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最終章
夜の静寂
しおりを挟む夜の校舎はまさにその様相を呈するように、声のない暗闇の底気味悪さに、日の暖かさの欠片も見られなかった。
吉田障子は暗い広間に瞳を漂わせた。その表情からは感情が読み取れず、まるで何も考えてないかのように虚ろで、ただ彼の頭の中には様々な記憶が雨季の川ように途切れることなく流れ続けていた。その記憶は或いは彼のものではなく、時より彼は彼女となって、自身の歳も名も忘れ、今も未来も考えることなく、ただ夜を眺めるばかりの空虚な存在となった。そうして過去を思い出した。
いったいどれだけの時間そうしていたか分からない。彼女は首元から背中にかけて圧迫感を覚えていた。彼女が彼となるとその圧迫感が温もりに変わり、彼から彼女に戻ると、やはりそれは取り止めもない、何処かしっとりとした圧迫感に変わってしまうのだった。
耳元に違和感を覚えた。生温かな風が吹いたような。彼女はぼんやりとした表情で旧校舎の広場の窓を見上げていた。
耳元の違和感は断続的だった。障子は彼女でいる時間の方が長く、それは彼が消極的だった為か、ほんの僅かな時間、やっと彼に戻るまで、その違和感の正体は掴めなかった。
背中の圧迫感が温もりに変わる。すると耳元の違和感が声に変わる。
それは透き通るような少女の声だった。ただ温もりは母のものであるかのようだった。
「大丈夫だよ。大丈夫だからね」
少女の声が頭の中を木霊し、記憶を流し、喉を落ちて、胸を震わせた。吉田障子はやっと確かな自我を取り戻すと、少し驚いたような表情で、モゾモゾと体を動かした。
「あ、あの……」
「大丈夫。大丈夫」
「ぼ、僕、もう行かないと……」
障子はそう言って、ほんのりと赤らめた頬を上向きに、ゆっくりと立ち上がった。すると女の細い腕がするりと障子の肩を離れる。そこに音はなく、ただ闇に薄れていく影のようで、もしや消えてしまったのではないかと、障子は心配になってそっと背後を振り返った。
「行ってらっしゃい」
大野木紗夜は何事もないかのように手を前で重ね合わせ、聖母のように優しげな表情で微笑んでいた。
「皆んなの所に行くんだよね」
「え……?」
「ほら、障子くんは王子様だから。だからきっと皆んなも、障子くんのことを今か今かと待ち焦がれてるよ」
にひひ、と紗夜の顔にいたずらっ子の笑みが浮かぶ。それは何処か懐かしく、それは何故だか儚げで、障子は胸が締め付けられるような苦しさを覚えると、紗夜の目を真っ直ぐに見つめた。
「紗夜……先輩も、一緒に」
「私は行けないの」
「どうして?」
「先輩は忙しいのです。いひひ、そんな顔しなくたって大丈夫だよ。私はいつでも君の側にいるから」
そう微笑んで、障子の額にそっと唇を当てた。障子はそれを恥ずかしいとも嬉しいとも思わず、当たり前のことのように彼女のキスを受け止め、ただ苦しさと寂しさは堪え切れず、下唇を噛みながら視線を落としてしまった。それはまるで別れの挨拶であるかのような。額の温もりが消えていくと、仄かな月明かりで微笑む紗夜の儚げな影に、障子はつっと涙を溢した。
「泣くな!」
白魚のように美しい紗夜の手が、障子の柔らかな頬をガシリと挟み込む。
「ほーら、笑いなさい」
「ひゃい……」
「いひひ、宜しい」
手の温もりが離れた。肌寒い風が流れる。まさか本当に消えてしまったのかと、障子は慌てて顔を上げた。
「じゃあね、障子くん」
紗夜はまだそこにいた。だが、もうこの場を離れようと、広間の暗がり向かって歩き出している所だった。
「麗奈のこと、頼んだぞ!」
最後に快活な少女の声が響いた。そうしてすぐに旧校舎の広間に静寂が訪れる。
恐怖心はなかった。
ただ、寂しかった。
障子はグスリと喉を鳴らすと、「皆んなを探さないと……」と呟き、額を撫で、頬を叩き、ゆっくりと夜の校舎を歩き出した。
「愚かな……」
姫宮詩乃はガクリと肩を落とした。白い髪が老女の乾いた頬を撫でる。消え入りそうな声だった。
孫娘である姫宮玲華は「え?」と首だけを老女の方に向けると、また「うーんっ」と喉を鳴らし、生徒会室の壁から抜け出そうともがき始めた。だが、壁は老女と彼女の手足を飲み込むように変形してしまっており、無駄な足掻きだった。
「もー! 誰か助けてよー!」
玲華の声が生徒会室の扉を抜け、暗い夜の空気を震わせ、四階の廊下に響き渡る。もう何度繰り返されたか分からない、少女の悲痛な叫びである。その声に返事するものはない。玲華の口がわあっと大きくなる。おんおんと少女の涙は止まらなかった。
しばらくすると微かな足音が夜の静寂の向こう側から響いてきた。白髪の細い毛先を眉の上で動かした詩乃は警戒したように空色の瞳を上げた。玲華は気が付くことなく、おんおんと涙と鼻水で紅い唇を濡らし続けている。
足音が近付いてくる。ノシノシと廊下を踏み締めるような重い音だ。何かを引きずるような音も合わさってくる。対抗するように、玲華の泣き喚きが激しくなる。詩乃の瞳には既に近付いてくる者たちの姿が見えていた。だが、老女には見覚えのない者たちであり、決して警戒を解くことはなかった。
「なーにをおんおん泣いてんのよ」
足音が生徒会室の扉を潜り抜ける。現れたのは女生徒だった。小柄で痩せ型。黒色のショートヘア。一重瞼は退屈そうに下がっている。一見すると普通の少女であり、また少年のようにも見えた。そんな女生徒は右手に長身の男を引きずっており、額と腕には青黒い血管が浮かび上がっており、一歩踏み締めるごとに校舎がドスンと振動するという異体だった。
空色の目を見開いた詩乃は躊躇なく女生徒の瞳の奥を覗き込むと、その魂を、精神の最も暗い部分に迷わせようとした。
だが、出来ない。
詩乃は驚愕した。女生徒の精神は雪解けの清流のように澄み切っており、一切の澱みが見られなかった。
「たく、どいつもこいつも世話が焼けるわね」
睦月花子はため息をついた。
「ゔぇーん! 部長ざぁーん!」
花子はゴキリと首の骨を鳴らした。何やら不満げな表情をした清水狂介を赤い絨毯の上に放り投げると、壁に手足を呑まれた少女と老女の真上に両手を伸ばす。
詩乃は首のみを真隣に立った花子に向けた。空色の瞳が鋭く細められる。花子の立ち姿は気怠げといった以外に特に変わった所はなく、青黒い血管が浮かび上がった小麦色の腕も一般的な少女と何ら変わりないような細さだった。完全に変形してしまった壁に対して、この少女にいったい何が出来るというのか。
「な……」
老女の目が大きく見開かれた。
何のことはない、少女はただ壁を引っ張ったのみだった。ただ引っ張ったのみで、凄まじい轟音と共に、壁がゆっくりと捲れ上がっていった。砂埃が生徒会室を舞う。体が浮かび上がるような感覚を覚えると、詩乃はわずかに自由になった手足をグッと動かした。玲華のクシャミと咳が砂埃を舞い踊らせる。
「この壁、なーんでこんな風になっちゃうのかしら。どうせこれも吉田ママの仕業なんでしょうけど」
まるで蜜柑の皮でも剥くように壁をめくり、縦に横に、と引きちぎっていった花子は、険しい表情を崩そうとしない老女の体を支えながら「痛い痛い!」とギャン泣きする玲華を多少乱暴に救出した。
「アンタさ、その肩の傷は大丈夫なの?」
先ずは玲華の状態を確認した。壁に埋まっていた手足は白い粉に塗れている以外は別段に大きな怪我はなさそうだった。ただ、彼女の制服は右肩の部分が真っ赤に染まっており、その破れ方から、銃で撃たれた、もしくは棒状の何か貫かれたであろうことが想像できた。
「肩って?」
玲華はキョトンとした顔で手足の砂埃をパンパンと払った。そうして右肩に手を触れ、ギョッと表情を変える。恐る恐る目線のみを下に向けると、わあっとまた大きく口を開いた。
「な、何これぇ? 何で何で何で、えーんっ、何で血まみれなの? 王子ぃ、早く助けてよぉ!」
大丈夫そうだな、と花子は肩の力を抜いた。老女の方も健全な様子で、すでに立ち上がっている。玲華と同じようにスラリと足の長い詩乃が暗闇に背筋を伸ばした姿は、そのまま髪を白く染めた少女のようだった。
「お主たちは何者じゃ」
夜を埋める雑音が消え去る。老女の声は明瞭だった。和紙を横に弾いたような乾いた声で、鋭く、ひどく冷たい感じがした。
「超自然現象研究部の部長だけど? 因みにそこのドアホ落書きクソ骸骨は暴走族よ」
玲華の肩の傷を確かめつつ、花子は親指を、壁際に立つ長身の青年に向けた。清水狂介は抑揚のない声で「これは白骨化した人の頭部、つまり髑髏だ」と長い腕を組んだ。
「超……何じゃて?」
「超自然現象研究部よ。心霊現象のエキスパートで、ヤナギの霊研究の第一人者。この夜の校舎は、まぁ言ってみれば私の庭みたいなもんね」
花子は胸を張った。夜闇の中で少女の黒い瞳ばかりがキラキラと煌めいている。
詩乃はしばし呆然と、側から見れば険しい表情のままに、花子の目を正面から見つめていた。次第に、クックと肩を震わせ始めると、やがて、わっはっはと大声で笑い始めた。
「そうか、そうか、心霊現象のエキスパートか。いやはや、いつの時代にも真剣なアホとやらはいるもんじゃの」
「はあん?」
「お、おばあちゃんがまた笑ってる……」
花子はムッと眉を顰め、玲華は唖然として口を半開きにしてしまう。ひとしきり笑った詩乃はふぅと息を吐き出すと、ほんの僅かに目の色を暗くし、そうしてまたいつものしかめっ面に戻った。
「それでお主、先ほどはいったい何をした」
「何をしたって何のこと?」
「どうやって壁を壊した」
「別に引っ張っただけだけど?」
「ふむ」
老女の鋭い視線が狂介に移る。
「玲華とは同じ年か」
「私の方が一つ上よ」
「では、三原麗奈という娘と同じ年か」
「そうなるわね」
苦々しい表情で、花子は頷く。老女は細く尖った顎に手を当てると、空色の瞳をゆっくりと、生徒会室の床に動かしていった。
「玲華は魔女じゃ。三原麗奈という娘は巫女。そしてお主もまた普通の者ではあるまい」
「普通の者って何? 私ってもうほんと数え切れないくらい友達がいるけど、その中に同じような人間なんて誰一人としていないわよ?」
花子は首を傾げた。単純に問うような口調である。ただ、老婆は深い思考の世界に入ってしまっているようで、花子に視線を止めることはなかった。
「吉田真智子が在命にも関わらず、新たなヤナギの霊が生まれたことと何か関係があるんじゃろうか。それともここがそういった場所であるためか。何にせよ、これ以上の放置は許されまいて。いささか遅過ぎるくらいじゃが、すぐにでもあのシダレヤナギを葬ってやると共に、この精神空間を破壊せねば」
空色の瞳が動きを止める。深紅の絨毯の上には何もなかった。それでも詩乃はその一点の先に何かがある、或いは誰かがいるかのように、獲物を狙う鷹が如く、瞳を細めていった。
「ワシは行かねばならん」
「言っとくけど、この校舎から簡単には出られないわよ。もし今すぐに出たいってんなら旧校舎の広間の壁ぶち抜くか、もしくは家庭科室で優雅なコーヒーブレイクを……」
「玲華の事を頼めるか」
詩乃はすでに歩き出していた。白い髪がさらりと月の光を受け流す。
「え、おばあちゃん何処に行くの?」
「用事じゃ。玲華はここで待っておれ」
「嫌だよ! あたしもおばあちゃんと一緒に行く!」
「待ってろっつんだから待っててやりなさいよ、たく」
花子はそう言って、生徒会室を飛び出ようとする玲華の腕を掴んだ。狂介の視線がゆらりと詩乃の後を追いかける。老女の白い影は暗い廊下を滑るように音もなく、空色の残影も残さず、スッと夜闇の向こうに消えていった。
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