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第三章
懇願の巫女
しおりを挟む「二人おる──」
姫宮詩乃は慄いた。
夜闇に揺れるシダレヤナギの長い枝。痩せた女生徒の絶叫が体育館の舞台を震わせる。
それは1997年の夏の終わりの事だった。
姫宮詩乃の痩せた指がシダレヤナギの青い枝を撫でる。その薄い影が夜の旧校舎に向かって伸びると、初老の巫女の瞳がシダレヤナギの記憶を覗き込んだ。そこには確かに二つの存在があった。二人の女の魂がヤナギの木にしがみ付いていた。
あり得るのか。
姫宮詩乃は暫し呆然と旧校舎のヤナギの木の前で立ち尽くした。
そんな事が本当にあり得るのか。およそ半世紀に渡る長き歳月を、魂のみで存在し続ける事など、そんな事が本当に可能なのか。それも二人で。恐らくは戦中から、この二つの魂はここを彷徨い続けている。
姫宮詩乃の頬を汗が伝った。
その存在には気付いていた。まだ彼女が学生だった頃から、およそ数十年前から、姫宮詩乃はシダレヤナギに取り憑いた女の霊に気が付いていた。それが異様な存在だと、シダレヤナギの霊を忌み嫌いながら、巫女の瞳がシダレヤナギに向けられる事はなかった。
シダレヤナギに近付いてはならぬ。彷徨える魂は器を探しておるのだ。
シダレヤナギに近づく者が現れてはならぬ。彷徨える魂は器を探しておるのだ。
学生時代に巫女が流した噂。姫宮詩乃の言葉は脈々と受け継がれていった。
シダレヤナギには戦前の女生徒の霊が出る──。
女生徒の絶叫が暗闇に響き渡った。体育館からの声だ。夜の校舎を震わせる叫び。女生徒の嘆きが秋の夜空に呑まれていく。
否、今はそんな事を考えている暇はない。
そう目を細めた姫宮詩乃はシダレヤナギに語り掛けた。巫女の魂が彷徨う者たちの魂に触れる。どうか聞いておくれと。どうか孫娘を救っておくれと。
だが、拒絶される。
魂が器を拒絶する。
姫宮詩乃は焦った。孫娘を授かったばかりの彼女の額に深い皺が刻まれる。
何故、拒絶するのだ。
魂が器を求めるのは自然の摂理ではなかったか。
否、そうだ、拒絶しているからこそ、この魂は半世紀もの歳月を彷徨い続けておるのだ。
だからこそ、このシダレヤナギの霊は異様なのだ。
姫宮詩乃は懇願した。生まれたばかり孫娘が死にかけておると。既に魂のない孫娘の肉体が朽ち果てようとしておると。懇願する巫女の形相が変容していく。彼女の顔が激しい苦悩に歪んでいく。それは鬼の表情だった。
女生徒の絶叫が夜の高校に響き続ける。それは死を望む者の嘆きだった。舞台の上の女生徒の魂もまた死を迎えようとしていた。
魂が器を拒絶する理由は分からない。ただ、二つある内の一つの魂は既に消えかかっていた。異様ではない方の魂。何処にでもいるような普通の女の魂は、存在が異様な魔女の魂によって支えられながら、ヤナギの木の前で消えかかっていた。
皆、死ぬ。
姫宮詩乃の魂が叫んだ。
このままでは、皆、死ぬ。
女の魂は消えかかっている。魔女の魂もいずれ消える。生まれたばかりの孫娘も。夜の体育館で叫ぶ女生徒も。そして、女生徒の中にいる赤子も。
皆、死んでしまう。このままでは、皆、死んでしまう。
姫宮詩乃は決断した。これしかないと、巫女は鬼となる決断をした。
皆を救うにはこれしかないと、巫女は、シダレヤナギに取り憑いた魂に手を伸ばした。
山田春雄は焦燥感に駆られていた。“火龍炎”からの襲撃を受けたという仲間達の安否が気になったのだ。
工場に残っていたメンバーを野洲孝之助の元に向かわせた彼は、更に匿名で警察に通報すると、ウロウロと工場内を歩き回った。今の自分にいったい何が出来るのか。なぜ自分はいつも流されてばかりなのか。どうして自分はこんなにも臆病なのか。
複数の足音が工場内に響いてくる。野蛮な男たちの声が工場内に聞こえてくる。
はっと後ろを振り返った山田春雄は目を見開いた。鉄パイプを肩に掲げた見知らぬ者たちが工場のシャッターを潜り抜けてきたのだ。それが“火龍炎”のメンバーだと思うよりも先に、無意識に前にステップを踏んだ春雄の左ジャブが先頭の男の顎を射抜いた。あっと男たちが驚きの声を上げるよりも早く、上体を揺らした春雄の拳が男たちの意識を次々と奪っていく。
「おいおいおーい、やっぱコイツが一番厄介だべ」
五人の男たちが工場の床に倒れると、更に三人の男が工場のシャッター前に姿を現した。その三人に見覚えがあった春雄は床を滑るようにしてバックステップを踏むと、拳を顎の前に構えた。
「てめぇら……」
「つか、なんで山田春雄一人しかいねーんだ?」
「皆んな救出に向かわせちまったんだろ」
山中愛人の「殺」のマスクが大きく膨らむ。
スキンヘッドの古城静雄が「だな……」と重々しく頷くと、パープルピンクの髪を孔雀のように尖らせた大野蓮也は露骨に肩を落とした。
「んだよ、ならこんな大勢で来る意味なかったべ」
「幸平の作戦が完璧過ぎたな」
「はー、つまんね。ならとっとと終わらせちまうか」
「てめぇら……」
山田春雄の上体が横にブレる。そのあまりにも軽いフットワークに、大野蓮也は表情を変えた。
「いや、やっぱ簡単じゃねーか」
「俺がやる。お前らは下がってろ」
山中愛人は指の骨を鳴らすとファイティングポーズをとった。一見するとかなり隙だらけの構えだ。だが、山田春雄は警戒した。山中愛人の上半身が前に倒れていたからだ。
素手で殴り合うことは考えていないだろう。そう思った春雄は彼の足の動きに注視した。恐らくは下半身へのタックル。床に倒されれば一気に形成が不利になる。ならば、と春雄は横にステップを踏み始めた。的を絞らせず、ある程度間合いが近づいたところで、バックステップからのカウンターフックをこめかみに放つ。タイマンであればこれで決まる筈だ。そう、タイマンであれば。
春雄はまた考え始めてしまった。三人を相手に上手く立ち回れるだろうかと。一人倒す隙に他の二人が襲いかかってきやしないだろうかと。完全なオープンフィンガーでのカウンターフックで拳を痛めてしまわないだろうかと。
「おい、何を騒いでんだ」
工場の奥から野太い声が聞こえてくる。「あっ」と声を上げた春雄は慌てて後ろを振り返った。
「に、兄ちゃん……」
「なんだよ、喧嘩か?」
OBF東洋ミドル級王者、山田夏貴は太い腕を腰に当てた。プロボクサーである兄の登場に春雄は思わずステップを止めてしまう。同様にファイティングポーズを止めた山中愛人は直立姿勢に背筋を伸ばした。
「おおおおおい、ちょ、ちょっと待った!」
大野蓮也は慌てて両手を前に出した。その表情に先程までの余裕はなく、彼は既に戦意を喪失してしまっているようだった。
「さ、流石にプロが一般人に手を出すのは反則だべ! なぁ愛人?」
「やっべ、マジやっべって」
「だ、大丈夫だべさ。確かプロは一般人に手が出せねーって法律があった筈だからよ」
「いや、ほ、本物だよ。本物の山田夏貴だよ。ミドル級チャンピオンの山田夏貴だよ。やっべ、俺、サイン貰っとこっかな?」
そう言った山中愛人はポケットから無地のマスクを取り出した。古城静雄も興奮しているようで、いったい何処から取り出したのか、ドラムのスティックと油性マジックを広い胸の前に掲げている。大野蓮也が呆れたように肩を落とすと、春雄はキッと目に力を込めた。
「に、兄ちゃんは関係ないから手を出すなよ!」
集まる視線。倒れたドラム缶に腰を下ろした山田夏貴はやれやれと頭を掻いた。
「お前らは馬鹿か。ガキの喧嘩に大人が手ぇ出すかよ」
「かっけぇ……」
山中愛人の瞳にキラキラとした光が宿る。何やら複雑な感情を顔に浮かばせた春雄は、兄に背中を向けると拳を前に構えた。
「いや、ちょっと待て」
山田夏貴が低い声を出す。それは弟に向けられた言葉のようで、拳を上げたまま春雄が兄を振り返ると、山田夏貴の鋭い視線がシャッター前の三人に向けられた。
「おいお前ら、格闘技経験はあるか?」
「格闘技?」
「体育の授業で女子に投げられた経験ならあるべ。あと剣道の授業でハブられた経験もな」
「だな……」
そう昔を懐かしむように大野蓮也と古城静雄が頷き合う。僅かに口角を上げた山田夏貴は太い腕を組んだ。
「ならお前ら、春雄には三人で一斉に飛び掛かれ」
「はあ……?」
「いや兄ちゃん、何を言って……」
「春雄、お前はボクシングのプロを目指してたんだ。素人相手にタイマンなんてのは卑怯だろ」
「で、でも……」
「つべこべ言わずにやれや!」
兄の鋭い視線。その低い声に春雄はゴクリと唾を飲み込んだ。ごちゃごちゃと考えてる暇はないと、サッと前を向いた春雄の足が素早いステップを踏み始める。
「おいおいおい、お兄ちゃんよぉ、俺たちはそんな卑怯な真似はしねーべ。あんま舐めとんなよ、おい?」
ボキボキと、大野蓮也の指の骨が鈍い音を立てる。「あ?」と山田夏貴が眉を顰めると、たちまち姿勢を正した蓮也は深々と頭を下げた。
ちょうどその時、スマホから軽快な着信音が流れ始めた。「んだべ」と迷惑そうな表情をした大野蓮也はポケットからスマホを取り出すと、頭を下げたままそれを耳元に近づけた。
「ねぇ、大丈夫……?」
そう言った長谷部幸平は不安げに顔を顰めた。店員からチョコレートパフェを受け取った彼はスプーンを手に取る。幸平の前のテーブルでは、赤紫色に顔面を腫れ上がらせた大野蓮也が水を啜っており、同様に顔を腫れ上がらせた山中愛人と古城静雄がペロペロと猫のように水を舐めていた。
午後のファミレスは閑散としていた。窓の向こうは大粒の雨に視界が悪い。集まった“火龍炎”のメンバーたちは一様に表情が暗く、“苦獰天”襲撃作戦は失敗に終わったと、ため息ばかりが彼らの周囲を漂っていた。
「あの野郎、今度会ったら許さねーべ」
大野蓮也はイキリ立った。
先ほどの作戦中止の連絡はあまりにも突然だった。それを聞かされた大野蓮也は暫しポカンと立ち竦んでしまった程である。だが、流石にこのまま逃げ出すわけにはいかないと、それは男が廃るだろうと、そう思った蓮也は春雄とのタイマンを買って出た。そうして無様に打ちのめされたのだった。古城静雄も同様で、山中愛人のみが不意打ちのタックルから多少の善戦はしたものの、最後にはマウントを取られてボコボコに殴られる始末。果てしない敗北感と屈辱感が彼らの胸の内を渦巻いていた。
「俺も春雄くんとやりたかったぜ」
そう呟いた鴨川新九郎は柔らかなステーキにナイフを入れた。不完全燃焼といった表情だ。早瀬竜司との戦いが中途半端な形に終わった彼は不満げだった。
「一つ確信した事があるんだけど」
パフェにスプーンを突き刺した長谷部幸平はスマホを取り出した。
「やっぱり“苦獰天”の背後には誰かいるよ」
「誰かって?」
鴨川新九郎は首を傾げる。「キザキだろ」と大野蓮也はチョコレートパフェを物欲しげに眺めた。
「いや、誰かはまだ分かんないけど、どうにもアイツらの行動には"らしさ"がなかったんだ」
「らしさ?」
「アイツらってそれほど考えて動く奴らじゃないんだよ。野洲孝之助の元に集まったなら尚更で、今回みたいにわざとチームを少数に分けて行動させるなんてアイツらの行動パターンからは考えられないんだ」
「そうか? 野洲孝之助っていや、けっこう頭良いイメージがあっけどよ」
「頭は良いのかもしれない。でも、野洲孝之助はなんというか実直過ぎる奴なんだ。小細工が嫌いで、手の内を隠すような真似はしない男なんだよ」
「俺たちに負けて、捻くれちまったのかもな」
くぐもった笑い声。山中愛人のマスクが大きく膨らむ。
「その可能性もあるね。ただ、警察が来るタイミングも早過ぎた気がする。もしかすると、奴らの中の誰かが通報したのかもしれない」
「はああ? んだよそりゃ、あり得ねぇって」
「うん、普通に考えればあり得ないよね。だって俺たちと警察は水と油なんだから。でも、もしそれが本当だったとしたら、“苦獰天”のバックにいる奴は暴走族じゃないのかも」
「意味分かんねーべ。じゃあアイツらっていったい何がしてーの?」
「さぁ、何がしたいんだろうね」
チョコレートパフェのアイスを舐めた長谷部幸平は疲れ切ったような声を出した。大野蓮也が店員に苺パフェを注文すると、鴨川新九郎は気怠げな視線を外に向ける。
「なんか面倒臭せぇな」
「うん、そうだね。もしアイツらがまた今回みたいに警察呼んだり、少人数で逃げ回るような事を繰り返すっていうんなら、抗争は案外長引くかもしれないよ」
「はぁ、もういっそ部長呼んじまうか?」
そう鴨川新九郎が深いため息をつくと、“火龍炎”のメンバーたちの笑い声が湿った雨音を消し去った。
応援ありがとうございます!
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