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第四章
永遠の校舎
しおりを挟む青い光が見えた。
私はそれが良く晴れた秋の空だと思って、めいっぱい腕を大きく広げた。そうすれば青い光の中に飛び込めるような気がしたのだ。すると私は自分が泳いでいることに気が付いた。立って泳いでいるのか、寝て泳いでいるのか。とにかく私の体は不安定で、私は私が泳いでいた青々と広い海の表面に立ってやろうと必死になった。海を見渡したいと思ったのだ。よく考えれば海の上に立つなんて馬鹿げた話で、でも私は本当にあとほんの少しのところで、この青々と深い海の表面を走れそうだった。本当の話だ。海に波はなく水面の青さが海の色かも空の色かも分からない。私は立ってそれを確かめてやろうとほくそ笑んでいた。にひひ。本当の本当に私はこの青い海の上でくるりと華麗なワルツを踊ってあげることすらも可能だったのだ。あとほんの少しのところで。だって私の体を誰かが支えていてくれたから。その誰かは本当に泳ぐのが上手だったから。
青い光が強くなった。
私はそれが良く晴れた秋の空ではないことに気が付いた。青い光は道だったのだ。空が映った青か、海が写った青か。そんなものはどちらでもいい。道が何処に続いているのかさえも分からない。ただ光っていた。青い海の上に青い海の道なんて馬鹿げた話で、でも本当にあの青い光は海の上に出来た海の道だった。
私は泳いでいた。いや、走っていたのかも。とにかく私は青い海をまっすぐに進んでいた。青い光は私に道を示し続け、私はすんなりと青い海の上を引っ張られていった。よく見れば青い光はみ空色で、目を離さずとも青い光は露草色に変わってしまい、どんどんと濃くなっていく青い光は私は楽しませてくれて、気が付けば瑠璃色の青い光はとてもとても美しく、はなはだに冷たかった。
青い光が冷たかった。
でも何だかその冷たさに覚えがあるような気がした。私はまためいっぱい腕を広げると青い光に手を伸ばした。温めてやろうと思ったのだ。今や青い光は鈍い銀色に近づいていて、それでも光は私に道を示していてくれて、私はただ必死で光の上を走り続けた。
声が聞こえた。
私の声だろうか。誰かの声だろうか。昔の声だろうか。今の声だろうか。
鈍い銀色の光が黒い影に覆われていく。
私は怖くなった。光が失われるのを恐れた。
待って。
私は声を出せたのだろうか。光の道が消えていく。
置いて行かないで。
私の声は届いたのだろうか。青い海はもうない。
代わりに誰かの声が私に届いた。その声は幼げで、不快で、何より冷たかった。
「麗奈ちゃん」
私は声を返してやろうと思った。だが、口が開かない。いや、開いているのに言葉が出てこない。何かが私の口の中に入り込んでいて、それで私は声が出せなかった。
光が消える。黒い影が目の前に現れる。
瞳だった。私はその瞳に見覚えがあった。幼い頃から側にあって、時折、そう、静かな水面を覗き込んだ時なんかに私はじっとその瞳を興味深そうに覗き込んでいた。
私の瞳だ。
そうだ。これは私の瞳なのだ。
でも何かが違う。瞳の中に私ではない誰かがいる。私の瞳に映った誰かの瞳こそが今や私の瞳なのだ。あべこべだ。なんだか頭がぼっーとする。私は何をしてたんだっけ。
口の中の何かが動いた。柔らかくぬめりと熱い何かが。私はぼっーと定まらない思考でその何かを外に押し出そうと舌を動かした。するとその何かが舌に絡みついてくる。ねばりと熱い粘液が口の中で絡み合ってしまう。いったいこれは何だろう。何だかすごく気持ちが悪い。いったいこれは……。
「いっあっ!」
「うおっ」
目の前にいた誰かが声を上げる。同時に様々な音と匂いが三原麗奈の耳に届いてくる。
車の中だった。窓の外の景色が移り代わっていく。シートの表面は柔らかく、首に当たったベルトが痛い。目の前でバランスを崩していたのは猫っ毛の少年で、イヤらしく舌を出した彼の瞳の影は何処までも暗かった。
「おはよう麗奈ちゃん、俺のキスの味どうだった?」
彼は自分だった。吉田障子のその言葉に、麗奈は両手でぐっと口元を押さえた。
夜の校舎の出口は何処にあるのだろうか。
夜の校舎はいつこの悪夢を終えてくれるのだろうか。
姫宮玲華はさめざめと泣いていた。どうしても感情が抑えられず、涙を止めることが出来なかった。
やっと泣き止んだ玲華は辺りを見渡した。そこは日差しに明るい保健室の前で1979年の校舎に変わりはないようである。
重傷者の女性が二人に、あられもない姿の女性が一人。体操着の上でリコーダーを吹く──J.S.バッハ『管弦楽組曲第3番二長調BWV1068より第2曲アリア』──変態が一人。職員室の湯呑みで盛り上がる哀れな男子生徒が二人。
あっと思った。睦月花子の姿が何処にも見当たらなかったのだ。盲目となった彼女をフォローしてあげようと張り切っていた玲華は、いったい何処をほっつき歩いているんだ、と憤慨して腕を組んでしまった。いったい何処に行ってしまったのか。この夜の校舎は本当に危険なのに。まさか置いていかれてしまったのだろうか。この夜の校舎は本当に危険なのに……。
だんだんと心細くなってきた玲華は、正気な者のいなくなった保健室の前をキョロキョロと見渡すと、わあっとまた大きく口を開けて泣き始めてしまった。怖かったのだ。乱暴者だがいつも冷静で頼りになる睦月花子の声が恋しかった。誰か助けて、と玲華の叫び声は誰にも届かない。
足音が微かに響いてきた。木造の階段を踏み鳴らしたような軋んだ音だ。
「ひっ」と玲華は慌てて息を止めた。足音は二階から聞こえてくるようで、その微かな響きは小柄な女性のもののように思えた。昇降口からの西日に明るい校舎は木造などではなく、その足音が明らかに異質であると分かった玲華は激しい恐怖に足を震わせつつも、フラフラと腰を上げた。逃げなければと思ったのだ。
「Debout!」
白い手をメガホンのように口に添えた玲華はあらん限りに声を上げた。だが、誰も立ち上がってはくれない。変態の奏でるリコーダーの旋律が玲華の声を掻き消してしまう。
「Aller! Aller! S'il vous plaît!」
玲華は半狂乱になった。田中太郎が誇らしげに掲げていた湯呑みを叩き落とした玲華は「わああっ」と彼の頬を両手でビンタした。早く正気に戻ってよ、と。のそりと変態が立ち上がるも、玲華の瞳にセーラー服を着た彼の姿は映っていない。玲華はとにかく泣き喚きながら彼らが正気に戻ることを願い続けた。
「立って! 立ってよ! うえーん!」
すると突然、二人の男子生徒がすくりと立ち上がる。驚きのあまり目を見開いた玲華は涙を拭うと「右手を上げて」とまた両手をそっと口の前に添えた。二人の男子生徒の右手がスッと持ち上がる。ついでに変態の右手も。
「あー! そっか、日本語で良かったんだ! いひひ、やっぱあたしって天才魔女かも!」
玲華は笑顔を取り戻した。ご機嫌である。「いっひっひ」と不敵な笑みを浮かべた彼女にはもはや何の憂いもないように思え、これでこの夜の校舎ともおさらばだ、と玲華は一人控えめなガッツポーズを決めた。真後ろに立つ変態の存在に玲華は気付いていない。
「ぎゃあっ!」
玲華の体が猫のように飛び上がった。首筋に吐息が掛かったのだ。キッと後ろを振り返った玲華はリコーダーを右手に下げたセーラー服姿の変態に人差し指を向けた。
「敬礼!」
だが、変態は動かない。いや、僅かに体が硬直しているようにも見える。「気をつけ!」と玲華が叫ぶと、変態は不快そうに眉を顰めつつ必死に肩を怒らせ始めた。まるで魔法に対する耐性が備わってきているかのような。水口誠也もまた何やら異質な存在であるようだった。
黒い影が玲華の視界の端に映る。
あっと階段側を振り返った玲華は日差しの影に立っていた女生徒の真っ黒な肌を見た。咄嗟に田中太郎の後ろに身を隠した玲華は、彼の広い背中にしがみ付きながら、そうっとまた階段側に視線を送った。すると黒い女生徒と目が合ってしまう。慌てて顔を引っ込めた玲華はぎゅっと目を瞑った。黒い女生徒が何処かに行ってくれますように、と。湧き上がっては止まらない恐怖にガタガタと肩が震える。だが、必死の願いも届いてはくれず、気が付けば目の前に立っていた黒い女生徒に玲華は鋭い悲鳴を上げた。
「いやああっ! ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!」
さながら自由の女神像のように立ち竦んでいた田中太郎の背中が玲華の涙と鼻水に濡れていく。さめざめと乙女の嗚咽は止まらない。しばらくそうやって田中太郎の広い背中に顔を埋めていた玲華は、どうにも変わらぬ静寂に喉の震えを止めていった。もしかして本当に何処かに行ってしまったのだろうか、と。そう思った玲華はそうっと視線を横に動かしてみた。すると今度は真横にいた黒い女生徒とまた目が合ってしまう。悲鳴。さめざめと泣く乙女。黒い女生徒の瞳──。それでも変わることのない静寂に少しずつ冷静さを取り戻していった玲華は、しゃっくりを繰り返しつつも、真横に立っていた山本千代子の黒い瞳をじっと見つめ返した。
「ひっぐ……こ、こんにちは……」
山本千代子の頭が微かな動きをみせる。よく見れば彼女の黒い肌は焼け焦げてしまっているというわけでなく、単に煤けているだけといった感じだった。もっちりとした肌は何だかとても柔らかそうで、玲華は思わず山本千代子の頬をツンツンと突いてしまった。
「わっ!」
突如として銃声が校舎の静寂を貫いた。驚いた玲華はまた田中太郎の真後ろで体を丸めてしまう。山本千代子は無言で西日に明るい校舎を見渡すと、煤に覆われた黒い手をスッと真上に持ち上げた。すると何処からか現れた白い布が宙を舞い始める。あっと声を上げる間も無く、姫宮玲華他六名の体が白い布に持ち上げられた。そうして山本千代子がてくてくと廊下を歩き始めると、宙に浮かんだ玲華たちの体も彼女の進む方向へと引っ張られていった。
「あ、あ、あのさ……千代子ちゃん? あたしは歩けるからさ、お、下ろしてよ!」
玲華の体がトスンと廊下に落ちる。いたた、と腰に手を当てた玲華は、振り返りもしない千代子の後ろ髪に「もう!」と憤慨したような仕草をした。そうしてしばらくの間、白い布に運ばれていく六名の男女を惚けたように見つめていた玲華は、慌てたように彼らの後を追い掛けると、黒い女生徒の手をぎゅっと握り締めた。
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