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最終章
部外者
しおりを挟む青い炎がサイフォンの底に滑らかな曲線を描いている。浮かんでは弾ける小さな泡が茜色の床に淡い影を落としている。変わらない景色の中に変わらない静寂が広がっている。コポコポと静かな音色が家庭科室の背景を彩っている──。
一人の男が夕暮れに佇んでいた。
家庭科室の窓辺である。
男はフラスコに浮かび上がる半透明の影を眺めていた。
「見納めだな」
そう一人、声を落とした。
肩の広い男であった。
傲岸不遜な目をしていた。
眉目に秀でた男であった。
不撓不屈の精神を備えていた。
虎のように獰猛で、蛇のように抜け目ない。
小野寺文久は捕食者の頂点に立つ男だった。
うっすらとした白い湯気が一筋、コーヒーカップから立ち昇っていく。
色褪せた写真が一枚、黒いテーブルの上に横たわっている。
小野寺文久は丸椅子に腰掛けたまま、彼の前に置かれたコーヒーカップに手を伸ばすことなく、写真に霞んだ五人の男女を凝視することなく、ただ、それらを前に足を組み、静寂に沈んでいく物語の余韻を味わっていた。
夜明け前ではない。夜の終焉である。校舎は崩壊の最中にあった。それをどうしようとも思わない。
文久はそっと耳を傾けていた。そうして見送ってやろうと、そっとその傲慢な視線を下ろしていた。そうして頷いてやろう──。
偶然にしては上出来だった。
と、そう静かに微笑む。
存分、彼にはそんな感傷的なところがあった。
「小野寺文久だな」
コーヒーの白い湯気が横に揺れる。へしゃげた写真の一部がひらりと持ち上がる。
文久は怪訝そうに眉を顰めると、ゆっくりと右手を前に向けた。ベレッタM92F。白銀の銃口が茜色の陽に煌めく。
「何だ、テメェは?」
家庭科室の扉の前に一人の男が立っていた。手足の長い、細面の、洒落た格好をした男である。男の右腕にはブラック&グレーの髑髏のタトゥーが刻まれていた。その全身は何故かカラフルなチョーク色に塗れていた。
見覚えのない青年である。
傲慢な王の目がジッと細められる。
その壮絶とも呼べる長き人生において、清水狂介との対面は、これが初めてであった。
「俺は部外者だ」
まるでそこが自分の居場所であるが如く、狂介は躊躇なく家庭科室に足を踏み入れた。
そんな狂介の額には銃口が構えられている。
文久は変わらず傲慢な表情で、ただほんの少しだけ興味深そうに、組んでいた足をスッと外した。
「なら帰れ」
「お前も部外者だろう」
「ああ?」
「部外者同士、この夜について少し語り合わないか」
横柄な態度である。ただ、その口調は淡々としている。まるで用意された文書をただ読み上げる政治家のように。その声から感情を読み取るのは難しかった。
「お前に三つ、質問したいことがある」
狂介はそう言って、白いチョークに塗れた右手の先を、文久の前に置かれたコーヒーカップに向けた。その左手には画面の汚れたスマホが握りしめられている。
「バカが、死ねよ」
文久は非情な表情で、拳銃のトリガーに指を添えた。そうしてすぐに思い直したように小さく笑い、銃口を下げた。その迷いない視線に好奇心を覚えたのだ。
「この野郎、撃たれねぇことを疑ってやがらねぇ」
「それはお前が観察者だからだ」
「俺が、何だと?」
「観察者だ。今、こうしてこの場で向き合い、それが確信となった」
そう言って、扉正面のテーブルまで足を運んだ狂介は、窓辺の王を見下ろすように首を傾げてみせた。全身を覆うチョークの粉が日暮れの斜陽に舞い上がる。
文久は、クック、と喉を鳴らすと、さも楽しそうに白銀の拳銃を手の内で回した。
「随分と俺のことを知ってやがる」
「いいや、俺はお前を知らない。お前が俺を知らないように」
「つまらねぇ嘘は吐くんじゃねぇぞ」
「本当の話だ。だからこそ天文学的数字が重なり合うこともなかった」
「ならどうやってここを知った」
「情報の差だ。お前は俺よりも有名だった。それだけの話だ」
その淡々とした口調に変わりはない。言ってみれば揺らぎがない。それは自信の現れか。それとも傲慢の裏返しか。いったいどれほどの意志を秘めているのか。それとも何もない空虚な存在であろうか。いったいこの男は何を知っているのか。そして何を仕出かそうというのか。いったいこの男は何なのか。それを見極める価値は果たしてあるのだろうか──。
文久は立ち上がることなく、目の前の男を眺めていた。その一挙一動に目を凝らしていた。ただ彼は、静かに、終わりゆく物語の余韻を楽しんでいた。
「俺に……聞きたいことがあるらしいな」
「ああ、三つある」
「面白ぇ」
青い炎が自然と薄くなる。サイフォンのロートを満たしたコーヒーは成り損ないで、ほとんどが水と同じく透明なままに、真下のフラスコへと降りていった。そうしてまた青く丸く、炎がフラスコに押し潰される。ゆったりと透明な影がロートに昇っていく──。
文久は一筋の白い線の揺れるカップに視線を落とすと、天井に向かって伸びるその湯気を追うように、狂介の瞳に視線を戻した。
どれほど黒く芳醇な粉を用意しようとも、その一連の流れが終わることはないのである。或いは、そう、その物語それ自体を終わらせるまでは──。サイフォンを満たす影はただ昇り、そうしていつまでも透明なまま、ただ降りゆくばかりであった。
「なぁ、人って何だ」
王の問いが降ろされる。
お前が先に答えろ──そう、白銀の銃口が青い光を反射させる。
別に正確な答えを期待していたわけではなかった。
全ての答えはすでに彼の中に収まっているのである。
それほどまでに傲慢な男であった。
「人とは習慣だ」
狂介はさして悩むことなく、そう返した。彼もまた飄々とした男である。
文久は微かに頬を緩めた。何も、それが正解だというのではない。ただ、何やら面白い答えである。文久は満足げに笑ってみせた。
「どうしてそう思う」
「俺たちは生まれ、そうして本能により、やがて習慣へと帰結する。一見複雑とも思える習慣の集合により人という単純な種の保存が成り立っている。これはどの種にも言えるという話ではなく、結局のところ俺たちは、本能に導かれ、習慣に生かされている」
「その習慣を忘れた野郎はどうなる」
「滅びる」
「ほお」
「現に俺たちは滅びかけている」
文久は拳銃をテーブルに下ろした。ゆっくりと立ち上がると、窓辺に寄り掛かる。動かない左腕はそのままに、右手をポケットに仕舞う。
一つの物語の終わりのことであった。彼はそれを面白いと思った。或いは意味などないのかもしれない。だが、それも物語の内である。ならばこの余韻を楽しもう。この唐突に現れた奇妙な男の話を聞いてやろう。そう彼は微笑んだ。
「テメェの番だぜ」
「ああ」
狂介は頷き、左手のスマホにチラリと視線を落とした。何気ない動作であった。文久は妙な違和感を覚えた。だが、さして口を挟むこともない。王は悠然と、普段通りの傲慢な態度で、狂介の次の言葉を待った。
「一つだけ。分からない場合は分からないと素直に答えてくれ」
「よほど殺されてぇらしいな」
「いいや。では聞かせてもらおうか」
「このカスが! 早くしやがれ!」
「小野寺さん」
「ああ?」
「ヤナギの霊は“本当に一人だったのか”」
それはなんとも奇妙な質問であった。
文久は半分開きかけた口を閉じた。
また違和感が胸を掠めたのだ。
記憶の紡がれていく者たちを知らず「一人なのか」と問う。今や五人ともなる山本千代子の生まれ変わりを否定し「一人ではないのか」と問う。或いはそのどれであろうとも、この状況下で、この物語の終わりともいえる瞬間において、王である自分を前にして、この泰然自若とした男が選んだ問いとしては──やはりどうにも奇妙であると思わざるを得なかった。
一人だったのか──。
右手を口に添え、そうして目の前に置かれたコーヒーをジッと見下ろした文久は、その隣に並べられた写真に視線を移すと「分からねぇ」と声を低くした。
「では次の質問だ。白崎英治は“本当に王子だったのか”」
「……分からねぇ」
どっと鼓動が速まるのを感じる。とっと心臓に胸の内を殴られる。
久方ぶりに覚えた感情の高鳴りであった。
文久は口を押さえたまま、白い煙の立ち昇るコーヒーと、色褪せ朽ちかけた写真を、静かに見下ろした。
「最後の質問だ」
狂介はそう淡々と言い、またスマホの画面に視線を落とした。だが、もはや文久は構わない。狂介の右手が小さな動きを見せ始める。その様子を視界の端に流し見る。白いチョークの摩擦音が茜色に眩しい家庭科室に鳴り響いていく。それでもサイフォンに湧き上がる泡の音が掻き消されることはない──。
「なぁ小野寺さん、これは“何だ”?」
狂介の吐く息に確かな熱が加わった。それはそれまでの抑揚のない声とは一線を画す彼本来の感情の流出であった。まるで長きにわたる単調な道のりを終え、やっと充実感に胸が満たされたかのような。
僅かに顔を上げた文久は、白いチョークに塗れた彼の手元の、黒いテーブルに描かれた手のひらサイズの絵をはたと見つめた。
「あ……?」
どうにも子供の落書きのようであった。
何かの動物の絵であろうことは簡単に見てとれる。だが、それが狸であるか、それとも狐であるか、越冬のためにドングリ等のタンパク質を過剰摂取したリスであるかの判断は付かない。
文久はしばし唖然として彼の手元の絵を凝視し、そうして「チッ」と拍子抜けしたように、色褪せた写真に視線を戻した。
「狸だろ」
「いいや、猫だ──」
ヒュッと風を切る不審な音を耳にする。西日を横切る不穏な影を視界に捉える。
文久は咄嗟に右腕を上げた。小さな何かが、無情な弾丸などとは比べ物にならないほど緩やかに、くるくると日差しの中に放物線を描きながら、彼の眼前へと迫ってきたのだ。それを文久はサッと払い除けた。反射的にである。彼の本能が彼自身を守ろうと無意識の動きを見せた。おおよそ反応出来る速度であったが為の、彼にとっては無意味に近い、人としてのごく自然な行動であった。
「殺す」
激情に目の色が変わった。咄嗟に払い除けたそれはただの白いチョークだった。視線を上げるもすでにそこに清水狂介の姿はない。ただ、白いチョークの欠片が、日暮れの床を揺れ動いているのみである。
左の瞳が空色に薄れていった。烈火が如き怒りに表情が変わっていった。
だが、傲慢な王の炎が周囲を焼き尽くすことはなかった。代わりに文久は静かに目を見張った。驚愕のあまり言葉を失ってしまった。怒りによる激情など、彼本来の好奇心を前にして、塵に等しい。文久は呆然と目を見開いたまま、次第に湧き上がってくる感傷に喉を鳴らし、ハッと口元に皺を寄せた。
王の瞳に映ったのは一枚の絵だった。
いいや、巨大な絵の、ほんの一部分とでも表現すべきか。そもそも、それは絵などと呼べるような単純な代物ではなかった。
夜の校舎全体が、その一階から四階、その教室の一つ一つ、隅から隅、端から端、廊下の隙間から天井に至るまで、その果てない時を満たすように、その無限の記憶を掻き消すように、その永遠の想いを塗り潰すように、様々な色と表現、無限の形と技巧、一人の男の狂気、単調なチョークの粉に埋め尽くされてしまっていた。
その為、もはや夜の校舎全体に、空色の光を届かせることは叶わなかった。
「これはいわば時の連作だ」
狂気に満ちた男の声が一枚の絵を駆け巡る。
「家庭科室は始まりと終わり。タイトルは“猫”。制作期間は二十秒」
「このクソ野郎が……」
「今、この場において、およそ七十年にわたる存在の統一が成された」
左の瞳が澄み切った空色に薄れる。
だが、その瞳の光が奇妙な男の元に届くことはない。
今や狂気に満ちた一人の男、部外者であるはずの彼、この夜の校舎の真の支配者は清水狂介その人であるといえた。
「狸だっつってんだろ」
白銀の拳銃を拾い上げた文久は、クック、と楽しげに喉を鳴らした。
そうしてゆっくりと足が前に出される。
文久は傲慢な表情のままに、悠々と空色の瞳を細めると、チョークに埋め尽くされた夜の校舎に、新たな足跡を残していった。
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