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第三章
漆黒の理科室
しおりを挟む「しまっ──」
静寂。
睦月花子の声はそこで途切れた。
ほんの一瞬の思考の乖離が限られた記憶を永遠の夢に溶解させる。無限の音は消え、ただ夢の海にふわりと沈んでいく少女の声のみが、花子の永遠を包み込んでいった。舌足らずな少女の声のみが。永遠の時を。遊ぼう──。と。
ほんの一瞬の思考の乖離である。
「あ……?」
血に濡れた指が花子の頬を滑っていく。焼け付くような痛みが花子の脳を貫く。
理科室は暗かった。いや、黒いと表現すべきか。産毛を震わす誰かの息遣いと、鼻につく微かな薬品の匂いは、先程までと変わりない。だが、あまりにも暗かった。突然、深淵の汚泥が視界を覆い尽くしてしまったかのように、花子は周囲の一切が見えなくなってしまっていた。
もしやまた校舎に夜が訪れたのだろうか。そう思った花子は頬を伝う生暖かな何かに辟易しながらも、そっと周囲に視線を動かそうとした。
激痛。
「ぐっ」と息を詰まらせた花子は反射的に体を折り曲げる。だが、それを妨げようとする何か別の凄まじい力によって、花子の体がグイッと後ろに引っ張られた。それは花子の体に幾重にも巻き付いた白い布の導きであり、咄嗟に記憶を呼び覚ました花子は、今まさに自分が陥っているであろう危機的状況に全身の筋肉を硬直させた。
ちょきん──。
右腕に鋭い痛みが走る。ちょうど二の腕の中心をピアノ線で締め上げられたような。だが、腕の皮膚を切り裂いたその衝撃も花子の鋼の筋肉を切り落とすまでにはいかず、噴き出した血はそのままに体勢を立て直した花子は、血管の浮かんだ足を床に振り下ろした。
凄まじい振動が校舎全体を震わせる。白い布の動きが止まると、重心を前に倒した花子は、二の腕から指の先に向かって流れ落ちる鮮血を舌で拭った。
「やってくれたわね」
視界が黒い。頬を滴る血が止まらない。
両眼が潰された事実を悟った花子は、それでも取り乱さなかった。ただ、この状況をどう打開すればいいのかが分からない。魔女である姫宮玲華がその存在を恐れた三人目のヤナギの霊の動きは予想がつかず、今や一人目のヤナギの霊である黒い女生徒の存在すらも花子の手に余る。あまりにも危機的な状況だと、花子は、足の先から這い上がって止まない熱い高揚感に笑みを溢した。
「たく、面白いじゃないの」
花子の腕に青黒い血管が浮かび上がる。取り敢えず、すぐ側にいるであろう女生徒の黒い体でも投げ飛ばしてやろうかと、そう笑った花子はぬうっと右腕を横に伸ばした。だが、すぐに花子は腕の動きを止めてしまう。ふとした違和感を覚えたのだ。
周囲の状況があまりにも静かだった。
いや、何やら理科室の外は異様に騒がしい。コンクリートを叩くような打撃音に、布を切り裂くような斬撃音と、外からの騒音は絶え間ない。だが、それはあくまでも外から聞こえてくる音であり、花子の周囲はいつ迄も静かなままだった。花子の体には相変わらず白い布が巻き付いていたが、それらは一向に動く気配がなく、まるで花子の衣服を模しているかのような柔らかな心地すらある。三人目のヤナギの霊だという村田みどりの舌足らずな声も聞こえてこず、いったい何事かと、見えない視線を横に動かした花子はそっと周囲に手を動かしてみた。
「はあん?」
ぷにっと柔らかな何かが花子の手に当たる。「何よこれ?」と暫くそれを揉み続けた花子は微かに首を傾げると、そのまま上に向かって手を持ち上げていった。そうして、乾いた額の皮膚と髪を撫でた花子は、そこにただ突っ立ているだけであろう黒い女生徒の頬をツンツンと人差し指で突いた。
「おーい、こら、アンタはいったい何をやって……」
ちょきん──。
咄嗟に花子は首を庇った。そこだけはマズいと思ったのだ。
上体を前に倒した花子は感覚のみで五体の状態を確認する。だが、皮膚が切り裂かれたような衝撃は何処からも伝わってこず、右腕と眼球付近以外に痛みはない。いったい何だと、次の攻撃に備えて耳を澄ました花子は、はっと顔を上げた。突然、体に巻き付いていた白い布の力が緩んだのだ。同時に、ドタリと何かが倒れるような音が理科室を木霊する。その音とその鼓動が消えてなくなるその前に、左腕の筋繊維を収縮させた花子は、新たに根本から引き剥がした実験台を舌足らずな少女の声がする方向へと放り投げた。
「ざけてんじゃないわよ!」
怒号が再び校舎の静寂を突き破る。壁が破られる衝撃音が花子の耳に伝わる。
だが、太った少女には届かなかった。壁の破片も、黒い実験台も、その全てが彼女の眼前で動きを止めてしまったのだ。
危ないよぉ──。
その舌足らずな声には、明確な意志も、果てない感情も含まれていなかった。ただただ純粋な少女の声。村田みどりは何処までも無邪気だった。
村田みどりの気配が遠ざかっていくと、花子は、理科室に倒れているであろう黒い女生徒を振り返る事なく、不穏な少女の声を追って完全なる漆黒の校舎を彷徨い始めた。白い布の一部を血に溢れた目元に巻いて。
吉田障子はご機嫌だった。
その表情は久方ぶりの晴れ間を見上げた梅雨明けの少年のようで、どうやら舞台の方は無事に幕が下ろせそうだと、先ほどの白雪姫の言動から確信を得た吉田障子は鼻歌交じりに旧校舎の奥を目指していた。
「麗奈ちゃーん!」
吉田障子は素早く旧校舎の広間を見渡した。まだ体操着姿の女生徒が数人、そのよく通る声に飛び上がる。だが、大半は生徒たちは既に制服姿であり、どうやら本日の演劇部の練習はお開きのようだった。
「おーい麗奈ちゃーん、王子様が迎えに来たぜー?」
そう声を上げた吉田障子の視線は広間の隅で雑用に勤しむ一年生たちに向けられていた。彼は彼と魂が入れ替わった三原麗奈にではなく、その妹である三原千夏に一目会いたくて、この夏休みの演劇部を訪れたのだ。だが、姉である三原麗奈──サボっている可能性あり──同様に、三原千夏は既に部室を去ってしまっているようで、その明るい栗色の瞳は見つけることが出来なかった。
殺意のこもった野次が吉田障子に向かって飛んでくる。あまつさえ部長である三原麗奈に向かって下卑た声を上げる吉田障子は、演劇部の更衣室に忍び込んだという前科を持っていた。彼を好ましく思うものなど演劇部には一人としておらず、麗奈の親友である大野木紗夜までもが苦笑いを浮かべてしまう始末。「たはは」と頭を掻いた吉田障子は飛ぶような勢いで旧校舎を後にするのだった。
三原麗奈は四階の生徒会室の前で手をこまねいていた。
閉ざされた扉に手を伸ばしたかと思えば、やはり職員室に向かおうかと後ろを振り返り、青空が綺麗だと窓の外を眺めては、オロオロとまた生徒会室に向かって指をこねこね。
先日、姫宮玲華の祖母だという白髪の老婆の鷹のような視線によってやっと意識を取り戻した麗奈は、既に夏休みが十日ほど過ぎ去っていたという事実に驚くよりも、未だ姫宮玲華を含めた四人の生徒が行方不明だという事実に強いショックを受けたのだった。警察は動いているようで、教師たちの声も慌ただしい。自分にも何か出来ることはないだろうか。そう思うも麗奈には見当がつかず、それでも彼らの身が心配で心配で、立ち止まっていられなかった麗奈はまた生徒会室を訪れたのだった。
睦月花子と仲が良かった生徒会書記の徳山吾郎と、姫宮玲華を魔女だと信じて止まない副会長の宮田風花、そして、生徒会長の足田太志こそが、この学校において最も頼りになるメンバーだろうと信じての事である。
ふぅっと大きく息を吐いた麗奈は意を決すると、キッと目を細めながら生徒会室の扉に向かって手を伸ばした。そうして、やっぱり教師に頼るべきじゃないかな、と後ろを振り返った麗奈はまた夏の青空に心を奪われてしまう。はっと扉の前に舞い戻っては指をもじもじ。手をこねこね。扉が開いてくれないかなぁ、と祈るばかりである。
「麗奈ちゃん」
「ぎゃあ!」
突然の声に麗奈の手足が跳ね上がった。同時に生徒会室の扉が開くと、「あわわ」とその場にへたり込んだ麗奈は、両手をおでこの前に降参のポーズをとってしまう。
「……ん? やぁ、三原さんじゃないか」
生徒会室から顔を出した足田太志はそう言って、驚いたように目を開いた。その腕には白い紙の束が積まれてあり、彼はちょうど職員室に向かう途中だった。麗奈の悲鳴を聞き付けたのか、徳山吾郎と宮田風花も恐る恐るといった様子で扉の向こうから黒い瞳を覗かせている。
「それに吉田くんも。ああ、もしかして、俺に何か用事かい?」
紙の束がパサパサとした音を立てる。それを胸に抱え直した足田太志は、生徒会室の前にへたり込んだ三原麗奈と、何やら不貞腐れたように俯いた吉田障子に向かって、初夏の晴天よりも眩しい笑顔を浮かべた。
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