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最終章
空色の瞳
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机が床を転がる。
二階の教室の窓に映る夜空の星々は美しいままだ。夜の静寂に変わりはなく、時折、滑らかなリコーダーの旋律と鋭いビンタの音が空気を震わせた。
姫宮詩乃は鷹のような目をさらに鋭く細めると、先ほどよりも強く手を前に振った。すると教室に並んだ机の一つが凄まじい速度で窓に向かって放たれる。だが、それでも夜空はいつまでも美しいままで、窓の手前で動きを止めた机はまた、だんっと教室の床を転がるのだった。姫宮詩乃はため息をつくと、空色の瞳を閉じた。
「駄目じゃ」
「だめじゃ……?」
水口誠也は汗と涙と鼻水と唾液にまみれたリコーダーを宙ぶらりんに、おずおずと首を傾げた。おたふく風邪の子供のように頰が赤く腫れ上がっている。
「出られん。完全に閉じ込められておる」
「そ、そんなぁ……」
「だから旧校舎だよってば! 舞台裏からなら簡単に出られるもん!」
長い黒髪が星空を撫でる。流れ落ちる絹のように細やかな毛先だ。姫宮玲華は月夜に踊るヘレネーのように赤い唇を煌めかせながら、また悲しい旋律を夜の校舎に響かせ始めた──セルゲイ・ラフマニノフ『ヴォカリーズ』──水口誠也の頬をピシャリと横に弾いた。そうして落ちたリコーダーを窓に向かって蹴り飛ばす。うずうずと、はやる気持ちが抑えられない様子である。
「きっと千代子ちゃんは勘違いしてるんだよ! だから早く誤解を解かないと!」
「何をどう勘違いしておるというんじゃ」
「そんなの分かんないよ! でも千代子ちゃんはあんな事するような子じゃないから! 優しい子なんだもん!」
玲華は軽い興奮状態にあるようだった。餅のように白い肌が紅葉色に上気している。それは先ほどのショックからか、或いは前回の後遺症によるものか、はたまた人ならざる魔女の強烈な魂がこの夜の校舎と反発しあっているのか。
白髪の老婆は目頭を押さえた。瞳は夜の色に戻っている。
「何にせよ、はよう此処から出ねば。その娘ももうそれほど長くは持たんぞ」
「そ、そうだよ! 麗奈ちゃんを早く外に連れて行ってあげなきゃ!」
青いジャージの上に寝かせられた三原麗奈の身体には応急処置として包帯が巻かれていた。呼吸は浅く、頬に色はない。この永遠の夜において、身も心もボロボロにされた彼女の有り様は悲惨の一言で、一刻も早く外に連れ出す必要があった。
「麗奈ちゃん、ごめんね。すぐに外に出られるから、もう少しだけ我慢してね」
そう微笑んで、アッシュブラウンの髪を優しく撫でる。すると、三原麗奈の瞼が僅かに持ち上がった。彼女の瞳は水に溶けた墨のように薄くなっていた。
「逃、げて……って……」
「麗奈ちゃん!」
赤い唇が煌めく。弱り切った麗奈の身体を、玲華はそっと胸に抱き寄せた。
「大丈夫、大丈夫だからね。すぐに外に連れて行ってあげるから」
「私……は、いいって……。もう、助からない、から……」
「助かるよ! だって外に出れば全部元通りだもん!」
「もう、死んでる、から……。たぶん……。だから、外に出ても……助からない……」
玲華は言葉を失った。赤い唇を半開きにしたまま浅い呼吸を繰り返す。
麗奈もまた浅く息を吸い込むと、墨色に薄くなった瞳を僅かに見開いた。その視線の先には目付きの鋭い白髪の老女が立っている。
「出口を二つ……知ってる……。旧校舎の、大広間……舞台裏の壁を、壊して……。もう一つは、体育館……倉庫奥の荷物……退けると、木板の下に、閉ざされた扉がある、から……。でも、気を付けて……。その下、には……」
「他からは出られぬのか。ワシらは正面玄関からここを訪れたぞ」
「吉田……真智子が、全ての道を、閉じてしまった──私たちを逃さぬように、と……。でも、どうして、も閉じられない道……が、あるようで……その二つは、それ……」
「それは吉田真智子自身も知っておろうて」
「うん……」
「彼女は外か」
「あの、怪我……。ちょっと、見てたけど……あ、あれは、あの女でも……」
麗奈は言葉を止め、軽く咳き込んだ。唾液にうっすらと血の線が混じっている。
「は、やく、逃げて……。じゃ、ないと、アナタたちまで……」
「お主、三原麗奈じゃったか。いったい誰をその身に降ろした。吉田真智子について何処まで知っておる」
白髪の老婆の瞳に空色に光が浮かび上がる。
それに同調するように、三原麗奈もまた瞳の色を薄くした。そうして彼女はひどく疲れたように瞼を閉じた。
「色々と……。手当たり次第に……」
「愚かな」
「ふ、ふふ……。ア、アナタに、言われたくない、かな……。ヤナギの霊……降ろすなんて、正気の沙汰じゃない……」
「すぐに切った。が、ひどい気分じゃ」
「あ、たり前じゃん……。記憶は、切れない、でしょ……」
「途切れ途切れの、破片のカケラのようなものじゃったが」
「破片のカケラ……?」
「ここはあの世ともこの世とも違う空間らしい。村田みどりには仮りの体があった」
「あのぉ……」
男の声が会話に挟まった。ひどく焦燥したような震え声だ。
「早く外に出たほうがいいのでは……?」
水口誠也は大切なリコーダーを両手にキョロキョロと頭を動かし続けていた。特に廊下の暗闇を恐れているようだ。老婆もまた廊下に鋭い視線を向けると、厳しい表情で、白い髪を横に動かしてみせた。
「無理じゃ」
「むりじゃ……?」
「出口は当然の如く吉田真智子に押さえられておるじゃろう。無策でアレの前に立つのは危険過ぎる」
「でも、さっきは倒してたじゃないですか……!」
「あれは不意を付けたのみ──偶然の助けもあっての。同じ手が通じる相手ではない」
「そ、そんなぁ……」
水口誠也の体が溶けた餅のように崩れていく。もはやリコーダーを吹く余力すらも残されていないようだ。そんな彼の頬に、玲華は細い手を振り上げた。
「しっかりしてよ! 男でしょ!」
「ええ……?」
「この場で男は君だけなんだよ!」
「そんなの……今さらだよ……! こ、こんな状況で、玲華ちゃん、ステレオなジェンダー論掲げないでよね……!」
「はぁーなにそれ? ほんとなっさけない男。いっつもビビって、結局は他人任せじゃん。ほんと君ってただの変態男だよね。リコーダーペロペロ男くんだよ」
「ひどいよ玲華ちゃん! 皆んなで協力し合わなきゃならないって時に、そんな……てゆーか僕、ビビってないし!」
「ビビってんじゃん! 部長さんにビビってたし、新平くんにもビビってたじゃん!」
「し、新平くん? え、部長さんって花子さんのことだよね?」
「ヤナギの霊にもビクビクしちゃってさ! あとあれ何だっけ、あの、憂炎くんとよく似た……あっ、小野寺さんって人にもビビって逃げなきゃとか慌ててたよね!」
「人外ばっかじゃないか! てか、むしろ僕って凄いよね? 一人だけ生身の一般人で、よくやってる方だよ」
水口誠也は悠然と腕を組むと窓の外を見上げた。どうやら自信を取り戻したらしい。
「あの痩せた女の人……あの人もヤナギの霊なんでしょ?」
「そうじゃ」
姫宮詩乃は重々しく頷いた。瞳の色は空色のままだ。
「お婆ちゃんの変な力で何とか出来ないんですか?」
「出来ん」
「でもさっき、ヤナギの霊を降ろしたとか何とか言ってたじゃないですか」
「同じヤナギの霊といえど、村田みどりと違って吉田真智子はまだ生きておる。魂が肉体と繋がっておるゆえ、降ろすことは出来ん」
「そもそも降ろすって一体……」
「その言い方は間違っておるとワシも考える。降ろすではなく、繋げるが正しいか。巫女はその瞳の光で魂と魂を繋ぐ道を作る事が出来るんじゃ」
月が黒い雲に隠れる。窓を見上げぬ間にまた時が動いたのだ。すると空色の瞳の光が強くなる。それはよく見れば流動しているようで、澄み切った光は雪解けの水のように、下へ下へと流れ落ちているようだった。
「いや、道という表現もまた誤りか。青い海を漂う糸と表現すべきやもしれん」
姫宮詩乃は視線の動きを止めなかった。つっと夜闇に滑らすように、空色の瞳を周囲に光らせていく。
「糸ですか」
「ああ、赤い糸じゃ」
衝撃音が夜の校舎を走った。
火薬が鉄を弾く銃撃音だ。
四人は息を潜めた。三原麗奈の瞳が僅かづつ空の色に向かって薄まっていく。
「じゅ、銃声……? まさか小野寺さんじゃ……?」
「し、新平くんじゃないかな……?」
鮮血のように真っ赤な玲華の唇が震える。再びリコーダーを握りしめた誠也の表情は森で迷子となった少年のように心もとない。
三原麗奈は浅く息を吸い込むと、窓辺に佇む白髪の老婆と視線を合わせた。
「逃、げられない、なら……殺して……」
「なんじゃて?」
「吉田真智子を、殺して……ヤ、ヤナギの木を、燃やして……」
「ふむ」
「お願い……」
「吉田真智子は新種か」
夜の校舎が震えた。銃撃音を押し潰すような凄まじい打撃音が床を揺らしたのだ。大岩を落としたような音だった。
玲華は悲鳴をあげると両手で耳を塞いだ。
「新平くんだった! 旧校舎でみどりと闘ってるの!」
「荻野さんが? てか、なんでそんなことが分かるのさ?」
「知らないよ! ああ、でも、ヤバい……ああああ! また学校が燃えちゃうよ!」
「ええ! は、早く逃げないと!」
刻々と夜の校舎の空気が騒がしくなっていく。比べて、巫女の会話は涼しげである。互いに瞳を向けあった巫女はその空色の光の先を思案するように、首を傾げ、唇のみを静かに動かしていた。
「アレは人ではない。じゃが、巫女でも魔女でもない。特別な状況下で生まれた新種であろう」
「ふ、ふ……」
木が焦げたような臭いが二階の校舎に届く。弱り切った三原麗奈の体を誠也が背負うと、玲華は、いつまでも泰然とした祖母の腕を無理やり引っ張っていった。とにかく迫り来る火から離れねば──。校舎の西側に向かって四人の影が動いていく。
「そうだね……。新種、かも……」
四人は上の階に向かっていった。火元からなるべく遠い位置に移動しようと考えたのだ。それは単に火から逃げるためというわけでなく、ヤナギの精神空間である夜の校舎の特性上、移動による時の移り変わりを考慮してのことだった。案の定、三階に上がった時点で煙の臭いは消えてしまい、安穏とした夜の静寂に玲華はほっと息を吐き出した。
「そこ……行って……」
三原麗奈はそう消え入りそうな声を出すと、三階の奥に向かってそっと手を伸ばした。爪のない指の先が寒々しい。家庭科室の白いプレートがうっすらと夜闇に浮かんで見える。
「それから……四階……。生徒会室へ……」
「生徒会室に行ってどうするの?」
「籠城……」
そう言って、三原麗奈は微かに頬を緩めた。
銃弾を撃ち尽くすと、荻野新平は広間の壁に背中を付いた。村田みどりの影は既になく、炎のみがゆらゆらと校舎を赤く焦がし続けている。
「どう……なってる……」
新平は愕然として目を見開いた。やけに重たいリボルバーを下ろし、滑らかな頬に手を当て、そうしてやっと自身の異変に気が付いたのだ。皮膚が薄い。肉が柔らかい。細い身体。弾む声。呼吸、鼓動、熱──。新平は、自身の身体が少年の姿に戻っていることを察した。それでなくとも彼は現状を理解し切れないでいた。確かに撃ち抜かれたはずの心臓が胸の内を叩いている。目に映るのは先ほどまでの朝の日差しではない。夜の校舎を照らす炎の揺らぎ。
目を覚まし、静寂に耳を澄まし、蠢く影に警戒し、襲撃を返り討ちにしてからまだほんの数分も経っていなかった。とにかく平常心を保とうと、新平は深く息を吸い込んだ。煙が柔い喉をくすぐる。
「新平さん──」
声が聞こえた。それは少女の声だった。
「もう少しだけ──」
「大宮さん!」
新平の体が前にブレる。影が炎の上を走る。その躍動に彼は驚いた。若い体は軽くしなやかで熱気に溢れていた。ただ、やはり力は足りていないようで、身に付けた装備がいやに重く感じる。炎に囲まれた広間の中央に立ち、あらかたの装備を外した新平はグロッグ17を右手に構えた。そうして左手のナイフを腰のホルスターに仕舞う。
「大宮さん!」
返事はない。炎の影に声が呑まれていく。
グロッグ17を下ろし、炎の爆ぜる夜の底に耳を澄ませた新平は深く息を吐き出すと、スッと闇の向こうに影を忍ばせていった。
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