王子の苦悩

忍野木しか

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最終章

あたしじゃない

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 あたしはほっとした。
 春の終わりの校庭だった。見上げる空は黒い。まるで湿った薪木から巻き上がる煙のよう。いつ、パンッと赤い火が飛び出してくるか分からない。それでも重なり合っては暗い雲の向こう側の、ほんのりと眩しい太陽の所在は明らかだった。
 あたしの前にはしょう子ちゃんがいて、あたしの隣には高峰さんがいた。あたしたちはお互いの手を握り締めていて、でも表情はそれぞれだった。
「早く逃げなさい!」
 高峰さんの声はひっ迫していた。
 風鈴の音のように透き通っているのに、ザラザラとした雑音が後から付いてくる。丸いガラスの光沢にヒビが入っているかのような──それはとても耳障りな声だった。
「けんど、けんど、先生はあたしたちに、おめぇたちは講堂に行けって……」
 しょう子ちゃんは動かなかった。
 あたしと、高峰さんの手を握り締めながら、おろおろ。瑞々しいヤナギの若木を振り返っては、おろおろ。砂埃と煙の臭いがきつくなっても、黒い雲がむせかえるくらいに近くなっても、講堂の前のシダレヤナギを何度も何度も振り返っては、おろおろ。おろおろ。おろおろ。
 あたしはイライラした。いつものしょう子ちゃんなら率先してあたしを前に押し出してくれるはずなのに、今日のしょう子ちゃんはあたしを後ろに引き戻そうとする。まるで夢を否定するかのように、夢を終わらそうとするかのように、あたしの気持ちを、願いを、ぜんぜん理解してくれない。本当のあたしを見ようとしてくれない。
 嫌だ。嫌だ。
 そんなしょう子ちゃんに、あたしはとてもイライラした。すごく悲しくなった。
「ここに居ても助からないわ!」
 高峰さんの顔は真っ白だった。頬の皮が外側に引っ張られてるみたいで、お話に出てくる鬼みたい。必死の形相だった。
「とにかく遠くへ、とにかく遠くへ逃げるのよ! 早く!」
 黒い雲がゆらりと揺らめいた。
 水面に石を投げ込んだみたいに彼方の空に波紋が広がった。
「逃げてっ!」
 あたしは空を見上げた。
 寺の鐘を丸太で打ち鳴らしたみたいな、ダーンダーンという低い地鳴りが遠くから響いてくる。ぼぼぼぼぼ、ぼぼぼぼぼ、と風を切る大きな音が近付いてくる。
 やがて、ジャージャーと小石が屋根に雪崩るような不気味な音が空から降ってきて──学校に火が付いた。
「あああーっ!」
 しょう子ちゃんが叫んだ。死んだ人みたいに真っ青な顔をして、今にも死んでしまいそうなくらいにフラフラして、そんなしょう子ちゃんの手が焼けるように熱くなった。
 あたしは呆然とした。
 学校に火が付いて、しょう子ちゃんが叫んでいて、そのどれもがぼんやりとした陽炎のよう。青々と艶やかなヤナギの若葉ばかりがいやに目に付いた。
「千代ちゃんがーっ! 千代ちゃんが学校にーっ!」
 その叫びに、あたしはゾッとした。背筋が寒くなって、あたしは冷静になった。冷静になると、ズキリと胸の奥が痛んだ。
「あ、あたしは……」
 そこでやっと声を出せた。あたしは──と。しょう子ちゃんの真似をした喋り方だった。そんな風に自分を呼べることを誇らしいとさえ思っていた。でもその時はズキズキとした胸の痛みが堪えられなくて、あたしはあたしの名前をどうしても口に出せなかった。
「“逃げろ”」
 高峰さんの唇が赤く煌めいた。
 すると、しょう子ちゃんの絶叫が止んだ。いつものようにあたしの手を引っ張る。力強く、温かい、しょう子ちゃんの手。あたしは本当に救われた気持ちになって、高峰さんに向かって勢いよく頭を下げた。
 高峰さんは体を前に倒して激しく咳き込んでいた。ヌメヌメと澱んだ血に手が真っ赤に染まっている。
 あたしはひっと息を呑んだ。慌てて高峰さんから目を逸らすと、しょう子ちゃんと一緒に走り出した。ザラザラとした咳の音が離れていく。あたしは決して後ろを振り返らなかった。
 ジャージャーと風を切る音があたしたちの後を追ってきた。また焼夷弾が落とされたのだ。どうしてあんなに不気味な音を出すのだろう。あたしたちを怖がらせる為だろうか。
 ヒューヒューと爆弾の落ちる音が聞こえてきた。ドスンドスンと低い地響きがその後に続いた──。
 あたしはほっとした。
 しょう子ちゃんの力強さが嬉しかった。しょう子ちゃんの横顔が頼もしかった。しょう子ちゃんの手の温もりが愛おしかった。
 やっと夢が叶うのだ──。
 あたしはほっとした。
 もう現実に悩まなくていいのだ──。
 あたしはほっとした。
 やっと果てない苦しみから解放されるのだ──。
 あたしはほっとした。


「あ……ああっ……。ああああ……あああああっ!」
 吉田真智子は絶叫と共に目を覚ました。
 暗く寂しい夜の静寂が彼女の瞳に映る。
「はっ、はっ、はっ……」
 昭和中期の職員室の前だった。何ら変わりのない現実の光景。廊下には湿気ったダンボール箱が無造作に積まれてあり、タバコのすえた臭いが壁に染み付いている。
 少し疲れたと壁にもたれ掛かった事までは覚えていた。どうやら、そのまま夢の中を彷徨ってしまったらしい。
 真智子は荒い息を繰り返しながら、壁に手をつき、何とか体を起こした。全身が冷えた汗に濡れてしまっている。喉が粘りつくように乾いている。はっ、はっ、と浅い呼吸が治らない。真智子は壁に手をついたまま、フラフラと、水道に向かって歩き出した。
 いやに息が苦しかった。皮膚が焼けるように熱かった。ただ、体の芯は凍えるように寒かった。
 あんな夢を見たからだろうか──。
 胃が潰されるような痛みに吐き気が堪えられなくなると、真智子は腰を折るようにして壁に寄りかかり、中身のない胃液を暗い廊下に落とした。夜の闇に影が呑まれていく。
「ち、ちが……、ち……違う違う違う違う……。あ、あたし……じゃない……あたしじゃない……」
 吐瀉物の異臭がタバコのすえた臭いと混ざり合う。蒸し暑い夏の夜である。ざらりと髪を固める汗が止めどなく溢れ落ちてくる。ただ、それでも体の芯は冷え切ったままだった。
「あたしじゃない……あたしじゃない……あたしじゃない……。あ、あたしは吉田真智子……吉田真智子……吉田真智子……」
 真智子はまた歩き始めた。フラフラと足を震わせながら、洗面所のある渡り廊下の前に向かって、痩せ細った体を揺り動かしていった。
「あたしは吉田真智子……。千代子じゃない……。あたしは……」
 うっと真智子の足が止まった。黒い影が視界の端に映ったのだ。
「あ、あたしは……」
 ちょうど渡り廊下の前、階段の下──乾いた砂の匂いばかりが鼻につく。それは小柄な女生徒の影で、おかっぱ頭の少女の全身は真っ黒に煤けていた。
「ち、違う……。あ、あたしじゃない……」
 真智子の足が後ろに下がった。すると、小柄な女生徒の影が前に動く。
 黒く煤けた体とは関係なく、少女の姿はぼんやりと夜の闇に薄れてしまっていた。山本千代子はいつものように感情の見えにくい面差しで、真智子の顔をジッと見つめていた。
「あ、あたしじゃない……。あたしは吉田真智子だから……。あたしじゃない……」
 真智子は慄いた。震えた。乱れた。
 あんな夢を見たからだろうか──。
 幸も不幸も、愛も憎しみも、悩み苦しみも、所詮は退屈な日常の延長線上の現実ではなかったのか──。
 千代子の歩みが速くなった。真智子の異変にやっと気が付いたのだ。唇を震わせ、髪を乱し、フラフラと後ずさっていく彼女に寄り添おうと、千代子は足を急がせた。
「こ、来ないで!」
 廊下が大きく波打った。千代子の小さな体など、その勢いにコテンと転がされてしまう。浮かび上がった波はそのままの形で固まってしまい、千代子の胸を超えるくらいの高さで廊下が隔たれてしまった。それでも千代子はめげることなく、何とか真智子の元に歩み寄ろうと、ヨイショ、ヨイショと波に立ち向かっていった。
「違う違う違う……違うの、違うから……。あ、ああ、あたし、あたしは千代子じゃない……。あ、あた、あたしは……」
 真智子は胸を押さえた。激しく乱れる鼓動に眩暈がし、その場にへたり込みそうになる。
「あ、あたしじゃない……! あたしじゃないから……! あ、あた……あたし、あたしは……な、何もっ……」
 真智子は首を振ると、唇を大きく歪ませた。
「何も知らなかったの……! あたしは何も知らないの……! だって、だ、だって……そんなの、そ、そんなのあり得ない……絶対にあり得ない……! な、何も教えてくれなくって……だ、だから、本当に何も知らなくて……。あ、あたしのせいじゃないから……!」
 大粒の涙が頬を滴り落ちた。尻餅をつくと、浅い呼吸さえも喉の奥で止まってしまう。それでも後ろに下がろうと、真智子は手足をばたつかせながら、暗い廊下に体を引きずっていった。
「し、知らなかったの……! そんなのあり得ないって、あ、あたしは何も……。だ、だってあたし……あたしは……。あ、ああ、あた、あたし……」
 呼吸が乱れた。感情が乱れた。記憶が乱れた。
「あ、あたしには……あ、ああ、あたしにはどうしようもないから……。もうどうしようも……だ、だってあたしは千代子じゃない……。だからもう無理なの……! どうしようもないの……!」
 あんな夢を見たからだろうか──。
 それとも、こんな所に来てしまったからだろうか──。
 記憶に壊されてしまいそうだった。悔恨に潰されてしまいそうだった。
 だから真智子は必死になって否定した。
「あたしじゃない……! あたしは何も知らない……! あたしじゃない……!」
 黒い少女の影が近付く。何度も何度も転びながら、やっと廊下の波を乗り越えた千代子は、てってと小さく跳ぶようにして真智子の元に駆け寄っていった。そうしてそっと黒く小さな手を差し伸べた。ニッコリと大きな笑みを浮かべながら──。
「いやあっ!」
 その手を、真智子は払いのけた。呼吸が重くなっていく。涙が重なり合っていく。
「ど、どうして……」
 真智子はゆっくりと首を振った。その視線の先には千代子の笑顔が──唇のみを大きく広げた彼女の笑みは、どうしようもなく不気味だった。その下手くそな笑い方が哀しかった。
「あたしは……ち、千代子は、そんな笑い方……しない……」
 千代子は首を傾げた。そうして、もっと大きく唇を横に広げると、黒く煤けた手をそっと真智子の頭に伸ばした。
「やめてぇ!」
 そう叫び、真智子はまた手足をバタバタと振り乱した。すると足の先が千代子の腹に当たる。ううっ、と呻めき声を上げた千代子がその場にへたり込むと、やっと体を起こした真智子は脇目も振らず廊下を走り出した。何度も壁にぶつかりながら、フラフラと、転げそうになりながら──。
「あたしじゃない……。あたしは何も知らない……」


 唐突だった。
 旧校舎裏に五人の学生が現れると、小野寺文久は唐突に、ひどく傲慢な笑みを浮かべた。その視線の先には大人しそうな少年の姿が──。少年は、足を怪我した女生徒に手を引かれていた。
 学生たちの足が止まった。学生たちは一様に怪訝そうな表情で、肩の広い傲岸そうな男と青い目をした金髪の女、背の高い老紳士、そして風に揺れるヤナギの青葉、と順番に視線を移していった。
「何だコイツら?」
 先頭に立っていた鴨川新九郎は太い首を傾げた。宮田風花と野洲孝之助もまた困惑の表情で、ヤナギの木の側に立つ小野寺文久の存在に驚いている様子だ。長谷部幸平はといえば真剣な眼差しで、スーツ姿の金髪の女性の、その豊満な胸元にギッと目を細めていた。
 籠城中の出来事だった。たとえそれが平穏な日常の最中であろうとも、おおよそ学び舎にはそぐわないメンバーが旧校舎裏のヤナギの前に集まっていた。
「おいお前ら、どうやってここに入った? 俺たちは今籠城中で……」
「おいガキ、父親の名前を言え」
 新九郎の声など歯牙にもかけず、他の学生など初めからそこに居ないかのように、小野寺文久は真っ直ぐ、吉田障子の瞳だけを睨んでいた。少年に向かってそう命令口調の声を伸ばした。
 吉田障子は返事をしなかった。文久と視線が合うと慌てて下を向いてしまい、いったい誰に向けられた言葉なのかも分からない様子で、モジモジとただ不安げである。
 文久は舌打ちすると、今度ははっきりと、障子に向かってドスの効いた低い声を響かせた。
「テメェに聞いてんだよ真ん中のクソガキ! 女に手ぇ握られるだけの情けねぇテメェの親父が誰かって聞いてんだ!」
 障子はビクリと肩を震わせると、慌てて風花の手を離した。ただ驚いたのは彼だけではない。宮田風花と野洲孝之助、そして長谷部幸平もまた唖然とした表情で固まってしまい、文久の顔を凝視した。その声も口調も表情も、政治家である彼の像からあまりにもかけ離れていた。
「さっさと答えろや。さもねぇと」
 文久の声がさらに低く、冷たい色を帯びる。
「し、知りません……」
 障子は慌てて首を振った。
 文久の乱暴な口調が大人しい障子にはとてつもなく恐ろしかった。
「ぼ、僕には……お、お父さんはいません……」
「はっ」
 文久の口角が上がった。相手を小馬鹿にするような表情だ。
 障子は少しだけムッとして、僅かに肩を怒らせた。
「ならテメェの母親の名前だ。おいまさか、母親もいません、とか言うんじゃねぇだろうな?」
「答えんでよい!」
 戸田和夫はそう怒鳴ると、パナマハットのトップを押さえた。だが、老人の声が障子に届くことはなく、障子は少し尖らせた声を肩の広い男に向けた。
「お母さんはいます! よ、吉田真智子です! ……あ、えっと、もしかしておじさん、お母さんの知り合いですか?」
 文久の口元にさらに深いシワが刻まれる。顎に手を当てた彼は、クック、と喉を鳴らすと、また障子の瞳を正面から見据えた。少年の瞳の奥を覗き込むようにジッと目を細めた。
「なぁおい」
「はい……?」
「親子ってのは似ねぇもんだな」
 先ほどまでとは打って変わって語り掛けるような口調だった。
「勘違いすんな。器の話じゃねぇぞ」
「えっと、意味が……」
 障子は困惑したように眉を顰めた。そうして、すぐに凍り付いてしまう。
「魂の話でもねぇ」
 何気ない動作だった。目の前の相手に握手を求めるような平然とした動き。文久の左手がゆっくりと前に構えられた。その手に握られていたのは白銀の拳銃だった。
「本質は形じゃねぇ」
 夏の日差しに銃口が怪しい光を放つ。
 文久は目を細めたまま、不気味に微笑んでいた。
「テメェという人間の話だ」
 何の躊躇もない。
 澱みない王の銃声が旧校舎裏に響き渡る。
 無慈悲な王の銃弾がヤナギの青葉を掠める。
 傲慢な王の視線は少年の瞳を捉えたままである。
「あ……」
 障子は呆然と視線を落としていった。そうして、赤く染まっていく自身の胸を見下ろすと、ふっと体の力を抜いた。

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