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第四章
変わらぬ日常
しおりを挟むおかしい──。
その陰鬱な瞳は黒い銃身の延長線上に、キザキは腫れぼったい瞼を数ミリ下ろした。
ほんの数十メートル先に冷酷非道な王の額が広がっている。声を伸ばせば届く距離で捕食者の頂点に立つ男の心臓が動いている。目を細めずともはっきりと、聳え立つ山のように広い肩が、青い日差しに映し出されている。
あまりにも無防備だった。それは鉄槌の届く距離だった。高く険しい山の頂がまさに目の間にあった。万歳のポーズで、降参するように、両手を青い夏空に向けた小野寺文久は、その太陽の如く眩しい命の灯火を、吹き荒れる嵐の前に曝け出していた。
なぜ──。
陰気な男の視線が動く。陰気な男の視野が広がる。強大な王の影は視界の端に、陰気な男の瞳が抜け目なく、周囲の状況を捉えていく。
捕食者の頂点に立つ強者がむざむざと己の命を弱者の前に差し出すはずがない──。蛇のように抜け目ない男が無警戒に己の命を下層に投げ出すはずがない──。永遠の命を望む王がそれを阻もうとする平民の眼前に己の命を掲げてみせるはずがない──。
いやまさか、この距離ならば当たらないと、たかを括っているのか──。
そんな筈はないと、陰気な男の瞳が王の元に戻される。狙わずとも当たる可能性がある距離なのだ。王は王であり、確率に祈りを捧げるような哀れな愚民である筈がない。
陰気な男の視野が再び周囲に広がっていく。群衆の悲鳴。変わらぬ街の風景。降り注ぐ光。蠢く影。動かぬ者。純白の頬。傲慢の瞳……。
王の表情は苦痛に歪んでいるようで、そこに普段の王の傲慢さなどは見られず、王は確かに己の内にある苦悩に、人と変わらぬ苦しみを味わっているようだった。
やられた──。
ほんの刹那の惑いである。白い煙が青い空に呑み込まれるよりも先に、陰気な男の視線が、強大な王の影に呑み込まれる。
三発目の銃撃は轟かない。鉄槌は振り下ろされない。強大な王の灯火は消えない。
「すまない」
ただ一言、声が落ちる。約束の言葉だ。望みを叶えさせてやれなかった時、復讐を果たさせてやれなかった時、瞳の奥の青い炎を消し去ってやれなかった時、その時は一言、謝ろうと、そういう約束だった。
「はい」
そう一言、小森仁は頷いた。空に向かって一発の銃弾を放たれる。それは何処に向けられたわけでもなく、声でもなく、想いでもなく、記憶でもなく、光でもなく、影でもない。ただ、青い空に向かって、一発の銃弾が飛んでいった。
「僕を信じてくれてありがとうございます」
少年は微笑んだ。信じると決めたから。信じさせて下さいとお願いしたから。信じてくれると信じたから。その表情は能面のようでなく、感情的でなく、ただ普通の少年のようで、小森仁はただただ嬉しそうに、銃口を己の口に向けた──。
絶叫が青空を埋め尽くす。血飛沫が滑らかな道を赤く染める。
阿鼻叫喚の夏の街で、恐怖に埋め尽くされた朝の道で、ただ一人、小野寺文久の表情のみが、愚民を見下ろす王の、傲慢な怒りへと変わっていった。
「う、うわっ! うわっ! うっ、おぐっ……う、うわああああああああ!」
縋る者たちの体が大きく揺らぐ。キザキを囲う壁が瓦解していく。鮮血に動揺したのだ。仲間の死に怯えたのだ。それは本能であり、もはや声や意思ではどうしようも出来ない。
キザキは依然として退屈そうな表情で、銃口を静かに、縋る者たちの足に向けた。考える時間が欲しかった。もうほんの少しだけ思考を前に進めたかった。
王は殺せない。現実は変えられない。小野寺文久には手が出せない。だが、或いはあの、立ち向かう者たちであれば、いずれ、王を倒す術を見つけ出してくれるかもしれない──。
三発目の銃弾が、縋る者のふくらはぎを撃ち抜く。仲間の一人が倒れると、反射的に、“苦獰天”のメンバーたちの足が止まる。
「動くな」
静かな声だった、恐怖が縋る者たちの身体を拘束する。修復された壁の内側で、キザキはゆっくりとまた、周囲に視野を広げていった。阿鼻叫喚の夏の道──。それでも動かぬ傲慢の影が三つ──。
「文久サマ!」
一つの声が上がる。途端に小野寺文久の表情に普段通りの傲慢さが戻る。無能な愚民に苛立つ王の表情だ。その両手は青い空に向けたまま、小野寺文久は大地を揺るがすような強大な声を上げた。
「動かないでください!」
シンと辺りが静まり返る。小野寺文久はまた苦悩に顔を歪めると、陰気な男の視線を正面に、黒い銃口を睨んだ。
「私を狙いなさい! 私の命であれば幾らでも差し上げましょう! ただし、私の愛する者たちに、その邪悪なものを向けることは、この私が断じて許しません!」
まるで街頭演説の続きであるかのように、そう声を張り上げた小野寺文久の表情は憤りに溢れていた。早く撃て、と愚かな愚民に苛立つ、王の怒りだ。
キザキは静かに息を吐いた。視線は銃口の先に、その広い視野で、傲慢な三つの影を捉える。
一人は私設秘書か、淡い紺のスーツの胸元から純白のシャツを覗かせている。一人は聴衆か、薄い生地のドレスに白い帽子が涼やかである。一人はまだ子供だった。デニムのショートパンツから覗く白い脚は風に折れそうなほどに細い。
三人は女性だった。三人は三者三様に青く美しい目をしていた。三人は三者三様に黄金色の髪を靡かせていた。三人は三者三様に、傲慢な表情で、白銀に煌めくナイフを懐に、傲慢な王に向かって熱く眩い眼差しを送っていた。
三人は魔女だった。
ヤナギの木など、もはや王の眼中になかった。
小野寺文久はすでに不滅のルートを確立させていた。
「私を狙いなさい!」
小野寺文久の表情がさらに傲慢な怒りに歪んでいく。それはキザキにとっては慣れ親しんだものだ。
強者に自殺などあり得ない。強者に老衰など似つかわしくない。劇的な幕引き、英雄の最期、それこそが彼の望むところであり、今まさに小野寺文久は一つの人生の締め括りとして、志半ばで凶刃に倒れるという非業の死を望んでいた。
無数に散らばっていたパズルの破片がキザキの頭の中で組み合わせっていく。その視界の端には白い帽子の魔女が──彼女の顔には見覚えがあった。確か名をロキサーヌ・ヴィアゼムスキー、ユニテリアン主義の新興宗教、レストレーションの指導者──。
そう、つまり心霊学会とは、ただ信者を集めるためだけ作られた虚構の教会だったのだ。
「さぁ、早く撃ちなさい!」
たとえ心霊学会という虚構が脆く崩れ去ろうとも、強靭な信仰心を持つ信者たちが消え去ることはない。信者たちはそれでも信じる何かを望み続ける。数十万からなる信者たちは新たな神の前に両手を合わせる事を躊躇わないだろう。彼らは魔女への手向けだった。全ては永遠の命の確立のために──。全ては傲慢なる王の野望のために──。
腫れぼったい瞼が閉じられていく。退屈そうな唇が歪んでいく。
いいや、偉大なる王の意向など、愚民の窺い知るところではないか──。
木崎隆明は思い出した。窺い知る必要などないということを。弱肉強食はあくまでも自然の摂理であるということを。
黒い銃身が横に動いていく。ただ、陰鬱な視線は動かない。
強大な影を持つ、強靭な男の、その傲慢な表情に、彼は彼の退屈な人生を想い返した。弱者と強者に一切の差がない世界など夢物語であると、何処までも単一な世界は幻想の中にしかないと、醜さと美しさは切り離せないと、果たしてそれは本当に退屈な世界だったのだろうかと──。
ただ、楽しんでいた。捕食者の頂点に立つような強者の、弱者に対する憤慨に溢れたような王の、その表情を、木崎隆明は楽しんでいた。この今ひと時は昔から変わることのない日常の一ペーシだった。木崎隆明は日常の物語が大好きだった。
黒い銃口がこめかみに向けられる。ただ、退屈そうな表情は動かない。
小森仁のように口から確実な死を迎えようかと悩んだ。だが、彼は最期のその時まで、傲慢な王のその憤った表情を見逃したくなかった。
一つだけ、気掛かりな事があった。ついぞ、この世を彷徨い苦しむ友人を救ってやれなかったと、彼は少しだけ後悔する。だが、まぁ大丈夫だろう、と彼は彼が信じる者たちの未来に想いを寄せた。
小野寺文久の口が微かな動きを見せる。それは見慣れた動きで、聞き慣れた言葉で、かつての少年の声が木崎隆明の耳に届く。
気色悪りぃ根暗野郎が──。
木崎隆明はやっと笑顔を見せると、ゆっくりと、静かな動作で、引き金を引いた。
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