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最終章
積年の想い
しおりを挟む大野木紗夜は泣いた。
およそ七十年の想いだった。
積年の涙が止まることはなく、感情の溢流に体が壊れてしまいそうで、それでもその魂が輝きを失うことはなかった。
「夏子ちゃん……。夏子ちゃん……」
鈴木夏子はといえば当然ながら困惑の面持ちである。突然現れた見知らぬ女が胸の内でさめざめと涙を流し始めたのだ。途方に暮れた夏子は、それでも可哀想だという思いから、そっと紗夜の頭を撫でながら、彼女の涙が止まるのを待ってあげた。
陽の光に穏やかな広間である。
淡い絹色の垂れ幕が彼女たちを優しく包み込んでいる。
「あのぉ」
宮田風花は肩を丸くしていた。安易には立ち入れざる雰囲気に尻込みしていたのだ。ああ、と両手を高く、一筋の涙と鼻水を頬に、膝を付いて拝みたくなるような、そんな神々しさを陽の中で抱き合う二人から覚えてしまう有様だった。声を挟む隙など見つけられる筈もない。
「そのぉ」
「あの……」
如何にも頼りなさげな少年の声を耳にする。
一瞬、自分の声が返ってきたのかと、風花は我が耳を疑った。
「先輩……」
ハッとして背筋を伸ばし、くるりと小田信長を振り返った。
「どうしたの、信長くん?」
「新九郎先輩や姫宮さんたちはいったい何処に行っちゃったんですか?」
「ええっと、そ、それは……」
「ここが目指していた戦前の校舎なんですか?」
キョロキョロと大きな目がおかっぱ頭の下で忙しなく動いている。
風花はともかくと、スンと大きく胸を張ってみせた。先輩である自分がしっかりしなければという思いからだった。泣きじゃくる大野木紗夜にキッと視線を戻した風花は、その女神の涙が如き神聖さに負けじと、先ほどよりもはっきりとした声を上げた。
「あの……! おっ……お、ちょ……」
だが、聖なる光には敵わなかった。すぐにオドオドとした調子に戻ってしまう。
「ち、ちょっと宜しいでせうか……」
よくよく考えてみた結果、目の前で泣きじゃくる彼女が同級生の大野木紗夜だという事実は流石にあり得ないだろうと、そんな結論に至ったのだ。そこは遥か昔の校舎だった。いわゆる仮想現実ともまた違う。ただ、それでも大野木紗夜と直接血の繋がったご先祖様という可能性は十分にあり得る話しだと思った。いいやそれどころか、自分や、後輩の小田信長、そして床に伸びる長谷部幸平の関係者であることだって考えられるのだ。ここが本当に戦前、もしくは戦中の校舎であるするならば、彼女、もしくは彼女たちが現実に実在していた人物であることは明らかであり、後の有名人である可能性すらも考えられるだろう、うひひ、と、風花はそんなことをモジモジと考えてしまった。
あっと風花は視線を下げた。で、あるならば直接的な接触は不味いかもしれない、と──。ついには、まさにそれが彼らの作戦通りであるはずの、過去を変えてしまうことそれ自体を恐れる始末だった。
「風花ちゃん」
大野木紗夜が振り返る。未だ苦悩の表情に顔を歪ませている。
風花は落としそうになった丸メガネを慌てて掛け直すと、恐る恐る彼女を見上げ、ひどく曖昧な仕草で首を横に倒した。
「お、おはよう? えへへっ」
「私……私、いったい、ど、どうっ……ひっぐ……どう、すればいいの……?」
「どう……とは?」
「わ、私じゃ、変えられないの……。こ、ここの、一部だから……」
「ええっと、その……あの、やっぱり大野木さんなんですよね?」
「夏子ちゃん……。ごめんね……。ごめんね……」
おもむろにメガネを外した風花はこめかみに指を当てた。とりあえず目の前の女生徒が同級生の大野木紗夜であろうことは分かった。だが、それ以外は訳が分からな過ぎて偏頭痛を覚えそうだった。
「君はどうしたいんだい?」
いつの間にやら長谷部幸平が立ち上がっている。したり顔である。また唐突に意味の分からない話を始めそうな雰囲気を全身から醸し出している。
風花は全てを諦めたようにメガネを掛け直した。
「君の願いはここにあるの? それとも今にあるの?」
「わ、私の願いは……」
「残念ながらここにいる僕たちではここに触れられない。けれど、ここより少し前を彷徨っている者たちの中に一人、そして、さらに前を彷徨っている者たちの中に二人、適合者がいる。或いはそれが君の願いであるというのならば、それを叶えてやれる者たちをここに連れてくることも出来る。或いはそれが神の導きであるというのならば、それを叶えてしまう者たちがここを訪れることとなる」
「私の願いは……。私の想いは……。私、私は……夏子ちゃん……ううん、違う、違うの! ごめんね、夏子ちゃん、本当にごめんね! 私は、私は、あなたを知っているけれど、でも、あなたの知る人ではないから。この積年の想いは作られたものだから……だから、私は、私の想いは今にある。私は親友を救いたい。親友の助けになりたい。だって、だって麗奈は私の王子だから! かけがえのない友達だから!」
「うん、それでいい。それが君の願いであるというのならば」
真剣な表情で訳の分からない話を続ける二人から視線を逸らした風花は、ぽけーっと広間に並べられた椅子に腰掛けてしまった美しい女生徒におずおずと微笑みかけた。どうにも夏子という名前の女生徒らしい。もしかすると知り合いの誰かのご先祖様かもしれない。これほどの美貌である。後の有名人に違いない。そんな思いから、ぬへへ、と畏敬と羨望の入り混じった光を瞳に宿してしまう。ただ、当の夏子はといえば、にっこりと微笑み返すこともせず、ぽーっと座り込んだままである。
「ここに青い花がある」
幸平はそう言って、右手をそっと前に差し出した。その指先には花弁の鮮やかな一輪の薔薇が握られていた。キザったらしい調子である。風花は不快そうに眉を顰めた。
「この時代にはないものさ。でもロマンチックだろう」
「うん、とっても綺麗……」
「これをあの少年に渡して欲しい。それが君の親友の助けとなる」
紗夜は頷くと、青い薔薇の花弁にそっと頬を寄せた。
「ええ、必ず──」
白い陽のカーテンが横に広がる。ちょうど紗夜と風花たちを隔てるように──。
青い薔薇の影が陽に呑まれる。そのまま紗夜の姿がふっと消えてしまう。
風花は「はぇ?」と間の抜けた声を上げ、メガネを落としてしまった。
「じゃあ僕たちもそろそろ」
鈴木夏子は変わりなく陽の光の向こうに佇んでいた。そんな彼女に向かって慇懃に頭を下げる。すると夏子もそっと頭を下げ返す。ふっと優しい笑みをこぼした幸平は、何気ない仕草で風花の手を取ると、その甲に唇を当てた。
「さぁ行こうか」
「一人で行け!」
薄暗い夜の底だった。
終わらぬ静寂に包まれながら、三原麗奈はゆっくりと目を開いていった。
先ず、青々と怪しい月を見上げる。白いカーテンの束ねられた窓の向こう。吸い込まれそうなくらいに夜空が透き通っている。
目線を下げていく。
見慣れた教室の天井と、平凡に並べられた机、月明かりに照らされた椅子を下から眺める。どうやら床に横たわっているらしい。底冷えしそうなほどに冷え切った教室である。ただ、後頭部から頬にかけては、とても温かい。誰かに抱かれているのだろう。と、そんな事は考えずとも分かった。
麗奈は視線を真上に向けた。そうして、ショートヘアの女の顔をそっと見つめる。鬼のように青筋を立てた女である。キラキラと煌めく黒い瞳を持っている。一見すると少年のようである。だが、やはり女である。どれほど恐れ知らずであろうとも、どれほど人間離れした力を持っていようとも、どれほど真っ直ぐな心を備えていようとも、睦月花子は彼女にとって同性のライバルだった。
「惜しいなー」
と、麗奈は思った。
「でも私にそっちの趣味はないから」
そう笑って、そう口に出して、麗奈は鉛のように重く感じる体をフラフラと起こしていった。
「やーっと、お目覚めのようね」
花子も立ち上がると、ため息混じりにポリポリと頭を掻いた。黒く焦げた右手である。小指と薬指が欠損している。左腕に至っては肘から下が焼失してしまっている。
「たく、このモブ雪ウサギ姫め。眠れる森の新九郎の方がまだマシだったわ」
麗奈は絶句した。
あまりにも悲惨な有様だった。
立っていられるのが不思議なくらいだった。
ショートパンツの下に覗く両足は血ぶくれに塗れ、所々残った皮膚は黒く塊り、足先は朽ちかけた炭のようになっている。焦げた服は一部が肌と繋がり、大きく抉れた左肩からは骨が露出し、顔の左半分は焼け爛れ、左目は閉じてしまっている。首元から上部、薄い唇を含む顔の右側にのみ、快活な彼女らしい眩しさが残されており、ただ、それが返って、まるで火災の現場に添えられた花のように、現状の悲惨さを物語る結果となっていた。
麗奈は震える指先を慌てて左の頬に当てた。呼吸と鼓動を重ね、激しく動揺する心を抑えようと必死になる。そうしてすぐに、その天性の才で、普段通りの奔放な自分の役に入り込む。麗奈は、ひどく気怠げな様子で顔を上げると、花子の右目に残された黒い瞳をジロリと正面から睨み返した。
「ねぇ部長さん、いきなり訳わかんない言葉ぶつけてくるの止めてくれないかな。寝起きで頭が重いんだよね」
「そりゃこっちのセリフだっつの。寝言は寝て言いなさいよね」
花子は焼け焦げた足を引き摺ると、壁の棚に背中をドンッと預けた。その様があまりにも痛々しい。また指を震わしそうになった麗奈はギュッと下唇を噛み締めた。
「……あー、そっか、アレが魔女ってわけ。だから私は白雪姫なのか」
「モブ雪クソウサギ姫よ。たく、吉田ママも魔女ってよりは化け物だわ」
「あはっ。……で、何があったの?」
「アンタを気絶させたら炎も消えてなくなっちゃったのよ」
「それで?」
「それ以外はそのままね。お婆ちゃんは行方不明だし、吉田ママはちゃっかり完全回復しちゃってるし、だから意識のないアンタ連れてずっーと逃げ回ってたってわけ」
麗奈は唖然として左手を下ろした。心外だったのだ。思わず頬を赤くしてしまった。
「う、うわぁ、まさかだけど部長さん、王子様気取り? え、え、それだったらマジキモ過ぎて激ヤバなんですけど? 私にそっちの趣味はないし、てか部長さんが男だったとしても絶対の絶対の絶対に頼まないし!」
「何をドアホなことほざいてんのよ。囮に使っただけに決まってんでしょーが」
「はいぃ?」
「吉田ママはアンタを恨んでんのよ。だから新九郎たちを逃がす為に仕方なくアンタの体を運んだってわけ。お分かり?」
「そ、そのくらい分かりますけど! ただ、まだちょっと頭が重たいだけ!」
「はん、どうだか」
夜の校舎に赤い火が灯る。
凄まじい爆発音が静寂を揺らめかせる。
「来やがったわね」
そう呟くや否や、右腕で素早く麗奈を抱き上げた花子は、三度の火炎に震え始めた校舎の中を力強く駆け出した。痛みを気にする素振りなどは一切見せない。もうもうと漂い始めた黒い煙を真っ直ぐ切り裂いていく。そうして紅蓮の炎に包まれた怨霊の影を引き離していく。
「ああそっか、怯えてるんだ」
やけに鮮明な声だった。
麗奈は瞳を空色に薄め、冷たく微笑んでいた。
「だーれが怯えるか! だーれが!」
「誰も単細胞ゴリラの話なんかしてませーん」
「なーら誰が怯えてるっつーのよ?」
「吉田真智子に決まってんじゃん」
花子は驚いて足を止めた。すでに吉田真智子の影は引き離してしまっている。
「アレが怯える? いったい何に?」
「君に。そして私に」
「まさかね。てーか、百歩譲ってそれなら何で私たちを追い掛けて来んのよ?」
「恨みの方が強いから」
「なら何も解決しないじゃない。結局、不死身の吉田ママには誰も敵わないってわけね」
静寂が二人を包み込んだ。深い闇に沈んだ夜は寒々しく、それでも何処か穏やかだった。
とっと、廊下に足を付いた麗奈はジャージに付いた灰を払う仕草をした。その空色の瞳は花子の顔に向けられている。
「諦めちゃうんだ。へー、部長さんともあろう人が、全てを投げ出しちゃうんだ」
「私はね、アンタと違って未練がましくないの。無理なものは無理ってね。星に手が届かないのと同じ話よ。吉田ママには触れることさえ叶わなかったわ」
花子はそれでも口惜しそうに、肘から先が焼失した左腕を窓に向かって掲げてみせた。満天の星空が夜を埋め尽くしている。が、それもまた夢の光景である。
「吉田真智子は星じゃないから。触れられない理由もちゃんとある」
そんな花子の右肩にそっと指が掛けられた。
「ねぇ部長さん、部長さんがどーしてもってお願いするなら、ほんのちょっとだけ私の舞台に上がらせてあげてもいいけど?」
「もうとっくに上がってるっつーの」
「いひひ。私、部長さんでもこなせる簡単な役を思い付いちゃった」
「はん、まーた単純な作戦ってわけ?」
「複雑なのがお好きならそうするけど?」
「……単純なのでお願いするわ」
花子はやれやれと腕を下ろした。その唇にはいつもの如く不敵な笑みが浮かんでいる。
麗奈もまたクスリと微笑むと、慣れた仕草で左の頬に指を重ねた。
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