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第三章
年輪
しおりを挟む睦月花子は「あ?」と首を横に倒した。血が一雫、頬を伝う。
すぐ隣を歩く木崎隆明の微かな衣擦れとも、肩に担いだ橋下里香の寝息とも、真後ろを闊歩する田中太郎の木剣の風切り音とも違う、微かな息遣いを耳にしたのだ。視力を失った花子の聴力は今や飢えた狼よりも鋭く研ぎ澄まされていた。
「誰よ?」
花子の声が西日に明るい廊下を走る。保健室に向かって歩いていた彼らはちょうど一階の中間あたり、職員室のプレートの前で立ち止まると、あたりを見渡した。いや、目の見えない花子はただジッと耳を澄ませたのみで、意識のない橋下里香と意識の定かではない田中太郎は言うまでもなく、あたりを見渡したのは腫れぼったい目を半分見開いた木崎隆明のみであったが。
木崎隆明はそっと職員室の中を覗き込んだ。すると、カタリと何かが動く気配が耳に伝わる。物音は立てまいと木崎はすぐに身を低くするも、後ろから花子に突き飛ばされ、派手に転がってしまうのだった。
「誰よ!」
花子の声が机に乱雑した職員室に響き渡る。返事はない。代わりに、職員室の隅で膝を抱えていた少年がのそりと腰を上げる。少年ははじめ、両眼の辺りを真っ赤に染めた小柄な女生徒に呆然とした様子だった。だが、すぐにそれが睦月花子だと気がつくと、フルフルと喉を震わせ始めた少年は安堵の息を吐き出した。
「ば、ば、ば、ばなごぜんばーい!」
「何よ、田川明彦じゃないの」
聞き覚えのある嗚咽に花子は肩を落とした。とりあえず橋下里香の体を床に下ろした花子は頬を伝っていた血を親指で弾く。聞こえてくる息遣いは三人分のようで、その内の二つの呼吸音は高く浅い。恐らくは大野木詩織と大久保莉音のものだろう。そう検討をつけた花子はやれやれと真横の机にもたれ掛かった。
「あんたの知り合いか?」
真後ろからの声である。
花子は危うく跳び上がりかけた。全く気配を感じなかったのだ。足を忍ばせた木崎隆明はまさに暗闇を揺れ動く影のようで、花子の研ぎ澄まされた聴力でも捉えることが出来なかった。僅かに警戒心を抱いた花子は、それでも尊大に胸を張ると「はん」と息を吐き出した。
「仲間よ」
「みんな怪我がひどいな……。あんたらっていったい何処からやって来たんだ?」
「未来よ。もしかしたらアンタとも、どっかで出会ってるかもね」
「未来……?」
「てか、今はそんな話どーだっていいのよ。コラッ、田川明彦! 他の奴らはいったい何処にいんのよ!」
「へぁっ……? 他の奴らって、前にここにいた奴らのことっすか……?」
めそめそと喉を鳴らしていた田川明彦が視線を上げる。
「ここにいた奴らって誰よ。八田英一とか姫宮玲華のこと?」
「いや、ずっと前に一緒に隠れてた奴らがいたんすよ。全員知らない奴だったんすけど、なんか自分たちは1年D組の生徒だって言い張ってて……」
「ふーん、1年D組ねぇ。そいつらはどうしちゃったのよ」
「なんか早く帰りたい、早く帰りたいって騒いでて、そんで気が付いたらどっか行っちゃってて。確か六人くらい居たっすね、俺たちの事を足手まといみたいに言いやがったから、ムカついて無視してやりましたよ」
そう言った田川明彦はふんっと鼻から息を吐き出した。背後から聞こえてくる木剣の風切り音は絶え間なく、明彦以外の呼吸音は浅く消え入りそうなままである。花子は何やら訝しげに首を捻ると手を腰に当てた。
「薄情な奴らね。まぁ確かに足手まといっちゃ足手まといだけれども」
「そんな、花子先輩まで酷いっす!」
「んな事よりアンタ、頭の方は大丈夫なの? さっきまで魂抜けたみたいに黙り込んでたじゃない」
「ちょ、頭の方ってなんすか。てゆうか先輩、それっていつの一年前の話っすか?」
「はあん?」
「何回前の一年前の話かって聞いてんすよ」
「いや、何回前の一年前って何よ……?」
「年輪っすよ、年輪。延々と刻まれていく一年の話っす。あはは、まぁ実際には年輪の数を遥かに超えた一年が連続してるんですけどね。ほら、俺たちってほんの刹那の記憶の中を彷徨い続けてるでしょ? 初めは夢を見てるのかなって思ってたんすけど、ここが記憶の中だって分かってから、俺、年輪の数を数えるようになったんです。一年、一年、一年、一年って……。やっぱこれ入学式と卒業式が関係してるんすかねぇ。ああ、ほら先輩って一年前に、俺が魂抜けたみたいに黙り込んでたとか何とかって言ってたでしょ? それってたぶん俺が年輪を数えてた時で、ほら集中すると黙り込んじゃうっていうアレですよ。あはは、魂が抜けるなんて現実にはあり得ないっすから」
あはは、あはは、と乾いた笑い声が職員室を木霊する。ため息をついた花子は額に手を当てた。
ちょうどその時、廊下の昇降口方面から何やら不快な怪奇音が鳴り響いてきた。鼓膜が引き裂かれるような強烈な音である。それはどうやらリコーダーの音色のようで、小学生の頃の記憶が脳裏を掠めると共に、花子は眼孔を内側から焼かれるような頭痛に耳を抑えてしまった。聴覚が過敏だったからだ。両眼が潰されていた為でもある。だが何より、花子は既に田川明彦の混沌とした話に激しい頭痛を覚えていた。
「もー! どーして言うこと聞いてくれないの!」
風鈴の音色のような女生徒の声がリコーダーの不快音に重なる。そんな涼やかな声すらも今の花子にとっては頭痛の種であり、額に青黒い血管を浮かばせた花子は指の骨を鳴らしながら、廊下に向かって拳を振り上げた。
二階の校舎はゼリー状に凝固した血溜まりに赤く照らされていた。
柘榴色の雪花模様が壁一面に。青い夏の幻想を映し出す窓ガラスのみが水々しく透き通っている。血の雨がしとしと。赤い腕と赤い足と白い足。女生徒の黒い髪。男子生徒の黒い瞳が紺碧の夏空を見上げている。剥き出しの赤い舌は1979年の校舎の空気に包まれており、だが、その口に向かって新鮮な風が流れ込むことはなかった。首から下が無かったのだ。潰されることのなかった美しい両眼のみが夢を語り、降り注ぐ永遠の日差しを眺め続けている。
二階の校舎には真っ赤な桃源郷が広がっていた。
八田英一は両手で口を押さえた。すると指の隙間から吐瀉物が漏れ出してくる。不快な臭いは感じられない。ただ、酸っぱいと、英一は涙にぼやけた視界を閉じることなく、口元を押さえ続けた。
「や、八田先生……?」
背後から1年D組の教員である高野真由美の声が聞こえてくる。二階の惨劇に衝撃を受けていた英一は振り返ることが出来ず、汚物まみれの左手のみをなんとか後ろに向けてやった。
「だっ、だい、大丈っ……」
「八田先生!」
「く、来るな……!」
英一は叫んだ。吐瀉物が夏の陽光に煌めく。それは荒地に咲いた黄金色の菊のようで、地獄から見上げる世界はこんなにも美しいものなのかと、英一は一面が幻想に包まれた舞台の上に涙を流した。
「八田先生!」
「だ、大丈夫だ……!」
英一の体が後ろに下がる。今は舞台を眺めている時間じゃないと。ゆっくりと階段を振り返った英一は、踊り場からこちらを見上げる高野真由美に向かって引き攣った笑みを浮かべた。二階には真っ赤な桃源郷が広がっていました。現実への道は他にあるのです。そう無言で頷いてみせた英一は三階を指差した。今や八田英一にとって、クルリと髪をカールさせた高野真由美は気の置けない同僚であり、一階の職員室に隠れさせていた一年D組の生徒たちは大切な教え子だった。
二階の桃源郷だけは絶対に見せてはいけない。
そう思った英一はまた口元を押さえた。そうしなければ風に舞い散る花びらのように、彼の柔らかな舌が予期せぬ方向へと流されていってしまいそうだったのだ。聞きたいことが山ほどあった。言いたいことが山ほどあった。果たして自分は正気なのか。果たして自分は何者なのか。明日の授業の内容を考えながら、英一は、自分よりも年上である生徒たちを思い、自分の父と密かな恋仲にあった女性教員の手を引いた。出口は必ず見つかると。宿題だけは忘れぬようにと──。
三階の廊下もまた異質だった。明らかに様子のおかしい生徒たちが赤い血の涙を流しながらジッと天井を見つめている。
まさか彼らが村田みどりに操られているという“人形”なのか。八田英一は深い記憶の底の誰かの言葉を思い出しながら、後ろの女性を振り返った。すると、何やら香ばしい匂いが鼻を掠める。おや、と背後にいた高野真由美から視線を逸らした英一は、三階の廊下の西側に目を細めた。水道とトイレが階段の側に、空き教室、被服室、と並んだ先には家庭科室の白いプレートが見える。そこから漂ってくるコーヒーの薫りは水滴の波紋のように微かで、それでもその真っ直ぐな匂いには、乱れた心を落ち着かせる安心感が備わっていた。
高野真由美に向かって「静かに」と人差し指を伸ばした英一は、“人形”たちの彷徨く東側の廊下を横目に睨んだ。まさか彼らが高野真由美の受け持つ生徒だとは露ほどにも思わず、英一は正気と狂気の狭間の中で、出口を見つけ出すという思いだけを指先に家庭科室を目指した。
廊下を歩く足音は響かない。背後を歩く女性の息遣いは聞こえてこない。
静かだった。
それはまるで夢の中のように、視界に映る全てが鮮やかで、視界に映らない全てが不明瞭で、1979年の校舎は異様に静かだった。
家庭科室の扉は僅かに開いていた。香ばしい風がふわりと頬を撫でる。コポコポと泡が浮かび上がるような音が耳に届く。白いカーテンは開け放たれており、眩ゆい日差しが窓辺のサイフォンを青白く透かしていた。煌々と西日に照らされた風景は一枚の油絵のようで、閑散とした家庭科室にひっそりと浮かんだコーヒーの香りが物寂しい。
家庭科室に足を踏み入れた八田英一はゆっくりと辺りを見渡した。人の気配はない。誰の声も聞こえてこない。だが、何かの影が視界の外を彷徨いて離れない。それはサイフォンの中で弾ける青い水の影だろうか。サイフォンの外で揺れる橙色の炎の影だろうか。
ふと、英一は目の動きを止めた。風雅で寂寥とした風景画の中に歪な色を見たのだ。それは桃源郷の鮮やかな光を飲み込む漆黒の影だった。
気が付けば英一は耳を塞いでいた。絶叫が青い油絵を引き裂いたのだ。背後からではなく、自分の内側から轟く絶叫が。
漆黒の影は陽光に鮮やかな光沢を帯びていた。影の周囲には柘榴色の雪花模様が、そして、漆黒の影を掴んで離さない純白の光が静寂に包み込まれている。
それは男の腕だった。
白い腕が一本、血溜まりの中で、黒いリボルバーを握り締めていた。
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