王子の苦悩

忍野木しか

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最終章

ゼロコンマ一秒

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 吉田障子は憤然として頬をまん丸くし、決して後ろは振り返らなかった。大きく腕を前に、後ろに、と夜の校舎をテクテク歩いていく。
 とにかく外に出よう。もう家に帰ってしまおう。そう考えていた。階段を二段飛ばしに下りる。自分がどうなるかなど知る由もない。考えるのも億劫である。ただ無性に腹が立つ。どうして自分ばかりがこんな目に、と障子は怒りと悔しさから涙が溢れそうになるのを懸命に堪えていた。
 暗く静かな夜の校舎である。障子は何度も何度もつまずきながら、その度に立ち止まる背後の足音に顔を赤くしながら、やっと一階の廊下に辿り着き、そうして「あっ」と最後の一段目を踏み外した。大きくバランスを崩した障子の体がごろんと前に転がる。冷たい廊下に両手を付くと、昇降口の土間が視界に入った。
 冬の夜であろうか。ガラス扉の向こうは凍えるような雪化粧だった。桟は凍り付き、一面が月明かりにぼんやりと青く光っている。寒気が鋭く肌を突き刺してきた。白い息などは夜に浮かんだ小さな雲のようだった。
 障子は立ち上がるとゆっくりと腕を擦った。夜の校舎に侵食する冬の寒さが寂寞とした不安感を募らせたのだ。寂しさを覚えると、怖いと思った。怖いと思うと、温もりを願った。温もりはそのまま人の笑顔へと繋がっていった。身近な笑顔だ。真新しい記憶。じゃあね、障子くん、と。
 麗奈のこと、頼んだぞ──。
 障子は顔を上げた。紗夜の笑顔を思い出したのだ。やらなければいけないことがあると、そう思い直した障子は、慌てて階段を振り返った。早く皆んなを探さないと、と暗闇に足を踏み出す。
 ゴンッ、と額に衝撃が走った。ぐわんと視界が揺れる。
「いったーい!」
 明るい少女の悲鳴が耳元で弾けた。障子は咄嗟に「ごめん」と呻き、ヘナヘナとその場にしゃがみ込んだ。
「うぅー」
 姫宮玲華もまたその場にヘタリとしゃがみ込んでしまう。彼女も最後の一段目を踏み外し、そうしてタイミングよく振り返った障子と額をぶつけたのだった。
「王子ぃ、大丈夫?」
 玲華はズキズキと痛む頭に手を当てたまま、じっと障子の顔を覗き込んだ。膝を折り曲げて彼の前髪をそっと横にズラす。瞳に触れそうなくらいに唇を近付けていく。
 目のやり場に困った障子はフラリと立ち上がった。まだ痛む頭をブンブンと横に振る。玲華から離れるように、一回の端の、理科室の方へと進んでいった。
「あれ……」
 理科室の扉を抜けた障子はキョロキョロと瞳を左右に振った。当然あるはずの実験台やビーカー等が何処にも見られなかったのだ。そこは見覚えのある一年生の教室だった。彼は教室に並んだ机を覆い尽くす青黒い影に呆然とした。それは先ほどまでの月を反射させる雪灯りなどではなく、陽が落ちたばかりの校舎の様相であり、完全なる暗闇よりも暗い夜の始まりだった。
「これって……」
「あー!」
 素っ頓狂な声が上がった。障子の後に続くように、玲華が教室の中に飛び込んできた。ビクリと肩を跳ね上げた障子は、彼を勢いよく追い越していった少女の長い黒髪を目で追う。玲華の向かう机に散らばっていたのは複雑な模様が描かれた焦げ色のタロットカードだった。
「これ、あたしのじゃん!」
 玲華は憤慨したように腰に手を当てた。
 机の上のタロットカードは乱雑で、今の今まで触れていた誰かの温もりが残っているかのようだった。両サイドに置かれた花火用キャンドルは火が消えたばかりの滑らかな光沢を放っている。その隣の机には薄紫の巾着袋と桃色の小石が転がされてあり、並々と水の張られたコップが一杯、青い夜の影に沈んでいた。
 玲華は「もー」とため息をつくと、いそいそと、タロットカードを手元に集めていった。そうしておもむろに隣のコップを覗き込む。「むむっ」という唸り声を上げる。転がっていた桃色の小石を巾着袋に仕舞うと、それを暗闇にフルフルと踊らせ、また手のひらに転がした。フンフンと小気味よい鼻歌が夜の校舎を流れ始めた。
「王子王子王子ぃ、ねぇねぇ、早く早く!」
 玲華はパタパタと大きく手を振った。窓際の机に広げられた何かを指差して、はしゃいでいる様子だった。
 障子は呆然と教室を見渡すばかりだった。こんなことが現実にあるのだろうかと、夢を見てるような気分になった。もしやこっちが現実なのかと、あの日からずっと悪夢を彷徨っていたのかと、鼓動の昂りが抑えられなくなった。
 やっと目が覚めたのだろうか──。
 障子は両手でゴシゴシと目を擦った。
「ねぇ王子ってば!」
 玲華の声が彼を引っ張った。障子は窓際に向かって進んでいく足を止められなかった。
「ほら、これだよ!」
 玲華が人差し指を向けていたのは赤茶けた十円玉だった。赤い鳥居のようなマークの両隣に「はい」と「いいえ」が置かれ、その下に「あ」から「ん」までの文字が順番に並べられている。
 障子は思わず眉を顰めた。「何これ?」と玲華のキラキラとした瞳に首を傾げる。
「これであだ名をつけた人が見つけられるかも!」
「へぇ……?」
 障子の困惑などお構いなく、玲華は半ば強引に、彼の人差し指を十円玉の上に乗せた。そうして玲華もまた、ふんふん、と人差し指を重ねる。
「コックリさんコックリさん、王子に王子ってあだ名をつけた人が誰か、教えてください!」
 

 睦月花子は階段の壁に拳を叩き付けた。縦の亀裂が校舎を走る。
「見失ったじゃない!」
 壁の破片がパラパラと舞い降りた。
 清水狂介は軽く肩を払う仕草をすると、ふむ、と頷いてみせた。
「そうだな」
「そうだな、じゃないっつの! どーすんのよいったい!」
「俺たちは俺たちで動けばいい」
 一階に下りた直後だった。昇降口の土間には焦げたように乾いた木の葉が散らばっている。旧校舎へと続く職員室側にも、理科室へと続く保健室側にも、人の気配はない。ガラス扉の向こうは真っ暗で、月も星も雲の影さえも見えず、それでも校舎の輪郭は確かだった。焚き火の匂いが微かに鼻に付いた。
 花子はギョロギョロと廊下を見渡すと、カッと額に青い血管を浮かべた。
「んな悠長に構えてる場合か! アイツらに何かあったらどーすんのよ!」
「心配ならばお前一人で探しに行けばいい。その方が確実だろう」
 狂介はそう言って、背中を向けた。階段を見上げ、来た道を戻ろうとする。
 花子はニュッと狂介の首根っこ目掛けて右腕を伸ばした。それを予期していたように狂介の体が前に倒れる。右手が何もない夜を握り潰すと、花子は額に青筋を浮かべたまま腰を捻り、狂介の腹に左腕を回した。狂介の体を真後ろから捕らえようとしたのだ。咄嗟の行動だった。上体は前のめりに、体重と腕の勢いが全て左に寄ってしまった。そのため、狂介の右肘が花子の開いた右脇にかかると、花子は呆気なく横に倒されてしまった。
「落ち着け」
 狂介は悠然とした態度で立ち止まっていた。ムクリと体を起こした花子は呼吸を落ち着けようと深く息を吐き、そうして狂介の顔をギロリと睨み上げた。
「言い訳ぐらいは聞いてやろうじゃない」
「お前が猛獣のように襲いかかってきたから、しょうがなく倒したんだ」
「そっちじゃないわぁ! 一人で探しに行けって、アンタどんだけ薄情なのよ!」
「その方が確実だと言っているだろう」
 花子は「チッ」と舌打ちをし、腕を組んだ。
「もしかして別々に探そうって意味かしら?」
「いいや。俺にはやる事がある」
「じゃあなーにが確実なのよ! 一人より二人で探した方が効率がいいでしょ!」
 花子は怒りのままに右足で廊下を踏み締めた。夜の校舎が縦に揺れる。
「雑念のなさが重要なんだ。この校舎においては、お前一人の方が目的地に近くなる」
 狂介の声は論文を読み上げる教授のように淡々としていた。そこに揺るぎない確信があるかのように、狂介は表情を変えることなく、花子の瞳を静かに見下ろしていた。
 花子は思わず眉を捻ってしまった。言葉の意味が理解出来なかったのだ。ただ、普段通りの彼の抑揚のない声に、いつの間にか花子は額の色を戻していた。
「アンタさぁ、もっとこう、分かりやすく説明出来ないの?」
「お前は先ほどの、少年との再会をどう思った」
「そりゃあ、まぁ感動的って……」
「偶然だと思ったか」
「何よ、運命だったとでも言いたいわけ?」
 花子は「はん」と鼻で息を吐いた。
 狂介は首を振る。
「運命などではない。偶然でもない。アレは言ってみれば、この校舎においての必然だったわけだ」
「だーかーら、意味が分かんないってーの! 運命じゃなく必然って何よ? つーか、アレはどう考えても偶然だったでしょうが!」
「運命とは人の知り得ない、神の采配が如き、抗えない事象を言う。つまり、この夜の校舎においての出会いは運命ではない。先ほどのアレは、例えるならば、スマホでマップを開き、お互いの位置情報を確認しつつ、前に進み合った結果だ。地図を見て目的地に到達するのは必然であろう」
 花子は怪訝そうに首を倒した。ポカンと口が開きっぱなしになる。やはり意味が分からなかった。
「いや……スマホ? 地図なんか見てなかったけど?」
「例え話だ。実際のところ、ここでは地図は何の役にも立たない」
「はあん?」
「お前はここを何だと思ってる」
「何って、夜の校舎でしょ? ヤナギの霊がウロウロと彷徨いてる」
「ここは精神空間だ。つまりは記憶の中であり、あの世とこの世の狭間であり、時間も空間も法則も、現実とは異なっている」
「それとスマホに何の関係があるってのよ?」
「スマホの話はもう忘れろ。それよりも花子、ここで誰かと偶然に出会う確率が一体どれほどのものか、想像してみろ」
「たく」
 花子は面倒くさそうに腕を組んだ。そうして夜の学校を歩き回り、誰かと出会う自分を想像してみる。それはとても安易なことのように思え、逆に、顔を合わせる頻度の少なさが不思議に思えてきた。
「……つったって、所詮は狭い学校の中での話じゃないの。結構簡単に出会えると思うけど?」
「いいや、偶然に出会える確率は限りなくゼロに近い、天文学的数字となる。海に呑まれた髪の一本を拾い上げるようなものだ」
 狂介は額に手を当てた。何かを考え込むように廊下の窓に視線を向けてしまう。
「はん、大袈裟過ぎよ。海に呑まれた髪の毛なんてグーグル大先生でも探し出せるかっつの!」
「ああ、そうだろう。偶然に頼ればそのぐらい低い確率となる」
「じゃあなーんで私たちは出会えたのよ? ああん? 天文学的数字が重なったとでも言いたいわけ?」
「重要なのはここが現実とは法則の異なった世界だということだ。いわば精神の海、記憶の檻、頭の中の世界。思いが出会うという結果に繋がる。つまり偶然ではなく必然だったんだ」
 花子は釈然としない様子で頭を掻いた。
「ゼロコンマ一秒だ」 
 狂介は構わず話を続けた。
「戦争からおよそ七十年、約二十二億と七百五十二万秒、それをさらに一万で割った数よりも小さな刹那の時、極小のズレが世界を隔ててしまう。それはこの校舎の、その一点においての話だ。たった一歩のズレで時間がズレてしまう。僅か一歩の距離で世界が隔たれてしまう。タイル一枚挟んだ先にいる誰かと出会う確率が、約二十二億と七百五十二万を一万で割った数よりもさらに低い。それをこの校舎全体で考えれば、偶然出会うという天文学的な確率が、何となく想像出来よう」
 花子は「はぁ」と肩を落とした。ため息をつきながら頭を押さえてしまう。かつての、この夜の校舎においての田中太郎、田川明彦の途方もない話を思い出してしまったのだ。
「それで……どうやって私たちはその天文学的確率を乗り越えて、こうして出会えたのかしら? ほんの一歩で、ゼロコンマ一秒後の世界に変わっちゃうってんなら、こうして一緒に行動してる事自体がありえない奇跡じゃない?」
 そう言って、一歩、花子は足を前に出した。だが、秋の匂いも、乾いた校舎も、目の前の男の落ち着いた表情も、何も変わらなかった。
「偶然であればな。だが、これは必然だ。俺たちは互いに互いの存在を認識し、互いの行動を意識し合っている。だからこうして同じ空間に居られるんだ」
「難しいわねぇ」
「なぁ花子、昨年の夏にお前は何をしていた。思い出してみろ」
「昨年? 確か走って日本一周してた思うけど?」
 花子は高校一年の夏休みを思い出そうと暗い天井を見上げた。日本中を駆け巡り、各地の心霊スポットに赴いたことはまだ記憶に新しかった。
「出会った人たちのことは覚えているか」
「多少はね。岩手の鍾乳洞だったかしら、洞窟の奥に挑まんという乙女の純情を踏み躙った観光協会のジジイの顔なんか、よーく覚えてるわ」
「その人との会話は思い出せるか」
「ええ、面白そうな横穴見つけたから探検しようとしたら、そのジジイ、危ないから絶対に入っちゃいかんって、もう鬼の形相よ。まぁ確かに立ち入り禁止の看板はたくさんあったけれど、それでもあのジジイのせいで惜しいことしちゃったって、後悔しない日はないわ」
 花子はその時の情景を思い出しながら、ギリッと奥歯を噛み締めた。洞窟内は涼しく、地底湖はそれまでに見たどんな水よりも清らかに澄み切っていた。
「そうか。では、その爺さんとの出会いや会話を頭の中で改変出来るか」
 狂介は何やら興味深げに一階の廊下を見渡していた。いつの間にか、少し肌寒くなった校舎には花の匂いが漂い、まるで水に沈んだような月が窓の向こうに浮かび上がっている。花子は特に気にすることなく、狂介の言葉にまた首を傾げた。
「改変って?」
「たとえば、その爺さんが一緒に探検しようと張り切る場面や、もしくは、その爺さんが突然その場で心臓を押さえて倒れる場面などを想像してみろ」
「したけど」
「それがこの世界だ」
 狂介はそっと顎を撫でると、花子を振り返った。そうして右手を前に出す。その手の先に白いチョークが現れると、花子はギョッと目を見開いた。動体視力の優れた花子でさえも認知できない突然の出来事だった。チョークはゼロコンマ一秒のズレもなく、初めからその場にあったかのように、狂介の指全体を白く汚していた。
「え、何それ……? 手品よね……?」
「いいや、俺は元々チョークを手に持っていた」
「嘘おっしゃい! 急に出てきたじゃないのよ、それ!」
「これが法則なんだ。単純に言えば、この世界において時間と空間を支配するものは記憶となる」
「記憶って。じゃあなんで私たちはこうして会話出来てるわけ? これも記憶だっての?」
「これこそが記憶の改変だ。俺たちは現実世界の記憶を完全に引き継ぎ、それをこの現実とはかけ離れた精神世界で、完璧に近い形で模倣しているんだ。現実世界における複雑な物理の法則を、無意識に、この精神世界に当て嵌めているんだ。そう考えると人という生き物は面白い。決まりきった習慣こそが人の本質なのやもしれん」
 狂介はまた窓を見上げた。夜空は満天の星に埋め尽くされ、ぽっかりと大きな朧月が静かに夜を彩っていた。
「会いたいと思ったから出会えた。おそらくはあの姫宮玲華なる少女の思い。会いたいという思いが地図となり、必然となって、そして彼らは出会えた」
「思いねぇ」
「もしお前が彼らを探したいと思うのであれば、探しに行くといい。きっと出会えるだろう。だが、俺にはやる事がある。その雑念がお前の思いの邪魔となる。だから俺は一人で行けと言ったんだ」
「ふふ、中々ロマンチックな話じゃない」
 花子はフッと頬を緩めた。腰に手を当て、うんうん、と頷いてみる。そうして顔を上げると、しっし、と狂介に向かって、猫を追い払うような仕草をした。行ってらっしゃい、と思いを伝えたのである。
「まぁ、お絵描きに精を出すのも結構だけど、しっかりと仕事の方は手伝ってもらうわよ」
「何の仕事だ」
「吉田ママの件よ。あのお母さん、あんなに可愛らしい息子ほっといて、わんわん泣かせて、ちょーっとばかし許せないのよね。だから愛の張り手を一発お見舞いしてやりたいとこなんだけど、ほら、あのサイコパス野郎が犬っころみたいについてる可能性があるじゃない? 流石に二人同時には相手出来ないから、荻野新平の方をアンタに押さえておいてもらいたいのよ」
「ふむ。その二人は一緒に行動しているのか」
「ええ、どうも幼馴染みたいでね、仲良しらしいわ」
「そうか」
 狂介はすでに階段を上がっていた。花子も「はん」と片手を上げると、彼に背中を向けて歩き出した。
「一つだけ」
 狂介の声が暗闇の奥から響いてくる。花子は立ち止まると、静かな夜の校舎に目を細めた。
「小野寺文久とは争うな」
「はあん?」
「心霊学会の創始者だ。おそらくは奴がこの学校の壁を作ったんだ」
「ふーん」
「であるならば、過去を変える条件を知っている可能性がある。それはつまりここの法則を知っている可能性もあるという事だ」
「だから何よ?」
「支配者やもしれん。だから小野寺文久とは争うな」
「それって単にアンタが話したいからって理由じゃないでしょうね?」
 狂介の気配はすでに闇の底へと消えてしまっていた。
 花子はやれやれと肩をすくめると「考えとくわ」と少し大きめに声を張った。
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