王子の苦悩

忍野木しか

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最終章

乙女心

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 夏子ちゃんになりたい。
 それは単なる妄想だった。延々と胸の内で燻り、やがては全身を赤黒く焼き焦がすような凶悪な嫉妬心ではなかった。自分にはないものを持った同性の親友に対する思春期の羨望であり、そうあったらいいなぁという程度の青臭い夢に過ぎず、それが実現出来るなどと幼心にも本気で神様に願ったことはなかった。
 しょう子ちゃんの特別な人になりたい。
 それは単純な乙女心だった。ただ、それが叶うと分かった瞬間、果たして胸躍らさず、一目散にその可能性に手を伸ばさない少女がどれほどいるだろうか。相手に害をなそうという悪意や、利益の為の周到な計算などではない。目の前の置かれた色鮮やかなお菓子を口に運ぶ子供の純真であり、どうしようもなくありふれた衝動だった。あくまでも思春期の乙女の妄想であり、突然目の前に舞い降りた神様からのギフトに無邪気に飛び付いただけであった。
 だけであったなどと、随分と他人事ではないか──。
 吉田真智子が自嘲気味に喉を鳴らした。
 その妄想も乙女心も羨望も純真も衝動も、その全てが真智子の記憶の中にあり、感情の起因となっており、人生の一部となっていた。それでもそれは他人事で、失敗も悲劇も背信も堕落も罪も、あくまでも自分とは関わりのない過去の出来事で、それを嘆く必要も、悔やむ必要も、償う必要も、真智子にはなかった。そう思った。だから罪悪感はなかった。ただ、寒いと、真智子は擦れて冷え切った心を温める術をついぞ見つけられず、くだらないと、この退屈で終わりのない日常に何かを求めていた。自分を優しく慰めてくれる何かを。自分を正しい道へと導いてくれる何かを。
「今さら──ほんと馬鹿みたい」
「はあん?」
「くだらないって言ってるの」
 真智子は奥歯を噛み締めながらどんよりと湿った声を落とすと、振り上げた右手をスッと真下に落とした。すると、暗い廊下の天井がズズッと真下に動いていく。真智子の視線の先には一見すると少年のような小柄な少女の姿が──睦月花子は腰に手を当て、正面からジロリと、夜の校舎を彷徨う真智子の目を真っ直ぐに見返していた。その表情は獰猛で傲岸で可愛げなく、そんな花子の両足はリノリウムの廊下に完全に埋まってしまっていた。
「これ以上あたしたちに関わらないで」
 暗い廊下を埋め尽くすように、天井が花子のすぐ額の前まで迫り下りる。それは柔らかく脆そうなまだら模様の石膏ボードなどではなく、滑らかで重々しい長方形のコンクリートだった。
 花子はため息をつくと首の骨を鳴らした。そうして気怠げに両手を真上に向ける。
 巨大な岩が大地に落下したような鈍い衝撃音が響き渡った。遅れて振動が夜の校舎を震わせる。廊下を押し潰そうとしていた天井は花子の額ギリギリの所で動きを止めてしまった。
「たく」
 半分が天井に隠れた窓の隙間から月の光が零れる。薄ら灯りに照らされたそれは小麦色に焼けた少女の細腕だった。
 花子の額に無数の青黒い血管が浮かび上がった。大地を揺るがすような唸り声が夜を脅かすと、重厚な天井が徐々に真上に押し返されていく。その光景に真智子は内臓をかき乱されるような恐怖心を覚えた。
 この子の力の底が分からない──。
 花子の真上に落とした天井はおよそ六十四平方メートル、教室をそのまま真横に傾けたようなコンクリートの塊だった。それほど巨大なコンクリートが果たしてどれほどの重さになるかなど真智子には想像も付かなかった。が、とにかく人の力では及ばない、生身での制御など不可能であろう物体を創造したのだった。実際の質量、密度には及ばずとも、小柄な少女一人を押し潰すくらいわけないだろうと。
「アンタって私よりもヤンチャな女ね。学校をこんな風に壊しちゃって……あーあ、これどうすんのよ、たく、誰も通れなくなっちゃうじゃない」
 ワイヤーが引き千切れるような濁音が岩の擦れるような轟音と合わさり、ちょうど花子の手の位置からコンクリートの天井が真っ二つに裂けていった。白い破片がバラバラと廊下を埋めていく。それは山本千代子の時代から連なるヤナギの霊の記憶にもない異様な光景だった。人の域を遥かに超えた鬼の力に及ぼされる影響がどれほどのものか、それもまた真智子には想像の付かない未知の領域だった。
 花子の足が動いた。リノリウムの床材が剥がれ、黒い煙のような砂埃が舞い上がり、白い素足が現れる。真智子は頬を引き攣らせながら、今度は暗闇の底から白い布を出現させた。
「はん、それこそ今更よ」
 暗闇から現れた数十もの白い布は蛇のように身をくねらせ、花子の手足に巻き付いていった。その瞬間、おや、と花子の眉が上がる。ひんやりと粘りつくような感触を覚えたのだ。白い布はその全体が冷たい水に湿っていた。それを振り払おうとする素振りすら見せられぬままに、急速に空気が膨張する落雷の音と共に、凄まじい衝撃が花子の体を貫いた。
「は……」
 真智子は薄ら笑いを浮かべた。だが、すぐにそれも強張ってしまう。電撃に体を痙攣させた花子はそれでも倒れることなく、意識を失うこともなく、そのまま上体を起こすと、右足をドスンと前に出した。
「それも……今更ね」
 校舎が縦に揺れた。さらにもう一歩、花子の足が廊下を踏み締める。白い布も電撃も鬼の躍進の妨げにはならなかった。真智子は慌てて炎の壁を作り、さらに巨大な手を伸ばすように、燃え盛る赤い壁から大炎の渦を花子に向かって走らせた。
 黄金色の光が夜の校舎を飲み込む。熱風が白い布を焼き払う。
 花子は両腕で顔を庇うと、真横の壁を肩で突き破り、カーテンの閉じられた暗い教室に転がり込んだ。そうしてすぐに体勢を立て直し、真昼間のように明るくなった廊下を睨む。花子の聴覚は前回の夜の校舎での体験から獲物を狙う肉食獣が如く研ぎ澄まされており、そんな花子の耳に、遠ざかっていく真智子の足音が届いた。
「待ちなさい!」
 そう叫ぶと、一歩で教室から飛び出した。一瞬で空気を膨張させた炎はすでに薄れ掛かっており、廊下のありこちで赤い残火がちろちろと白い布の破片を燃やしていた。
 花子は廊下を蹴った。夜の向こうに走り去ろうとする痩せた女の影を追う。そんな彼女の肌に別の音が伝わった。それは音というには小さすぎる微かな空気の振動で、心臓の鼓動ほどの震えで、そこが夜の静寂の中であったからこそ察することが出来た獣の吐息だった。
 鋭い銃声が花子の頭上を通り過ぎた。咄嗟に身を屈めた花子は壁に手を伸ばすと、卵の殻を捲るような勢いでそれを引き剥がし、前方の暗闇に放り投げた。そうしてまた教室に身を隠しジッと耳を澄ませる。すでに痩せた女の影は闇の中に消え去っており、夜に潜む猛獣の残り香ばかりがいやに鼻に付いた。

 
 あまりにも脆く呆気ない最後だった。
 王の銃弾が残響となって消え去る頃にはすでに戸田和夫は絶命していた。
「くだらねぇぜ」
 小野寺文久の口角が上がった。その傲慢な視線の先にあるのは絶叫する少年の姿である。
「あああああああああ!」
 吉田障子の叫び声が旧校舎の広間に響き渡った。気が付けば彼は彼自身を見失っていた。
 悲しみや怒りや恐怖からではない。遠吠えのように純粋な声である。その絶叫に感情は含まれていなかった。複雑かつ色濃い感情には到底達していないそれは彼の本能だった。
 戸田和夫の体が広間の床に崩れ落ちると、吉田障子は本能のままに、まだ幼なげな男の声を夜の校舎に響かせた。
「障子くん!」
 大野木紗夜もまた鋭い悲鳴を上げる。それは少年を想う心、いわば感情の爆発であり、本能で動き出した少年の速度から数歩遅れてしまった。
「待って!」
 血に濡れたパナマハットが夜の隅で動きを止める。濃い影が二つ、鼓動の止まった老人の側を漂う。
 吉田障子は声を荒げたまま勢いよく小野寺文久の腰に飛び掛かった。そこに全身を燃やし尽くすような感情の暴走はなかった。ただ無我夢中であり、だが、そんな彼の頭の中には確かな情景が広がっていた。煤煙と砂埃。黒い雲と赤い炎。耳元を彷徨く蝿の大群。皮膚の焦げる音。腐臭。悲鳴。血。爆撃音。死体。死体。死体──。
 走馬灯のようにゆっくりと頭の中を流れる映像が今まさに見ている現実の光景と重なっていた。それが誰の記憶かなど考える余裕はない。記憶の中の感情など知る由もない。彼はただ彼自身の本能で、自分が誰なのかも分からぬままに、王に立ち向かった。か弱い少年の体で、とにかく目の前の強大な男を薙ぎ倒そうと、ひたすらに吠え続けた。
 大野木紗夜は咄嗟に両手を前に出した。意識のないサラ・イェンセンを右腕に抱いた文久は左半身を障子たちの方に向けており、その手には拳銃が握られたままだった。障子の突進に何ら動じた様子は見せず、ただ不敵に微笑み、腰にしがみ付いた少年を見下ろしている。それが不気味だった。
 とにかく少年を守りたい。紗夜は感情のままに精神を動かすと、校舎の記憶に記憶を上書きするように、広間の床が盛り上がり太い樹木となって文久の体を拘束する映像を頭に思い描いた。
「おいクソガキ」
 王の声が他の全ての音を呑み込む。
 紗夜の記憶の操作に夜の校舎が反応を示すことはなかった。それは取り乱していた為か、それとも文久が何かしたのか、王の張りのある声ばかりが夜の校舎に響いた。
「何のつもりだ」
 脅すような口調ではなかった。純粋に、ただ問いただすように、ジッと障子の瞳を覗き込んでいる。
 障子は顔を上げた。グッと拳を握り締めると、王の厚い胸板を殴る。何度も何度も、荒い呼吸を繰り返しながら。それはもはや本能ではなく、激しい怒りの感情だった。その為、文久の右腕に抱かれたサラの存在は気にかけていた。サラは傷付けまいと、だが文久は許すまいと、障子は言葉なく必死に握り拳を前に振い続けた。
「何のつもりだって聞いてんだよ」
 文久の声が一段低くなる。障子は僅かに怯んだ。それでも激情となった怒りは収まらず、誰の記憶かも分からない血と炎の光景が瞼の裏から離れず、障子の頬を涙が伝った。
「な、なん……で……」
「ああ?」
「なんでっ……」
「何で殺したかってか?」
「ど、どうしてっ……そんな……」
「くだらねぇ事聞いてんじゃねぇぞクソガキ!」
 文久の声がさらに低く険しくなる。その左目は透き通るような空色のままである。
「テメェがしてぇ事を言いやがれ。その小せぇ頭振り絞ってよく考えろ」
 紗夜はもう何度目かの記憶の操作を行い、少年を文久から引き剥がそうとした。だが、やはり夜の校舎は動かせない。そうして逆に、傲慢な王の視線一つで、紗夜の体が巨大な樹木の枝に拘束されてしまった。
「考えても分からねぇ愚図が、テメェの欲を教えろっつってんだよ。なぁおい、この俺をぶっ殺してぇか?」
 王は目を細めた。青い光が少年の瞳を覗き込む。
「さぁ早くしろ! 俺ぁあんまり気が長ぇ方じゃねぇぞ!」
「も、もう……」
「あ?」
「誰も殺さないで……!」
 障子は弱々しく、それでも視線は下げず、文久の目を真っ直ぐに見返しながらそう答えた。その瞳の奥に目を細めていた文久はチッと舌打ちをする。障子を軽く突き飛ばした文久は頭を掻くと、床に転がった戸田和夫の死体を冷たく見下ろした。
「まぁいいさ。今更ただの偶然──テメェなんぞに興味はねぇ」
 そう呟き、王は背中を向けた。障子は呆然と、次々と湧き上がってくる感情に体を震わせながら、その広い肩を仰ぎ見た。
「待って!」
 暗闇から声が上がる。やっとのことで巨大な樹木から抜け出した紗夜は障子の元に駆け寄ると、夜の闇に消えようとする文久の背中を睨んだ。
「どうしてまたここに来たの!」
「必要だったからだ。もう来ねぇよ」
「ここを放置するつもりなの? アナタはそれでいいの?」
 文久の足が止まった。傲慢な王の視線が旧校舎の広間に戻る。紗夜はビクリと肩を上げ、ギュッと障子の体を抱き寄せた。
「放置するかどうかはそのクソガキ次第だ。ソイツがあまりにも愚図でどうしようもねぇってんなら俺が始末を付けてやる」
「ど、どういう意味……?」
「テメェで考えな」
「待ってよ! お願いだからアナタの知ってることを教えて!」
 紗夜はそう叫び、腰を上げた。濃い影が二つ、文久の周囲を漂っている。それを一つにまとめるように右手を動かした文久は、空色の瞳を斜め上、本校舎の方に動かしていった。
「お前はいつまでお姫様気分でいるつもりなんだ」
「なんですって?」
「なぁお姫様、山本千代子って何だ」
 それはあまりにも取りとめのない、言ってみれば奇妙な質問だった。紗夜は声を詰まらせ、思わず首を傾げてしまった。
「千代子は、私たちの前世で……正確には記憶だけだけど。この夜の校舎の始まり」
「どういう存在かって聞いてんだよ間抜け!」
「存在……? 千代子は戦前の不運な少女で……そして今は魂だけの存在……」
「ありゃあ座敷わらしだ」
 紗夜はまた言葉を止めてしまう。平凡といえば平凡な、日本人なら誰もが知っているような、そんな答えだった。それはこの摩訶不思議な夜の校舎においては限りなくズレた、突拍子もない答えとも言えた。
「ア、アナタはいったい何を言ってるの?」
「どうやら五人目のテメェより、四人目のアイツの方が優れてるようだな」
 文久の目尻にシワが寄る。単純に相手を小馬鹿にした笑みである。紗夜はなるべく考えないようにしていた相手を思考の片隅に、グッと顔を真っ赤にした。
「それともまさか、ここを離れた後の記憶は紡がれないってか。クック、こりゃあ最後の最後にクソくだらねぇ発見しちまったぜ」
「いいから千代子が何なんなのかを教えなさい!」
「だから座敷わらしだっつってんだろ愚図」
「それが……!」
「珍しいが、伝承に残るくらいには前例のある存在ってわけさ」
 文久の透き通った視線が障子の瞳に戻される。完全に恐怖の感情に縛られてしまった障子にはもはや口を開く余裕すらもなかった。が、それでも視線だけは絶対に下げまいと、文久の顔を見上げ続けた。
「ああ、ただの座敷わらしってだけならこんな不思議は生まれなかった。戦争という特例に、魔女の存在が加わり、人の意志が混在し、そうして起こった奇跡だ。この偶然の産物を壊しちまうのは忍びねぇが──まぁそれも人だ。しょうがねぇ事なのさ」
 文久はまた不気味に微笑むと、瞳の色はそのままに、旧校舎の広間に背中を向けた。紗夜がまた声を上げるも、もはや王は振り返らない。
 夜の影がスッと一本線に月明かりを呑み込んだ。影の道は広間の壁を突き抜け、延々と真っ直ぐ前に進んでいく。その彼方、王の姿が夜の闇に完全に消えてしまおうというその時、まるで忘れ物でも取りに戻ってきたかのように、張りのある低い声のみが障子たちの元に届いた。
「目的は魔女だ。そこの老いぼれには何の興味もねぇ」
 障子は顔を上げた。そうして夜の影を飲み込むようなさらに濃く黒く強大な王の影に眉を顰めた。
「なぁおいクソガキ、愚図で間抜けで哀れなテメェの為に、一応布石は打っておいてやったぜ」
「え……?」
「ねぇ頭振り捻ってよく考えな。テメェの人生はテメェ次第だ──」
 
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