしたわ」と声を弾ませ、慌てたように扉の外へと駆け出していった。
夜の教室に沈黙が訪れる。
障子はまた下を向いてしまう。
孝之助と竜司はただジッと木崎を睨み続けている。
「……いったい何処から話せばいいのか」
やっとコーヒーカップを下げた木崎は、その陰鬱な視線を少年たちの方に向けた。
「出来れば聞かせたくない話もある」
「いいや、全て話せ」
孝之助の厳格な表情を崩さなかった。
木崎はフッと微笑むと、敵意剥き出しに唸る竜司に視線を移し、そうして肩を丸くした少年──吉田障子に向かって優しげに目を細めた。
「誰にも話すつもりはなかった」
木崎はまた窓の外を見上げた。
「だが、お前たちだからこそ話しておきたいと思った」
「俺たちだからとは、それはいったいどういう了見だ」
「お前たちが部外者だからだ」
「もしやキザキさん、貴方はこの学校の出身者なのか?」
「ああ」
竜司はケッと片手を振ると、さも不快げに唾を吐いた。
「だからっておっさんが夜の学校に忍び込んでんじゃねぇよ。気色悪ぃぜ」
「忍び込んだわけじゃないさ。ここを訪れることは分かっていたが」
「意味分かんねーよ。堂々と正面から入りましたってか?」
「いいや、そうだな、ヤナギの意思に導かれたとでも答えておこうか」
「だから意味分かんねぇっつってんだよ!」
「つまり、俺はもうすでに死んでいるというわけだ」
竜司はあっと声を詰まらせた。よく見れば陰気な男の向こう側に夜空の星々が透き通っている。思わず孝之助と目を合わせると、木崎の手元の、コーヒーの黒い水面に視線を落とした。
「死んでるだと……? い、いや、死んだというのであれば、キザキさん、どうして貴方はここに居る? こうして我々と会話が出来る?」
「それは俺が田村しょう子だからだ」
「はあ?」
「俺の本名は田村しょう子だ」
「しょう子……」
障子は小さく首を傾げた。窓辺の陰気な男と目が合うと、慌てて視線を下げる。そうしてまた顔を上げる。木崎の顔をそろりと眺める。その瞳の影にそっと目を凝らす。
何やら聞き覚えのある名前だった。
奇妙な違和感が障子の胸の内をぐるぐると渦巻いた。
「しょう子などと、まるで女のような……。いいや、今さら貴方の本名になど興味はない! いったいどうしてこの場に居るのか、それを答えてくれ!」
木崎は暗い夜の教室を見渡した。
コーヒーを口元に運ぶと、その芳醇な香りを静かに味わった。
白い煙が一筋、澄み切った夜空に向かって上っていった。
「つまり俺はヤナギの霊だ」
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