王子の苦悩

忍野木しか

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第四章

夢の終わり

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 長い黒髪がふわりと舞台を流れる。その白い肌は月夜に妖しい深雪のようで、光炎に唇が紅く揺らいでいる。
 姫宮玲華は叫んだ。
 血と銃弾に覆われた広間に大炎が迫る。ヤナギの霊である村田みどりが火を呼んだのだ。舞台の下は阿鼻叫喚の絵図で、もはや何をどうすればいいのかも分からない。胸に抱いていた山本千代子の呼吸がだんだんと浅くなっていくと、玲華は瞳に涙を溜めながら、彼女の小さな手をギュッと握り締めた。
 水口誠也が舞台を飛び降りる。とにかく動けない者たちを出口まで運ばなければと思ったのだ。誠也は、グラウンド側の窓辺にいた八田英一に向かって声を張り上げた。
 1979年の大広間には出入り口が三つあった。グラウンド側の扉に、中庭沿いの廊下へと続く扉、そして、旧校舎の二階に向かって木造の階段が伸びている。壁沿いの階段にはまだ火の手が及んでおらず、二階の扉前は鮮明だった。その両開き扉が外側から吹き飛ばされると、銃声すらもかき消してしまうような凄まじい怒鳴り声が二階から広間に響き渡った。
「ゴラァッ! よーくも私の足を撃ってくれたわねッ!」
 銃撃が止む。舞台から二階を見上げた姫宮玲華は慌てて涙を拭うと、あらん限りに声を上げた。
「部長さん! 部長さん!」
「ああん?」
「出口があったの! みんなをこっちに連れて来て!」
 姫宮玲華の叫び声が大炎に呑まれていく。再び銃声が広間に轟くと、喧騒が赤い光を揺れ動かした。意識のない人形たちが動きを止めることはなく、村田みどりもまた醜い顔を隠す行為を止めない。
 花子は目元の包帯を撫でると耳を澄ませた。右肩に担いでいた木崎隆明の吐息が近い。下から響いてくる音は街の喧騒よりもずっと複雑怪奇で、銃声の合間に聞こえてくる人形たちの唸り声などはもはやこの世のものとは思えない。それでも火の爆ぜる音と煙の臭い、聞き知った者たちの声と銃声、姫宮玲華の言葉から、何となく状況を察した花子は舞台に向かって声を返した。
「姫宮玲華! 受け取りなさい!」
 そう叫んだ花子は、木崎隆明の体を片手で軽々と持ち上げてみせる。はっと目を覚ました木崎は、凄惨な広間の状況を視線のみで確認し、ジタバタと体を動かした。
「ま、待てって……! 花子さん……!」
「体丸めて後頭部押さえてなさい。なーに大丈夫よ、死にさえしなけりゃ全てが元通りだから」
「ち、違う……! 下は火の海なんだ……! 色々と危険だからっ……」
 言い切る前に上下の感覚がなくなる。ふわりと放り出された体はすぐにどうしようもない速度で床に引き寄せられていき、ぐるぐると回り続ける視界に、木崎はただ自身の死を思った。
 階段を見上げていた姫宮玲華は「ひっ」と頭を下げた。二階から落ちてくる男をいったいどう受け止めろと言うのか。
 白い布がふわりと舞い上がる。もはや虫の息となっていた山本千代子が微かに目を開いたのだ。ヒューヒューと浅い呼吸を繰り返しながら片手を上げた千代子は、延々と赤い糸が縫われ続けていく千人針で、陰気な少年の体を受け止めた。
「ああっ……! 千代子ちゃん千代子ちゃん……!」
 赤い炎が壁に広がっていく。火の手に呑まれた人形の体が床に崩れ落ちる。
 山本千代子は視線を動かした。炎と銃弾の隙間を縫うようにして白い布が広間を舞う。そうして床に寝転がっていた田川明彦と橋下里香の体を掴むと、舞台に引き寄せていった。ただ、火の影に隠れた大野木詩織と、人形の影に呑まれてしまった田中太郎の体は安易に捉えられない。小野寺文久にしがみ付いていた大久保莉音も同様で、千代子は掠れかかった視界に目を細めながら、なんとか手を動かし続けた。
 睦月花子の鋼の肉体が宙を舞った。目が見えないにも関わらず、右足に重傷を負っているにも関わらず、なんの躊躇もなく二階から飛び降りたのだ。左足で着地すると同時に床を転がる。軽く火を被った花子は頭を振ると、アドレナリンの過剰分泌により痛みを感じなくなった肉体を跳躍させながら、完全なる暗闇の広間に向かって鬼の咆哮を上げた。
 一瞬の静寂が訪れる。反響音から大体の状況を把握した花子は、そこにいるであろう仲間に向かって怒声を上げた。
「出口があるってんなら早く出なさい! 動ける奴が動けない奴を連れていくのよ!」

 ちょきん──。

 花子は「チッ」と首を押さえた。村田みどりの存在ばかりはどうしようもない。血が噴き出したのは彼女の右足の太ももで、切断はされずとも、44マグナムにより弾け飛んでいた肉が更に深く切り裂かれてしまう。
 花子は膝をついた。とうとう完全に右足が動かなくなったのだ。炎の熱を頬に感じた花子は拳を握り締めると、フラフラと左足のみで立ち上がった。

 ちょきっ──。
 
 グロッグ17の銃口が白い煙を上げる。9mmパラベラム弾が村田みどりの頬を掠めると、荻野新平は床を蹴った。視線をただ前に、醜い少女の顔を捉える。
 村田みどりは甲高い悲鳴を上げながら、新平の両眼を潰した。だが、新平は速度を緩めない。上半身を全く揺らさず、わずかな歩行で十数メートルの間合いを詰めた新平は、強烈な前蹴りを村田みどりの喉に打ち込んだ。両眼潰しと肉体の切断が同時に来ないことは分かっていたのだ。達人の蹴りをモロに喰らった少女の呼吸が止まる。村田みどりが意識を失うと、人形たちは動きを止め、広間の喧騒は炎の揺らめきに消えていった。
「出口はこっちっ!」
 再び姫宮玲華が叫び声を上げる。新平はエコーロケーションですぐ側にいた筈の田中太郎の位置を把握しつつ、窓際の八田英一に向かって怒鳴り声を上げた。
「皆を連れてすぐに外に出ろッ!」
 八田英一は舞台を見上げた。姫宮玲華の長い黒髪がふわりと弧を描く。その白い肌は炎と日差しに眩しく、彼女の唇は広間を埋めるどの赤よりも妖艶な赤に煌めいていた。
「ツ、ツグミさん!」
 既に中間ツグミは、高野真由美の肩を支えながら舞台に向かって走り出していた。英一は感心する間もなく慌てたように広間を見渡すと、まさに火に包まれようとしていた大野木詩織に向かって手を伸ばした。
 凄まじい衝撃が広間の炎を薙ぎ倒す。大野木詩織の体を抱き上げようとしていた英一はバランスを崩した。壁に巨大な亀裂が走ったのだ。舞台の幕は黄色く燃え上がっており、旧校舎は完全に火に呑まれようとしていた。
 大久保莉音は既に水口誠也の背中に抱かれながら舞台の上を進んでいた。英一はすばやく他の生存者を探した。肩幅の広い青年のことが気掛かりだったのだ。だが、どのみち二人同時には救うことが出来ない。大野木詩織を腕に抱いた英一は火の勢いに呼吸を乱しながら、舞台に向かって足を踏み出した。
 銃声が鳴り響く。スミス&ウェッソンM29の銃声が──。
「カス共がっ……!」
 小野寺文久は声を荒げた。その黒色の銃口は野獣のような男の背中に向けられている。荻野新平は無言で腹を押さえると、ふうっと疲れ切ったような笑みを浮かべた。
「ああああああっ……!」
 英一の絶叫が広間に響き渡った。その声に反応するように、小野寺文久の鋭い眼光が真横に向けられる。スミス&ウェッソンM29の銃口が火を吹くと、英一は血と炎の海に膝を付いた。
「死ねよ、馬鹿が」
 銃口が再び荻野新平の背中に向けられる。新平はゆっくりと背後を振り返ると、軽く唇を広げてみせた。
「ゴラァッ!」
 鬼の怒声が炎を吹き飛ばす。黒い影が小野寺文久の頭上を越える。花子が投げたのは崩れ落ちた天井の一部だった。既に炎は大広間を埋め尽くしており、それでも呼吸が続けられるという事実に、文久は笑いが堪え切れなくなった。
 本能が冷静さを呼び覚ます。もはやここに留まる意味はない。黒色のリボルバーを片手に、目の見えない花子に向かってウィンクをしてみせた文久は、舞台に向かって走り出した。死が迫っているのだ。いや、死に向かっているという表現が正しいのだろうか。
 荻野新平はゆっくりと息を吐き出した。銃弾が背中から下腹部を貫いている。もう長くは生きられないだろう。それでも、まだ死ぬことは許されないと、新平は足を前に出していった。
 動けることが信じられなかった。だが、実際に動けている。ここでは何が起きても不思議ではないのだ。そう思った新平は子供の頃に戻ったような感覚で、本当に楽しそうな笑みを浮かべた。
「コラッ憂炎! 何処にいんのよ!」
 その怒鳴り声に反応する気配はない。花子はほっと息を吐き出した。もう既に脱出した後なのだろう。ならば自分も早く脱出しなければならない。花子は一人頷いてみせると、左足で炎を踏み締めた。
「お……が……」
 微かな声が背中に届く。思わず眉を顰めた花子は声のする方に耳を澄ませた。
「救い……出さねば……!」
「はあ……?」
「それが俺の使命なんだ……!」
 木剣が小さく風を切る。それは田中太郎の声だった。
「憂炎ッ!」
 花子の体が真後ろに向かって動いた。同時に天井の一部が舞台の手前に崩れ落ちる。


「部長さん! 憂炎くん! みんなっ!」
 姫宮玲華は舞台の上で泣き叫んだ。赤い炎が舞台に腕を伸ばす。垂れ幕が火の粉を落とすと、舞台裏の隙間から水口誠也が声を張り上げた。
「玲華ちゃん! 君も早く外に出るんだ!」
「でも、でも、みんなが!」
「もう無理だ! 天井が崩れ落ちる!」
「いやあ!」
 玲華の絶叫が炎に呑まれていく。その赤い壁から勢いよく黒い影が飛び込んでくると、玲華は「ぎゃっ」とネズミに噛まれた猫のような声を上げた。
「ゆ、憂炎くん……?」
 玲華は驚いて飛び上がった。肩の広い青年の体が舞台の上を転がったのだ。両足を失い、両目を失い、全身を赤く焦がした田中太郎はそれでも黒く焦げた木剣を片手に、荒い呼吸を繰り返していた。
「玲華ちゃん!」
 水口誠也が舞台に飛び上がる。他の者たちはとうに暗い穴の底に消えてしまっており、舞台裏では山本千代子が浅い呼吸を繰り返すのみだった。
 田中太郎の体を舞台裏に引き摺り落とした誠也は、肩の広い彼の身体を穴の中に放り込むと、玲華の細い腕を掴んだ。
「俺たちも行くよ!」
「で、でも、まだ……!」
「もう遅いんだ!」
 天井が轟音と共に崩れ落ちてくる。舞台が炎に押し潰されると、玲華は目を瞑った。だが、一向に体を焦がす痛みは訪れない。
「ち、千代子ちゃん……!」
 白い布が空を舞う。白い布が天井を押し返す。
 山本千代子は最後の力を振り絞って微笑むと、玲華と誠也の体を穴の中に放り込んだ。
「千代子ちゃん千代子ちゃん! 絶対に助けにくるからね!」
 風鈴の音のような涼やかな声が消えていく。赤い炎が黒い穴を覆い隠す。
 千代子は静かに頷くと、そっと目を瞑った。


 白い光だった。
 薄い陽光がカーテンを透かしていた。
 そして、コーヒーの芳ばしい薫りが部屋を満たしていた。
「あ……?」
 田中太郎はゆっくりと体を起こした。布団の感触が心地良い。見覚えのない部屋は冷たく乾いている。
 一瞬、そこが病院かと思った田中太郎はキョロキョロと辺りを見渡した。そうしてすぐに首を傾げてしまう。ごく一般的な六畳一間だったのだ。ただ、ベットばかりが複数おいてあり、小さな寝息を立てる田川明彦の姿が隣のベットに、そして、斜め前のベットでは姫宮玲華が同じように困惑の表情で細い首を傾げていた。
 あっと目が合った二人は思わず頭を下げ合うと、口を縦に開く。
「あ、ええっと……?」
「は、はあ……?」
「憂炎くんだよね……?」
「あ、ああ……」
 部屋の外から微かな足音が響いてくる。二人は肩を落としたまま視線を動かした。黄ばんだ襖がゆっくりと開けられると、ひどく腰の曲がった老女が姿を見せる。部屋を見渡した老女は頬に皺を寄せると、安心したように息を吐いた。
「ああ、良かったぁ……」
「へぇ……?」
 二人は顔を見合わせた。その老女に見覚えがなかったからだ。
「あの……?」
 田中太郎は困惑の表情のままに頭を掻いた。すると腰の曲がった老女は痩せ細った手を額に当てた。
「先生ねぇ、ずっーと待ってたんだからぁ……」
 

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