王子の苦悩

忍野木しか

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最終章

夜の王

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「な、なんだよ、これ……」
 そう息を呑み、顔面を蒼白させ、白崎英治は呆然と真後ろに足を滑らせた。
 石壁に囲まれた地下は天井が低く、どんよりとした空気にむせかえるようだった。土から滲み出る冷えた風にはカビの臭いが混じっている。
「まさか……。う、嘘だ……」
 白崎英治は口にハンカチを当てた。安っぽい光の先にこの世のものとは思えないような光景が広がっていた。ただ信じられないことに、カビ臭いという以外に特に不快な臭いはない。それでもいやに呼吸がしにくく、唾液が喉の奥にへばり付いて離れない。危うく懐中電灯を落としそうになると、英治は体を前に折り曲げるようにして、ギュッと目を瞑った。もしかすればそれは単なる幻覚であるかもしれないと、気まぐれな目の錯覚が暗闇の底にあらぬ現実を創り出した可能性もあると、英治はほんの僅かな期待を胸にそっと目を開けた。
 だが、それは幻覚などではなかった。
 体育倉庫の床下から繋がる古びた防空壕には、数え切れないほどの人の死体が山積みに横たわっていた。
「こ、こんなの……」
 目尻に痛みが走った。涙で視界がボヤける。英治は浅い呼吸を繰り返しながら、込み上げてくる胃液を必死に堪えた。
「こ、これ……。まさかアイツ、これを知ってて……」
「壮観だろ」
 伸びやかで張りのある男の声が背後に響き渡った。英治はバッと身を翻すと、右手首を素早く捻るようにして、制服のポケットからバタフライナイフを取り出した。
「誰だ……?」
「尊き犠牲者たちさ」
「お前が誰かって聞いてんだ!」
「いいや、真理に挑んだ勇敢な探究者たちと表現してやってもいい。ただの実験体じゃあ味気ねぇだろ」
 男はそう言って、口角を上げた。年の頃は三十前後か。長身の英治よりもさらに背が高く、広い肩幅に体躯の頑強そうな男で、堀深く整った顔立ちには人の上に立つ強者の威圧感が備わっていた。英治の手の先でギラつくバタフライナイフの刃先を気にする素振りもなく、薄暗い防空壕に並んだ死体の山に驚いた様子もない。男は不動の王のように悠然とした表情で英治の瞳を正面から見据えていた。
「な、何いってんだよ、アンタ」
 背中に冷たいものを感じた英治は懐中電灯の柄を軽く握り直した。この場から逃げる算段が立たない。たった一つしかない地上への出口は肩の広い男の背後にあった。男に退いてもらう以外に死体の積まれた防空壕からの脱出は難しく、ただ、男の表情と態度から、それが許される筈ないという事は想像に難くなかった。男の瞳は傲慢で、冷徹で、毅然としていて──彼の迷いのない視線が、白崎英治に、この地下の底で永遠の眠りに付くことを強要していた。
「なぁ、ちょっといいか」
「あ?」
「人って何だ」
「はあ……?」
 それは唐突な質問だった。漠然としていて答えの難しい問い。
 英治は肩を強張らせたまま乾き割れた下唇を舐めた。
「ひ、人は……人だ。それ以上でもそれ以下でもない」
「始まりと終わりを司る魂か。種の繁栄を促す肉体か。テメェ自身を形成する精神か──。なぁおい、クソくだらねぇ同語反復なんぞは求めてねぇんだよ」
 男の影がゆらりと地下を覆うように大きくなっていく。
 英治はナイフを正面に構えたまま足を震わせた。
「永劫を生きる魔女が完成形か。最強の肉体を持つ鬼が頂点か。精神を紐解く巫女が超越者か──。いったいどれが人なんだ。お前は人ってやつをどう考える。魂、肉体、精神。どれを極めれば次に進める。どれを求めれば真理に近づける」
「そ、それは……精神だろ? 人を形成するものは、その人の記憶だ!」
「いいや、違う」
 男の口元にシワが寄る。相手を小馬鹿にするようなイヤらしく不気味な笑み。王の表情だ。
「魂でも肉体でも精神でもねぇよ。人ってやつはもっと単純に出来てんのさ」
 英治はゾッと頬を引き攣らせた。
「な、な、なら……なら、人っていったい何だよ……?」
「テメェで考えな。ここで、ゆっくりとな──」


 三原麗奈はハッと目を覚ました。
 氷がピシリと軋むような張り詰めた静寂が眼前に広がる。暗く広い夜の校舎。その片隅で、周囲に空色の瞳を光らせた麗奈は口元に手を当てると、何度も何度も浅い呼吸を繰り返した。
 先ほどまで夢に見ていた光景が瞼の裏に生々しく張り付いて離れない。激しく乱れた鼓動が胸の内を叩いて止まない。
 玉のような汗が流れ落ちた。麗奈は額を拭うと、ギュッと目を瞑り、そうして左の頬に薬指を当てた。それは演劇部の部長である彼女が本番前に必ず行う仕草だった。記憶の底に沈んだ誰かの指の温もりが麗奈の心を落ち着かせる──頬を撫でるように指を下ろすと、麗奈はゆっくりと細く息を吐き出した。
「ん?」
 やがて鼓動が治まると太ももに何やら違和感を覚えた。いやに生温かく、さわさわと不愉快で、そしてのっしりと重たい。夏の夜である。廊下の壁に背中を預けていた麗奈は恐る恐る視線を下ろすと、うっと眉を顰めた。
「コイツ……」
 そこにあったのは口を半開きにした水口誠也の寝顔だった。麗奈の太ももを枕にスースーと気持ち良さげな寝息を立てている。麗奈はふぅとため息をつくと、ほっそりとした腕をグッと折り曲げ、そうして誠也の額に肘を振り下ろした。
「ぴぎゃっ!」
「おはよう変態さん」
「なに……? 地震……?」
「私の肘だけど? あと、君の人生はもう終わりだから」
「へぇ……?」
「君ってマジで気持ち悪いゴミムシ変態ネズミ男くんだったんだね。まぁ初めから分かってたけど、女の子の寝込みを襲うなんて人類史上最低最悪の変態ゴキブリネズミ野郎だよ」
「あの……?」
「ここを出たら君の一族郎党ペットのネズミ屋根裏のゴキブリまで根絶やしにするから、覚悟しといてよね変態さん」
 その冷え切った視線に誠也は寝苦しくも穏やかな夏の夜を忘れてしまった。空色の光と合わさって一層凍えるようである。誠也は泡を食ったようにアワアワと麗奈の太ももにしがみ付くと、上目遣いに彼女の瞳を見上げた。その勢いに麗奈の青いジャージが下にズレてしまう。
「ちょ、ちょっと待ってよ! 僕はネズミなんか飼ってないし、全部誤解なんだ! 変態じゃなくて天才なんだよ!」
「分かったから離れろ!」
 さらにもう一発、ゴンッ、と誠也の額に肘鉄を喰らわせると、麗奈は顔を赤くして立ち上がった。埃を払う仕草で太ももをパンパンと叩く。
「ああもうほんとウザい。アイツが来る前にここを出なきゃいけないってのに」
 イライラとそう首を振り、麗奈はアッシュブラウンの髪を耳にかけた。そっと閉じられた瞼の隙間から青い光が漏れ出している。誠也は恐る恐る顔を上げると、ズキズキと痛む額をさすった。
「アイツって、新平さん?」
「違う」
「じゃあ真智子さん? てかさ、そもそもここから出る方法がないって話じゃなかったっけ?」
「それも結局は吉田真智子次第だから。だからチャンスはいくらでも……」
 そこでプッツリと糸が切れたように麗奈の言葉が止まった。空色の瞳が大きく見開かれていく。まるで死人の顔でも見たような表情で、ジッと夜の校舎の一点に、頬を青ざめさせてしまった。
「どうしたのさ?」
 やっと体を起こした誠也は彼女の視線の後を追った。空色の瞳は旧校舎側に向けられており、誠也がいくら目を凝らしたところでただ暗いばかりである。
「アイツだ……」
「またそれ?」
 麗奈の百面相などもう慣れたものだと、誠也は額に手を当てたまま、ふぅと肩をすくめる仕草をした。
「ねぇもしそれが新平さんだったらさ、エンカウントした時点で僕たちアウトだから」
「小野寺文久が入って来た」
「え?」
「ここに。魔女を連れて」
「お、小野寺さん……?」
 誠也の表情が一変する。ちょうど広間のある旧校舎側に視線を下ろし、誠也はゴクリと唾を飲み込んだ。
「え……なんで小野寺さんが……? ま、まさか小野寺さんも巻き込まれちゃったとか……」
「それはない。アイツは支配者だから」
「どうしてさ?」
「知らない」
「でもそれって……そんなの、いったい小野寺さんは何が目的でこんな所に……?」
「だから知らない! 知らない知らない私は何も知らない! この私でさえも分からないの! アイツの考えてることなんて誰にも分からないから!」
 その声音は叩き割られたガラスのように脆く尖っていた。アッシュブラウンの髪を振り乱した麗奈の様相は尋常でないほどにひっ迫しており、彼女の精神が不安定であることを思い出した誠也は努めて優しげな微笑みを浮かべた。
「ご、ごめんね麗奈ちゃん、僕の方が年上なのに質問ばっかしちゃって」
「いいって、年とか関係ないじゃん。とにかく今は逃げないと」
 麗奈は、誠也の腕をガッと掴み、旧校舎とは逆の方向に進み始めた。ひんやりと湿った汗に手が冷たい。誠也は何とか麗奈を落ち着かせようとその手を強く握り返した。
「ねぇ待ってよ」
「……何?」
「ほら、小野寺さんの目的ってまだ分かんないわけでしょ? もしそれがヤナギの霊に関することならさ、もしかすれば小野寺さんが起こす混乱に乗じてここから出られるかもしれないよ?」
「混乱が起こる前に逃げるの! アイツがここに来た理由なんて考えたくもない。絶対まともじゃないから」
「もしかしたら何もせずに帰ってくれるかも? 小野寺さんって案外そういう物見遊山的な無駄を好む人だからさ」
「アイツが何をしに来たかなんて考えるだけ無駄。混乱が起ころうと起こるまいとアイツの顔だけは見たくない」
「ねぇ、麗奈ちゃんはいったい小野寺さんの何を知ってるの?」
「何も知らない」
 麗奈は立ち止まると、誠也の手を振り払い、正面から彼の顔を見つめた。瞳がいつの間にか栗色に翳っている。その表情は虚ろで、声色も先ほどのように尖ってはおらず、ただ淡々と不気味だった。
「だから嫌いなの。分からないから怖いの」


 しっとりと湿った夏の夜の匂いが胸いっぱいに広がる。
 小野寺文久は大きく鼻で深呼吸すると旧校舎の広場を見渡した。およそ数十年前の景色に何ら変わりはなく、そこがやがて旧校舎裏と呼ばれる校庭の一部に変わることを除いて、別段に特筆すべきところはなかった。幼き日の記憶に多少感傷が刺激されたくらいか。文久は僅かに口角を上げると、平凡で古ぼけた広間に集まった者たちを一瞥し、そうして彼の数歩先に立っていた白いドレスの魔女──ロキサーヌ・ヴィアゼムスキーに視線を送った。ロキサーヌは細く白い両手を頬に、じっとりと目を垂らした恍惚の表情で、夜の校舎を見渡していた。
「όμορφες」
「気に入って貰えたようだね」
 ロキサーヌに向けられた文久の笑みは穏やかだった。だが、ロキサーヌは彼の方を見向きもしない。始まりの魔女の一人である彼女は偶然と偶然が引き合わさって起こったこの世の不思議にただただ胸を打たれていた。
 校舎の夜を全身で抱くように、そっと腕を広げたロキサーヌは、ヤナギに刻まれた記憶を胸いっぱいに吸い込もうと赫く煌めく唇を丸くした。その純白の肌は月の柔らかな光を反射させるほどに細やかで眩しい。ここへ彼女を導いた文久の存在などはもはや足元を蠢く羽虫が如く視界の端に捉えさえしない。人という種の一人など完全に魔女の意識の外だった。
 そんな人を超越した魔女の傲慢さに王は微笑んでいた。
「おい文久!」
 王の視線が動く。戸田和夫はパナマハットのトップに手を置き、警戒したように暗い広間をギョロギョロと見渡していた。
「他の者たちは何処じゃ?」
 旧校舎の広間で目を覚ましたのは七人で、三人の魔女と文久を除けば、ヤナギの霊である大野木紗夜と戸田和夫、そして先ほど哀れにも胸を撃ち抜かれた吉田障子だけであった。田中太郎と小田信長、徳山吾郎、宮田風花、そして暴走族である少年たちの姿はなく、その事に老人は際限ない不安を感じていた。
「よもやお主、何かしよったのではあるまいな」
「さぁな。夜の校舎でも彷徨ってんだろ」
「文久ッ!」
「何もしてねぇよ。興味もねぇ」
「なら何故ここで目を覚さん。我らは同時に送られたんじゃぞ」
「同時じゃねぇよ。時間はズラしてある」
「何じゃて?」
「俺がお前らをこの時代に集めたんだ」
「どういう事じゃ? お主はいったい何を……」
「俺は俺に嘘をつかねぇ」
 文久の口元に皺が寄った。人を小馬鹿にするような笑み──圧倒的強者の表情だ。
 その大きな手も、山のように聳える肩も、傲慢な王の視線も、その一切が夜を背景にした絵画のように沈黙していた。彼の動作の一切が夜の校舎には映っていなかった。
 まるでそこから映像が再生されたかのように、月下に白く照らされた銃口の煌めきと、銃声の轟きが同時に起こった。まるでそれが予め定められた映画のワンシーンであるかのように、広間の床に崩れ落ちたロキサーヌ・ヴィアゼムスキーの額から真っ赤な血が溢れ出した。
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